恋はくせもの
恋はくせもの〈一〉
貴家颯太郎さんこと、「さすが」さんは、とってもふしぎなお方である。
と、いうのは、なにもわざわざ明記せずともわたしも、そして久万河書店のスタッフ全員が重々承知していることであるけれど、わたしだって最初からそうだったわけではない。
ご挨拶をさせていただいたあと、特に親交がなければ「さすが、そうだろう」のインパクトも薄れて、ただの「アルバイトの一年先輩さん」になってしまう。「無口な人だなぁ」という可も不可もない、むしろどちらかといえば不可寄りの印象以外には、「前髪切ればいいのになぁ」、「暑くないのかなぁ」程度の印象しか抱いてはいなかった。
一時はこりゃあおもしろい、ぜったいに忘れないぞ、とまで感じたことはとおい昔のようで、ひと月も経っていないというのに、人間の記憶というものは実に頼りない。まるで記憶という味噌汁が、不用意な水を足すようにしてどんどんと薄められ、味を失ってしまうみたいだ。そのままことばを交わさなければ、きっと限りなく水に近いものになっていただろう。
ちょうど研修を受けていたこともあって、気付けば初回の挨拶以降まともな会話を交わさないまま。わたしの中の「さすがさん」という味噌汁は、ずいぶんと味気も、可も不可もないものになってしまっていたのだった。
そういった、わたしの中における貴家颯太郎さんのなにもかもが変化したのは、たしか桜舞い踊る四月のこと。
わたしが久万河書店に勤めてから、ひと月ほどが経過したころだったと記憶している。
「おはようございまーす」
という挨拶とともに、カウンターの中から事務所の鍵を手に取った。挨拶はカウンター内にてパソコンとにらめっこしている契約社員の
この昼夜を問わない「おはようございます」に関しては、アルバイトだけでなく何らかのコミュニティに属している方なら覚えのあるひとは多かろう。
高校時代にやっていたコンビニのアルバイトも、夜に行こうが昼に行こうが挨拶は「おはようございます」だったし、サークルの見学に伺った際、部室に入ってきた先輩らしき殿方も「おはよう」といいながらやってきた。演劇部だった友人から漏れ聞いた話だけれど、舞台も同じ決まりだったそうだから、ひょっとするとルーツはそこにあるのかもしれない。
それから、資格書が敷き詰められた棚の並びにある扉を開け、身体を端に寄せて滑り込ませた。
この表現、比喩ではなく、文字通りの意味である。
扉を開けてすぐ目の前の棚に、ハンプティ・ダンプティがどっかり座り込んでいる。
もっとも、これはもちろん比喩であり、体型は丸ではなく四角。色はオレンジやら黄色やらやたらカラフルで、だいたいがそこそこの厚みを持っていたりする。
お出迎えのハンプティ・ダンプティ。別名が魔の封筒山。
早い話が出版社の注文書である。まことにやっかいな代物だ。
なにがやっかいかといわれれば、そりゃあ在庫がうんぬんだとか注文がどうのこうのだとか担当されている方にとってはそれこそもっともらしい意味を持つのかもしれないけれど、レジ打ち要員のアルバイトにとってはことば以上の意味があるはずもない。
バサバサバサリ、と。
単によく落ちるのだ。
本家とは異なって、落ちても割れないし元に戻せばいいだけの話だけれど、たとえば遅刻ギリギリの時刻にそれをやらかしてしまうと、もうこれがやっかいでしかたがない。もとの場所に戻すだけで一分は消費する。ツイていない日だと、エプロンを身に着け事務所を出るときにもまた落とす。時間に余裕がないときの二分の偉大さは計り知れない。
そんな狭いスペースの中に罠が仕掛けられているもんだから、事務所に入り込むにもコツがいる。お腹を引っ込めている効果か知らないが、すこしお腹まわりがスリムになってきた気もするのでわたしとしては注文書さまさまだけれど。
扉を開いたことでできる僅かなスペースに身を滑り込ませ、三分の一ほど身体を出した注文書に触れないように移動しながら、扉を閉めた。
すると、中で休憩をとっていたらしい、
「おはようございます」
「おはよう」といってから、店長は物珍しそうにわたしの姿を上から下までじっくりと眺めた。
なんだろう?
首を傾げると、問うより先に答えが返ってくる。
「今日は私服なのね」
「あ、はい。大学からそのまま来たので」
久万河書店では、白いシャツに黒いズボン(もしくは膝丈以下の黒いスカート)、そして黒い靴という服装規定がある。
三月のあいだは家から直接訪れていたためにその格好がデフォルトだったけれど、四月からは花の大学生活がはじまっている。今までどおりにはいかない。
わたしだって装いを気にする月並みな女子大生。通りすがりにくるりと振り返られるほどの容姿は持ち合わせていないものの、どこで運命が待ちぶせしているかわからないのだ。たとえば大学の図書館で端正なご尊顔を湛えた殿方と、同じ本を取ろうと指先が触れてしまうような出来事があったとき――やる気のないシャツに黒ズボンじゃあ、ロマンスの神様もそっぽを向いてしまうに違いない。
幸い、わたしが出勤する時間には、男性の方が事務所にいることがまずないので、着替えにも困らない。
もっとも、荷物が多いのも億劫だから、さっと着替えられるようにだいたいは上のカットソーを変えるだけ。この日はパネルボーダー柄のワンピースを着ていた。
「そういえば大学はじまったんだっけ」
「まだオリエンテーションとかですけどね。でも一年生の間は必修が多いらしくって、はじまってる授業もけっこうあります」
「並木さんはなにを勉強してるの?」
「いちおう英米文学を」
「あら。なんだかかっこいいわね」
学んでいる者の身からすると、そうだろうか、と首を傾げてしまう。
「たまに言われますけど、それ、響きがかっこいいだけですよ」
「そう? だってエイベイブンガクとかうちの店だと初めてよ。他は教育学部とか、経済学部とか、法学部とか……」
「法学部カッコイイじゃないですか」
ここで店長は腕を組み、ううん、と唸ってから、
「うっかりくんだからなぁ、イマイチ様にならないのよね」
「ああ……うっ、……かりさんかぁ」
わたしもつい、唸ってしまう。
うっかりさん、こと
もっとも、その多くは本人の知るところでない。いや、むしろ知りたくはない不本意なものばかりだろう。
そう察せられるのは、それが失敗談ばかりだからである。
雑誌の付録だけ入れて肝心の冊子を入れ忘れてしまっただとか、お客さんの忘れ物の傘を間違えて持って帰ってしまっただとか、他店のポイントカードをうちの店のものだと勘違いして勝手にスタンプを押してしまっただとか、さらにそれが注文に使う番線印だったとか……以下略。
新人同士なのでシフトが被らないようになっているわたしでも、これほどの逸話を知っているのだ。きっとまだまだ語られていないお話があるに違いない。
きっとそれらのエピソードがなければ、さすがさんのようにお名前を揶揄されることはなかったのだろうけれど、今ではもう「うっかりものの鵜狩くん」というのが定着している。周りのみんなが呼んでいるから、わたしも「うっかりさん」と呼びそうになってしまう。つい、うっかり。
あら。と肘をついて、「そういえば貴家くんはどこだったかなぁ」と店長は首を捻った。
わたしは少なからず驚いてしまう。
「さすがさん、大学生だったんですか?!」
「そうよー。並木さんのひとつ上かな。見えない?」
「いや、見えないというか……」
そもそも顔の半分が前髪で隠れてらっしゃるお方である。年齢の判別なんてつくはずもない。同い年と言われても「はあ、そうなんですか」と頷ける気がするし、「あれでもうお子さんもいるのよ」と言われても「へへえ、そうなんですか」と納得できる気さえする。
おまけに、誰ともコミュニケーションをとらないから、勝手に悪い想像をしてしまっていた。現代人にはありがちの引きこもりとか。社会復帰のためにまずはアルバイトとして働いているとか。「さすがに」これは失礼だな、と考え至ってから、それ以来さすがさんについて考えるのはやめていた。
濁してしまった続きを、店長は易々と見透かしているようで、いたずらに口角をつりあげる。
「貴家くん、あれでなかなかおもしろいのよ」
「お名前がですか」
「それももちろんだけど」
「はあ」
「接客業なのにひたすら喋ろうとしない姿勢とか、おもしろくってしかたないでしょ?」
それはおもしろがってちゃいけないんじゃ。とは、口にできなかった。
わたしは曖昧に頷く。
「頭もいいし、それに顔はけっこうカッコいいし」
「えええ?」
眼鏡を外したら美男子だなんてお話はよくあるが、現実で出会ったことなどない。ので、信じられない。
そう言うと、店長は「あら」と眉をおおげさに動かして反論する。
「ホントよ。なんてったって貴家くんは顔がいいから採用したんだもの。そうじゃなきゃまともな店長なら雇おうとしないでしょ」
「ああ、それはなんとも……」
説得力のなさそうなありそうな理由である。
「それにあんまりしゃべらないけどいい子だしね。わりと情にも厚いのよ」
「はあ……そうなんですか」
「信じてない?」
「そんなことは」
否定を繋げなかったのは、嘘を吐きたくなかったから。どちらかといえば「ありますね」という続きのほうが正しい。
半分どころじゃなく、三信七疑ぐらいだったわたしは、マジックミラーになっている扉の窓を覗き込み、身だしなみを整えながら曖昧に頷いた。
それも、店長にはすべてお見通しらしい。事務所を出る前に、わたしの名を呼んで、こう言った。
「ウソだと思うなら、話してみるといいわよ。貴家くんと」
はあ。
どっちつかずの同意を放って、わたしは逃げるように店に出た。男のひとと話すのが苦手なんですなどと初心なことは言わないが、それにしたって、さすがさんとどうコミュニケーションをとれというのか。
なにせわたしはその当時、さすがさんの声をたったの一度も聞いたことがなかったのだ。
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