恋はくせもの〈六〉


「ここ……ですか?」


 もはや見慣れた頷きを返して、さすがさんはそのままのっそりのっそり、歩みを進めた。

 駅から離れ、飲み屋街や市民文化ホールを抜けるまではずっと直線だった。そこから、もう何代も受け継がれているような古書店がある角を曲がり、小路を進むあいだも、周りの景色はさびれた看板や灰色、もしくは全国津々浦々どこに行ったって目にするようなものばかりだったはずなのに。


 わたしの目の前に現れたのは、鮮やかなオレンジのドアが目印の、ちいさなカフェだった。


 テナントを借りているらしいビル自体はそこかしこにあるものとそう違いのないものだけれど、その一階にあるカフェが色彩を放っていて、春の日差しよりも目を奪う。

 扉以外はすべて白で統一されているらしく、樽を模したような円柱も、壁も、すべて白で塗りつぶされていた。色があるのは入口の扉と、それから円柱の周りを縁取るかのように置かれた植木鉢が、生を感じさせる緑を天にのばすその姿だけ。ジャックの植えた豆の木には高さが及ばないものの、とても好ましい景色だ。

 円柱を覆う樽板の装飾が上部の中心を開けるように途切れ、そこには小さな看板が括られている。


 LILLIPUT――小人国リリパット、とある。


 英米文学を専攻しているわたしは、もうそれだけで、この喫茶店が気に入ってしまう。

 入口の足元に、ちいさな黒板があった。それによると、どうやら、昼間はランチとカフェタイム、夕方以降はディナータイムとなるお店らしい。


 ドアを開けると、チリン、とかすかな鈴の音が鳴った。心地がいい。


 さすがさんの後に続く形で進むと、リリパットの店名に違わず、こじんまりとした小さな世界が目に入った。

 入ってすぐ左手にキッチンを構えるカウンターがあり、右手の窓に沿うようにして、木製のベンチシートと小さなテーブルがある。テーブル席は全部で三つしかなく、内二つはこの窓に面した席だ。店内が狭いため、これらのテーブル席は横並びで座る用になっているらしい。もう食事を終えてデザートタイムに入ったカップルが、隣り合って紅茶の茶葉が躍るさまを眺めていた。

 そのカップルを通りすぎ数歩進んだ先に、ようやく向かい合って座れるような四人席がひとつと、行き止まりの壁に隣接したカウンター席が三つほど現れる。これで席は全てだった。キッチンが店内に飛び出しているような造りになっているからしようがない。ずいぶんと健闘したのだろう。

 なるほど、これが由来か。と合点したくなるような小さなお店だけれど、白と木の焦げ茶、それからその二色の彩度を上げるオレンジで統一された店内は、くつろげる温かさを抱いていた。

 目を凝らすと、カウンターや天井などのあちらこちらに、ミニチュアの小人(というと矛盾するだろうか)が顔を出しているのもまたたのしい。小人の国に迷い込んだような気分だ。

 小人がみな、驚いた顔をしていたり、気づかず遊んでいるような表情が多いのも、このお店の采配だろう。凝っている。


 さすがさんは一度カウンターの前で店主さんらしき人に頭を下げると、そのまままっすぐ奥まで進んでいった。店主さんは三十代ぐらいの男性で、その隣には、幾許か若い女性が柔らかく微笑んでわたしたちを見送っていた。その佇まいから見て奥さんだろうか。

 さすがさんは迷うことなく、奥のカウンター席に腰を下ろした。わたしはすこし迷ったけれど、その隣の椅子を引く。

 ほどなくして、奥さんによって、お水とメニューが目の前に届けられた。


「……見ます?」


 さすがさんは、顔をこちらに向けて、それから首を振る。どちらに振ったのか判別に迷ったものの、また顔を壁に戻してしまったから、答えは「横に」だろう。

 お昼ごはんにはすこし遅い時間だった。朝ごはんと呼べるような代物でもないが、手製のたまごかけごはんをお腹に収めてきたので、注文に迷ってしまう。

 これが気の知れた友人であれば、悩む時間もまた楽しみのひとつ。これがおいしそう、あれが食べたい、などとおしゃべりをして、その過程すらもおいしくいただくけれど、ご一緒している相手が、今のところ肉声を聞いたことのないさすがさんなのだから、そうはいかない。首を振る以外のモーションをそうそう見せてくれないことを思うと、イエスノー質問以外では回答してくださるかも怪しい。

 そんなことを考えながら、じっとメニュー越しにさすがさんをにらんでいたせいだろう。


「いらっしゃい」


 背後から掛けられた声にはどきりと肩が跳ねた。

 声の主は笑顔の柔らかい、あの奥さんだった。ベンチシートと同色の盆の上に、真っ白なコーヒーカップをふたつ乗せている。わたしとさすがさんの間に立つようにして、そのカップをわたしたちの前に置いていった。


「え、あの、わたしたちまだ注文してないんですけど……」

「ああ。いいのいいの。この子いつもこれだから。お連れさんなんでしょ? サービスぐらいさせて」

「あ、ありがとうございます」


 どうやらさすがさんは常連さんらしい。意外だ。


「それで、注文は決まった?」

「えっと……」


 さすがさんをちらりと伺うと、わたしの持つメニューを覗き込み、指先で「デザート盛り合わせ(約二人前)」の一列をなぞった。

 シェアするつもりだろうか。このカフェの選択といい、意外と女子力が高い。

 などと思っていると、


「颯太郎くんはそれね。あなたは?」

「えっ」


 まさかひとりで食べるのか。


「……えっと……じゃあ、この、パンケーキで……」

「はい。かしこまりっ」


 奥さんが去ってゆくと、わたしとさすがさんの間に残されるのは沈黙だけだ。その他には、控えめな声で続けられるカップルの声と、キッチンでの作業音、それから店内をほどよく満たすBGM。

 日常から切り取られて、まるで別の世界にいるような、静かな空間だった。


 そんな静かな小人国で、「あっ!」と大きな声が漏れたのは、目の前に置かれたコーヒーカップに向き直り、そこにあるものに気づいたからだった。


 カップの中には、見覚えのある人物がいらっしゃったのだ。茶色い部分はさすがさんのワカメヘアーを忠実に再現し、鼻やくちびるまできちんと描かれているから、思わずとなりにいるご本人と見比べてしまう。

 さすがさんはさすがさんで、じいっ、とカップを見つめ、スマートフォンを取り出したかと思えばそれをしっかり写真に収めていた。

 覗き込むと、わたしのものとは打ってかわって、かわいらしいアザラシの絵が描かれてある。


「うわっ、かわいい!」


 さすがさんは今までの中でいちばん速くこちらを向くと、神妙に頷いた。もう一度スマートフォンで写真撮影に勤しんでいるあたり、喜んでいらっしゃるのかもしれない。


「毎回こんな風にしてくれるんですか?」

 顔が上下に動く。答えはイエスだ。

「いつも……ってことは常連さんなんですよね」

 これにもイエス。

「常連になっちゃう気持ち、わかります。こんなの出されたら、わたし、毎日でも通いつめたいぐらい」

「あら、嬉しいこと言ってくれるね。ありがとう」


 注文の品をお供にやってきた奥さんが参入して、わたしは「本心ですもの」と笑った。実際、どことなく秘密基地のような雰囲気のするお店である。自分の「いつもの」場所にしたい、と、わたしも思った。

 届けられたパンケーキのお皿に、WELCOMEの文字がチョコレートで描かれていて、それだけで頬がだらしなく緩んでしまう。さすがさんの注文したデザート盛り合わせには、ティラミスやパンナコッタ、それから自家製らしいプリン。と、およそ二人前と表記するには相応しくないほどの量が乗っているあたり、サービスもいい。

 いただきます、と一礼してから口に含んだひとかけらも、満足のうえを軽々飛び越えるようなお味だった。サイズは大きいのに、軽やかで、それでいてもっちりとしていて、自家製らしいシロップはどれだけかけてもくどくない。これほどまでに幸福を感じる瞬間は、そうそうない。

 おいしいカフェラテにパンケーキ、とすっかり気をよくしたわたしは、ついつい口も軽やかになってしまった。


「さすがさん、どうして今日は誘ってくれたんですか?」


 ほっぺたを膨らませながら、さすがさんはわたしのほうへと顔を向けた。イエスノー質問でないから、どう答えるかわからない。わたしは口に出してからしまったな、と思ったけれど、もうあとのまつりだ。大人しく口の中のパンケーキに、カフェラテをしみこませてゆく。


 ひとくち。

 ふたくち。


 とかけらを食べ進めてゆくぐらいの間を要してから、さすがさんは、ティラミスのココアパウダーがついたくちびるを、うっすらと開いた。


「…………みせだと」

「……」

「あんま、はなせない。から」


 ――店だとあんま話せないから。


 およそ一行で説明できるようなことを、長い長い時間をかけて、さすがさんは口にした。


 とても、ふしぎな声だった。

 高いか低いかでいえば明らかに男性の低音なのだけれど、子どもみたいな甘ったるい響きが残る。ふだん声を発しないせいだろうか、すこし掠れているのも印象的だった。

 喧騒の中では決して聞き取れないであろう小さな声は、このお店の、控えめな音楽の中にこそよく映える。

 この場所に連れてきた理由が、すこし、わかった気がした。


「でも、あの、それは……どういう?」

「つづき」

「……なんの?」

「月曜日」

「はあ」


 噛みあっていないことを悟ったのか、コーヒーカップに一度口をつけてから、さすがさんは続けた。


「いいたいこと、あるのか、と、おもって」

「さすがさんが?」

「ちがう」

「……わたし?」


 さすがさんは、ふう、と吐息を漏らす。ため息ではなく、それは、依然として熱を持つカフェラテに向けられていた。


「なんか、いいかけてたから」

「はあ」

「おれ、よばれたから、行っちゃったすけど」

「どこに?」

「レジ」

「……いつの話だっておっしゃいました?」

「月曜」

「……の?」


 真っ白なパンナコッタをすくい上げるのに悪戦苦闘していたせいか、さすがさんはしばらくの間、なんの反応も見せなかった。もう一度繰り返すと、記憶をさらうかのように顎を持ち上げて、


「といあわせのあとの、なんか」


 ここまでくると、わたしも「もしかして」の記憶が定まってくる。

 決まりわるい気持ちを抱えながら、さすがさんにお礼を述べようとしたときのことを言っているのだろう。合点がいったので、ああ、と思いのほか大きな声が出る。なぜかといえば、そのことをすっかり忘れていたからだ。


「よくそんなこと覚えてましたね」


 自分のことでありながら、うっかり感心してしまう。

 チャリン、と金属が触れ合うような音がして、見ると、さすがさんがスプーンでコーヒーカップの中をかき混ぜていた。意図されて作られていた白と茶の境界線を崩さぬように、だいじにだいじに飲んでいたのに、それを均衡にしてゆくから、いったいどうしたのかと思った。

 ほどなくして、備え付けのお砂糖を足したからだと気がつく。またスプーンひとさじほど、追加していた。

 それから、さすがさんは、混ぜる手を止めないまま、口を開いた。


「だいじなこと」

「は」

「なのかと、おもった、から」

「……なんでですか?」


 すこし迷ったように沈黙をおいてから、


「おれにはなしかけよう、とするひと、そんないないし」

 失礼ながらわかる気がする。

「いるときは、たいてい、なんか、おこらせてるときで。おれが」

「あ、自覚あったんですね」

「……並木さんも、そうおもってたんすね」

「えっ。…………あっ」

 慌てて口を噤んでも時すでに遅し。おそるおそる横目で様子を窺ってみるものの、表情の変化がそう分からないお方である。怒っているからこその無反応なのか、それとも、気にしていないからこその無言なのか。付き合いの浅いわたしにはわからない。どっちだっていいよ、と、放り投げられている気さえする。

 だからだろう。気づいたら、自然と声に出ていた。


「わたしも、怒ってたから……ですかね」


 さすがさんが振り向く気配がする。背後の天井から吊るされた照明の効果で、目の前の壁に影が映るのだ。


「あの、怒っていたっていうと、語弊があるかもしれないんですけど」

「…………」


 無言ながら、その空白に疑問符と促しを感じたから、わたしは続けた。


「別にさすがさんが何をしたというわけではなくって、わたしが勝手に、さすがさんの善意を悪意にしてしまったり、上回る期待にしてしまったりしただけで。そんな自分が嫌だなとも思いましたし、だからさすがさんに会うのは、……気まずいな、と、思っていて」


 横に並んでいることを理由に、わたしは顔をさすがさんの方へ向けることはしなかった。苦手だったからだ。こういった言葉を口にするのは。

 けれど言わなければならない気もしていた。少なくとも、わたしがさすがさんに願うなら。

 わたしは、すっかり冷めてしまったカフェラテをひと口含み、喉を潤してから尋ねる。


「話すの、苦手なんですか?」


 静かな店内では、控えめな声も邪魔されることなくよく通る。沈黙も心地よく楽しめる程度のBGMを邪魔しているのは、いまやわたしの声だけだった。内緒話をするようにくすくす笑いを忍ばせていたカップルもいつのまにか退席していて、新しくお客さんがやってくるような気配もない。そもそもこの店に入った時間が、ランチメニューもそろそろラストオーダーという頃合いだったのだ。お店の前の看板には、カフェタイムとディナータイムでの営業とあったから、もうそろそろしたら一度お店も閉める頃合いなのだろう。

 白い壁に映る影がゆっくりと上下して、それから、数拍遅れに返事が聞こえてきた。


「とくいかにがてか、なら」

「はい」

「そうすね」

「でしょうね」


 また金属音が鳴った。さすがさんがどうやらスプーンを置いたらしい。視線をすこしだけずらすと、いつのまにかパンナコッタやらティラミスやらが盛られた皿は空っぽになっていた。


「じゃあ無理にとは言いません。でも、すこし、態度やことばに出してほしいです」


 さすがさんは動かない。

 意志疎通を円滑に。そういう理由がないわけでもないけれど、わたしがさすがさんにそう強請る理由は、すこし違った。


「……知らないことを理由に、怒ったり、謝るタイミングを逃したくないんです。さっきも言いましたけど、さすがさんの厚意をわたしの裁量で悪意に変換したくないというか」


 すこし考えこむような間があって、「無知の罪?」という声が聞こえてくる。

 言われてみて、近からず遠からずだなと思ったので曖昧にうなずいた。


「店長が言ってました。さすがさん、情に厚いって。わたしもすこし、それ、わかった気がするんです」

「はあ」

「わかったから、ひとりよがりにしたくないっていうか。言わなきゃ伝わらないこともあるし、何考えてるかわかんないから言ってほしいなって。さすがさんのこと、もっとちゃんと知りたいと思うから」


 となりを振り向くと、さすがさんは、コーヒーカップを混ぜるのを止めていた。こちらを向き、わたしの自意識過剰でなければ、きっと視線も出会っている。


 長い長い間があった。


 さすがさんのくちびるが、薄く開いて、それからまた閉じる。を、三度ほど繰り返して、さすがさんは言った。


「がんばります」


 相変わらず声も顔も無表情だけれど、さすがさんのまじめな為人を垣間見たせいか、その回答で十分だ。わたしはすこし、笑った。

 頷いてから、そういえば大事なことを言い忘れていたと気づく。上半身を横へと向けて、ちいさく頭を下げた。


「むっとしてしまって、あ、あと足も踏んじゃってごめんなさい。それから、…………助けてくださって、ありがとうございました」

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