第四話
ドカっという何かに頭をぶつける感覚で目を覚ました。
きっと、寝惚けたまま立ち上がっていつも通りの道筋で顔を洗いに行ったのだろう。
「何かすごい音が聞こえたけど……おでこ、大丈夫?」
おでこを押さえて蹲る私の姿にエリナさんが笑いを堪えながらもそう尋ねてくる。
精神的には辛いものがあるが、肉体的には何の問題もない。ちょっと、驚いて泣いてしまっただけだ。恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。
「も、問題ありません。ちょっと、寝起きでうつらうつらしながら顔を洗おうと……」
「そう。なら、いいけど。もう少し、寝ててもいいわよ? 朝食までまだ時間あるから」
前に来た時は病人でずっとベッドの上で眠っていたが今は違う。
いつも通りなら顔を洗ってジュリアおばさんの手伝いなのだが、どうしよう。目が覚めてしまったから再び寝るという選択肢はないのだけれど、することもない。
朝食のお手伝いをしようとも考えたのだが、勝手がわからない人間だと邪魔になる。
あれ、これでは役立たずではないか。どうしよう。何かを手伝わなければ!
そんな風に忙しく悩む私に対し、エリナさんは微笑むとこう提案した。
「そうね。ちょっと、お茶用の薬草が足りないから採ってきて貰えるかしら? あの狼が教えてくれると思うからすぐに分かると思うけど」
「薬草園ですか。ちょっと、見て回りたかったんです!」
前回来た時は殆んど薬草園を見て回る機会がなかった。
だからこそ、狼さんと一緒に薬草園を回るのはいい機会とも言える。今度は追いかけられて逃げ回る必要もないのでじっくりと見て回れるからだ。
「すぐに支度するので待ってて下さい!」
大慌てで着替え始める私の様子にエリナさんはクスクスと笑って見せるも、その目はどこか思い詰めているようにも感じられる。
隠そうとしているのだろうが、やっぱり様子がおかしい。
狼さんと話が出来る。その事が関係あるのだろうか? 詳しくはわからないけど。
着替え終わるとそそくさと小屋を出る。すると、朝焼けと静まり返った森が私を出迎えてくれた。こういう光景は懐かしい。師匠と旅して以来かもしれない。
「綺麗ですね。幻想的で、とっても心が落ち着きます」
「そうね。私もここから見る世界はとても美しいと思うわ」
「はい! 世界はとても広くて沢山のキラキラしたモノが溢れていますから」
そんな小さなキラキラが世界を色付ける。鮮やかにしてくれる。
だからこそ、世界はこんなにも美しい。幸せに満ち溢れている。
私が初めて空を見上げた時、そんな事を誰かが口にしていたのをはっきりと覚えている。それが誰だったかもう覚えていないのだが。
「そう、ね。私は朝食の準備があるから、あとはよろしくね」
エリナさんはそうやって狼さんに私の事をお願いすると小屋の中に帰ってしまう。
その後ろ姿はまるで何かから逃げているようにも見えてしまい、不味い事を言ってしまったのかと心配になってしまう。私の言葉がエリナさんを傷つけたのではないか、と。
だが、そんな私に対し狼さんは少しだけ楽しそうに笑っていた。
「何がおかしいんですか! エリナさんを傷付けたんじゃないかって心配しているだけじゃないですか。何も笑うようなところはありませんよ」
「笑ってなんかいない。ただ、お前らしいと思っただけだよ」
何が言いたいのか良く分からないが、悪い気分はしない。
私らしい。殆んど、関わりのない相手からそんな事を言われるとは思わなかった。
その自分らしさとやらが何なのか、私自身にはまだ分からない。もしかしたら、それを私らしいと勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。
「着いて来い。薬草がどこに植えられているか教えてやる」
狼さんは私にそう告げると一人で先に歩き始める。
色々と考え込んでいた私は隣に狼さんがいない事に気付くと、大急ぎでそのとても大きく力強い背中を追いかけた。駆け足で。
小屋から離れ、前回迷い込んだ薬草園へと足を踏み入れる。
朝露の輝く薬草。肥料の香り。湿った土の香り。
その光景に目を奪われ、思わず立ち止まってしまう。それ程までにその薬草園は素晴らしかった。エリナさんの想いに満ち溢れていた。
「図鑑でしか見た事がない薬草ばかり……。これなんて、まだ野生種だけなのに……。こっちなんて、図鑑に載ってたのと違う色の実。効能が違ったりするのかな?」
これだけの物を作り上げるには並大抵の力では不可能だ。そこには強固なる意志がいる。
それがなければ、きっと道半ばで諦めてしまうからだ。
目にすれば分かる。これがエリナさんにとって宝物である事くらい。
でも、なんだろう。それがどこか歪で何かが欠けている。
何が欠けているのか、薬草園に詳しくない私には見当もつかない。領主様の庭園に比べても遜色ない。むしろ、その見事さだけで言うなら勝っていると言える。
けれども、やはり私はジークの働く庭園に比べて、総合的に勝っていると思えない。
素人の勘違いなのかもしれないが、私は素直にそう感じた。
「もしも、庭園関係に詳しい人が見れば何が足らないのか分かるのかな?」
頭にジークの顔が浮かぶもののすぐさまそれを振り払った。
ジークにはジークの仕事があり、これは私の仕事だ。巻き込むのは迷惑だろう。
それに、最初から他人の手を借りるのは違う。最後まで頑張ってそれでもダメだったなら、その時に頼る。最後の手段。それが正しい在り方だと私は思う。
一応、その事を気に留めて置こうと簡単に感じた事をメモすると見えなくなった狼さんを探す為、一人薬草園をブラブラと探索し始める。
どれ程の広さなのかも全く見当もつかないままの散歩。
当てもなくただブラブラと辺りを見回しながら歩いていると、昨日森に入った時と同じように辺り一面が急に霧に包まれ始める。
何かの囁く声。いくつもの気配。目の前を通り過ぎる影。
それらにビクビクしながら、それでも私は足を止めずに進んでいると次第に霧が晴れていき、目の前には小さな花畑が広がっていた。
先程までいた場所と違い、森の切れ目。日の光が当たる広場のような場所だ。
そこには色鮮やかな花々とその香りに誘われて羽ばたく蝶。まだ、朝は早い。日が高くなっている筈はないのだが、温かい光に包まれている。
そんな幻想的な光景にまるで、夏夜の灯りに導かれる虫のように誘われるが如く、ふらふらと足を踏み入れるのだがなんだろう。とても、温かい。
先程までの薬草園と打って変わり、何かを私の心に訴えかけてくるような。そんな何かがこの場所には確かに存在していた。
「綺麗な場所。でも、ここっていったい?」
不思議な場所なのだが、現実感がない。まるで自分が現実からかけ離れ、女神様のお膝元にでも迷い込んでしまったようにも思えてしまう。
何より、ここに咲いている花はどれも見た事も聞いた事もない花々ばかり。
どこか、不気味さも感じているのだが、それ以上にほんのりとした温もりがあった。
私はどこからか湧き上がって来た申し訳なさを抱きながらも、その花畑の中央へと向かっていく。一面に咲き誇る花を踏まないように気を付けながら。
そして、花畑の中央に辿り着くとそこには一つの石の碑があった。
「掠れて読めないけど……もしかして、誰かのお墓なのかな?」
何が刻まれていたのか。それが気になってしまい、その掠れた文字に指を走らせるのだが、やっぱりそこにあった文字は分からない。
わずかに残っている文字が独特な視た事もない形状をしているのもあるのだろうが、それ以上にこの石自体が随分と古い物という事もあるのだろう。
近付くまでは気付かなかったが苔生しており、蔦も絡まっている。
しかし、その石の周りには雑草が生えておらず、綺麗に土が均されていた。きっと、エリナさんがここに頻繁に足を運んでいる証拠なのだと思う。
他にここにわざわざ足を運ぶ人間に心当たりはないし……。
「そうなると、やっぱりここはエリナさんの近親者のお墓なのかな?」
そう私が呟くと、その言葉に答えるかのように胸ポケットにとまっていた白銀の蝶が羽ばたき始める。それはまるで、私をどこかへ連れて行こうとしているようで。
お墓の周りをくるくると何週もすると、白銀の蝶は花畑の方へと飛んでいく。
前回の二の舞になる訳にはいかない。その想いから走り出そうとするのだが、目の前に突如広がった光景に思わず足を止めてしまう。
「もしかして、これが君の本来の使われ方なの?」
そんな言葉が漏れてしまう程に。目の前に現れた光景は信じられなかった。
白銀の蝶から舞い落ちる鱗粉が形をなして一つの光景を作り上げる。年老いた老婆と自分程の年齢の少女。どこにでもある。家族。
泣き喚く少女を老婆が優しく抱き締めている光景。音もなく、言葉もない。
だが、それがどのような意味を成しているのか、何故だろう。目の前にいる少女の悲痛さが伝わって来て、私の胸を酷く締め付ける。まるで、そこにいるのが私のように。
痛いとか、辛いとか。そんな単純な言葉では表せない。
「捨てられた、か。確かに、単純なように見えて凄く複雑な問題だよね。そう簡単に人に話せるような事でもないし、思い出したくもないだろうから……」
そこにいるべき人間がいない。母親がいない。
きっと、少女は母親に捨てられたのだろう。どうして、捨てられたのか。一体、そこで何があったかまでは私には理解する事は出来ないし、きっとそれを人伝に聞いた所で少女の気持ちを理解する事なんて出来ないだろう。
でも、この出来事を知る事がきっと今回の仕事に於いて何か意味のある事。
あそこで泣いていた少女は――。きっと今もずっと時間が止まったままなのだろう。
一人でいる辛さは良く知っている。でも、この伝わってくる感情はそんな物より、苦しい。嗚咽で息が出来ない。涙が止まらない。地面にぽたぽたと滴が零れる。
そんな私の身体を温かいモノが包み込む。どこか、懐かしさを感じる温もり。
目には見えない何かがそこにはいて。ずっと、苦しんでいる。そう、苦しんでいるのは
それは紛れもなく、少女が愛されていた証拠であり、彼女の幸せを願っている事の証明。今だって、少女は一人なんかじゃない。その胸の中にはきっと温かいものがある。
この目の前に広がる光景が幻なのか。現実に起こった事なのか。分からない。
でも、何か意味があるからこそ。この子はこの光景を私に見せてようとした。
だから、聞かなければならない。狼さんに昔、ここで何があったのか。
それを聞いて噛み砕いて、飲み干して。その先に見えた何かを。いいや、道標となってこの今伝わって来た思いを。願いを彼女に伝えるのが私のするべき事。
まだ、香料士がなんなのか。その答えには辿りつけないけど、この先に何かある気がする。この依頼を熟した先でその何かを掴める気がする。
「だって、それが香料士だって私は信じていたいから」
マリンさんの想いを知っている。でも、私はやっぱり諦めきれない。
「だって、こんな悲しい擦れ違いは間違っていると思うから」
私の言葉にまるで頷くかのように上下に大きく羽ばたきながら、白銀の蝶は私へと近付いて来ると元合った位置にとまり動かなくなる。
きっと、いまする事が出来る役割を終えたという事なのだろう。
本当に分からない事だらけだ。この蝶の事も。香料士についても。
でも、私の思いが通じたからこそこの蝶も私の力になろうとしてくれている。なら、私も全力であの少女に向き合わなければならないだろう。
あの少女。今もこの森の中で時を止めているエリナさんに。
問題は何をどうすればいいのか、全く見当もついていないという事なのだが。
「あっ、そう言えば元の場所ってどう戻れば辿りつけるんだろう?」
歩き回ってこの場所に辿り着いたのはいいがこの薬草園がどの程度の広さなのか。
それによっては元の小屋に帰るのも一苦労である。あれ、私ってもしかして迷子?
確か、迷子になったらその場を動かずに迎えを……。って、その場がどこかも分からないじゃない! ど、どうしよう。私ってもしかして、凄く不味い状況じゃないのかな?
今更になって、散歩感覚で歩き回ってしまった事を後悔する。
このままだと頼まれたお仕事すらろくにこなせない。そう考えると、次第に顔が真っ青に染まってしまう。非常に不味い事態だ。どうにかしなければ。
こういう時に頼りになるのは……匂いを辿る蝶! そう、この蝶を使えば。
そう考えるのだが、蝶は全く反応しない。知らんぷりだ。
良く考えれば、匂いを覚えてすらいないものを追える筈もないのだが、今の私にはそんな事に気付く余裕はない。ただ、使えないという事実に打ちひしがれるだけだ。
「やれやれ、はぐれたと思って探しに来たら一体何をやっているんだ?」
本来なら救いの手。その筈なのだが、今この時に限っては恥かしい限りだ。
苔生した岩の前で両手を地面に付き、項垂れている様子など顔から火が出てしまう。
死んでしまいたい。消えてなくなってしまいたい。
「何も見なかった事にして下さい。そう、ここでは何も見なかった。いいですね?」
「あ、あぁ。わ、わかった。わかったから、その顔は止めてくれ。生きた心地がしない」
そんなにおっかない顔をしていただろうか。私はスカートについてしまった土汚れを叩いておとすと、立ち上がって狼さんの方へと近付いて行こうとする。
その瞬間、背後に誰か立っている感覚を受ける。じっと私を見詰めている。
憎悪や怒りのような感情ではない。何かこう。言葉では言い表せない複雑な感情。そんな色々と絡み合った何かを胸に抱いているような……。
私は思い切って振り返ってみるのだが、そこには何もいない。ただ、岩があるだけだ。
「気、気のせいかな? ナニかそこにいた気がするんだけど……」
「そうか。アイツもまたここに縛られ続けているんだな。あの娘と同じように」
「えっ? もしかして、それって私の気のせいじゃないって事ですかね?」
でも、そこには何も見えないわけで。という事は、もしかして幽霊? いやいや、幽霊なんて存在する訳が……。いや、そんな訳があるのかも知れない。
そのナニかが何かを白銀の蝶を経由して伝えようとした。
胸に秘めた想いを伝える為に。もしかして、そういう事なのだろうか?
「あぁ、ここはそういう場所だからな。そういう思念が残っていてもおかしくはない。いや、こういう場所だからなのかもしれないがな」
結局、私には何も語ってはくれないのか。全部、有耶無耶にごまかされてばかりだ。
これでは何を私に期待しているのか分からない。狼さんは私に何をして欲しいのか。
「狼さん、あの苔生した岩に刻まれていた文字ってなんなんですか? 削れてて分からなかったんですけど、あれって人の名前、ですよね?」
私の問いに狼さんは目を逸らし、少しだけ考え込む素振りをする。
しかし、最終的には決心したのかその苔生したお墓に目を向けるとこう呟いた。
「先代の魔女。あの娘の祖母だ。誰よりも魔女らしくこの薬草園を切り盛りしていた。私の目から見ても、才能に溢れた魔女だったよ。だからこそ、人の母親にはなれなかったが」
ぼそりと狼さんの口から洩れた――『母親にはなれなかった』という言葉について私は深くは聞かなかった。いや、聞けなかったというべきかもしれない。
先程の光景。何かを私に伝えようとしていた事。それらを踏まえれば、聞かなくても理解してしまう。もしかしたら、間違っているのかも知れないが。
思った以上に問題は複雑なのかもしれない。いや、根底は単純だったのだが、それが幾重にも絡み合い複雑になってしまった。時間が複雑にしてしまった。
ただ、次の言葉を私は紡ぐ事が出来なかった。
「エリナさんのお母さんはどこにいったのか」
恐らく、これが全ての鍵。色々な問題の中心だと思う。
でも、聞けなかった。もしかしたら、怖かったのかも知れない。それを知ってしまって、その次に何をすればいいのか。その先が見えないのではないかと。
だから、私は逃げるようにこう口にしていた。
「そ、そうだ。時間も時間ですし、早く薬草を摘んで帰らないと心配してますよね」
私はそう告げると、狼さんを引っ張るようにその場を後にしていた。
色々と胸の中に複雑な想いを抱きながら。
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