第三章 香料士として

第一話

「合格ね。まだ、甘い部分はあるけれど――妥協点かしら?」

「これでも、まだ妥協点なんですか……。で、でも、一応は合格なんですよね?」

 マリンさんはゆっくりとコロンの入った小瓶をカウンターに置くと羊皮紙と羽ペンを取り出した。そして、そこにマリンさんは自身のサインを記すと印を押す。

 それから、商品に密閉された未使用品である証明。封蝋を手早く施していく。

「えぇ、試験に関しては一応は合格よ。これが貴女との契約書になるわ。それを失くすと取引は中止だから忘れないでね。それが取引を行う証書だから」

 初めて貰う売買契約書。ただの薄い羊皮紙一枚。

 だが、なかなか受け取る事が出来なかった。分からない。なんで、こんな気持ちなのか。

 ギルドで職人認定試験に受かった時にはこんな気持ちにはならなかった。

 あの時はただ嬉しかっただけだった。それだけで、胸が一杯で他の事なんて何も頭には無くて……。なのに、このよく分からない気持ちは一体、なんなのだろう。

 嬉しさだけじゃない。その契約書を受け取るのが少しだけ怖い。

「それが重圧というものよ。その重さ、しっかりと覚えておきなさい」

 香料士である事。それだけじゃない。

 ただ、コロンを作れるというだけでは。抽出が行えるだけでは職人は名乗れない。

 作り手という自分がいて、買い手と言う相手がいて成り立つのが香料士。

 だけど、私はその先に進むと決めた。香料士としての本懐であるアロマ作り。

 その為にはこんな所で立ち止まっている訳にはいかない。

「もう、大丈夫です。私はもう、香料士なんですから」

「そう……。なら質問なのだけど、このコロンにいくらの値段をつける?」

 思わずその質問の意図が読み取れず、「えっ」という素っ頓狂な声をあげてしまう。

 買値は安くなる。ギルド仲介よりも。そう言っていただけに、マリンさん側が値段を決めていて、それで支払いがあるのかと思っていたからだ。

 だから、私は少しの間どうしていいのか分からず、固まってしまう。

「コロン一瓶、相場を考えると大体――三フロル。原材料費と差し引くと、一瓶が十二レーヌってところかしらね。十瓶で収支百二十レーヌ。つまり、二フロルが儲けね」

「一ヶ月分の仕事がエール一ガロンの代金と同じ……覚悟はしていたんですけどね……」

 儲けが少ない職業とは聞いていたが……ん? ちょっと待てよ。

 一ヶ月で二フロル。だが、仕事をしたのは実質的に考えれば、七日だけ。

 その後の期間は熟成させ、香りを安定される為の期間。ならば、うまく仕事を行えば効率よく仕事を熟せるのではないだろうか? まぁ、元資金が問題なのだけど。

「これで決定でいいのね? 一応、確認するけれど」

「えっ!? はい、相場がそれくらいなのなら、それでいいかと……」

 計算が苦手な私にはこういう収支計算を瞬時に行えないだけに、苦笑いを浮かべながらマリンさんにそう返した。マリンさんがそう言うなら、そうなのだろうと思って。

 だが、そんな私に対し、マリンさんは大きな溜息を吐くとどこからか取り出した帳簿を開き、それを私に対して突き付けて来る。

 そこに書かれていたのは今回の原材料であるリーン草――二十フロル。

 どういう事だろう? 先程の計算とはどう考えても合わない気がする。それでは、一瓶辺りの収支が一フロルになってしまう。十瓶だと十フロルだ。どういう事だ?

 収支二フロルと十フロルでは五倍も違う。それだけ違えば、色々な事が出来てしまう。

 そんな私の疑問に対し、マリンさんは一言。こう言った。

「相場ぐらい頭に叩き込んでおきなさい。いくら高騰してるとは言え、限度ってものがあるの。それから、相場の変動にはシビアに。じゃないと、商人どもに足下を見られて、その才能を買い叩かれるわよ。値段は交渉するモノ。いいわね」

「えっ、でも……その辺は良く分からないですし……苦手で……」

 そうは言われても、やっぱり良く分からない。

 ずっと、香料士として働く為に頑張って来た訳で。そういう勉強はした事がない。

 だから、マリンさんが何が言いたいのか。私には良く分からなかった。

「分からないからこそ、よ。契約書の内容もすぐに確認しないようだし、交渉事は細心の注意が必要な繊細なやり取りなんだから、その辺りをもっと理解した方がいいわよ」

 でも、それはマリンさんとの契約だから信用して……。嘘は吐かないって。

 お金の為に仕事をしなければならない。食べる為に。でも、私が香料士になったのはそんな事の為ではない。お金の為じゃない。ただ、――。

「べ、別に私はお金の為に香料士になった訳じゃないです」

「現実を視なさい。何をするにもまずはお金が必要なの。それが社会というものよ」

 ――そのマリンさんの言葉にぐうの音も出ない。

 分かってる。マリンさんの言っている事が正論で私が間違っている事くらい。

 でも、私はただ。ただ……師匠みたいに誰かを救いたいだけなのに。

「まぁ、説教はこの辺りにするとして。――私から出す次の仕事なんだけど、現在注文するコロンはこんな感じかしらね?」

 そこに書かれていたコロンは三種類。

 一応、本で読んで作成方法は理解しているし、作った事もあるが前回のとは違い、複数の香りをブレンドするという新しいタイプのコロンだ。

 その為、まだ作製出来るだけの技術をもった香料士が少なく、極めて珍しいコロン。

 だが、そんな依頼を私は敢えて断った。

「少しだけ、考えさせて下さい。少し、やりたい事があるので」

 やりたい事。それはアロマ作りだ。

 資金は今回の依頼の報酬しかないが、それでも私はエリナさんの為に何かしたい。

 あれから一ヶ月が経った。もしも、次の仕事を受ければ更に一カ月先。

 そうして、ずるずると伸ばしてしまえば、一体いつになるか分からない。

 だから、私はマリンさんからの大事な仕事の依頼よりも、彼女に対するアロマ作りという個人的な欲求を優先させるのだった。

「そう、まぁ仕事を受けるも受けないも貴女に選択権がある。でも、一つだけ言わせて貰うと受ければそれだけ評価が上がり、任される仕事の幅も広がるわ」

 それは理解しているつもりだ。仕事を任される上で重要なのは信頼関係。

 だからこそこつこつとした積み重ねが大事であり、仕事を拒否すればそれは別の所へと回される事になって糧にはならないと言いたいのだろう。

 だとしても、私は香料士(・・・)でありたいのだ。

「分かってますよ。では、調べものがあるので」

 私はそう言うとマリンさんのお店を後にし、アトリエへと走って行く。

 ここにこれ以上滞在すれば小言が増えると思ったのもあるが、それ以上にようやくアロマ作りに取り掛かれるという喜びが胸に満ち溢れていたというのが正しいだろう。

 香料士としてようやく、アロマを作ってみる事が出来る。

 本分に取り組めるという喜びに包まれていた。

 だから、この時の私は見えていなかった。自分の作ろうとしているアロマがどのような物なのか。香料士という職業についてすらまだ何も知らない赤子同然の知識だという事を。


 そして、ティナと入れ替わる形で新たな来客が現れる。

 メイド服に身を包んだレナである。その姿に思わずマリンは呆れ返ってしまった。

「いらっしゃいませ。それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」

「少し気になったので顔を覗かせて頂いただけです。と、今はティナはいないのよね。それでは、聞かせて頂けますか? あの娘に対する貴女の評価を」

 ここにティナがいない事。入れ違いで出て行った事を確認すると急に態度が一変する。

 いつも見慣れた光景。それだけにマリンはその事に口を挿む事はしないのだが、やはりこの人が一体何を考えているのか理解出来ない。

 ティナが香料士になるのを否定しながらも、それを応援しているその矛盾が。

「四十点ってところかしらね。どうせ、これを買いに来たんでしょう?」

 適当に点数を述べると、先程ティナが提出したコロンをカウンターに乗せる。

 レナは宝物のように大事に手で包むとそれを光へとかざして色々と確かめ始めた。

「五フロルって所かしら? やっぱり、こういうのは扱ってない事と知識が少ない事から相場が見えないのだけれど。――近郊に香料士がいない物珍しさ。彼女の持ちえる技術を考えるとそれくらいが落とし所と言った所かしら」

 まるで、模範解答のようにそう連ねるレナに思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 流石、領主に色々な仕事を任されているだけの事はある。相場も知らない上に香料士としての知識もないのにも関わらず、妥当な金額を出すのはお見事と言わざるを得ない。

「ただ、買い取りが三フロルだから、高くつけても四フロル三十レーヌって所かしらね」

 それがこの地域で売れるギリギリの値段だ。

 あくまでも、この地域の平民に対して商売をするのなら、だが。

「なるほど、あの娘は相場を取っただけでこの辺りの状況と技術で金額を釣り上げなかったのね。香料士としての知識はあっても、商売の知識はまだまだ未熟。って、あの娘は商人の世界にはまだ足を踏み入れた自覚はないのよね」

「まぁ、その目利きは流石だとでも言っておきましょう。ですが、それはあくまで商品の価値であって、売れる値段は別問題ですよ。貴族を相手にするって決めつけるならまだしも、そうじゃないならなおさらです」

 マリンの言葉に、レナは少しだけ考え込むような素振りを見せるが、すぐに何度が頷くと少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

「まぁ、確かにそうね。一理あるわ。じゃあ、お一つ頂きましょうか?」

「お一つでよろしいのですか? 十ありますけど」

 てっきり、全部買い取るのかと思っていただけにその言葉に首を傾げてしまう。

 そんなマリンに対し、レナは五フロルをカウンターに置くとこう言った。

「それはあの娘の頑張りへの冒涜よ。だから、一人のお客としてこうしてわざわざ買いに来たんだから。あと、お釣りはいらないわ。これに対する正当な金額ですもの」

 そして、店に他に誰もいない事を確認するとこう続けた。

「――それより、一つ聞きたいのだけど……。やっぱりいいわ。なんでもない」

 レナは代金の代わりにコロンを一瓶受け取るとそれ以上は何も言わずに出口へと向かう。

 何かをマリンに対して聞こうとしたのだが、それが一体なんなのかは検討も付かない。

「いつか、貴女も真正面から向き合えるといいわね。自分の犯した過去と」

 立ち去る直前、立ち止まりレナははっきりとそう告げた。

 何も言えなかった。レナの残して行ったその言葉に。何も。

「貴女に言われなくても十分、解ってるわよ……。あの娘の為にもならないって……」

 マリンは誰も居なくなり、静かになった雑貨屋でそう呟いた。

 そして、カウンターから一枚の古ぼけた羊皮紙を取り出して、それを近くで揺らめく蝋燭の炎で燃やそうとするのだが、ちりちりという音と共に燃え出す直前で躊躇ってしまう。

「情けないわね。いまだに過去に未練を抱いて、こんなモノすら棄てられないなんて」

 どこか自分を中傷するかのように嗤うと、それを再びカウンターの中へと戻すのだった。

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