第二話

 七つ日を跨いでも一向に作業は始まってすらいなかった。

 理由は明白。分からないのだ。アロマの作成方法が。

 根本的な製法はコロンとは変わらない。だが、肝心の何を使えばいいのかが分からない。

 香料にしても多くの種類がある。配合を間違えればそれだけで大問題。それだけに不用意にどれを調合すればいいのか試す事すら出来ないのだ。

 言ってしまえば、この最近はずっと本を読んで無駄に時間を潰していただけである。

「本当、どうすればいいんだろう。何から手を付ければいいかすら分からないなんて……」

 資金もない。だから、香料を無駄にする事すら出来ない。

 完全に手詰まりと言った所である。やはり、無理だったのだろうか。

 まだ、香料士として認められて一月程だ。だから、仕方ない。仕方ないのだろうか。

 でも、ここで諦めてしまえばまた同じような場面に出会った時にきっと諦めてしまう。だから、何としてもアロマ作りを成し遂げたいのだ。

 その為に香料士になったのにここで作らない事を選んでどうする。

 そう思いながら再び香料に関する本を読み込もうとするのだが、やはり座学は苦手。

 こうして見ているだけで頭が痛い。気付くとうとうとしてしまっている。

「あぁ、やばい……。外の井戸で水汲んで顔洗ってこよう……」

 顔をあげると、窓の外はしとしとと雨が降っていた。

 水を汲みに行けば、服が濡れる。だが、酒場へ帰るにも少し雨が降り過ぎだ。

 今日はこの辺りにして雨が少し収まるまで待つ。夕暮れになっても収まらないようなら仕方がない。雨の中を濡れて帰るとしよう。

 私は大きく背伸びをして、読んでいた香料の書物を閉じる。そして、元あった本棚の場所へと戻すと最近始めた薬草のお茶を入れて椅子に深く腰かけた。

 流石にあの森で飲んだ物とまではいかないが、なかなか様になって来たと思う。

 人に出せるようなレベルではないのだが……。今度、ジークで実験でもしてみようかな?

 気持ちを落ち着ける効果もあるみたいだし、アイツにはぴったりかもしれない。

 そんな事を考えながらゆったりとした時間を過ごしていると、泥道を誰かがこちらへ向かって歩いてい来るような足音が聞こえてくる。

 この辺りは民家はない。それにこの雨だ。畑の様子を見に行くにしてもおかしい。

 何かあったのだろうか? キャラバン? いや、時期が早過ぎる。

 その足音はアトリエの近くで立ち止まる。その数秒後、誰かがアトリエの扉を叩いた。

 思わずその音に驚いてしまうが、ら、来客なのだろうか? この雨の中。

 しかも、時刻は既に夕刻。辺りも段々と暗くなり始めている。

 私はその不思議な来客に首を傾げながら、ランプに火を灯すとそっと扉を開けた。

 扉を開けた先には雨がしとしとと降り続けているだけ。緑の独特の香りが鼻孔を擽り、泥の匂いが鼻いっぱいに広がる。

 しかし、肝心の来客の姿は見えない。暗くなりつつある外を灯りで照らして確認するのだが、やはりいくら確かめても人の姿らしきものはない。

 ただ、アトリエへと続く道にしっかりと小さな足跡があるだけだ。

「あぁ、もしかして野生の動物でも迷い込んだのかな? この足跡だと四足歩行だし、きっと狐ね。それじゃ、私もそろそろアトリエを閉めるとしようかな?」

 雨は弱まっていないが時間も時間だ。そろそろ頃合いだろう。

 そう思って鍵を閉める為にもう一度戸締りと火の回りを確認しようとするのだが、自分の足もと辺りに何かがいるような気がする。そう、何かが。

 そして、それを視てはいけない気がする。絶対に。

「やれやれ……あの足跡を見て狐と言うあたり、まだまだ未熟と言う訳か」

 その気配がある方から声が聞こえてくる。とても偉い人のような重い言葉遣いだ。

 私は恐る恐る視線を声のする方へと下げていく。

 すると、そこには一匹の毛並みの良い狼がいた。そう、狼が……。

「また会ったな。とは言っても、直接話をするのは今回が初めてだが」

 なんだろう。まるで、狼が私に話しかけて来ているかのようではないか。

 いやいや、有り得ない。有り得ない。私はいつから、狼の言葉を理解出来るようになったのだ。きっと、空耳。幻聴。聞き間違えに違いない。

 ここ数日、色々と考えを煮詰めていただけにきっと疲れているのだ。もしかしたら、さっき入れた薬草茶に幻覚作用でもあったのかもしれない。

 これは重傷だ。明日は一日、仕事から離れて頭をリフレ、ッシュ……って、今――私、なんて言ったっけ? 狼と話をした? 狼?

 その事実に漸く気が付くと、顔が一瞬で凍り付く。

 どうして、森の狼がこんな村外れまで姿を現したのだろう? 森で何かあったから? いや、そんな事はどうでもいい。こういう時、どうすればいいんだっけ?

 つい一月前に狼に追いかけ回されているだけにどうしていいか分からず、パニックに陥ってしまう。今度はエリナさんのような助けてくれる人がいないのだ。

「え、えっと……わ、私食べても筋ばっかりで美味しくないですよ! 本当です!」

 何を考えたのか私はそう狼に叫ぶのだが、お座りをしている狼はまるで呆れ果てたかのように私から視線を一度逸らすと、大きなため息を吐いて見せた。

「少しは落ち着いたらどうだ。別に取って食ったりするつもりはない。やれやれ、最近の魔女は精霊と話をする事もろくに出来んようになってしまったのか」

「えっ、今どこかから声が聞こえてきたような……」

 とうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか?

 まるで狼が私に話しかけているように思えたのだが、誰かの悪戯だろう。悪戯の筈だ。

 そんな事があり得る筈がない。だって、どうして人間の私が狼と会話出来るというのだ。

 現実的に考えてそんな事が起こらない。それが――。

「この世界は神秘に溢れている。分からない事だらけだ。それだけの事だろう」

「いや、そんな風に割り切れるものじゃないですって。って、夢じゃないんですよね」

 頬を抓って見るが、痛みはある。夢ではないという事だ。

 ほんのりと赤く腫れ上がる頬を押さえながら、不思議な来客にどう対応していいか悩んでしまう。何せ相手は狼。何をどうするのが正しい応対なのか全く分からないからだ。

 だが、そんな事を考えている余裕はなかった。何故なら、遠くの方から誰か走って来る気配を感じ取ったからだ。こんな所を見られては大変な事になってしまう。

 狼を隠すにしても外では安全と言い難い。となると、ここはやはり中の方がいいだろう。

「そうだ。中に入りますか? 暖炉もありますし、濡れた身体を乾かせますよ?」

「気遣いは無用だ。また、雨の中を森へと戻るからな。ただ、歓迎してくれるのであれば少しばかり中で休憩させて貰おう。まだ、何も用件は済んでいないのだからな」

 狼からの用件とは一体、何なのかは分からない。何かしてしまったのだろうか?

 あるとすれば、あの不帰の森での一件なのだが、今は置いておくとしよう。

 玄関マットを暖炉の前へと運ぶとそこに座り込んだ狼の濡れた身体を近くにあった布巾で軽く乾かしていく。そして、残っていた期限切れのコロンを狼の身体に数滴落とした。

「エリナに貰ったリーン草を使って作ろうとしていたのはこの薬か。懐かしいな。お前くらいの年頃の旧友がよく付けていたよ。親友からの贈り物と言ってな」

「薬じゃないですよ。コロンって名前がありますから」

「人間は何にでも名前を付けたがるな。全ては一から始まるとしても、そうやって名称をことごとく違うものにして行けば本質を見失ってしまうと言うのに。いや、こんな説教臭い話をする為に来たのではなかった。今日はお前に込み入った頼みがあって来た次第だ」

 そう言って、狼が私に何かを切り出そうとした瞬間、扉を二度叩く音がした。

「おーい。ティナ、今少し時間いいか?」

「えっ? ちょ、ちょっと待っ、待って! 今、ふ、服着るから!」

 この声はジークだ。どうする。狼が部屋の中にいると分かると絶対に騒ぎになる。

 隠すにしても……。あぁ、仕方ない。確か、冷暗室には今何も入っていなかったからあそこなら隠れられる筈だ。後で掃除するのが大変そうだが……。

「こ、こっちです。い、急いで下さい。ぜ、絶対に物音は立てないで下さいよ」

「そんなヘマはせんよ。そこまで愚かではない」

 その言葉を一応は信用すると、扉を閉めて服を着崩しておく。

 急いで服を着たと装う為だ。ここまで用意を周到にしておけば問題ないだろう。

 きっと、ジークの事だ。絶対に気付かない――と、思っていた時期が私にもありました。

 扉を開けて私が顔を出して見せる。これなら、室内前の応対で終わる筈だ。

 そう思っていたのだが、扉の向こうにいた合羽のフードから顔を覗かせているジークは何やっているんだと言わんばかりに呆れ果てた顔をしていた。

「な、なにかあったの? 今、ちょっと忙しくて手が離せないんだけど?」

「いや、ずっと雨だろ。だから、用水路の様子を見て来いって言われたついでに来たんだが、誰か来てるのか? 玄関のマットが暖炉の前にあるようだし」

 わ、忘れていた。玄関のマットを元の位置に戻しておくことを!

 それにこの雨だ。泥に獣の足跡が残っていても不思議ではない。

「あー。ちょっと、手が離せないから。後にして貰っていい? 明日にでも」

「お前、また何か拾って来たのか? ここに来るまで獣の足跡が続いてたし……。ちゃんと、雨が止んだら野生に戻しておけよ? 他の連中に見つかったら後々怒られるぞ……」

「わ、解ってるわよ。そ、そんな事言われなくた――って、は、はめたわね!」

「いや、自分で白状しただけだろ。まぁ、いいや。それより、最近はそのどうなんだ? アトリエに篭ってるって話だけど、マリンさんからの仕事も受けてないんだろう?」

 ジークの口から出た言葉に私は思わず、俯いて目を逸らした。

 これではまるで説教をされている子供のような事は分かっている。

 だが、それに関しては私は何も言うつもりはなかった。私にだって考えはある。

 やらなければいけない事。ソレくらい。私にだって判断は着く。

「ジークには関係ない。用がそれだけなら帰ってくれる? 忙しいから」

 そう言って扉を閉めようとするのだが、ジークにその腕を掴まれてしまう。

「何? 放してくれない? 今、本当に忙しいから」

「――――分かった。今はお前の言葉を信じる事にするよ。でも、本当に困ったら頼ってくれ。俺に何が出来るか分からないけど、出来る限り力は貸すから」

 ジークが手を離すと私は無言で扉を閉めた。

 酷い態度だ。あれで心配するなって言う方が間違っている。

 そんな事は私にだって分かっているのだが、解っているのだが。それでも、あんな行動をしてしまう私はきっと本当に子供染みているのだろう。

 ジークだって善意で心配してわざわざ時間を割いて来てくれたのに。

「本当に私のやろうとしている事って間違っていないのかな」

 そんな言葉が自然と口から零れてしまう程に分からなくなってしまっていた。

 私なんかがアロマを作ろうとしているのは間違いなのではないかと。

 作ろうとする気持ちと諦めの気持ちが胸の中でぶつかり合う。

 分からない。何が正しくて、何が間違っているのか……。

 そんな事を考えていると何時の間に冷暗室から出て来たのか、狼が私の隣にいた。

「さてな。それはお前自身が決める事だ。それで、本題なのだが――」

 狼はそう告げると私の前に座り、真剣な目でこう続けた。

「エリナを過去から解放してやってくれ。あの娘はあそこにいるべき人間ではない」

「それってどういう意味ですか? 私、あの……そんな大層な事出来ませんよ」

 気が付けば、即座にそう狼に対して私は返答していた。

 確かに彼女の為にアロマを作ろうとしていたのは事実だ。だが、現実は何をどうしていいかすら分からず、半ば自分の未熟さを痛感し、諦めかけていた。

 それだけに、即座にその言葉に頷く事は出来なかった。

「それに、ほら! 私みたいな未熟な香料士よりももっと優秀な人に」

「お前でなければダメなんだ。エリナが少なからず、心を開いている人間はお前だけだからな。あの娘を救えるのはお前だけだ。だから、わざわざ私はここに来た」

 遮る形で発せられた狼の重い言葉。

 私にしか出来ない事。その言葉の真意を私は理解する事は出来ない。

 ただ、確かに狼の言おうとしている事は分かる気がしていた。

 アロマとはその心に干渉する。だからこそ、何も知らない人間に対しては作れないのだとすれば、狼が私を選ぼうとしている理由はそこにあるのだろう。

 だが、本当にその通りなのだろうか? なら、師匠はどうしてアロマを……。

「失敗しても私はお前を責めるつもりはない。これは私の勝手な思いだ。アイツを縛り続ける鎖を解き放ってやりたい。それは亡き友との約束だからな」

 まるで、ここにいない誰かに対しての言葉にも思える狼の呟きに私は言葉も出なかった。

 香料士になったのはエリナさんのような人々を助けたいと思ったから。

 でも、現実に在るのは自分の無力さ。そして、やりきれない思い。

 マリンさんに言われたあの言葉がなければ、きっと即座に受けていただろう。

『度が過ぎれば命を落とす』

 もしもエリナさんがそうなったら、きっと私は……。

「すいません。私には出来ません」

 出来ない。その責任を私は背負う事は出来ない。誰かの命を背負えるような人間じゃない。私はそんなに大層な人間でもなければ、出来た人間でもない。

 ちっぽけな。一人の小さな子供でしかないのだ。

「でも、出来る出来ないの話を抜きにするなら、やりたいです。手を差し伸べてあげたい。だけど……やるかやらないかなんて軽々しく口に出来ないから……」

 悔しさからか、気付けば涙が込み上げて来ていた。

 見殺しにするとか。そんな大げさな事ではない事は百も承知だ。

 けれども、誰かから助けを求められて何も出来ず、それを見て見ぬふりしか出来ない自分が酷く情けない。何より、悔しい。

「誰かを思って涙を流す事が出来るのはそれは本当にその者を想っている証拠だ。だからこそ、言い換えよう。あの娘を。エリナを自由にしてやってくれ。――方法は任せる」

 それはつまり、アロマに頼る必要はないと言う事。

 最終的に彼女を過去から解き放つにはアロマが必要不可欠なのだろう。

 真直ぐ進む必要はない。回り道を使っても構わない。暗にそう言っているのだろう。

「いいんでしょうか。私みたいな未熟な香料士で……」

「それはお前が決める事だ。ただ、私はお前にしか出来ないと思っている」

 私にしか出来ない事。私だけが出来る事。

 エリナさんの為に何がどう自分に出来るのか見当もつかない。

 だけど、ここでアロマの創り方を悩み続けるよりはずっと良い事だと思う。

「分かりました。何から始めればいいか解らない事だらけだけど、まずはやってみたいと思います。動き出さないと何も始まらないですから」

「良い笑顔だ。期待しているぞ。若き魔女よ」

「だから、私は香料士であって魔女じゃありませんから!」

 気が付くと、涙は止まっていた。そして、やるべき事も薄らであるが見え始めた。

 今の私に出来る事を最大限する。それが私の限界だ。

 ならば、やるべき事は一つしかない。早く準備をしなくては!

「ちょっとそこで待っていてもらえますか? 今から大至急で準備しますから。簡易の調香セットを用意して、着替えも用意しないと! あとは……えっと――」

 簡単に荷物をまとめ、書置きを残すと私はもう一度あの森へと行くためにアトリエを出た。今度は隣に森の主もいる事だし前のような事になる事はないだろう。

 そう信じたい。いや、そうでなければ困る。もう、痛いのはこりごりだ。

「じゃ、行きますか! あの森に!」

 雨が上がり、綺麗な夕焼けに染まる平原を私は森へ向かって走り出した。

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