第三話
木々の隙間から見える空は快晴。しかし、夏にはまだ程遠く、少しだけ肌寒い。
ただ、久しぶりの外の空気。緑に囲まれた森林の空気は本当に心地いい。
昨日の内に通り雨が降ったのか、少し苔生した独特の香りが辺りに充満している。その独特な香りの中を雨上がりにどこかで咲いたのか花の甘い香りが彩っていた。
「どうぞ、こちらがリーン草です。あと、念の為に打ち身の薬もお持ちになって下さい。いくら、歩けるようになったとは言え、まだ完治した訳ではありませんから。本当なら、完治するまでここにいて欲しいですけど流石にそうも言えないようですし……」
そう言うと、エリナさんは私に十五束のリーン草と小さなガラスの小瓶を手渡してくる。
私はそれらをポーチの中へと納めると彼女に対し、小さく頭を下げた。
「本当に助かりました。お陰で怪我も無事に回復。それだけでなく、リーン草まで分けて貰っちゃって本当にどれだけお礼を言えばいいか。――ありがとうございました」
「いえいえ、これが私の仕事なので。それに元はと言えば、私があの狼にちゃんと物を言っていなかったのがそもそもの原因ですから。では、お大事に」
何のことはない世間話をしていると、気が付けば森と草原の境界線。
ここを越えれば村へと続く道はすぐに見付ける事が出来る。アトリエへも数時間で辿り着けるだろう。だが、なんだろう。それがどこか寂しくも感じてしまう。
アドもポケットで丸くなり、白銀の蝶も私の真上を舞っている。
ここに来るまでのいつもの自分と何も変わらない。今まで通りの世界が待っている。
「はい、無理せず夢に向かって一歩ずつ歩んでいきます。何か掴めた気がしますから」
「それはよかったです。では、私は薬草園のお世話があるので見送りはここまでですね」
「あぁ、はい……。それじゃあ、ええと……。また、ね」
私は『もう一度会おう』という思いと願いを込めて「さようなら」ではなく、あえてエリナさんにそう告げた。また、逢えるように、と。
当然、エリナさんも私の言葉を理解して小さく頷いてくれるかと思った。
――だが、エリナさんは森と草原の境界線からは一歩も前に踏み出そうとはせず、どこか哀しげな笑みを私に向けながら、
「さようなら、貴女の行く道に幸多からん事を――そう、ここで願っています」
簡潔な別れの挨拶。まるで、もう会う事がないと言わんばかりの言葉を私に投げかけると、エリナさんはゆっくりと森の闇の中へと消えていってしまう。
そんな彼女の背中に私は物寂しさを覚えたのだが、声をかける事はできなかった。
「行こっか……。アド……。みんな、私が帰らないのを心配しているだろうし……」
私は俯くと、ポケットの中にいるアドを撫で気を紛らわす。それを理解したのか、アドも私を慰めるかのように私の指を甘噛みしてくれる。
友達になれたと思っていた。いや、思い込んでいただけなのかもしれない。
同じ夢を追いかける友人に出会えたとそう勝手に私が勘違いしていただけなの……だ。
「なんで、さようならなのかな?」
その言葉がまるで私を拒絶しているかのように感じられて。少しだけ寂しく思えると同時にエリナさんが一体、何を考えているのか分からなくなってしまった。
本当のエリナさんは一体、どこにいるのか。私といたエリナさんは偽物なのか。
アトリエへと辿り着く頃には既に日も暮れ始め、空は茜色に染まっていた。
扉には外出の時にかけた通り、錠前がかかったままだ。
出て来た時と何も変わらない。その事実がリンカーベルへと戻っていたと実感させる。
まぁ、室内に積もる埃だけが確かに時間の流れを告げているのだが……。
「あーぁ。これはまずは掃除から始めないと! って、あれ? これじゃまるで、このアトリエに初めて来た時みたい。でも、それでいいのかも」
私に足りなかったものはきっと、誰の為に作るかという事だったのだと思う。
エリナさんは薬を患者である私の為に調合し、使った筈だ。それが仕事と言っていた。
だが、私はただ製品として、私の技術の集大成を追い求めるばかり。それを利用する人のことなど眼中にはなかった。それが最も大事な事であった筈なのに……。
そう言う意味ではもう一度、初心に帰るというのは良い事なのだろう。
「えっと、確かこの辺りに箒と雑巾があってと。そうそう、外に水を汲みに行かないと」
随分とアトリエを開けていたにしては、少しばかり綺麗な気もするが気のせいだろうか。
目に付く範囲を箒で掃いて行くのだが、あまり埃が集まらない。なんだか、不気味ではあるが次だ。次。ついでだし、アトリエ中の雑巾がけもやってしまおう。
テキパキと準備をこなしてはいたものの、気が付けば外は暗闇の世界だ。私は大慌てでアトリエに灯りを点すと腕まくりをして雑巾がけを開始する。
普段は目に付かないところから機材まで丁寧に掃除を終えると、バケツの中の水は黒く濁り、雑巾は埃まみれて……そこで大変な事に気が付いた。
バケツって予備……あっただろうか? もし、なければ余計な出費だ。
いや、確かどこかにあった気がする。これから作業をするのになければ、雑巾を洗ったバケツを使わなければならなくなるが、それは絶対に避けなければならない。
「確か、この辺りにもう一個あったよね。ほら、やっぱり!」
私はアトリエの隅にいくつか重ねられたバケツを発見した事にほっと胸を撫で下ろした。
製品を作る際に埃なんて不純物が入ったら大問題になるが、これでその事を気にする必要はなくなった。今後はこっちを掃除用にしてしまえば良いだけの話だ。
しかし、ここまで掃除をした事だし、物のついで。一度、機材の具合を確認しておくのも悪くないかもしれない。良く考えてみれば、一度も精査した事がないのだ。
良い機会でもある。今後もこの機材を使っているなら、その仕組みを詳しく理解しておけば今後の抽出時の調整にもきっと役立つはずだ。
そう思い、私は機材の細部を色々と調べていたのだが、そこであるモノを発見する。
「あれ……この機材を作った人の名前かな?」
最初来た時は機材も綺麗に掃除されており、そこまで詳しく見る事はなかったので気付かなかったのだが、香料抽出機材にはっきりと彫られていた。
私の記憶が正しければ、ジュリアおばさんがこの機材は誰かから譲り受けたものと言っていた気がする。つまり、ここに彫られている名前は恐らく……その譲った人。
刻まれている年号は十年程前だし、――それを考えれば旧式だったと言えなくもないのだが、私の知る限りこんな型の抽出器は本でも見た事がない。きっと、自作したのだろう。
「でも、この手の機材って同じ物でもそれぞれ違いがあって、壊れない限り別の機材へと切り替えることなんてしないと思うんだけどな。自作だったら、愛着もあるだろうし」
M・Kという人に何があり、どうしてこの機材を手放したのかを少しだけ想像するも、そんな事は全く意味がない事であると気が付くと私は大きな溜息を吐いた。
そんな事より、今の私にはやらなければならない事がある。
急いでマリンさんからの課題をクリアするのだ。
まずは製品として使える物を作る。
それが今の私に課せられている課題だ。それを越えなければ何も始まらない。
私は徹夜覚悟で抽出の準備に取り掛かっていると、急に背後から扉が開く音がする。
「一体、何をしてるのです? 長い事姿を消して、手紙が来たと思ったら大怪我をした。おば様も心配されておられるのですから、そんな事よりも貴女にはすべき事があるのではと判断いたしますが? 本当に貴女って娘は昔から無茶ばかりなさって……」
振り返るとそこにいたのは毎朝サンドイッチを渡すお屋敷のメイド、レナさんだった。しかも、なんだか怒って見える。普段怒らないだけに、凄く……怖い。
それにしても、なんでこんな所にレナさんがいるのだ。時間も時間。領主様のお屋敷で働いているレナさんは夕食準備などで忙しい頃合いの筈――有り得ない。
普段、真面目そうなレナさんが屋敷を抜け出すなどとは到底思えず、理解が付いていけない現状に私は思わず首を傾げてしまう。
「そ、そう言えば、レナさんってメイド長さんでしたよね? お、お仕事はいいんですか?」
「それはそれ。これはこれです。ですが、まずは無事なお姿のようで一先ず安心いたしました。本当に貴女の身に何かあったらと思うと気が気でありませんから。そう言えば、こちらに戻られてから挨拶もありませんでしたし……」
気が気でない――か。血の繋がった親でもないのに少し、過保護過ぎだと思います。それは、その愛情は家族に向けられるものであると思うし……。
それに、メイドとしての仕事をそれはそれの一言で流しちゃうのもどうかと……。
けれど、その言葉は今の私には少しだけ嬉しかったりする。こうして、この場所に帰って来て「おかえり」と言ってくれる人がいるのはやっぱり、幸せな事なのだろう。
でも、やっぱり誰に何と言われても。まだ、ジュリアおばさんの所へ帰るつもりはない。
仕事はまだ何一つ終わっていない。ずっと続いている。それはコロンを作製し、それを納品し終えて初めて終わる。仕事の終了によってだけだ。
だから、私はレナさんの思いを拒絶した。そして、いつもの調子でこう返した。
「本当にレナさんは相変わらずですね。でも、――ごめんなさい。まだ、私の仕事は終わってないの。初めての仕事だからちゃんと終わらせたいの」
真剣な眼差しでレナさんを見詰め、そう言い切ると再び作業へと戻る。
きっと、真正面からの言い争いになってしまえば、絶対にレナさんの正論には敵わないのは分かりきっているから。だからこそ、耳を塞ごうとした。
そうして、作業に集中しようとするのだが、手が止まってしまう。
思いがけないレナさんの返答によって。
「そうですか。分かりました。では、私にも何か手伝える事はないでしょうか? 一人より、二人の方が作業効率は格段に上がると思いますので。そうすれば、おば様の下へ戻るのも早くなる筈かと」
「えっ、はい? 手伝うって何をですか?」
今、手伝うと言った。そう確かに聞いた。
けれども、手伝うと言われても、手伝って貰う事は何一つない。
燃料の薪もこの前、ジークくんに全て割って貰っている。必要ない。いや、そもそもレナさんにそんな力仕事を任せる訳にはいかない。
それに、今から取り掛かるのは抽出の作業。知識のない人間にはまず無理。これは香料士である私がやるべき事であり、レナさんには任せられない。
私はまるで子犬のように見詰めるレナさんから目を逸らし、苦笑いを浮かべてしまう。
「当然、貴女を。に決まっています。それに良い機会です。一度、貴女の仕事場を見学したいと考えておりましたので。それに加え、どこに行っていたかも興味がありますから」
「えっと……。ただ、近隣の森の中へリーン草を探しに入り込み、崖から滑り落ちて怪我をしただけ、狼に追い立てられて……あっ」
やばい。言い切ってようやくこれは言うべきではなかった事に気が付いた。
狼に襲われたなんて言われて、心配しない人はいない。当然、レナさんもだ。
「狼に襲われて怪我!? 本当に大丈夫だったのですか! 怪我は!」
私の失言にレナさんの顔がみるみると青く染まる様子。やはり、そうなりますよね。
狼に襲われた。なんて、運が悪ければ死んでいてもおかしくない事態。もう少し、考えてから話すべきだった。きっとお説教になるだろう……長い。仕事も進まない……。
自分の失態に情けなくなり、涙を流しそうになってしまう。いつになったら、仕事を本当に始められるのだろうか。いつになったら、次のステップに進めるのか。
そんな事を考えていると、急にレナさんが私の服の袖を掴み、一気に引き寄せられてしまう。そして、気が付けば、私はレナさんの胸に顔を押し付けていた。
「良かった……。怪我だけで済んで本当によかった。ですが、ですが……。いえ、何でもありません。それが貴女の決めた道なのですよね」
理解はしているが、やはり納得は出来ないのだろう。
そう言えば、香料士になると言った時に最初に理解を示してくれたのはレナさんだ。それと同時に最後まで本当にその道を選ぶのか真剣に問い質してくれたのもレナさんだ。
私の背中を押した。そう考えているだけに心配なのだろうか?
「ですが、一つだけ。これだけは決して忘れないで下さい。貴女は一人ではありません。貴女の事を心配してくれている人々が大勢、貴女の周りにはいるという事を」
「分かってますよ。それくらい。血は繋がってなくても、心配してくれているって事」
私を養ってくれているジュリアおばさんには感謝している。
生きる術を私に叩き込んでくれた師匠にもだ。二人の恩人がいなければ私は本当に路頭に迷い、街道で死肉として狼や野犬に貪られていただろう。それが現実だ。
そういう子供達は事実、沢山いる。沢山……見てきた。今も焼き付いている。
だから、今の温かい場所はそういう犠牲の上に成り立っている事も理解している。どうしようもない程に理解してしまっている。ただ、私が運が良かっただけである、と。
だからこそ、私は早く見せたいのだ。私はもう一人でも生きていけると。いつまでも、子供じゃない。もう、手を差し伸べられる側ではない、と。
「今、私がこうして生きているのはそういう大人たちがいてくれたからですから。けど、いつまでもこのままでいていい筈はない。ダメなんです。だから、早く独立したい……」
「――そうですか。貴女もいつかはこの村から旅立ってしまわれるですね。それが良い事なのか、悪い事なのかは私には判断しかねますが……」
貴女も? その言葉に少しだけ違和感を覚えてしまう。
まるで、私を誰かと重ねているかのような――。でも、私を見ていない訳ではない。面影を重ねているとでも言うのだろうか? 不思議な感覚だ。
私はゆっくりとレナさんの胸から顔を起こすと不器用な笑みを浮かべて見せる。
「いつかはですけどね。夢が――あるんです。まだ、その夢には掠りもできませんけど、いつかは私もこの世界を周って香料士としてまだ顔も知らない誰かを救いたいんです。本当にこんな事を言える程の腕なんて、まだないんですけどね」
まだ、スタート地点に着いたばかりだ。一歩も進めてはいない。
そんな事にも気付かず、自惚れていた。だから、マリンさんに指摘された。そして、今も目の前には霞がかかり迷い続けている。結局、私はまだどこまでも未熟なのだ。
私の両手は白く手荒れ一つない綺麗過ぎる手だ。小さい。本当に小さな手だ。
そんな未熟な手で頬を拭う。涙を見せない為に。
「師匠に拾われなかったら、私はきっと戦災孤児としてどこかの施設にいた。いや、野垂れ死んでいたかもしれない。だからと言って、私が特別だったとか思っているわけじゃないんです。ただ……そんな私だからこそ何か出来るんじゃないかなって思ってるんです」
他人の苦しみを理解するのは無理かもしれない。けど、理解しようとする事は出来る。
一緒にどうすればいいか、考え、手を差し伸べる事はできる。
それは馬鹿げているのかもしれない。甘いのかもしれない。自惚れなのかもしれない。
でも、やっぱり私は自分を見捨てられないのだ。だから、香料士になろうと思った。
「そう――ですね。確かにそれは険しく困難な道筋なのかもしれません。ですが、その考えは素晴らしい。誇るべきものです。やはり、貴女は……いえ、なんでもありません」
どこか嬉しさと悲しみの入り混じったような複雑な表情をするレナさんに、私は何を言いかけたのかを尋ねる事は出来なかった。
「ただ、これだけは言わせてください。貴女の事を心配している人がいる事を忘れないで」
「分かってますよ。今回の事で十分に身に沁みました。帰る場所があるって凄く大切な事なんだって。それに、待っているっていうのはこんなに大変な事だって解っちゃいましたから……。だから、それを壊すような事は私には出来ませんよ」
いつかは旅に出る。この地を離れ、まだ見ぬ様々な地を巡る。その覚悟は変わらない。
だからこそ、それまでの間、この場所を大切にしていくつもりだ。そして、旅立ってからも、いつか立派になって再びこの場所へと戻ってくる。それが私の決意だ。
ここが私の帰る場所だから――。
「そうですか。分かっているようでしたら早く仕事に取り掛かりましょう。――ただし、仕事が一段落着いたら何があったのか詳しくお話を聞かせて頂くつもりですので」
「えっ!? いや、ちょっと森の中へと入り込んじゃっただけだから」
「人を襲う狼がいるのでしたら念の為に領主様へ進言しなければ、更に被害が出てしまいまうやもしれません。ただでさえ、戦争後で色々と手が届いていない地域があるのですから、領民の安心の為に早急に手を打つ必要があるのです」
確かに人を襲う狼が街道に出て来たら大変な事になってしまう。
けれど、あの狼はエリナさんが飼っているって話だったから、そんな事はないと思うのだけど。そもそも、あんな場所に薬草園があるなんて言っても信用されないだろうし……。
仕事が終わるまでの間に何か取り繕う言い訳を考えておかなければ。
抽出には時間はかかる。たっぷりと余裕があると思いたい。
「は、はい。わかりました。けど、今はここまでにしましょう。抽出って結構、気を使って材料の具合を確かめながら作業を進めるのであまり他に気を回す余裕ないですから!」
私はそう苦し紛れの時間稼ぎをすると、大急ぎで抽出準備へと取り掛かるのだった。
リーン草から抽出、それを加工してコロンにする。工程は何一つとして変わっていない。
しかし、それではあの時から何一つ成長していない事になる。それではダメなのだ。
あと一歩。その先へ向かう為には何が必要なのか。それを探さなければならない。
「抽出方法を変えてみる? いや、それは無理があり過ぎる。なら、抽出時間の調整?」
抽出する前準備が整い、工程を始める直前で私の手は止まってしまった。何故なら、問題をどう修正すればいいのか。はっきりとした道筋が見えて来ないからだ。
薄める。それが最も正しい答えなのだと思う。そう、ただ薄めてしまえばいい。
でも、その薄めるという行為が私にはどうしても正解には思えないのだ。
正しくない訳ではない。でも、それは本質的には正確な答えではない。その場凌ぎなのではないのだろうか。前に進む為に必要な答えとは違うのではないだろうか。
だって、それでは弊害が産まれてしまう可能性だってあるのだ――。
「何か悩んでおられるようですね。手が止まっておいでですよ」
「抽出過程で全抽出するから問題なのだけど、それを止めると無駄が多過ぎる……。なら、その無駄を別の形で……。でも、どうやって……」
レナさんが私に何かを言っているようだが、私の耳には一切届いていなかった。
私の頭の中はこの課題をどうクリアするか。それで一杯。
それ以上を考える余裕がなかった。目の前の問題をどう解決するかだけなのだ。
だからだろう。頬に冷たい感触がする。それがレナさんの手である事に気が付くのには随分と長い時間が必要だった。それ程までに自分の世界に私は浸っていた。
「あっ…………」
「何を迷われているのか私には見当もつきません。それが私にアドバイスできるような事なのかも皆目。ですが、それは今急いで出すべき答えなのでしょうか?」
「当然です。それが出来ないと、私はマリンさんに出された問題に……」
「では、それの答えは一つだけなのでしょうか? マリンの答えと貴女の出した答えが一緒である必要性はどこにあるのか。そこから考えてみるべきなのではないでしょうか」
私の答え。マリンさんの答え。
今回の課題をクリアする上で重要なのは商品になる事。その一点だ。
つまり、工程の改善ではなく、商品としてのコロンを作成できる事。それなのだ。
マリンさんの求める回答を私がするという事ではない。そんな必要性はどこにもない。
私なりの答えでもって、マリンさんの期待に応える。それが……。
「香料士として求められるのは貴方の出す答え。マリンが貴女に問いたかったのは職人としての資質なのではないでしょうか? 誰の答えでもなく、貴方自身の言葉で」
ならば、どうするか。この状況から出せる答えはやはり、抽出時になんらかの細工をする。問題はそれを機材にするのか、香料にするのかという事だ。
今後の事を考えると、後者。香料にあった抽出度合を見抜き、調整していくという技能。
要は、抽出時の抽出度合の調整。小細工である。
抽出効率を維持したままという事を考えると、やはりこれ以外にはない。
「ありがとう。レナさん――お蔭で答えが見えてきた」
「いえいえ、これがメイドとしてのたしなみですから」
レナさんの返答に苦笑いを浮かべながら、ある工夫をすると大急ぎで抽出作業へ移った。
何度も往復し、冷却水を交換する。材料の交換具合を確かめる。
そうして、気が付けば明け方まで作業は続き、ようやく出来上がったのは前の時とははっきりと違う。濃い目の碧ではなく、透き通ったライトグリーンの液体だった。
完璧にやり遂げたという確信はある。だが、同時に恐怖もあった。
もしかしたら、失敗しているのではないか、何か過程でミスがあったのではないか。
結果が分かるのは熟成させた一か月後。だが、ハッキリとした自信が私の中にはあった。
私はその液体を小瓶に移し、軽く手で扇いで匂い嗅いでみる。
未完成という事もあり、香りはまだ安定していないし、重厚感もない。
落ち着いた酸味のある独特な香りが鼻を通り抜けて行く。咳き込むような香りはない。
「出来た……。これなら、絶対に合格……の筈……。やった……ぁ……」
緊張が途切れたのだろうか。
いや、不完全ながらも未完成のコロンの香能が発揮されたからなのかもしれない。
一本目の調香が終わり、一息着こうかというところで急激な眠気が私を襲った。
私はアトリエにレナさんがいるにもかかわらずその眠気に押し負けると、机の上に突っ伏し、重い瞼を閉じて深い眠りへと誘われるのだった。
「う、うーん……あれ、寝ちゃってたのか……」
随分と疲れていたのか、肩が軽くなった気がする。
私は机から起き上がると、大きく背伸びをする。すると、バサッと音を立てて背中から何かが落ちた。私は慌てて振り向くとそこには毛布が落ちている。
……レナさんがかけてくれたのだろうか? あれ、私ってどれだけ寝てたんだろう!
そこまで思い至った時、初めてレナさんの事を忘れて眠ってしまった事を思い出した。
随分と眠っていたらしく、朝焼けが差し込んでいたアトリエには西日が差し込んでいる。
きっと、この毛布はレナさんがかけて行ってくれたものなのだろう。そして、時間的にきっと今はお屋敷で働いている最中の筈だ……なんだか、凄く申し訳ない。
次に会った時にはお礼とお詫びをしなければ。色々と心配をかけてしまっていたし。
寝惚けた頭でまた、作業を再開させようとしているとそこには羊皮紙とサンドイッチが置かれていた。見た目から察するにジュリアおばさんお手製のものだろう。
『随分と気持ちよさそうな寝顔で熟睡されており、起こすのも忍ばれたので申し訳ありませんが、先に屋敷へと戻らせて頂きました。一応、机の上に置かれているサンドイッチは貴女の朝食用に用意させて貰った物ですので、勝手に召し上がってください。最後におば様も心配なされておられたようなので早めの帰宅を』
これがここに置いてあるという事は、レナさんがわざわざ……。
残りは九本。それだけの数の調香が終われば、あとは熟成させるだけだ。
私は頬を叩いて気合を入れると再び抽出作業、調香作業に戻るのだった。
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