第五話
薬草摘みと朝食を終えた私は小屋の外で燃えそうな乾燥した草と小枝を集めていた。
理由は簡単。簡易の調香キットでは薪のような燃料を使えないからだ。
何か閃いたわけでもない。自分に出来る事を視定めたわけでもない。
ただ、立ち止まってばかりいては何も変わらないと思った。だからこそ、今出来る範囲で少しだけ、頑張ってみよう。そう思い至ったのだ。
火が回りに燃え移らないように草の生えていない地面に集めた小枝や草を置くと火打ち石で種火を作り、燃えるのを待ちつつ作業の準備を開始する。
近くに川があったのも確認済み。まぁ、今回はそんなに大規模な調香ではないのだから、バケツ一杯の水があれば何とか事は足りる。
上手くいくかは別なのだが。いや、成功した所で何も変わらないかもしれないのだから、殆んど失敗みたいなものなのだろう。もしかしたら、笑われるかもしれない。
簡易抽出キットに先程、墓があった場所の土を入れて抽出してみる。
それから、森の新鮮な葉。種類は問わない。問うのは毒があるか否かだけ。
最後に苔を少々。あぁ、木の皮も忘れない。
そして、それらを最後に一つに合わせて完成だ。
材料を一通り見た限り――何を創りたいのか瞬時に判断出来ないだろうが、私の中ではこれをどのように調香し、何を創りたいか。そのレシピは出来上がっている。
この機材だと、一滴か二滴で限界。その分、香りを落ち着かせる期間が短くて済む上に、材料もほんの僅か。試しに作るという点ではこれ程に有用なものはない。
あぁ、もしかしたら先にこれで前回の依頼も試したらよかったのかも知れない。
そうすれば、あんな失敗をする事もなかったのかも。それも今更なのだが。
「お茶でも入れようと思ったんですが、お邪魔でしたか?」
「あっ、ご、ごめんなさい。今、作業を終わったのですぐにでも片付けます!」
気付くと、背後で首を傾げるエリナさんの姿がそこにはあった。
手にはお盆。その上にはティーセットが用意されている。見知らぬ果実が一つ――。
「慌てなくていいのに。それより、初めて収穫したのですが、一緒にどうかと思いまして」
手に持っていたのは歪な形をした青緑の果実。食べられる果実なのだろうが、熟しているようには見えない。それにしては少しばかり、青過ぎる気がするのだが?
エリナさんはその青い果実の皮をするすると剥くと、小さくカットしていく。
そして、その一つを私に差し出し、無言で最初の一口を勧めて来る。
「この果実……酸っぱいです」
本来、果実と言えば蜜で甘いイメージなのだが、何故だかこれは酸っぱい。
果実が食料として有用なのは知っている。だが、もっと甘かった。だから、私も旅をしている時は好んで野生の木の実を食べていたのだが、これは酸味が強い。
そんな私の様子にエリナさんはクスクスと笑った。
「ふふ。この実はこういう実なの。料理なんかに適してて、火を通すと美味しくて……。ただ、雑種だからそんなに取れない事が難点の珍しい実なのよね」
渋くはなかったのでシャリシャリと齧っていたのだが、慣れれば悪くない。
野生の木苺のような酸味。甘いモノが苦手な人にはこれはこれでいいのかもしれない。
「でも、この実をこうするととってもいい香りがして美味しいの」
そう告げると、カットしたその木の実を更に細かくスライスしながら、ティーポットとは別の容器に並べて行く。芯を取るのも忘れない。
そして、そこへ用意しておいた紅茶を注ぐと蓋をして、近くの椅子に腰を下ろした。
「こうして、少し時間を置くととてもいい香りがするお茶になるの。こっそり、隠し味に蜂蜜なんかを入れてね。特別な時期にだけ飲めるお茶」
そう言葉を切ると、私をじっと見詰めながらこう続けた。
「何か、私に聞きたい事があるんでしょう? 美味しくなるまで時間があるから、その間に少しだけお話でもしましょうか」
まるで、何かを確信しているような物言いに私は何も答える事が出来なかった。
直接、何があったんですか? などと、聞く事なんて出来る訳がない。
だが、遠回しに聞き出せるような技量を私は持ってはいないのだ。
だからこそ、まるで悪い事をして見付かってしまった子供のように黙り込んでしまった。
すると、エリナさんは困った様な顔をしてしまう。それもそうだ。
私が何かを知りたがっている事は分かっていても、何を知りたいのかは分からない。
どうしようもない空気。それに耐えきれなくなった私は先程、作っていた試作品の存在を思い出す。まだ、抽出したばかりだが試験用。安定速度も早い。
冷めて分離したソレを小瓶に移すと、エリナさんに差し出す。
「あ、あの……これ、作ったんですけど、どうでしょうか? 鼻を少し遠ざけて、香りを扇いで嗅いで見て欲しいんですけど……」
この森をイメージして作ったコロン。上手く出来たか分からない。
少しばかり、首を傾げながらもエリナさんはそれを嗅いでみるのだが、感想はない。ただ、何かを悟ったように頷くとその瓶のふたを閉めた。
「なるほど。今朝、帰りが遅いと思ってたら、あそこに行っていたのね」
「そ、その……。ま、迷い込んじゃいまして……わ、悪気はなかったんです……」
入ってはいけない場所。そこに入り込んでしまったのではないか。
そう思い必死に謝ろうとするのだが、そんな私に対しエリナさんは苦笑いを浮かべると私にその小瓶を返し、ゆっくりと口を開いた。
「別に怒ってないわ。あそこは、ね。私の祖母のお墓なのよ。随分と長い間、足を運んでいなかったからその事を、少しだけ、思い出しただけで……ね」
やっぱり、お墓だったんだ。そう思うと共に、一つの疑問が浮かび上がる。
随分と長い間足を運んでいないと言ったが、あそこはまるで誰かが手入れを欠かさず行っているかのような綺麗な場所だった。辻褄が合わないのではないだろうか。
狼さんには流石にそんな事は出来ない。かと言って、エリナさん以外に人間はいない。
なら、一体誰があの広場の手入れを行っていたというのだろう。
まるで、見えない何かが隠れてあの場所を守っているかのような――。
「疑っているような目ね。でも、本当。だって、私には合わせる顔がないから」
合わせる顔がない。この薬草園を台無しにしてしまった事が原因なのだろうか?
ただ、一つだけ言えるのはそこには簡単に踏み入ってはならないという事だ。
しかし、本当に私なんかに何が出来るのか。先程、作ったコロンでは何も変わらない。
私の出来る事。ソレが精々なのにこれ以上、何をしろというのだろうか。
「もしも、帰る場所がないならずっとここにいていいのよ。外の世界には私達のような存在にとって、辛い事苦しい事が溢れてるから」
「帰る場所ならありますよ! ジュリアおばさんの居酒屋、私だけのアトリエ。マリンさんに、レナさん。村のみんな。私にとっては大切な人達です!」
「そう。それは羨ましいわね。でも、――そんな幻想は簡単に砕け散るモノなのよ」
私に顔を隠すように果実入りの紅茶の様子を確認しながら、エリナさんは私ではない誰かに向けているかのように小さな声でそう呟いた。
私にとってのジュリアおばさん。エリナさんにとっての狼さん。
家族という括りで考えたら同じ。でも、互いに抱いている感情が明らかに違う。
外の世界はエレナにとっては毒にも等しい。それはもしかして、狼さんが私に対して言っていた『魔女』という言葉に関係があるのだろうか?
私は魔女という存在を良く知らない。それがエリナさんにとってどういう意味かもだ。
それでも、はっきりと分かったのはエリナさんにとって魔女は鎖だという事。
この場所にエリナさんを繋ぎ止める多くの要因の一つ。
たったそれだけでしかない。そう言ってしまえば簡単だが、そんな一つの鎖ですら私にはどうしようもない程、大きなモノに見えてしまって……。
私はただただ、黙り込む事しか出来なかった。
「私、捨てられたの。でも、いつか帰って来てくれるって本気で信じてたんだ。お母さんがいつか、この場所に迎えに来てくれるって――ずっと」
それ以上の言葉は必要なかった。それだけ、言われたら嫌でも察してしまう。
いつか、迎えに来る。そんな嘘を吐いてこの場所から出て行ったのだろう。
エリナさんはそれをずっと、信じて待ち続けていた。でも、それは叶う事はなかった。
彼女がここに一人でいる事がその――そこである事に気が付いた。
前に森を飛び出した事があると言っていた。その時は、外の世界に飛び出したかったからと確かに言っていたのだが、その真意は――お母さんを探しに行ったのでは?
ここからは全て推測だが、お母さんが見付かったか見付からなかったかは分からない。
どちらにしろ失意の中、この森に戻って来た時には祖母が息を引き取っていた。
そして、大切な想いでの一つだった薬草園は荒れ果て、変わり果てた姿になっていた。
誰に責められる必要もなければ、自己を傷付ける必要性もない。
ただ、運が悪かっただけ。しかし、彼女は自分で自分を許せないのだろう。
「旅に出たから、エリナさんのお祖母ちゃんが死んだと思ってるのなら、それは違うんじゃないかな。だって……死って言うのは突然で、唐突で。誰の責任でもないから」
誰かの命を背負うなんて誰にも出来ない。全部、自己責任だ。
エリナさんの旅を止めようとしたにしろ、止められなかった時点でエリナさんにはどうしようもない事象の筈なのだ。それはきっと、女神様だろうとどうにもならない。
それに、思うのだ。旅に出た事を後悔しているのなら。
『どうしてあの時、旅に出なかったのか』
――旅に出なければ、きっとそう一生後悔していたのではないだろうか? 自分の下した決断に納得できないままに。
「貴女も
自虐的な笑みを私は直視する事が出来なかった。
彼とは恐らく、狼さんの事なのだろう。そして、私は二の轍を踏んでしまった。
何をやっているんだろう。私は……。
もっと、言葉を吟味していればこんな事にはならなかった。
狼さんの期待を私は裏切ったのだ。これではエリナさんに何も出来る筈がない。
「どうぞ。甘さが足りないなら、そこにある蜂蜜を少し垂らすといいわ」
ティーカップに入った、甘い香りのする黄金色のお茶を手渡される。
その水面に映る私の姿は酷く惨めで……。酷い顔をしていた。
「少しだけ、貴女が羨ましいわ。誰かから必要とされる。それはとても素敵な事よ」
必要とされるのは、期待を抱くからだ。
でも、私はその期待に応える事が出来なかった。その時点で私は用無しだ。
この件に関して、私は香料士として何も出来なかった。いや、出来ずにいる。
これでは本当にどうして香料士になったのか分かったものではない。
本当に、私はいつも間違いばかりしてるな。そんな事を想っていると、エリナさんはそっと私の鼻を抓み上げて来る。
「そんな顔してると、せっかくの美味しいお茶が台無しよ。その可愛らしい顔もね。大切にしなさい。自分が自分であれる場所は本当にかけがえないモノなのだから」
「私が私でいられる場所ですか?」
「そう。遜色ない。貴女を貴女として見てくれる場所。私には無かったから」
香料士としての私。レスティナ=ティンカーベルとしての私。
ジュリアさんも、レナさんも私をレスティナとして見てくれている。
マリンさんは香料士として私を視るが、それは私の事を思っての事だ。
もしもだ。もしも、私が香料士を辞めたとしてもきっと快く受け入れてくれるだろう。
しかし、だとするならば目の前にいるエリナさんは誰なのだろう。
私はエリナさんをエリナさんと見ていないのだろうか。
本当のエリナさんとは一体、何なのだろうか。
分からない事だらけなのだが、私はその答えを聞くのが恐ろしく、言葉に出来なかった。
「美味しいです……。甘くて、温かくて……」
何故だろう。涙がボロボロと零れ落ちて来る。
拭けども、拭けども止まらない。水量は増し、滝のように流れ落ちる。
「急にどうしたの? そんな作用はない筈なのだけど、配分を間違えたかしら」
「違います。ただ、このお茶があまりにも美味しくて」
お茶が美味しかったのは本当だ。
ただ、それ以上に自分の甘さを今一度、思い知らされたのが原因だ。
当たり前が当たり前すぎて、それが偶然という名の奇跡の連続である事を忘れていた。
香料士にさえなれば、私はなんでも出来ると思っていた。思い込んでいた。
師匠のようになれると。そうに違いないと。
でも、現実は何も出来ない。あの頃の暗闇でうずくまる小さな女の子のままなのだ。
本当に何を舞い上がっていたのだろう。私なんかが誰かを救える筈なんてないのに。
「そう、なら一人の方がいいわよね。ごめんなさい。変な思いさせちゃって」
私の様子に一人にした方がいいと判断したのか、申し訳なさそうな顔でティーセットを片付けると小屋の中へと戻って行ってしまう。
気を使われてしまった。私が謝るべき事だったのに。
エリナさんの背中はもう見えない。きっと、小屋の中で色々としているのだろう。
このままでは顔も合わせ辛い。自然と、小屋とは正反対の方向に足が向いていた。
まるで、この場から逃げ出すかのように――。
「逃げ出すなら、止めはせん。だが、本当にそれでいいのか?」
そう言って、私を呼び止めたのは狼さんだった。
分からない。どうすればいいのか。
頭の中がグチャグチャでどうする事が正しいのか。何をしてあげられるのか。
「思い上がってたんですよ! 香料士になったからって私は一介の小娘に過ぎなかった!」
自分の中に溜め込んで煮詰められていたモノを全てぶちまける。
香料士になったら、師匠のようになれると勝手に信じていた。
何かが変わると思い込んでいた。でも、それは全てまやかしだ。
私は師匠に拾われた時から何一つ変わらない。踏み出したと思っていた足は――今も同じ場所を踏みしめている。ずっと、あの頃と同じ場所を。
変わったのは周りばかり。私は何も変わっていなかった。変わらずにいた。
「確かにそうかもな。だが、それはお前が成長している証なのではないのか?」
狼さんは私の叫びにはっきりとした強い口調でそう返答する。
そして、ゆっくりと私の前まで歩いて来ると更にこう続けた。
「それはお前が自分を知ったという事。己を知らずして、どうして他者を救えようか? 否、救える筈もない。確かに他者とは自らを映す鏡に在らず。しかし、他者を救うには真に他者を理解しなければならない。では、真の理解とは何ぞや」
適度な量ならいいけれど、度が過ぎれば身体を壊す。
マリンさんの言葉を借りるならば、それを見極める目という事なのだろうか?
だが、その場合に指針が見えない。基準無くして見極めるなど不可能だ。なら、その基準とは一体何なのか。それが、己を知るという事なのだろうか?
でも、理解しようとすればするほどに分からなくなる。エリナさんという人間が。
「真の理解なんて出来ませんよ。私にはエリナさんが分からない……」
私のとても小さな小さな呟きに狼さんは小さな溜息を吐く。
「理解に必要なのは他者を思う心だ。お前はアイツに歩み寄ろうとした。今のお前に必要なのは覚悟なのではないのか? 傷付く覚悟。傷付ける覚悟」
「どういう事です? なんで、そんな覚悟がいるんですか!」
私は思わず、声を荒げてしまう。私は誰かを傷付けたくて香料士になった訳ではない。 ただ、救いたい。その一心で香料士になったのだ。それだけははっきりと言える。
そんな私に対し、狼さんはエリナさんの消えた小屋を眺めながら口を開いた。
「前に進むという事には大きな力がいる。変化するという事はこれまでと同じようにはいられないという事でもある。それはいい意味でも悪い意味でも傷付く事ではないのか?」
何も言えなかった。確かにその通りなのだ。
変化とはすなわち、どういう形であれ同じ場所に立ち続けるという事が出来ないのだ。
他者から与えられる外的要因によってそれを起こすなら、それを行う人間には傷付ける覚悟がいる。それはこれまで抱えて来た大切なモノを壊すかもしれないからだ。
それが狼さんの言う、傷付ける覚悟。
なら、傷付く覚悟とは何なのか。いや、それももう分かっている。
今の私がそうなのだ。エリナさんを救うという自分勝手な押し売り。
他人に影響を与えるのだ。自分に何の変化も起こらない筈がない。それは自分すらも変えてしまう。他者を変えるには自らもまた傷付く覚悟が必要なのである。
だが、それが分かったとしても私にはエリナさんに何もしてあげる事が出来ない。
私は師匠のように自在にアロマを作る事も出来なければ、香料士としてすらも未熟だ。
そんな私に狼さんは一体、何を期待しているのだろうか。
「最初から何もかもが上手く行く筈もない。確かに世の中には天才と呼ばれる奴らもいるが奴らも一歩一歩踏み出している事には変わらない。要は歩幅が違うんだ」
狼さんは歩幅が違うのだから気にするなと言う。一歩一歩踏みしめる事が大切だと。
だとしたら、私はエリナさんに何をしてあげられるのだろう。
アロマも作れない。香料士としてすら未熟。そんな私に何が出来るのだろう。
「着いて来い。見せたいものがある」
狼さんは私にそう言うと、返答すら待たず歩き始める。
最初はその背中をただ眺めていたのだが、ここに一人で残っても仕方がない。気付くと私はその背中をゆっくりと追いかけ始めていた。
辿り着いた先は、薬草園の崖下。赤黒い何かが付着した木が見えるので、きっと私が転がり落ちた場所なのだろう。……だが、何と言えばいいのだろう。
不気味なのだが、どこかそういうのとは違う。上手く、言葉で言い表す事が出来ないのだが、はっきりとそこに足を踏み入れる事を私は無意識に拒絶していた。
「あの……ここってなんなんですか?」
崖上の薬草園はあんなにも生命力で満ち溢れていた。
だが、ここはそんな物は欠片もない。まるで、森そのものが死んでいるのだ。
背筋の凍る感覚すら感じるその光景に私は気付けば身を震わせていた。
「大いなる力を操るという事はそれだけの責任がある。ここが良い例だ」
その言葉が意味する事を私はすぐに理解する。理解してしまう。
ここも昔は薬草園だったのだろう。いや、薬草園になれなかった土地なのかもしれない。
魔女が何らかの知識でもってこの薬草園を創り、その失敗としてこの場所がある。
だが、そんな物を見せられたら余計に足踏みをしてしまうではないか。
魔女が相手をするのは自然なら、香料士が相手をするのは人間。
一人の人間の運命を左右する。その重さ。その結末の一つを突き付けられているのだ。
けれども、そんな私とは裏腹に狼さんはこう続けた。
「ここを創ったのは確かにアイツの祖母だ。だが、同時に崖上の薬草園を手掛けていたのも同じ人間だ。それがどういう事を意味しているか分かるか?」
「どんな人間も失敗するって、そう言いたいんですか……」
失敗を恐れていては、前に進む事は出来ない。
確かに狼さんの言葉は否定しようがない程に、正しい。正し過ぎる。
硬貨を投げなければ、表が出るか。裏が出るかは分からない。
最初の一歩を踏み出さなければ何も変わらない。ただ、続いて行くだけだ。
「あぁ、そうだ。そして、失敗の原因は大抵が自分を見誤る事だ。己が器を計れず、力量の届かぬ筈の事を行い、取り返しのつかない失敗をする。そして、何も学ばない」
同じ失敗を繰り返し続けると言いたいのだろうか。
でも、それでは私がアロマを創ろうとしている事も、己が器を計り違えてる。
私にはそれ程の才能はないし、知識も技術も持ち合わせていない。
「特に天才という輩はなまじ才能があるだけにそこを見失う。まぁ、中には怪物染みた奴もいるがな。だが、お前は違うのではないか?」
そう言うと、狼さんは振り返り、私を見据えてこう続けた。
「お前は己が器を知り苦しんでいるが、そこで足を止める事なく前に進もうとしている。後は殻を割る。それだけの話ではないかな?」
「そんな簡単な話じゃないですよ! 私が、この場所のように失敗をしない保証はない。そんな確証すら持てない事をどうして出来るっていうんですか!」
「だからだよ。お前が恐れているのは、自分が失敗する事じゃないからだ」
狼さんの言葉に私はハッとする。
「お前が怖いのは自分の失敗じゃない。あの娘の事だろう?」
何も言えなかった。そうなのだ。
私が恐れていたのはアロマを創って失敗する事ではない。
間違ったアロマを創り、エリナさんを壊してしまうのではないかという事なのだ。
人の心に作用する。その効用故に。
「だからこそ、お前は最善を尽くそうとしている。自分一人では未熟である事も分かっているからな。そこまで言えば、分かるだろう?」
そう、狼さんは暗に誰かを頼れと言っているのだ。
自分一人で解決しないのならば、誰かに頼っても問題はない。
今はまだ未熟なのだから。まだ、一人で殻を割る事も出来ない。幼い雛鳥なのだから。
何より、お前には頼れる人間が大勢いるのだからと。
「確かにそれを愚かという人間もいる。恥と感じる者もだ。だが、何事も経験だ。失敗を恐れていては前には進めん。お前は開拓者ではない。そこまで肩を張る必要もなかろう」
そう、私は先駆者ではない。私の他にも優秀な香料士は山ほどいる。
何もない所から。無から有を作り出す。そんな途方もない作業をする必要はないのだ。
その言葉に胸のつかえが取れると同時に、ある疑問が浮かび上がってくる。
そして、私はその言葉を素直に口にした。
「どうして、狼さんは私をそこまで気にかけてくれるんですか?」
私と狼さんの関係などエリナさんとの関係に比べたら、塵にも等しい。
それなのに、どうして狼さんは私にそれ程の言葉をかけてくれるのだろうか。
分からなかった。狼さんの真意が。何を私に見ているのか。
そんな私の言葉に、狼さんはどこか恥ずかしそうに呟いた。
「似ていたからな。今のお前が、まだ未熟だった頃のあの娘の祖母に。アイツも、今のお前と同じように悩み、先代にそう言われていたのを思い出しただけだ」
どこか恥ずかしそうに。どこか昔を懐かしむように。
狼さんは枯れた木々の合間から見える空を見上げながら、こう続ける。
「それに私は最初から言っていたぞ。お前のやり方で構わないと。お前があの娘に真摯に向かい合い、彼女を救いたいとそう思っていてくれるならな」
そう言えば、そんな事を言っていた気がする。
方法は私に任せる。まさか、その言葉にそんな含みがあるとは思ってもみなかったが。
それに、ジークも言っていた。何か、困った事があれば力を貸すと。
全部、一人で解決しなければならないと思い込んでいた。
それが、自立していく事だと思い違いをしていた。他人を頼る事は間違いだと。
「あの、お願いがあるんですけど、良いですか?」
「分かっている。案内しよう。着いて来い」
狼さんは私の問いの答えを待たずとも、分かると歩き始める。
私もその後に続き、まだ明るい昼下がりの森を走り出すのだった。
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