四月の雨、五月の花
四月の雨、五月の花〈一〉
本屋で働きはじめてから目が向くようになったことはたくさんある。
たとえば、音楽や芸能、アイドル雑誌。小説や少女漫画はそれまででも愛読していたものの、音楽やアイドルなどにはそこまで強くはない。映画はそれなりに好きで、本屋さんで時間を潰したいときには映画雑誌を手にとることもあったけれど、それこそ『映画秘宝』や『キネマ旬報』とおなじエリアに置いてある『JUNON』や『ポポロ』には、働きはじめてからもしばらくは気づくことができなかった。人間、自分の興味の範疇にあることしかなかなか記憶には残らない。
そんなわけで、この文字に気づくことになったのも、働きはじめてそこそこが経過したときのことだった。
「不良品以外の返品はご遠慮ください」
これは、我が久万河書店のレジカウンターに置いてあるカルトンに、ぺたりと貼られている文句である。
カルトンとは何のこっちゃと思うかもしれないけれど、なんてこたぁない、お金を入れるトレイのことだ。本屋にかかわらず、だいたいのお店ではこれが置いてある。覚えのある方も多かろう。
わたし自身、働きはじめてすぐ、壊れてしまったカルトンを新しく注文する機会をいただいたからその名前にお目にかかれたようなもので、下手したら知らないまま一生を終えていたかもしれない。注文するときに名称が思い出せず、結局パソコンで検索した。
最近の検索というものはこうも性能が上がっているのか、と、「レジにあるお金を入れるトレイ」――そのまんまを入力して出た結果に舌を巻いた。インターネットに書いてある情報すべてを鵜呑みにしてはいけない、と再三言い聞かせられてはきたけれど、こればっかりはインターネットさまさまである。
そんな「レジにあるお金を入れるトレイ」のお名前をめでたく知れたわたしはたまたま幸運だっただけで、ひょっとすると知らない方もまだまだいらっしゃっておかしくない。
さて、カルトンに掲げてあるこの文句である。
大体の場合において、お客さんはこの文句を見ていない。お金を出すまでは金額の表示されたレジの画面を見ているし、それが終わったら返ってくるお金や、財布の中に溜め込んでしまったレシートや、カバーをかける店員の手付きなどをぼうっと眺めている。若い人なんかは、待ち時間すら惜しいのか、メールの返信に勤しんでらっしゃる場合も非常に多い。
だから、いくらこんな言葉を掲げていても、返品や交換を希望しに来られる方は尽きないのだ。
そんなとき、わたしたち書店員が言う台詞は、大体の場合において、こう。
「申し訳ございませんが、基本的に不良品以外の返品につきましては、同額程度のお品物とご交換、という形で承っているのですけれども……」
文句なしに承れればそれにこしたことはないのだけれど、たとえば巻数を間違えただとか、そういったことであればできれば交換をお願いしたいのが書店側の正直な気持ちだ。買う巻を間違えた挙句、別の書店で新しいほうは買ったからいいわ、などと言われては売り上げにも響く。売り上げを日々気にしなければならない貧乏商売が書店の世知辛いところなのである。
ただ、それと同様に世知辛いことに、押し切られればノーとは言えない。「ですけれども……」と続けているあたりも、押し出し一本が通用しそうな弱さを醸し出している。横綱クラスには到底なれそうもない。
もちろん店長なんかはそれでもノーと言ってしまったりもするし、いくらマニュアルが決まっているとはいえ、これには店員の性格が大きく影響しているだろう。わたしのような若輩者のアルバイトじゃあ易々とは言えない。ノーと言えない日本人の五輪出場を担えるぐらいには、イエスマンの自負もある。
そんなわけで、その日もわたしは、返品希望のお客様に「もちろんですお客様!」と頷きを繰り返す、営業マンっぷりの腰の低さを発揮していたのである。
ひとり目は、ふつうの主婦の方だった。駅ビルの中に入っている当久万河書店は、同じ駅ビル内のスーパー帰りの奥様がたいへんよくいらっしゃる。最近じゃあビニール袋が値上がりしたこともあってもっぱらエコバッグ勢が多いけれども、その奥様も例に漏れずそれだった。
そして奥様というのは、だいたいにおいてお話好きである。
「すみません」という第一声に返事をしたら、「あら、ずいぶんと若いわねえ」などという返事が返ってきて、本題を聞き出すまでに、近所の娘さんがどうやらいじめに遭っているらしいというヘビーな内容から奥様の買い物の内訳まで、さまざまなことを知ってしまった。一度に与えられる情報量が多すぎて、うまく処理できずに曖昧に笑った。
そうして雑談の花をほどほどのところで手折って尋ねると、奥様はエコバッグから一冊の文庫本と、お財布からレシートとを取り出した。文庫本は佐伯泰英の新刊だ。
「新刊が出たっていうからね、父に買ってったんだけど、あの人、もう買っちゃってたみたいなのよ」
「一応ご交換をお勧めしてるんですけど」
「うーん、私は本とか読まないしねぇ。父は読むんだけど、もう何を持ってて何を持ってないのかわからないから」
「そうですよねえ……」
レシートを見るとつい数時間前に購入されたものらしい。事情も事情だし、何より当日の返金ならそう面倒でもないのでお受けした。当日より前になってしまうと、返金承り書というものに名前やら住所やらを記入していただかなければならないのだけれど、当日であれば打ち間違いの処理で済む。
「ごめんなさいね、ありがとう」と申し訳なさそうに付け足して帰っていかれたので、わたしもそれなりによい気持ちだった。とくべついいことをしているわけではないが、お礼を言われるとやっぱりちょっと気分がいい。
そんなコンビニのキャッチコピーにあるようないい気分で、レジノートにいただいたレシートを貼り付けて処理をしていると、さすがさんも同じ作業をしていることに気が付いた。
レジノートというのは、打ち間違いや、当日の返金・交換処理を行ったレシートなどを貼り付けるノートである。レジを締める際に必要なので、担当者は忘れないうちに時間や理由などを書いておく。
となりの会話は聞こえなかったけれど、さすがさんのことだから、ひょっとすると会話なしでも返品のひとつやふたつ対応できるのかもしれない。
「さすがさんもですか?」
お互い苦労しますね、を意図したわたしなりのコミュニケーションだったのだけれど、意に反してさすがさんはきょろきょろとあたりを見渡す。
ふるふると首を横に振っている――つまり、ノーなのだということは、さすがさんが記入し終えたレジノートの、理由の欄を見て知った。
『理由:打ち間違えました すいません』
なるほど。そりゃあ会話もないわけである。
「それにしても、やっぱり買い間違いの返品なんかは意外と多いんですねえ」
返事はないが、さすがさんは悪い人じゃあない。ぼんやりと揺れるワカメさんが、「そうだね」と頷いているようにも見えるのでよしとする。
こうのんびりと私語ばかりを楽しんでいるのも憚られる。ちょうど目の前を女子高生が通っていったので、それに合わせて「いらっしゃいませ」と声を出した。
接客業の声出しにおいては、「やまびこ」という手法があるらしい。ひとりが「いらっしゃいませ」と声を出したら、それを聞いた別のひとりが同じく「いらっしゃいませ」と声を出す。それを徹底すれば、店内の「いらっしゃいませ」の声は途切れることなく、活気をつけられる――という理屈なのだそうだ。
もちろんのこと、さすがさんにそれは適用しない。わたしの声だけが響くのである。
最初こそ慣れなかったが、今は逆にさすがさんの声が聞こえると驚いてしまうのだから、ひとの順応性というものは際限がない。
相変わらず返答が返ってこないことを気にもとめず、わたしは言った。
「働きはじめるまで申し訳なくってしたことないですけど、よくあることなんですね」
「そうすね」
という同意はわたしがさすがさんの薄いくちびるを見ながらあてたアテレコである。が、まああながち間違っているわけでもなかろう。
相変わらずカバーを折る以外にすることがなく、おまけに話しかけても返答が返ってこないことをわかっているせいか、わたしはついついぼけっとしてしまう。
店内にお客様がいらっしゃらないわけではないのだけれど、長らく立ち読みに徹している方や、待ち合わせと思しき電話をされていた方などがその大半であるから、レジカウンターに立っていると油断の芽がにょきにょき伸びていってしまうのだ。
カバーを折ることにだって慣れてしまえば、わたしはさすがさんの観察や、雑誌の表紙に映っているイケメン俳優さんを眺めながら「今すぐ求婚されるか宝くじが当たったりしないかしらん」などと叶わない夢想にばかり精を出す。そもそも宝くじには未だ挑戦したこともないというのに、だ。
そんなわたしだから、突如として声をかけられると、なんとも間抜けな声を上げてしまう。
「すみません」
「はい?」
文字にするとどこが間抜けなのだと言いたくなるが、発音が問題なのだ。「は」は後ろに小さい「あ」を伴い、失敗した演歌のこぶしの一音のようである。また、それに続く「い」が不必要に持ち上がってしまい、しゃっくりのように「っ」と促音がくっついた。芸人さんでも、いまどきこんな返答はしないだろう。
幸い、声をかけてきた方には気にされなかったらしい。
「これ、返品したいんですけど」
まだ幼さの残る高い声が、そう言った。
「こちらを返品……ですか?」
「はい」
声の主は、上品なグレーのチェックスカートに身を包んだ女子高生だった。わたしにも見覚えのある、偏差値もそこそこの学校である。成績も並であると先述している以上、そこそこよろしい学校に在籍していたなどとおこがましいことを言うつもりはなく、現にわたしはそこより幾分か偏差値の控えめな高校へ進学した。見覚えがあるのは、単に女子中学生の間で人気だったからだ。「制服がかわいい」という理由は、思春期まっただ中の女子中学生にとって、時に距離や偏差値をも上回る志望理由になる。
そんなかわいらしい制服に身を包んだ、これまた制服補正を除いても目を引く容姿をしたお嬢さんがカウンターの上に出したのは、久万河書店のカバーで覆われた一冊の本だった。レシートを見ると、昨日の日付とともに書名が記されている。ここ最近アニメ化が決まり、勢いをつけてきている漫画の一巻目だった。わたしも好んで集めているので、すこし親近感が沸いてしまう。
ちょっと失礼、と中を開いて確認する。久万河書店のカバーがかけられているので外目からはわからないが、中も同じ書名だった。
見たところ痛みもなさそうだし、問題はない。ただ、購入してから一日が経ってしまっているので、これはできれば交換でお願いしたいところだ。
先ほどの奥様に告げたマニュアル文句を言うと、
「他に買いたいもの、今のところないので」
「あ、でもコミックじゃなくても、雑誌とかでもいいんですけど」
「そーいうのもいらないんで」
「はあ……」
まあだろうな、となかば予想通りの返答が返ってきたので、わたしもいそいそとレジノートを取り出し返金の準備をした。ノートにレシートの番号などを記入して、それからもう一点だけ確認しておく。
「それでは返品理由をお伺いしてもよろしいですか?」
だいたいの方は、ここで「既に持っていたから」などとさらりと理由を仰るので、わたしもさらりと頷く。海外旅行で入国審査をする際、明らかに観光客のような人物に「目的は?」と尋ねるのと似たようなものだ。その場合、わたしたちは英語圏であれば「サイトシング」と言い、よほどのことがないかぎりすんなりと通してくれる。
言うなれば、わたしも入国審査の係員のつもりだったのだけれど、なかなか返事が返ってこない。おまけに、斜めに分けて露わになった額に鎮座する眉が、いびつに歪んだ。
むっとしているのだ、ということは、次ぐことばで理解した。
「……そんなことまで聞くんですか?」
「え?」
「それって購入者のプライバシーに関わりません? なんで返すか、なんて聞いてどうするんですか?」
「え、あの、でも、返品は基本的に不良品以外はご遠慮いただいておりますし……」
「だから何? よくあることなんだったら気にしないでいいじゃないですか」
「だ、だから……その……ええと……」
わたしは何事においても平均という名の平均台を歩く人間だけれど、唯一平均を下回るといえば度胸がそれにあたるかもしれない。数個年下の女子高生に凄まれて何も言えず、ビビり根性の導火線はみるみるうちに短くなって涙腺へと火が到達するのも時間の問題に思えた。
助けを求めたかったけれど、目を逸らすのも余計に激昂させてしまいそうだ。と迷っていたとき、美人女子高生の視線がわたしの背後へと移る。
振り返ると、さすがさんがいた。
「……なんですか」
顎を引き、上目がちにさすがさんを見つめる姿は、状況と立場が異なれば恋のひとつやふたつ、さすがさんの中で芽生えてもおかしくないほどにきれいだった。こんな状況であること、客と店員という立場であること、何よりさすがさんの髪の毛が相変わらずもじゃもじゃなワカメの天日干しと化していることが残念でしかたがない。
さすがさんは「ちょっと失礼」とでも言うように緩い頷きを落としてから、件のコミックを手に取った。わたしと同じように中のページを確認する。
くちびるの形が、「一巻目」と動くのが見えて、わたしも頷いた。
さすがさんは続けて、何事かを呟いた。おそらく女子高生には聞こえていなかっただろう声量だったので、わたしが彼女に伝える通訳を担う。
「あの、ひょっとして別の巻と間違えて買われたんでしょうか……」
「え?」
女子高生は首を傾げてから、「ああ、そうそう」と頷いた。
「そうです。間違えたの。一回読んだ巻だったのに重複して買ったんです。これ、返品理由になりますよね?」
「あ、はい、もちろん」
すると、さすがさんは幽霊のようにわたしたちのもとを離れ、ほどなくして一冊のコミックを手に戻ってきた。
表紙には同じ書名。異なるのは表紙の絵と、そこに記された巻数だった。
「あ」
「なに?」と言いたげな女子高生の表情が、さすがさんから差し出されたコミックの表紙を見つめているうちに、みるみる変わる。
わたしにも察しがついた。
「……あの……一巻目を重複して購入されたのなら、二巻目と交換、という形では……」
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