第四章 そして、一歩踏み出した
第一話
森を抜けた私が駆け足で訪れたのはマリンさんの雑貨店だった。
私の周りで香料士は師匠だけ。だが、その師匠は所在不明で頼れない。
残された頼れそうな人間はコロンを販売する彼女くらいしか私の頭に浮かばなかった。
雑貨店の扉をそっと開けて中を覗き込むと、そこにはレナさんとマリンさんの姿。
珍しい組み合わせだ。もしかして、出直した方がいいだろうか?
そう考え一度アトリエに戻ろうとしたのだが、私に気付いたレナさんに声をかけられる。
「別に重要な話をしている訳ではありませんので、気遣いは不要です。ティナ」
そう言われてしまったら、ここから出る理由が無くなってしまう。
私はここから立ち去る事を諦め、ゆっくりとマリンさんのいるカウンターへと向かった。
「随分とお久しぶりだけど、どういったご用件かしら?」
隣にはレナさん。前にはマリンさん。逃げ場はない。
きっと、依頼も受けずにずっとアトリエに篭っていた事を言っているのだろう。
でも、決めた事だ。私は香料士として――アロマを作りたい。エリナさんを救いたい。
だから、大きく息を吸い込むと、マリンさんにはっきりとこう告げた。
「私にアロマの創り方を教えて下さい。知っている人を教えてくれるだけでも構いません」
返事はない。ただ、ばさりと何かが落ちる音がしただけだ。
不気味な静寂。その中で、私は恐る恐る顔をあげたのだが、その瞬間、頬に痛みが――。
叩かれたのだ。大きく振り上げられていたマリンさんの右手で。
分かっていた。あの時の言葉から判断すれば、こうなる事くらい分かっていた。
でも、それでも、私は諦める訳にはいかない。私がやらなくてはダメだから。
「言ったわよね。失敗すれば、人の運命を大きく捻じ曲げてしまうって。そんなリスクを背負ってまで今、やる必要がある事なの? 自分の未来を賭けてまで」
答えはノーだ。未来に釣り合うものなんて存在しない。
人一人の命を背負える程、私は大層な人間でもない。小さな人間だ。
自分の未熟さは自分で知っている。私はまだまだ、子供のままなのだ。
それでも、やろうと決心したのは他ならない。私を信じてくれる存在があるから――。
なら、私はそれに応える義務がある。それが、香料士なのだと私は思う。
「足を踏み外したら元も子もないの。香料士は、そんなに甘い仕事じゃないのよ」
私はそんなマリンさんの言葉に何も返す事が出来なかった。マリンさんの襟首を掴む手に力が入る。怒っているのだ。凄く。私の事を思って。
でも、どうしてそんな悲しそうな顔をするのだろう。分からない。分からない。
「……分かってますよ。香料士がそんな生易しいモノじゃない事くらい。でも、私は曲げたくないんです。それは、私が私である為に必要な事だから」
私はマリンさんの手を振りほどくと、真剣な眼差しでそう宣言した。
きっと、マリンさんの瞳に映っているのは私じゃないのだろう。でも、それはもう一人の私だ。これから先の未来にいるかも知れない私。でも、そうなるとも限らない。
失敗して後悔する事もある。でも、やらなければもっと後悔する。
ここで逃げ出した事を。きっと、これから先。永遠に苦しみ続ける。
だから、決めたのだ。私はアロマを創ると。私が香料士である為に。
「自分の言ってる事がどういう事か分かってない。まだ、アロマに手を出せるだけの技量はないって! どうしてそれが分からないのよ!」
そんな事、分からない筈がない。私にはまだ、難しい事くらい知っている。
だから、頼ったのだ。マリンさんを。私には作れないから。
「確かに私は未熟です。それに、マリンさんの指摘は全て正しい……。でもだからって、それで私の答えが全て間違っているという事にはならないと思います」
これは、私のはっきりとした意思表示だ。
マリンさんの言っている事は百も承知。それでも、私は私の決意を曲げるつもりはない。
だって、私は香料士なのだ。香料士になった以上、それを見過ごす事は出来ない。
きっと、見過ごす事を選んでしまったら、私は一生香料士を名乗れなくなる。
そんな決意が籠った私の言葉に、マリンさんは短くも重たい沈黙を挟むと、再び手を振り上げた。その光景に私は再び叩かれることを覚悟した。だが、痛みはいつまでも来ない。
「そろそろ、負けを認めたらどうでしょうか。人には譲れない物があるものです。昔の貴女にあったように。今のティナにあるように、ね」
まるで、私を後押しするかのようにレナさんがそうマリンさんに語りかけながら、私達の間に割って入る。きっと、これ以上は見過ごせないということなのだろう。
そんなレナさんの言葉に、マリンさんは罰の悪そうな顔をすると、手を下ろした。
「分かってるわよ。貴女に言われなくても……。それでも、認められない物だってある。教える事は何もないわ。もう、今日は店じまい。帰って。今は、顔も見たくない」
私はマリンさんに追い出されると、雑貨屋の扉を閉ざされてしまう。
こうなる事は予測していた筈だ。でも、もしかしたらという甘い期待を抱いていた。
ただ、実際にはっきりとした拒絶をされると来るモノがある。胸が痛い。珠のような涙が零れ落ちる。嗚咽を止める事が出来ない。
私は雑貨屋の前で俯きへたり込むと、大声をあげて泣き始めてしまうのだった。
「認められない、ね。それって、ただ認めたくないだけなんじゃないの?」
その言葉に思わず、レナを睨み付ける。だが、反論できない。
ここでそれを認めてしまえば私自身の未練を再認識する事になる。それはすなわち、私の犯してしまった罪と向き合わなければならない事を意味している。
今でも分からない。私はどこで間違えてしまったのか。
「多分、貴女は同じ選択をする筈よ。あの娘にそういう所、そっくりだから余計に重ねちゃうんでしょう? 昔の自分にさ。でも、あの娘はあの娘。貴女は貴女よ」
「同じ選択……ね。それが過ちだと分かっていてもそうなのかしら?」
確かに、私とティナは違う。それは人間であるのだから、当然の話だ。
だが、職人として見るならばどうだろう。私の目から見ても、まだ未熟だ。
才能の芽は感じ取れる。流石、あの人が弟子にしただけの事はある。けれど、それだけ。
圧倒的に経験が足らないのだ。あの時の私のように――自分が見えていないのだ。
この小さな私の手よりもっと小さいあの娘の手は一体、何を救えるのだろうか?
いつの間にか、白く透き通るまでに綺麗になってしまった手を私はじっと見つめていた。
昔は職業柄が浮き出た女性らしくない手だったのだが、時の流れとはかくも恐ろしい。
そんな過去を思い返していた私に対し、レナはこう告げる。
「多分、あの娘は選んでしまうでしょうね。だって、あの娘は優しいから。でも、後悔だけはしない筈よ。それをする事は、あの娘にとって最大の間違いなのだから」
「最大の間違いね。まるで、全てを救うのが当然みたいな考え方じゃない」
時には切り捨てる事も必要である。それが現実だ。
私の手は有限であり誰も彼もを救える程、私達は強い存在ではない。
誰かを救う筈の香料士が同時に誰かを見捨てる事を選んでいる。矛盾しているがそれを受け入れない限り、自滅するのは目に見えているのだ。
「なら、香料士って何の為にいるのかしらね。その考えが間違いなのだとしたら」
レナから投げかけられた一つの問い掛け。
それは私がここまで考えても答えが見付からなかった物だ。
だから、あの人を特別だと思う事にした。それを当たり前のように行えるあの人を。
でも、本当にそうだったのだろうか? あの人が特別だったからなのだろうか?
確かに香料士であろうとすればするほど、人として生き辛くなる。それも事実だ。けれど、いつの間にか大切な何かを忘れてしまっているのではないだろうか?
何の為に香料士になろうとしたのか。どうして、憧れたのか。その背中に。
「私なんか相手にしてていいの? あの娘を放っておいて」
「あっちは白馬――いや、やっぱりそれは言い過ぎね。ロバ! そう、ロバの王子様がいるから大丈夫よ。それに、貴女は私の大切な友人なんだからほっとけないでしょう」
ロバの王子様。その言葉に、思わず笑ってしまう。悩みすらも忘れて。
そして、気付いてしまった。私がティナに何を視ていたのか。どうして、あそこまで厳しく当たっていたのか。こうまで、気にかけていたのか。
あそこにいたのは、諦めた筈の未来だったのだ。一度の失敗で諦めてしまった。
一体、私はここで何をしているのだろう。
あの失敗の事を忘れられないでいる癖に、私はまだ諦めきれていないのだ。私はどうしようもないくらいに、そうある事に執着していた。だから、捨てられなかった。
この羊皮紙を失えば、本当に最後の一欠けらすら失くしてしまう気がしたから。
「いい加減、諦めた振りをして目を逸らすのは止めなさい。貴女はどうしようもないくらいに、好きだったんでしょう? 誇れるくらいにさ」
そう告げると、レナはそっと私を抱き締める。まるで、ティナにするように。
あの時。全てを投げ捨てて、この場所へと戻って来た。あの時のように。
「確かに、貴女は取り返しのつかない失敗をしたのかもしれない。そして、今もその事に苦しみ続けている。でも、いつまでもここでこうしていていいとは思っていないでしょう?」
「思っていなくても、無理よ。私はもう誓ったの」
私が王都を旅発つ時。私は職人である事を辞めたのだ。
確かにそこで踏み止まり、続ける道もあったのかもしれない。だが、私はそれを選べなかった。きっと、客に寄り添い過ぎていて自滅してしまったのだろうと思う。
レナの言う通り、今でも私は捨て切れていない。職人であり続けたい。
けれども、あれから随分と時が流れてしまった。そして、今の私がここにいる。
もしも自分に嘘を吐き続けられる強い人間だったら、どんなに良かっただろう。
私は弱い人間だ。弱く脆い。土くれの人形だ。
空に手を伸ばせば、星に手が届くのかも知れない。でも、壊れる事を恐れて手を空へと掲げられない。自分が崩れ落ちてしまうのではないか、と。
「好きだから続けられる世界じゃない。そんなに甘いものじゃない。なのに、失敗しない事が当然の世界なのよ……。それがどれだけ狂っているか分からないでしょうけどね」
アロマ自体、確実性のあるものではない。私がティナに言ったように、僅かな配合違いで一人の人間を壊してしまう事になる。それが香料士だ。
何より、そのアロマの調香すら固定された調香法が存在しないのが現実。
全てが手探り。だからこそ、アロマを調香するような香料士は現実に減って来ている。
私もそんな中で必死に抗って、潰れた一人だ。ティナにはそうなって欲しくない。
ゆっくりでいいのだ。そんなに階段を駆け上がる必要はない。
そうすれば、転び落ちる心配もない。それだけの才能があるのだ。私と違って。
私はそっとレナから離れると羽ペンを取り出し、羊皮紙に走り書きをする。
「どうせ、これが欲しいんでしょう。でも、どうなっても私は責任は取れないわよ」
私の知っている限りで最も基本となるアロマの製法。但し、これが使えるとは限らない。
これをここでレナに渡す事でティナがどうなるか分からない。
レナは私から、その羊皮紙を受け取るとこう小さく呟いた。
「どこの世界も失敗が許されないのは変わらないと思うわ。貴女が一人の命を背負ったように、私は多くの領民の命を背負っている。その重さに大小はないわ」
どこか寂しげにそう呟いたレナの横顔に私は何も言う事が出来なかった。ただ、彼女が雑貨屋を去っていく後ろ姿をじっと見詰めるだけ。
誰も居なくなった雑貨屋。私は椅子に腰かけると、天井を見上げ大きな溜息を吐いた。
「人は皆、何かを背負い苦しみもがいている、か。それだと、まるで家畜みたいじゃない。重苦しい鎖につなぎ止められた憐れな籠の中の鳥じゃない」
大空を飛ぶ事を夢見ていた。憧れていた。
だが、気付けば籠の中で飛ぶ事すら出来なくなってしまった。
そんな私の目に写る天井の染みが蛇のように見えた。私を縛り付ける蛇のように。
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