四月の雨、五月の花〈二〉
「それで?」
「結局、もういいです、って帰っていきましたよ」
「ぷりぷり怒りながら?」
間をあけて、頷く。まさにそのとおりのご様子だったからだ。
さすがさんがお昼の休憩に入ると同時、鳴海さんが出勤してきたので、わたしは先ほどの話を起こったことを話していた。
姓を鳴海、名を
まだ若く、小柄で、そのうえショートカットの似合うとても美人なお方である。接客態度も見た目に違わずお上品なのだけれど、雑談を交わすと途端に砕ける。中学から大学まで一貫の女子大に通ってらっしゃったというが、一般的な女子高のイメージが覆されたのは記憶に新しい。が、そんなところもまた接しやすく、わたしはすぐにこのひとが好きになった。
特に、すっぱりとした物言いは、聞いているこっちが清々しくなるほどだ。
「じゃあ嘘だったんじゃない」
「嘘……ですか?」
「そう。重複したっていうのが嘘で、ただ内容は読んじゃったから返品したかっただけっていうやつ」
「ええ、いくらなんでも」
「でもコミックはけっこうあるよ、そういうの」
「え。そうなんですか?」
鳴海さんは頷く。
「コミックはシュリンクがかかってて中が確認できないから、ほんとうに間違えちゃう人もいるけどね。でも悪意をもってやってる人がいるのも事実。それでわざと翌日とかに持ってくるの。そうすれば、実質一冊分はお金を払わないで読めるじゃない?」
「たしかに」
「もちろん本当に間違えてる人もいるんだろうけど、私たちには判別できないから困るよね。最近多いし」
「そうですねえ……」
店内を見回して、立ち読みや本を探して歩き回っているお客さんを見る。そんな悪意を持っているとはぱっと見ただけでは判別できないし、できればそう思いたくもない。
しかし、そうでなくても本の万引きには悩まされているのだ。本に書いてある内容を買わずにメモしたり写真に収めたりする情報万引きに至っては、やっている方が悪気なく行っていることも多い。注意をすると、「ここの旅館のところだけメモしたいから待って」とおっしゃる方もいて、つい苦笑いになってしまう。
悪いひとなんて世の中にはいない、ときれいごとばかり言っていても生きてはいけないのが、また、世知辛い。
「まあでもその子はわかりやすかったからまだいいね。理由を聞かれて怒るなんて明らかに怪しいじゃない」
「そうでしょうか」
「そうよ。それに間違って買ったんですか? なんて誘導にあっさり乗っかっちゃって」
とここで鳴海さん、ふふん、と悪役じみた笑みを浮かべて、「並木さんもやるじゃん」
純粋に褒められているというより、悪事の片棒を担ぐ越後屋のような気分である。もっとも、わたしじゃありません誤解です、と否定したのはそれが理由ではない。
ちょうどそのとき、休憩途中のさすがさんが通りかかった。うわさのおひとである。
「貴家くんが?」
頷くと、鳴海さんは物珍しそうにさすがさんを上から下まで眺めたおした。
「なら偶然かな」
「偶然?」
「だって貴家くんが意図してそういうこと尋ねるとは思えない」
「意外、ってことですか」
「意外も何も」
だって、と貴家さんを見て、鳴海さんはおっしゃった。
「貴家くん、喋るの?」
思えば、とある女性の悩みを解決した、事件と呼べるかもわからない一件に関しては、わたしとさすがさん以外はその真相を知らない。重要参考人である殿方から図らずして情報を得た瀬尾さんに関しても、大筋しか知らないと伺っている。
だから、鳴海さんがさすがさんのことを疑ってかかる気持ちもまあ、わからなくはない。ひと月ほど前のわたしであれば、その言葉に賛同を示していたことだろう。
けれど、今ではその逆だ。それを意図したのではないか? と疑ってかかりたくなる。
わたしは、となりのさすがさんに内緒話をするように近づいた。鳴海さんの姿を探すと、ちょうど書評に書いてある本を探しに、新聞を装備し店内を歩きまわっていた。
「実際、どうだったんですか?」
さすがさんの首がやや斜めになる。これは疑問符。適切な台詞を漫画のふきだしと共につけるなら、
「どうって?」
「女子高生の、返品の件です。わかってて誘導したんですか?」
さすがさんはじっと押し黙って(というか、そもそも黙っているときしかほとんど存在しないけれども)、わたしを見下ろしていたけれど、しばらくすると人差し指を立てた。
また何事かの暗号が忍ばせられるのだろうかと期待したわたしは、即座にそれを裏切られることとなる。
肘から腕を倒すのにあわせて、人差し指が指し示した暗号は、以下の通りだったからだ。
「レジ、お客さん、来てますよ」
日曜日のわたしのお仕事はさすがさんより一時間早い、十六時で終わる。晩ご飯にはまだ早い時間なので、そのあとは書店めぐりをするのがわたしの週課だ。
ふしぎなもので、というべきか、書店員の宿命的に、というべきか迷ってしまうが、書店で働きはじめる前よりも、色んな書店に足を向けることが多くなった。
お客さんの立場ではあまり気にしなかった陳列方法や、他店の在庫、それから今どんな商品をお勧めしているか気になってしまうのだ。
話題の商品で久万河には在庫がない品物が他店で潤っていると「むむむ」とくちびるは尖がってしまうし、逆の場合だと「当書店なら潤ってますよ」とお客さんに知らせたくなってしまう。コミックの具合を見て、ここは男性向けのほうが強いのかしら、などと分析してみるのもおもしろい。
中でも、わたしのいちばんのお気に入りの書店が、久万河から歩いて五分もしない場所にある。俗に称するならライバル店ということになるのだろうが、わたしはお客として、純粋にこの書店の雰囲気を好んでいるから贔屓にしている。
まず、お名前が
かの綾辻行人大先生の館シリーズに、江南孝明といういわゆるワトスン役が登場する。本来の読みは「かわみなみ」であるけれど、彼が探偵役である島田潔から「コナン」と呼ばれるように、この書店名も恐らくそれを意図しているのだ、ということは早々に気がついた。ミステリ好きからするとそれだけで足を運びたくなるものだ。
中に入るとこれがまた圧巻で、店内上部の壁にずらりと作家先生方のサインが並べられている。店名のこだわりからもわかるとおり、やはりミステリ作家の先生方が多く、あ行なら綾辻先生はもちろんのこと、三毛猫ホームズシリーズや三姉妹探偵団シリーズなどでおなじみの赤川次郎先生や、学生アリス&作家アリスシリーズで人気を博している有栖川有栖先生など。か行には、わたしの大好きな北村薫先生のお名前もあった。
なにをかくそう、東京創元社から出ている北村薫先生の〈円紫さんと私〉シリーズが、わたしの一番のお気に入りなのである。もちろん文藝春秋のベッキーさんシリーズや、角川の覆面作家シリーズなど他の作品も好きだけれど、デビュー作でもある『空飛ぶ馬』の、ほろ苦くもやさしいお話と出会って、わたしは日常の謎に傾倒することとなった。最近では主人公が自分と同じ文学を学ぶ女子大生であるということにも親近感が沸いてきて、ますます思い入れの強い本となっている。
他にも、島田荘司先生や坂木司先生などなど。わたしが存じ上げているお名前を除いてもまだまだたくさんある。これを見ているだけでも、時計の針はえんやこら、とスタート地点からゴールまであっさり辿り着いてしまう。
おまけに、自分の店では気が引けてゆっくりとチェックができない新刊台や話題書などを心ゆくまで眺められる。「十分あれば書店に行きなさい」などとタイトルで謳った本があったように思うが、まさにそのとおり。下手すれば二時間、三時間ぐらいなら、何も買わずとも時間が潰せる。ひとによっては一日、またはそれ以上、などという辛抱強い本の虫もいらっしゃるに違いない。
現にわたしもその本の虫のひとりなので、積み上がるサイン本を買うか買うまいか悩んでいると、気付けば一時間はかるく経過していた。
なにも時計を見たわけじゃあない。
ふと横に立った影に視線を持ち上げると、そこにさすがさんがいたからそう判断したのである。
「さすがさん?」
ぺこりとは到底形容できない動きで、さすがさんは頭を上下させた。一礼しているのだろう。
「何か買われるんですか?」
尋ねると、さすがさんは、先ほどわたしが悩んでいたサイン本を手に取る。
さすがさんもチェックしていたことに驚いた。けれど、それはそれで後押しをされたようなものだ。わたしも便乗するように手に取った。
売上と社割分を考えるとできれば自分の店で購入したいけれど、久万河にある本にはサインがない。おまけに、さすがさんも買うのである。赤信号じゃないけれど、青信号でも誰かと渡るほうが安心する、根っからの日本人気質なのでしようがない。
本を購入してからは、なんとなく、そのままさすがさんについて行く形で、ぐるりと店内を巡っていく。あまり広いお店ではないので、通路を通るときは必然的に一列に並ばなければ通れない。
だから、目の前でさすがさんが止まると、わたしも止まらざるをえない。
「どうかされました?」
文庫や文芸書、ビジネス本や雑誌などが立ち並ぶ一階から階を移して、二階に上がったときのことだった。
江南書房の二階は、辞書や実用書、それから旅行書やライトノベル、コミックなどを取り扱っている。入口に近いほうから並べてこうなので、必然として、奥にあるコミックコーナーのほうが人口密度は高くなる。最近では出版社から試し読みの拡材が送られてくることが多く、それを置くとどうしても、立ち読みして吟味されるお客さんが増えるからだ。
さすがさんが立ち止まって見つめている先には、ひとりの女子高生がいた。
最初は、その可憐さに惹かれたのかと思った。それほどに可愛らしい女の子だったからである。
顎の下あたりで丸まった茶髪のボブ、見覚えのあるチェックのスカートは年頃の女子高生としては長い部類に入るけれど、下品に見えず、一種の上品さがあった。長袖のカーディガンは白く、制服に隠されていない部分の肌も似たような色合いだ。頬だけがほんのりと赤みがかった、すこし幼く見えるような女の子だった。背負ったサーモンピンクのリュックサックも、それに一役買っていた。
レジカウンターで店員と話しているせいか漏れ聞こえてくる声も、甘く、砂糖菓子のような後味を耳に残す。
「かわいい子ですね」と耳打ちすると、さすがさんはわたしを見て、それからまたカウンターにいる女の子へと視線を戻した。
女の子は店員の男の子に微笑み、何事かを話すと、お金を受け取り、「ほんとにすいませんでしたぁ」などと頭を下げて去っていった。わたしたちの傍を通りすぎるとき、桃のような残り香を置き土産にして。
階段を下りてゆく軽やかな足取りを見送ったあと、わたしはさすがさんに視線を戻す。
「さすがさん?」
依然として返事のない様子は、レジにいる男の子と同じように、まるでさっきの女の子に骨抜きにされてしまったかのようだ。
と、ここまで考えて、思い出す。
――そういえばこのひとは、返事のないのが常だった。
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