恋はくせもの〈五〉


 デート、ということばには複数意味がある。

 たとえば英語でいえばデートは日付、年月日のことだし、インターネットに入れて出てきた意味では、恋愛関係にある(もしくは進みつつある)男女が連れ立って外出すること、となっている。その場合、言い換えるならば逢引、もしくはランデブーである。


 それがおおよそのデートの意味なら、わたしとさすがさんの今日の過ごし方は、決して当てはまらないに違いない。


 指定された土曜日、わたしは久万河書店の文庫コーナーにいた。

 まだ待ち合わせには十五分ほど余裕がある。

 待ち合わせ時間に律儀な性格だからではなく、いつもより早く目が覚め、家にいるとつい本来今日一日を費やして読むはずだった本の誘惑に負けてしまうからだ。この久万河書店に足を踏み入れてから数分しか経っていないというのに、既に帰りたくなっているのも、それがひとつの理由だろう。

 もうひとつには、ほんとうにさすがさんはいらっしゃるのだろうか、という疑念が挙げられる。若蔦さんが解説してくれたけれど、結局さすがさんは一言も発していないのだ。実は勘違いだったといわれても正直驚かないし、それがある種当然だとすら思えた。

 それでも、「もしかしたら」と思うと、家にかたつむりしているわけにもいかない。さすがさんが来なければ帰ればいいだけの話なのだから、待つだけなら簡単だ。


 それに、ふだんは入らない日にお客さんとして訪れるということは、新鮮ですこしたのしい。

 休日であるせいか、夕方だとよく目にするスーツ姿のサラリーマンは少なく、代わりに小学生ぐらいのお子さんのいる家族連れがよく目に入る。「ママ、これがいいー」などと強請る子どもの姿は微笑ましく、無意識に過去の自分と重ねてしまった。日曜日と異なるのは、部活に精を出しているらしい学生の姿がちらほらと目に入るところだろうか。私服でもなく、制服でもなく、身に着けるは色鮮やかなジャージ。休日も部活動に精を出す学生こそ、一週間の中で純粋な休みという日は、存外少ない。


 駅から近いせいか、待ち合わせまでの中途半端な時間を潰す人が多いようだった。わたしもその中のひとりであることは言わずもがな。


 ご挨拶をしておこう、とレジの様子を窺っていると、アルバイト仲間の瀬尾せのおめぐみさんがわたしに気づいたようで、ちいさく頭を振った。ポニーテールの毛先が、ぴょこん、と跳ねる。

 瀬尾さんは、さすがさんや若蔦さんと同い年の女子大生である。明朗快活な性格で、先端がややジャンプしたような焦げ茶色の癖っ毛がその元気なひととなりを表しているような、ぱっと見て人好きのする雰囲気を持っていた。くちびるのすぐ傍にあるほくろがセクシーでしょ、とよくおっしゃっているが、それを自分から先だって言ってしまうところも含めて、どちらかというとはきはき、さっぱりした印象を抱く。

 学業が本分であるはずの身でありながら幾つもアルバイトの掛け持ちをしているところもあり、実にエネルギッシュなお方だ。

 話しかけようと近付くと、瀬尾さんは、その振ったばかりの片手のひらを制止するように掲げた。

 そしてくるりと顔を逆方面へ向けたのなら、明るい声を店内に響かせる。


「ラッピングでお待ちのお客さま、お待たせいたしました!」


 男性雑誌を読んでいた学生ふうの男の子が顔を上げ、表情を輝かせて瀬尾さんのもとへと向かってゆく。どうやら彼が頼んでいた品物らしく、赤い包装紙に包まれた品物を確認して、嬉しそうに相好を崩していた。

「いかがですかぁ」と、ふつうの規格よりやや大きな声で瀬尾さんが尋ねる声が聞こえてきたのは、そう驚くに値しない。瀬尾さんは声が大きいのだ。おまけによく通る。それに合わせたのか、お客さんの声も負けず劣らず大きかったことのほうが、わたしはすこし驚いた。

「カノジョ、ふだん本とか読まないんすけど、喜ぶといいなぁ」などと、プレゼントを贈る相手の情報も得てしまう。盗み聞きはしてませんよ、のアピールに、そっぽを向いて雑誌の山を冷かすことにした。


 その一連の接客が終わってから近づくと、瀬尾さんが屈託なく笑う。


「さっきの聞こえた? カノジョへのプレゼントだって。ちょーうらやましい」

「本を贈られるなんて素敵ですよねえ」

「しおりんは本好きだから余計にだよね」


 わたしは頷く。

 本が好きなぶん、読んでいる本は立花隆氏ほどとは言わずとも、一般平均よりはそこそこ多い。親から言わせると「もう何を読んでないのかわからないから」ということで、誕生日祝いやクリスマスの贈り物はだいたいが図書カードで済まされてしまう。

 もちろんそれはそれで嬉しいのだ。

 けれど、想いや願いをこめて贈られる特定の本は、単純に好きな本を買えることよりも、おおきな喜びを相手に与えるとも思う。逆ももちろん然りだ。いつかあんな風に想われて本を贈られたい、そして自分も同じように想いとっておきの一冊を贈りたい、というのは、わたしの死ぬまでにしたい憧れリストの中にひっそりと加えられた。

 瀬尾さんは、ないしょ話をするように続ける。


「しかもね、エピソードがこれまた素敵なの」

「というと?」

「さっきの人ね、おばあちゃんっ子だったみたいなんだけど、部屋に遊びに来たカノジョが置いてあった大量の本の中から、なんとおばあちゃんが好きだった本をピンポイントで手に取ったんですって」

「わあ」


 それだけでもすごく運命的である。


「そのうえ、それが気に入った、なんて言ったらしくって」

「好きなひとの好きな本を、また別の好きなひとが好きになってくれたわけですか」

「そうそう」

「すごく素敵……なんだかロマンチックですね」

「でしょ? 趣味が合うかもしれないから、同じ作者の本を贈ってみるって言ってたよ」

「いいなぁ、うらやましい。夢ですよね、そういうの」


 まさに理想のシチュエーションであるので、ついうっとりしてしまう。

 すると、同じく夢見る乙女のような瞳をしていた瀬尾さんが、今度はにやりと口角を持ち上げていたずらっ子に変身した。


「あらら。しおりんはもう叶う寸前なんじゃないのぉ?」

「え?」


 ふふふ、とほくろの傍に笑窪を刻み、瀬尾さんは妖艶に笑う。


「だって今日これから、貴家くんと、デ・エ・ト、でしょっ?」


 ……わかったさんめ。わたしは頭を抱えた。


「だから違いますってば。っていうかその情報どこまで流れてるんですか?」

「イッキがとりあえず久万河のグループで流してたから、アルバイト仲間はもう全員知ってるんじゃない? あと店長が鳴海なるみさんに言ってたから、おソノさんも知ってるよ」


 おソノさんとは、南野さんの愛称である。社員さんの鳴海さんも、そして契約社員の南野さんもご存知ということは、つまり。


「ほぼ全員じゃないですか!」

「いやー。なんていうんだっけ、こういうの。悪事千里を走る? あ、でも悪事じゃないか。恋事?」

「ひとの恋事より自分の恋路追い駆けてください」

「うまいこと言うね」

「うれしくありません」

「まああたしもそうしたいのはやまやまなんだけどね、ほら、いまはお金が恋人っていうかさ……」

「そういうところがダメなんじゃないですか」

「ほっとけ」


 しっしっ、と一度は好意的に掲げられた手がぞんざいに振られ、それに押し出されるようにして自然と時計を見上げた。

 気づくともう約束の時間を迎えている。なんとなく胃がざわざわと落ち着きを失くし、あたりを見回した。

 すると、文庫の棚で本を物色していたらしいさすがさんの姿が認められた。


「さすがさん、お待たせしました」


 この場合、わたしが先にお待たせされたことになるのかもしれないけれど、恐らくわたしと瀬尾さんが話していたから時間を潰していたのだと思ったのでそう言っておいた。

 わたしの曖昧な心持を察しているようで、さすがさんも曖昧に頷き、歩き出していく。瀬尾さんの好奇心たっぷりな目線から逃れるように、わたしもその後を追った。


 地下にある久万河書店を出ると、さすがさんはそのままエスカレーターに乗った。上がると目の前にテイクアウト専門のシュークリーム屋さんやケーキ屋さんが目に入るが、ここを目指しているのではないらしい。そのまま駅ビルの中から、外へと脱出する。

 わたしなんかは、ぴりぴりと肌が焼けるような感覚と、太陽が反射した肌の眩しさを感じるようになってからようやく日焼け止めを塗りはじめるが、実際のところ、日焼け止めは紫外線の強い春にこそ塗っておかねばならぬらしい。と、以前雑誌の記事で拝見したことがある。たしかに春は、雲が少なく、太陽の周りには空の青しかない日々が多い。

 例に漏れず今日もそんな好日で、外に出ると眩しさについ目が細められる。ネイビーのカーディガンから覗く、さすがさんの白いシャツが、これまた眩しい。ベージュのチノ。白いスニーカー。目新しい格好ではないけれど、背が高いせいかサマになる。


「貴家くん、カッコイイのよ」


 そう、店長がおっしゃっていたことが真実だと、すこしは信じられそうな気もするほどには。

 道ゆくお嬢さんのスカートを狙う春風が、さすがさんのシャツの裾もひらひらと揺らしていた。ついでに、とわたしのシフォンスカートの間を通りすぎてゆき、わたしは足を止めてスカートを押さえる。

 ちょうど足を止めて振り返ったさすがさんに、そのモンロー崩れのシーンを目撃されてしまった。わたしはそそくさと乱れを整え、さすがさんの左後ろを定位置にすることにした。


「あの、さすがさん。どこに行かれる予定なんですか?」


 そう尋ねてみて、まだ疑問が残るから、俯いて言葉を変えた。


「……ほんとうに今日の予定、わたしもご一緒していいんでしょうか」


 どこに行くかも、どのように行くのかも、そしてどうして行くのかも全く知らされていない今日の待ち合わせは、一言でいえば「ふしぎ」だ。

 通説であるデートの意味合いにも当てはまらず、さすがさんの明確な回答も、思えば頂戴していないのだ。ひょっとすると、「なんで並木さんは勝手についてきてるんだろう」などと思われている可能性だって捨てきれない。

 直射日光を浴びる中、紫外線問題も、それから歩く人たちの諸事情をも省みずに立ち尽くしたわたしは、たださすがさんの回答を待った。

 頭上からは、なんの声も降りてこない。いつものことだ。けれどこのときだけは、それが意味のある間にも聞こえた。


 その間を十二分にもった上で、さすがさんは、わたしの頭に何かを乗せた。


 何かといえば、そりゃあ手のひら以外の何物でもないのだけれど、よく少女漫画であるような「頭ポン」とはまた違って、優しさも、柔らかさもない、ぎこちない感触だったから、わたしは最初それとは分からなかった。

 見上げると、さすがさんの腕が伸びているのが見えた。

 それ越しに太陽に照らされたワカメさんがゆったりと上下して、ようやく、足音とともに手のひらが離れてゆく。


 ――頷いて、くれたのだろうか。


 そう気づいたのは、数歩進んでから、さすがさんが気遣わしげにこちらを振り返ったときのこと。

 わたしが一歩踏み出すと、さすがさんも前を向き、わたしが止まるとさすがさんはまた振り向く。これを数度繰り返し、ようやく、「今日はやっぱり待ち合わせだったのね」と理解でき、あとはさすがさんの目指す場所まで、おとなしくついていくことにした。

 この一連のやりとりでわかった、ひとつの事実を胸に秘めて。



 ――なるほど。さすがさんは、口で語らず背中で語る男らしい。

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