第三話

 再び、足を運んだ不帰の森はあの時とは全く違って私の瞳に映る。

 あの時は何も感じなかったのだが、森に入ろうとした瞬間、まるで森が私を拒絶したように感じたのだ。その上、何かにジッと見つめられているような不思議な感覚。

 何より、辺りは霧に包まれてしまい、手元が見えなくなってしまっている。

 私が白銀の蝶を追いかけて森に入った時にはこのような事はなかったのに……。

「安心しろ。妖精も流石に私の客人に対して無礼な態度を取るような事はない」

「妖精? あぁ、狼さんの御同類さんですか。って、事は――」

 狼の御同類。つまり、この視線は全て狼と言う事になる。あれ、不味いんじゃない?

 そんな事を考えていると、狼さんは左頬をピクピクと動かした。

「あ奴らと私を一緒にするでない。惑わし、好き勝手生きておる妖精と森の厳格なる守護者たる精霊とでは格が違う。だから、気を付けろ。油断すると惑わされるぞ」

「そ、そうなんですか。難しい事は良く分からないですけど、危ない存在って事ですね」

 狼さんの話から察するにこの森が不帰の森と呼ばれているのはアレが原因なのだろう。

 人を惑わせる存在。前に森に入った時に無事だったのはきっと、白銀の蝶の導きがあったから。そう思うと、少しだけ背筋が凍ってしまう。

 もしも、あの時に白銀の鱗粉を見失ってしまっていたらどうなっていたのか。

「私に着いて来れば問題ない。それから、怯えていると奴らは調子付くぞ」

 霧の中で微かに見える狼の影を頼りに進んでいくのだが、背後で誰かが話しているような声が聞こえてくる。だが、振り返ってもそこには何もいない。声が止む。

 けれども、狼の影へと目をやるとまた、何かの声が耳元で囁くように聞こえてくる。

 薄気味悪さに顔を青白くしながら、狼に着いて行くと霧が晴れていく。

 そして、目の前に広がったのは一度来た薬草園と私が滞在していた小さな小屋だった。

「あれ、私が森を出た時はもっと遠回りだった気がしたんですけど……」

「当たり前だ。この道は妖精が多過ぎて迷わされる。危ないからあの娘にも使うなと言いつけているからな。一生、霧の中で迷い続けるなんて御免だろう?」

「あはははは。確かにソレは嫌ですね」

 狼とそんな話をしながら小屋の方へと行くと、その中から懐かしい顔が出て来る。

 エリナさんだ。ただ、何故だろう。凄く、睨まれているように感じる。

「どなたか存じませんが、早くこの森から立ち去りなさい。ここは貴方のような人間が来て良い場所ではありません」

 あの時の優しい雰囲気とは違い、明らかに敵意が剥き出しになっている。

 何かしてしまったのだろうか。そう思い、何と返事をするべきか悩んでいると、前を歩いていた狼が呆れたような溜息を吐きながら、こう返答した。

「私の客だ。それに、お前も知らない人間ではないだろう」

「えっ? あぁ、ティナさんでしたか。すいません、近頃は物騒ですから……」

 狼さんの言葉に驚いたように口元を隠すと顔を真っ赤にしてエリナさんは私に対して頭を下げて来る。なんだろう。その様子に凄く、申し訳ない気分になってしまう。

「今、お茶でも入れます……。ん? 私の客? 今、私の客って言いましたよね?」

 やっぱり、こういう反応になりますよね。普通は。

 そもそも、常識の域で考えるなら狼と話が出来るなんて正気とは思えない。だから、例え出来たとしても普通ならば出来ないように装うのが当たり前の筈なのだ。

 私だって狼さんが最初に話しかけて来た時は驚いたモノである。自分の正気を疑った程だ。しかし、それが現実なのだから受け入れる他ないだろう。

「そうですか。ところで、怪我・・はありませんか? その……」

「前に怪我した所なら、頂いた薬で治っちゃいましたよ。お蔭で仕事も無事に終わりましたし、本当に何とお礼を申し上げればいいか。本当にありがとうございまし――」

「そういう事を聞いてるんじゃないの! その、とか」

 手元に持っていた薬草を地面に落とすと私の下に駆け寄り、私の身体を調べ始める。

 何がなんだか分からない。周りの態度がそれとどう関係して来るのか。

 レナさんも、マリンさんも、ジュリアおばさんもいつもと同じだし、ついでにジークもいつも通りのうるさいだけで何も変わりなかったと思う。うん、確かにそうだった。

「みんないい人だから。私にとって大切な人達――若干一名は違うけど」

「そう。それならいいの。本当にその言葉が事実なら……」

 私の言葉に疑いの目を向けながらも、そっと離れると地面に落ちた薬草をかき集める。そして、エリナさんは一人、また小屋の中へと入って行ってしまう。

「あの、私ってもしかして不味い事しちゃいましたかね?」

 エリナさんは私の言葉を信用していなかったように感じたからだ。

 私としては事実をただ事実として伝えただけなのだが、どうして嘘だと思われたのだろう。会った事は無いにしろ、そんなに私って信用ないのだろうか?

 それに去り際の背中はとても淋しそうに見えた。上手く言葉には表せないけど。

「いいや。お前が悪い訳ではない。ただ、魔女の性とでも言うのだろうな。魔女の歴史は迫害の歴史だ。だからこそ、重ねてしまったのだろう」

「あの……私って魔女じゃないって何度言えば……」

 私は苦笑いを浮かべつつも、狼さんの言葉を何度も思い返していた。

 魔女の性。迫害の歴史。重ねたという言葉。

 私にはまだそれらがどういう事なのか、理解出来る程に優秀な人間ではない。だが、それがエリナさんにとっても狼さんにとっても重要な単語である事だけは理解出来た。

「そうだったな。確かにお前は魔女らしからぬ魔女だ。本当に不思議な奴だよ」

「何を納得されたのか知りませんけど、それって絶対にいい意味じゃありませんよね?」

 確かに狼と話せるなんて不思議認定されてもおかしくはないのかも知れないが、その当の狼に不思議認定されるのはどうも腑に落ちない。

 ただ、これ以上は話をしたところで平行線を辿るだけだろうし、言っても無意味なのだろう。きっと、時間だけが無意味に浪費されていくはずだ。

 ならば、今は私にとってできる事を最大限にする方がきっと効率的。

「どうぞ、上がって下さい。今日はもう遅いですし、何かをするなら夜が明けてからと言う事にして。――ただ、大した物はお出しできませんが」

 気付けば木々の隙間から微かに見える空は夜の闇に辺りは包まれていた。もしも、灯りもなしにこんな場所で迷子になれば戻って来れるかどうか。

 これは薬草園の探索は明日ということになりそうだ。

 暖かい灯りが点された小屋の中はベッドの上で養成していた時とは違い、どこか年若い女性の暮らしている場所にしては物寂しさを感じさせる。

 前は見えなかったから気付かなかったのだろうが、最低限の生活雑貨しかないのだ。

 目立つのは古い羊皮紙や日焼けした本の山。手に取ってみれば、どれも植物に関するものばかり。調合、育成なのだろう。私にも読めない言語で記されている。

 普通ならば仕事熱心なのだろう。その一言で済むのだが、エリナさんの話していた夢。想い。それらを踏まえてみると、この光景はやはり不自然に思えてしまうのだ。

 彼女は歌を歌うのが好きだったと語っていた。その言葉に嘘はなかったと思う。

 なら、それは簡単に諦める事が出来るものなのだろうか? それが当然の流れと言われてしまえば、それまでだ。でも、それにしては何も残っていなさ過ぎではないだろうか?

「ごめんなさいね。最近、ちょっと薬草園の方でうまく行かないことがあって調べ物をしてたから……。すぐに片づけるわ」

「あっ、手伝います。急に押しかけちゃったのは私の方ですし、ちょっと興味もあったり」

 先程、ちらりと流し見した限りでも私の知らない多くの薬草について記されていた。

 もしかしたら、私の求めている答えに繋がる何か手がかりがあるかもしれない。

 そんな淡い期待を持つと同時にこの古い英知達とエリナさんの接し方が少し気になってしまう。うまく言葉では表せないが、なんだろう。私を避けているのだろうか?

「大丈夫よ。いつも私一人でやっていることだから」

 そう言って私の手の中にあった本を受け取るとそそくさとどこかへ片づけてしまう。

 手には先程まで持っていた日焼けした本の感触がまだ残っていた。

「狼さん、さっきの本ってもしかして魔女の英知ってやつだったりします?」

 私は本に書かれていた内容を思い返しながら、じっと右手を見つめる。

「あぁ、前のこの小屋の主、そのまた前。脈々と続くその血族が集めた知識なのだから、英知とも言うのだろうな。そして、今はあの娘の手の中にある」

 そんな狼さんの言葉に私はしゃがみ込むと狼の両頬に手を添えた。

 魔女の英知。それを私に見られるのを拒んだとしたら何故なのか。

 狼と話せる事。その事を知って、あそこまで動揺を露わにしたのは何故なのか。

「狼さん、私に何か隠し事してませんか? とても、大事な事で」

「今、話せることは全て話している。困らせるために真実を隠すつもりはない」

 真っ直ぐに私を見つめる狼の瞳はとても綺麗な色をしていた。

 嘘はついていない。だが、話していない事があるのも事実なのだろう。

 私にも話せない事はある。だからこそ、それが何なのか。関係があるのかを見極めつつ、仕事としてエリナさんに私が何をできるのかを考えよう。

 それが今の私に出来る精一杯の筈なのだ。

「わかりました。今はそういう事にしておきましょう」

 きっと、話さないのもエリナさんの事を思ってなのだろう。

 だって、ずっと一人でエリナさんを見守ってきたのだ。彼女の事を想っていない筈がない。だから、私は何も語ろうとしない狼さんを信じることにした。

「でも、話せる時が来たら話して下さいよ。仲間外れは寂しいですからね」

「あぁ……彼女が重く錆びついた口を開いた時にな」

 簡単な食事が済み、用意された寝床へと案内される。

 菜種油を用いているのであろう。あたたかい灯りを頼りに私は手帳を取り出すと、今の状況をまずは一つずつ整理し始める。

 エリナさんの事。私に出来る事。私には出来ない事。

 箇条書きではあるが、エリナさんの事に関してはそれなりに羽ペンが進んでいく。

 何かを隠している事。魔女について。不審な態度。

 それに比べ、私に出来る事というのがここまで来ても見当がつかない。

 私はエリナさんの抱えている問題に対して力になってあげたい。その思いに嘘はない。

 でも、それを本人が望んでいないのにする事に何か意味があるのだろうか?

 それは酷く独善的で傲慢な行いではないのだろうか。本当に分からない事だらけだ。狼さんが私に何を望んでいるのか。香料士として私はやっていけるのか。

「望まない幸せ。他人から与えられる幸せ、か。難しい問題だよね」

 エリナさんが求めている物。狼さんがエリナさんに望んでいる物。

 それはきっと、同じようで同じじゃなくて。うまく言葉では言い表せないけど、そう簡単に一言でまとめられるようなものなんかじゃないんだと思う。

 だから、考えてしまう。外野でしかない私に出来る事とはなんなのか。

 私はきっと師匠に与えられた人間。だから、こんな事を言う資格はないかもしれない。

 否定はしない。でも、やっぱり殻に閉じ籠っているのは間違いなのだと思う。

 それが彼女の出した結論で固い意思なのだとしたら、私はそれを否定するのだろう。

「変わろうとすれば、人はどこまでも変われる。なんだって出来る」

 私自身がそう信じている。師匠に助けられて変われたと思う。

 この世は優しさに満ち溢れている。私はそう信じていたい。それを証明したい。

「『汝、香料士なれどいまだ香料士に在らず』か。私の歩む道は甘い幻想なのかな」

 狼さんには出来ることをやってみる。そう私はこの口で誓った。

 けれど、エリナさんに再び会って実感した。彼女の抱えている闇の深さを。

 直視した訳ではない。それがまだ何なのかすらわからない。でも、なんとなく勘付いた。

 あの目を私は知っているから。あの目は怯えた目。他人を信用出来なくなった人の目。

 エリナさんは根は優しい人だ。そんな何かに怯えながらも私に気をかけてくれる。

「今日は寝よう。そうして、明日になったらもう一度考えよう」

 時間が傷を癒すとは思えない。何故なら、そこに必要なのは本人の思い。

 だからこそ、考えてみよう。話してみよう。色々と。

 私はそう決意すると灯りを消し、寝床へと入るのだった。

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