恋はくせもの〈四〉


 振り向くと、見覚えのある女性がいた。

 誰かしら? と疑問符が先行するものの、わたしも働きはじめてひと月だ。常連さんならば、どこかしら見た記憶のある方はちらほらいらっしゃる。彼女もその類だろう。


「取り寄せをお願いしたいんですけど」

「かしこまりました。ではこちらでお伺いします」


 そう言って、レジが混雑しないように、パソコンの前に来ていただく。

 それから書名を伺って、取次のホームページにキーワードを入力、と、在庫確認のときと同じ手順を踏んだ。


 そして表紙が出てきた折に、一度は消えたはずのクエスチョンマークが浮かびあがる。

 はてな? と首を傾げて、再度お客さんを見た。


 まっすぐに伸ばされた髪、それから桜色のカーディガンが目に入る。きれいなひとだなぁ、とありきたりな感想を抱いてから、ようやく既視感の正体に気がついた。

 恐る恐る、口に出してみる。


「あの、先日本の検索をされた……」


 一度眉間に浅い皺を刻み込んでから、すこし考えるふうな素振りを見せて、お客さんも「ああ!」と声を上げた。どうやら正解だったらしい。


「その節はありがとうございました」

「いえ、わたしは何も……」

「それによく覚えてましたね」

「あ。いえ、たまたまです。本の表紙に見覚えがあったので、それで」


 検索結果に出てきた表紙は、先日も顔を合わせたばかりのそれだったのだ。お客さんの情報も重なって、ぴたりと記憶のジグソーパズルに当て嵌まった。


「この間と同じ本ですもんね。やだ、お恥ずかしい」

「そんなこと。でもどうしてもう一冊なんですか?」

「えっと……この間買ったときは、友達に借りたら面白くって、自分のものが欲しくなったから買ったんですけど」

「あ、わかります。返したあとでまた読みたくなるんですよね」


 お客さんは笑顔で頷き、それから端正に整えられた眉のしっぽを下げてゆく。


「でも、本に夢中になってたせいか、コーヒー零しちゃって」

「ええっ! タイヘンじゃないですか。火傷とか大丈夫でした?」

「ああ。そこまで大袈裟じゃないんです。別に読めないほど零したってわけじゃないし」

「そうなんですか。ご無事で何よりですけど」

「ええ。だけど私、そういうのダメなんです。自分の持ち物にシミとか汚れとかあるのって我慢できなくって。リサイクルショップとか古本屋さんも苦手だし。彼は古本屋さんとかも好きみたいなんだけど、その付き合いで行くぐらいね」

「好きな本ならなおさらですよね」


 眉尻を下げたまま、お客さんは、困ったように笑った。わたしにも経験があるから、つい、似たような表情を返してしまう。わたしのときは、夏場、かき氷を食べながらのことだったから、ほとんど水の被害と同じもので済んだけれど、コーヒーとなるとそうはいかないだろう。

 幸い、取次に在庫があったのでお受けした。出版社からの取り寄せだと十日か下手すると二週間以上かかってしまうが、取次に在庫があれば三日五日程度で取り寄せられる。

 一度店頭の在庫を確認しようとしたら、肩を叩かれた。振り返ると、いつの間にかわたしの代わりにレジに入っていてくれたさすがさんがいらっしゃるので、少なからず驚いた。肩を叩かれたのには、それ以上に驚いた。


「さすがさん? どうかされたんですか」


 尋ねても、さすがさんは相変わらず一言も発さず、ただ首を緩慢に動かすだけだ。

 その動きがあまりにもゆっくりなので、最初は扇風機の首振りを思い浮かべてしまった。それが左右に首を振っている、つまるところ、否定の意味に繋がったのは、すこしばかりお時間をいただいてからのことだ。


 なぜ首を横に振るのだろうと考えて、思い至る。

 お客さんがこの本を購入されたのは月曜日のこと。売れた本はPOSデータを介して自動的にまた入荷がされるのが普通であるけれど、水曜日ぐらいまでそのPOSシステムが不調だというお達しが朝礼にて伝えられた。その期間を踏まえると、月曜日に売れたものは、まだ今日は入荷していない可能性が高い。

 レジに呼ばれてしまったさすがさんにその真意を尋ねることはできなかったものの、きっと間違いではなかろう。思えば、お客さんも最初に「取り寄せ」を頼んでいた。


 それに何より、わざわざ教えてくださったことが、素直に嬉しかった。


 取り寄せも無事に終わったところで、さすがさんにお礼を伝えようと試みたものの、それは残念ながら叶わなかった。帰宅ラッシュの時間に重なってしまったのだ。

 改札から一番近い場所にある書店だから、平日の帰宅時間はレジフォローを入れないとずらりと人が並んでしまう。わたしも若蔦さんも、そしてさすがさんと店長も、しばらくはレジカウンターの中でてんやわんやだった。何度か話すタイミングがないか視線を向けてみたけれど、さすがさんの向こう側に並ぶお客さんの数から、早々に断念した。

 その波がおさまったころに、ようやく、さすがさんを呼び止めた。


「あの」


 そう声をかけて、さすがさんは振り返り、また扇風機のような動きを繰り返す。今度は否定の意ではなく、自分に声をかけているのか、という確認らしい。ということには、若蔦さんが「おまえだよ、おまえ」と声をかけているのを見て、わたしもはじめて気がついた。


「えっと……あの、さっきのことなんですけど」


 しかし、いざ面を合わせるとどうにも言い難い。さすがさんの背後には、先ほどやりきれない思いを聞かせてしまった若蔦さんもいらっしゃる。

 さらに、


「早く言っちゃえよ。もじもじしてると告白みたいだぜ」

 などと茶々を入れるので余計にだ。

「え、なに? 並木さん貴家くんに告白するの?」と店長まで参入してきて、わたしは頭を抱えた。

「貴家くん、もう上がりだけどどうする? 二人でちょっと事務所で話してくる?」

「ふたりとも、悪ノリしないでください!」


 立ち読みをしていた数人のお客さんがこちらを振り返り、必要以上に声を荒げてしまったことに気がついた。いたたまれない。

 どっちみち、日曜日にはまたお会いするのだ。お礼も謝罪もまた後日に持ち越そう。

 ため息と吐息の中間地点にあるような呼気を漏らすと、ふとまた肩を叩かれる。二度目だからもう驚くことはなく、平然と上を見上げる。


「どうしたんですか、さすがさん」


 見上げた先には、もじゃもじゃのワカメさん。それから、わたしの視界を遮るように、卓上カレンダーが掲げられた。パソコン脇に置いてあり、取次から入荷予定の連絡が届いたら、荷物が何箱届くのかを記入するためのものだ。他にも、一番くじの予定や、シフトの休み希望など、使用される頻度は高い。


「カレンダーがどうかされたんですか?」


 そう言うと、さすがさんの長い指が、ある一点を指し示した。今日のおとなりにあるところ。つまり翌日の日付である。


「……あした?」


 わたしの返事を確認すると、さすがさんはゆっくりとワカメ頭を揺らした。上下に頷いているのだ、ということにはなかなか気づかず、おまけに、今度はわたしを指さしたまま微動だにしない。昔のアニメにこんなサラリーマンがいたような気がするな、と思考が走ってようやく、ぴんときた。


「わたしはあした、お休みですけど……」


 その次の暗号めいた動きにはさっぱり理解が及ばない。

 ひとさし指を一本立てて、それから真下を示す。

 なんのこっちゃ。と首を傾げるわたしは、いくら江戸川乱歩を読んでいても、少年探偵団の一員にはなれそうもなかった。


「明日、一時に店集合だってさ」と助け舟を出したのは若蔦さんだ。

「え? なんでわかるんですか」

「指を立てたのは一時、それを真下に下ろしたのはここを示してんだろ。一時に店集合、でQ.E.D.証明終了――ってね」


 エラリー青年改め少年探偵団わかったくんの回答に、もう一度ゆったりとした頷きを落とし、さすがさんは事務所へその背中を滑り込ませていった。どうやら若蔦さんの言う意味で間違いはないらしい。


「なんか名探偵みたいですごいですね、若蔦さん」

「並木さんのほうがすごいって」

「はあ」


 なんのことだろう?

 さっぱり考えの及ばないわたしを他所に、店長と若蔦さんは顔を見合わせてニヤニヤ笑う。

 わたしがその意味を知ることとなったのは、帰り支度を済ませたさすがさんが、恐らく「おつかれさまでした」の意を持つ一礼をしてから去っていくのを見届けてからのことだった。

 若蔦さんは、わたしの頭に手を置き、こう言い放ったのである。


「あの貴家からデートに誘われるやつなんて、なかなかいないぜ?」

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