恋はくせもの〈二〉
月曜日の夕方は、五時から勤務に出ているわたしより一時間遅れる形で、うわさのさすがさんが出勤してくる。普段であればそう気にすることもないけれど、この日ばかりは違った。
ある意味で、わたしはさすがさんがやってくるのを待ち望んでいたともいえる。
なぜなら、そのとき、ちょうど問い合わせを一件受けていたからである。
店内を何度かあっちこっち往復していたので、どうしたのだろう、と見つめていると目が合った。そこから問い合わせに発展したのだ。
本を尋ねてきたのは、わたしと同年代ぐらいの女性だった。肩あたりで切り揃えられた焦げ茶のストレートヘアは弛むことなく、春らしいクリームイエローのカーディガンも皺ひとつなくおろしたてのようだ。オフホワイトのペンシルスカートもまた、清潔な印象を与えている。率直に言って、きれいなひとだった。
「ええっと……すこしお待ちください」
パソコンで取次のホームページにアクセスすると、ほどなくしてキーワードにヒットした検索結果が表示される。検索結果はだいたいの場合出版が新しい順に並べられてくるので、上から文庫、間に同名のコミック上下巻を挟み、それから文庫になる前の単行本と計四冊。本とおっしゃるのだから、コミックは除外していいだろう。
「文庫と単行本どちらをお求めでしょうか」
お客さんはすこし迷ってから、「ふつうので構いません」とおっしゃった。ふつうの、の解釈に迷うが、恐らくは文庫だろう。文庫でいいか尋ねると、頷かれたので在庫検索に移る。
ここまでは、まだ、順調といってよかった。ここから先が問題なのだった。
在庫照会のページが、なかなか次に移らないのだ。
時間がかかることは知っていたし、焦ってクリックを繰り返すと失敗するわよ、と店長に言われていたこともありひたすらに耐えていたけれど、あまりにも長すぎる気さえする。一度店長に伺ってみようと振り返ったものの、三人ほどが並んだレジで応対を繰り返していて、声をかけられるタイミングがない。これはまいった。
なにせ三月から働きはじめたばかりのぺーぺーである。
一度教えてもらったことはあるものの、実際に問い合わせを受けることははじめてだった。のんびりとした笑顔の裏ではひたすらに冷や汗を流し、あとから思い返せば、笑顔もきっとひきつっていたに違いない。
そんなときに、先輩であるさすがさんが出勤されたのだから、まさに救世主である。
問い合わせをしてきた女性が別の本棚を眺めている隙に、さすがさんにこっそりと話しかける。
「あの、これ、問い合わせなんですけど、ページが変わらなくって……」
するとさすがさんは、ぴたり、と、まるで一時停止のボタンを押したみたいに一度動きを止めた。その様子にすこし驚いたけれど、それでもきっとさすがさんなら、「さすが」一年先輩なら、とわたしは静かに答えを待っていた。
答えというものは、生きているかぎり、期待しても求めても許されるものだとわたしは考えている。誰しもがお互いに答えを要求し、そしてまた提供することで、すべてが循環しているからだと思うからだ。問いと答えの連鎖がひととひととを繋ぎ、ときには過去と今を繋ぎ、そして今と未来を繋ぐ。
会話にもたとえられるキャッチボールがまさにそれだろう。
キャッチボールと銘打っているのだから、ボールを受け取ったらそのまますたこらさっさ、ということはない、と当然のように思う。自分が投げたボールを、相手が投げ返してくれるのを待つ。どんなボールを投げ返してくれるのかしら。強いのかしら弱いのかしらエトセトラ。この期待が膨れあがるのはまあ置いておいても、それなりに何らかの――それこそ一音だけでも構わない――返答がかえってくると期待することは、きっと罪ではない。と、思いたい。
さて、そんなわたしの罪なき期待に、さすがさんはどう答えたか。
なんとくるりと踵を返し、店内へ戻っていってしまったのである。
「えっ、さす、さすがさんっ」
呼んでも振り返らず、透明人間のようにお客さんの間をすいすい進んでゆき、最終的には文庫の棚の向こう側へと消えて行った。
わたしは呆然と立ち尽くすのみである。
まるで、せっかく田舎から出てきたのに、はじめての渋谷のスクランブルに巻き込まれたうえ、その雑踏の中で見つけた親戚のおじさんに声をかけたら無視されて、人混みの中に置いてけぼりにされたような。漫画であれば、わたしの背後にある「さすがさんはいいひと」と書かれた石板が、ゴロゴロと音を鳴らして崩れ落ちているような。そんな心境だった。
店長が相変わらず忙しくレジに向かっている以上、めげずに追いかけて聞きなおすことが最良の方法とも思えたけれど、わたしの度胸は並程度しかない。一度ボールが返ってこないことを知ってしまえば、次の投球は臆病になるに決まっている。
まだかまだかとこちらの様子を窺うお客さんの視線を感じながら、わたしはひたすらに、無意味なページの行き来を繰り返した。
ほどなくして、お客さんの顔が輝いたのは、わたしが無事に在庫確認を済ませたから、
――――ではなく。
脇からパソコンの画面を遮るように、見覚えのある本が差し出されたからだった。
暖簾を潜る要領で本を退かすと、パソコンの画面にも同じ表紙が映し出されているのが確認できる。
「あっ」と気づくころには、お客さんも同じ声をあげていた。
「これです、ありがとうございます」
「あ、いえ……」
見つけたのはさすがさんで、わたしはなにもしていないのだから恐縮してしまう。おまけに先ほどまでは行動の意味がわかっていなかったせいで薄情だとすら思ってもいたから、余計に居心地が悪い。
とはいえ、まあなんにせよ無事見つかったのである。さすがさんから受け取った本をお渡しした。
ほどなくして、一点を見つめたお客さんが「あら、これ」。
わたしもその視線を追いかけてゆく。
じっと見ると、本の背表紙の上部が、かすかに切れていた。
「ああ……痛んでしまってますね、すみません。他に在庫があるか見てみます」
言い終わる前にカチャカチャ賑やかな音が響き、わたしが向き直るころには在庫の照会画面になっていた。
軽やかな音を鳴らしたのはわたしの指じゃない。さすがさんの指だ。
さっきまではうんともすんとも言わなかったのに。いったいどうやったのだろう?
ほうけて見ていると、長い指先が画面を示した。
意識を視線に引っ張ってもらい、画面に移ると、残念な結果につい眉が下がる。在庫はこれ一冊きりだ。そう新しい本でもないから、棚にしか在庫を持っていないのだろう。
幸い気のいい方で、じっくり三十秒ほど背表紙を見つめたあとで「これぐらいなら全然平気」とにっこり笑って購入された。ご丁寧にも、去り際には「わざわざありがとうございました」の礼まで付け足して行く。礼儀正しいお方だ。
一般論として、気のいいひとに出会うと、たいていは心がほっこりとするものである。
その一方で、心苦しいと感じることもある。そういうときは、自分の行動に後悔があるときや、自分の狭量さに気づいているときだ。
つまり、こういうときである。
助けてくださったにもかかわらず、むっとした態度をとってしまった。
思えば店内に姿を消して行ったのも、この文庫を取りに行ったからだろう。どういうわけか動かないパソコンを頼るより、棚を見に行ったほうが早いと判断したのだ。本を差し出された今となっては理解できたことも、数分前には思い至らず、どんなに自分に甘く採点しても決していい顔をしてはいなかったと思う。
最後まで助けていただいたから、怒ってはいないような気もするのだけれど、そうであっても謝るところだと感じた。
「あの、……さすがさん」
そう口に出して、思いのほかこわばっているな。と感じた。わたしの声が。
もし今鏡を確認したら、キュートな眉間に皺のひとつやふたつ寄っているのが確認できたかもしれない。
となりのさすがさんは、またぴたりと動きを止める。
一時停止したまま、店内に数名いるお客さんが動いていなければ、どなたかが時間軸に干渉してわたしたちの世界の時を止めたのではないかとSF的思考にも陥ったことだろう。
それぐらいに、さすがさんは微動だにしなかった。
なにをしてらっしゃるのだろう?
「……さすがさん? あの……」
わたしはわたしで、言おうと思った言葉がなかなか出てこない。さすがさんが聞いてくださっているのかもわからないから、余計に、口を開くことが怖くなってしまった。
ひょっとしたら聞こえていない可能性も考えたし、わたしが少々つんけんな態度をとってしまったから、あえて聞こうとしていないのかも。
ネガティブな想像力というのは、ポジティブなそれよりたくましいのが常である。白い絵の具で黒いキャンバスを塗りつぶすのには何重もの厚塗りが必要だろうけれど、逆はそうでもない。そういうことに出くわすと、わたしみたいな人間は努力することにすら怯えはじめる。
このときがまさにそうで、臆病に拍車がかかり、わたしは二の句を紡げずにいた。さすがさんは一時停止のまま、わたしもまた、一時停止。
そんなさすがさんの再生ボタンを押したのは、わたしの発した続きじゃない。
レジの前にやって来たお客さんの「すみません」だった。
そしてさすがさんは、機敏にとはいえないまでも、少なくともわたしに対してよりは明確な返答を示した。レジに立ったのだ。
なんじゃそりゃ。と、まず真っ先に、むっとしてしまった。
いよいよもってこのひとの考えていることがわからない。いや、わかるけれど。レジに向かわなくちゃあいけない理由だってわかるけれど。そりゃ仕事だし。だけれども。だけれども。
そんな経緯があり、第一印象で「さすが、そうだろう」、第二印象で「無口なお方」となっていたさすがさんは、わたしの中で、「なに考えてるのかわかんないちょっとネガティブ寄りの印象」色に、その水を染めつつあったのである。
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