四月の雨、五月の花〈五〉


 春から初夏にかけての風は、少々いたずらが過ぎる。

 まだ丈が長く、おまけに下にジャージやら体育で使うハーフパンツを履いていても許された中学時代には抱かなかった感想は、ぐんと短くなったスカートを纏うようになった高校生のときから、一貫して変わらぬ感想である。


 で、あるからして、春の風が夏の匂いを感じさせる今の季節、どうにも外を出歩くことには二の足を踏んでしまう。頭上から肌を焼きにかかる容赦のない日差しもまた、その要因のひとつだ。


 今日も例に漏れず、行きつけの江南書房よりも、百貨店の中に入っている英堂はなぶさどう書店に向かうことにした。この舟堂駅近辺ではいちばん大きな書店にあたるので、品揃えもいい。

 まだ久万河書店で働きはじめる前に、ここで『新装版 怪盗セイント・テール』を全巻購入したことを思い出した。なかなか他の書店には置いておらず、ここで平積みしてあったのを見つけたときは単純に嬉しかった。

 書店で働くようになってから、それはコミック担当の方の采配だったのだな、と気がついて、やはりその書店だけの「色」というものはあると感じる。置いてあるものは同じでも、どう置くか、どう売るか。それだけで、書店ごとの色は虹色にも変化する。


 そんな英堂書店に向かうエスカレーターで、「はて?」と首を傾げたのは、目の前に見覚えのあるサーモンピンクさんがいらっしゃったからだ。


 あの女子高生だ。と心の中で手を打つころには、もう書店に着いていた。


 特に目的があって書店に赴いたわけではないので、なんとなく、ぶらりと中を冷かすつもりで足を進めると、彼女の後ろを歩くことになる。

 声をかけようか迷ったものの、一度対応したきりの店員に、まったく別の書店で話しかけられてもすぐには気づけないだろう、とそのままにしてしまった。


 その上、つい先日、さすがさんから聞いた帯の件もあった。


 余計に居心地の悪さを感じつつ、わざわざ避けるのも忍びない。思えばさっさとその場で回れ右をしても誰に咎められるわけではないのだけれど、わたしはそれがいけないことだと思いこんでいた。

 久万河書店の倍ほどはありそうな店内を歩き、とある文庫のコーナーの前で足は止まる。わたしも足並みをそろえるようにして、ひとつ手前の棚から、彼女の視線の先を盗み見た。

 映像化のコーナーにしているのだろう、本来の表紙よりも、帯や仮のカバーが目立つ本が多かった。出版社から送られてくる販促物とは別の、英堂書店の店員さんが描いたであろうPOPが目を引いた。

 それらに純粋に感動してから、今度は憶測の芽が飛び出してくる。


 ――この中から、今度はどれを返品するつもりかしら。


 一瞬考えてから、はっ、とした。ブラウスの袖から伸びる腕に鳥肌が立つ。擦ってもなかなか消えないのは、それが空調のせいではないからだろう。

 視線を逸らして、棚の影に隠れた。

 目の前には角川の文庫が並んでいた。あ行から並んだ棚は、赤川次郎だとか有川浩だとか、よく読んだという意味で親しんだ名前が多いはずなのに、一向に頭に入ってこない。

 文字が台風に巻き上げられる砂塵のようにわたしの周りを渦巻いて、纏まらぬまま散ってゆくのだ。すべては台風の目にある、芽によって。


 やっぱり、このままじゃあいけない。


 棚から身体を出して、女子高生に声をかけようと一歩踏み出した。


 そのときだった。


「ちょっと! あたし何も悪いことしてないんだけど!」


 甲高い声が、静かでのどかな店内に響き渡る。立ち読みのために下を向いていた人々が、一斉にある一点を見つめた。わたしも、そして女子高生も、その方向に振り返った。

 わたしから見て、ちょうど女子高生の向こう側にあたるレジカウンターに、ひとりの女子高生がいた。声の主は彼女らしい。数冊のコミックをカウンターの上に広げ、その向こう側にいる三、四十代ほどの男性店員が、眉間に皺を寄せていた。

 広い店内だから、わたしぐらいの位置にいなければ、内容はきちんと聞き取れないぐらいの大きさに、少なくとも店員は配慮していたように思う。

 それでも、今やおしゃべりの声はとおく、全員がその光景を見守って沈黙を貫いていたから、その女子高生と店員との会話は、わたしにはぼそぼそと聞こえてきた。


「そうは言ってもねえ、キミ、こうやってコミック返品するの初めてじゃないでしょ」

「……はあ?」

「一回目は見逃せてもね、何度もやられるとさすがに僕達も注意しなきゃいけなくなるんだよ。こういうの」

「……どこにそんな証拠があるのよ」


 店員は顎を軽く撫でてから、


「返金対応の時書いてもらってた紙、あるでしょ。あそこに名前書いてもらってるから」

「はっ。そんなのいちいち別の名前書いてるに決まって……」


 あ。と思った頃には、レジにいる女子高生も悟ったのだろう、かたく唇を閉ざしてしまった。店員は肩を竦め、「とにかく、これ以上の返品は受けられないよ」と、広げられたコミックを袋に入れ直し、彼女の方へと追い遣った。


 なんとなく既視感を覚える光景だ。


 そう思ったのも当たり前の話で、よくよく見れば、その女子高生はまさに久万河書店でわたしが応対した女の子だったのだ。


 そして今、わたしから見て直線に立つ二人は、同じ制服を纏っていた。ひとりはぷりぷり怒ったおこりんぼの女子高生。

 そしてもうひとりは、そんな一連の騒ぎから振り返っていた。


 なんとなく揉めている声がしたからそちらを向いたけれど、もう興味を失っちゃった。そんなふうな描写が似合う挙動で、再び文庫本の山を覗き込む。


 けれどわたしは見てしまったのだ。


 彼女が、整ったくちびるに、笑みを浮かべていたことを。


「ああ……」


 思わず吐息が漏れた。

 その声に、視線を持ち上げた女子高生と、わたしの目が出会う。

 わたしは逸らす気力もなく、かといって、彼女の微笑みに返せる仮面は用意がない。近づいてくる彼女にまるで無防備な体勢で、依然として有川浩の棚の前にいた。

 会話をするには十分な距離で、最初にボールを投げたのは彼女だった。


「すごかったですねぇ、さっきの」


 わたしは何も返せず、唾を飲み込んだ。


「でも、よく考えたらわかんないかなぁ? 同じお店で何度も返品するとか、それに漫画とか、店員さんが警戒するの当たり前だって、現役店員さんとしてもそう思いますよねぇ」

「…………だから文庫を選んだの?」


 彼女はぴたり、と動きを止めてから、愛らしく首を傾けてみせる。


「なんのことですか?」

「わたし、あなたのこと、江南書房でも見かけてるんです」

「え?」

「そのときも、そうでしたよね」


 わたしはあの日の出来事を頭の中で巻き戻す。江南書店の二階で、彼女はお金を受け取って去っていた。リュックサックは背中に背負われていて、商品は何も持っていない。そして別れ際の言葉は「すいませんでした」。


 よくよく考えれば、一般的な会計の流れには適さない会話だ。お客さん側から「すいませんでした」と声をかけられるのは、なにか面倒をこちらに頼んだときだろう。商品が手もとにないのに、お金を受け取り、面倒をかけたと謝るのは、返金を頼んだことぐらいしか思いつかない。

 するすると蝶々結びが解かれていくような思考とは対照的に、わたしの身体はどんどん強ばっていった。声も、顔も、彼女に対する態度も。

 わたしだけが頑なで、目の前の彼女は相変わらず柔らかく、店内も喧騒を取り戻していた。時折耳に入ってくる「さっきの子すごかったね」などという会話が、ひどく耳障りだった。


「なんでおねえさんがそんなに怒ってるのかわかんないですけどぉ……あたし、あのコと違って、べつに悪いことしてないですよね?」

「それは……」


 同じ俳優さんが特集されたテレビ雑誌を数冊。

 その俳優さんが主演で出る文庫本を一冊。

 全部集めないと気が済まない、という彼女の性質。


 別の店舗でも、「ひょっとしたら」同じようなことをやっていたかもしれない。

 あのおこりんぼの女子高生に、方法を教えたのは、この子かもしれない。


 ――「ひょっとしたら」、そうかもしれない。


 想像はできる。それがひょっとして、悪意をもって行われたのではないかと。故意の出来事だったのではないかと。


 けれどそれはあくまで「想像」の範疇を出ない、そして「ひょっとして」が外れない考えだった。


「まあさっきのコはね、返品してタダ読みしよーとしてたんだから、悪いっていうのはあたしでもわかりますよ? でも、なんであたしが怒られてるのかわかんないってゆーか」

「っだって!」


 わたしが声を荒げるのと、わたしの肩に温もりが降りてくること、それから、目の前の女子高生の顔から笑みが消えるのは、すべてが同時だった。

 振り返ることができずに、白いタイル式の床を見つめていたけれど、手のひらの正体はなんとなく、わかっていた。


「……なに? おにいさんもなんか文句とかあるわけ?」


 砂糖菓子よりも、痺れるような棘のある言葉が頭上を飛んで背後に刺さる。わたしじゃない。わたしの後ろにいるひとに向けているのだ。


「そうじゃない、すけど」


 声が聞こえた。


「このひとが、信じたいっつってたから」


 それから、わたしの肩に置かれた肩に、柔く力が加わる。


「あんまり、傷つけないで」


 さすがさんが、そう言った。

 わずかに視線を持ち上げると、女子高生のスカートと、握りしめられた拳が目に入る。


「意味わかんない。悪いことなんてしてないじゃん。持ってた本返しに行ったの、ウソだって疑ってるわけ?」

「いや」とさすがさんの声が降りてきたので、わたしは背後を見上げた。さすがさんはいつものように、緩やかに首を振っている。

「それは、ほんとう」

「え?」

「……なんだ。それ、わかった上で言ってるの」


 食いだおれ人形のように機械的な動作で、さすがさんの首が上下する。

 女子高生の方を振り返ると、またくちびるの端を吊り上げて笑っていた。眉尻が下がっているせいか、「しょうがないなあ」というような表情に見えた。

 事実、彼女はそう、口にした。


「まあいいや。どうせ今言質とられたって別にダメージないし。おねえさんはファンだって言ってくれたから、何がホントで何がウソかだけ教えてあげるね」

「え」

「もう持ってた本っていうのはホント。ファンの間で映画出演の噂が流れはじめたころに買ったの。普段本とか読まないから、映画に間に合わせようって思って買ったら、そのあとで帯があんな仕様になるって知らなくって」

「あ、だから……」


 思えば、テレビ雑誌を数冊買ったとき、全部集めないと気が済まないと言っていた。映像化の帯もそれに含められるのなら、頷ける。


「そう。間違えて、っていうのがウソかどうかは、まあ、もうわかるよね?」


 そこまで言い切ると、女子高生は「そろそろ帰らなきゃ」とスマートフォンを探る。わたしが何も言えない代わりに、さすがさんが、数語ずつ、言葉を選びながら言った。


「もう、しないほうがいい」

「そうだねぇ。もうできないね、さすがに。さっきのコの一件でウチの制服もチェックされるだろうし」

「そうじゃない」

「え?」

「復讐」

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