第二話
どこだろう。ここは……気が付くと知らない木製のベッドの上で寝かされていた。
身体を起こそうとするのだが、打ち付け方が悪かったのか激しい痛みが私を襲う。これでは、立って歩く事は無理そうだ。大人しく、横になっている他ない。
だが、何故だろう。私の着ている服も森に入る時の物とは違う。質素なワンピース。
たき火をしているのか、パチパチとどこかで薪が弾ける音がする。
その上、スープだろうか? どこからか漂ってくる食欲をそそる香りが鼻腔を擽り、思わずお腹の虫が鳴き始めてしまった。
普段なら、赤面で顔を覆い隠してしまう程の恥ずかしい事なのだが、今の私にとってはその空腹感は自分が生きているという実感を与えてくれ、どこか安心してしまう。
そう言えば、木から落ちて背中を強打して……気を失って。それから、どれくらい経ったのかは分からないが、その間ずっと何も食べていないのか。
まだ、重い頭の中に漂う記憶の断片を頼りに、自分の置かれている状況をゆっくりと理解していく。その結果、私は思わず溜息を吐いた。
アドは大丈夫だろうか? あの後、一体何があったのだろうか?
私はどうして狼に食べられずに済んだのだろうか?
そんな事を考えていると、どこからか声が聞こえてくる。
「良かった。目を覚まされましたか。随分と意識が戻らなかったので心配しましたよ」
身体を起こせない私は声のした方へ顔を向ける。
すると、そこにはこの小屋の主だろうか? 肩にアドを乗せた女性が立っていた。
「七つも日を跨いで眠っていた事ですし、お腹もすいているでしょう? まだ食事をするのは難しいかもしれませんが、晩御飯の用意が丁度出来た所なので一応用意しますね。大したものは出せませんけど」
家主の思いやり。だが、私はその思いやりに対し、何も言う事が出来なかった。
あの薬草園の主だったのならば、勝手に敷地内に侵入した泥棒も同然なのだ。誤解されていても仕方がない。問題はどう弁解するかの方だ……。
私は自分の状況に警戒しつつ、頭を巡らせる。
必死にこれからされるであろう質問に対する返答を考えるのだが、何故だろう。
その女性は何も聞こうとはせず、黙って木製のお椀に入ったスープを私に差し出した。
「どうぞ。召し上がってください。お口に合うかは分かりませんが」
鼻孔を美味しそうな香りが擽る。それと同時に、再びお腹の虫が鳴リ始める。盛大に。
だが、身体を起こす事は出来ない。ただ、その美味しそうな香りを嗅ぐのが精一杯だ。
そんな状況に女性は何を思ったのか、私の眠るベッドの下に手を入れる。
すると、ゆっくりと私の背中が起き上がり、その女性と同じ目の高さになった。
「あ、ありがとうございます……」
思わず、お礼の言葉が口から洩れてしまう。
そして、私はスープの入ったお椀を受け取るとそれを恐る恐る口に含んだ。
美味しい。それが私の抱いた最初の感想だ。肉は入っていないが、様々なハーブが入っているのだろう。野菜の味が引き立ち、身体の底から温まる。
気が付けば、貪るようにそのスープを飲んでいた。
「あらあら、まだおかわりはありますからそんなに急がなくてもいいですよ。まだ、目覚めたばかりで体も本調子じゃないでしょうから」
「うっ……その、あまりにも美味しかったものでつい……」
顔を真っ赤にしながら、お椀を渡すと二杯目のスープを受け取る。
そうして、何杯目かのスープを食べ終わると私はそのお椀を腰に置いた。
「ふふ、凄い食べっぷりですね。これなら、もう少し安静にしていれば、問題なさそうです。貴女の大切なパートナーも随分と心配していましたから本当に良かった」
「大切なパートナー? 私、確か一人だった筈じゃ?」
パートナーという言葉に私はお椀を女性に返しながら、首を傾げてしまう。
すると、その女性は優しく微笑みながら肩に乗っていたアドを私の両手の上に置いた。
それから、私の周りを輝く鱗粉を撒きながら、羽ばたく白銀色の蝶を指差して見せる。
「その子たち、大切にするといいと思いますよ。気絶している貴女を守っていましたからね。それに、話も一通りは聞いて理解しています。色々と互いに誤解があったみたいで」
何と言えば良いのだろう。まったく、目の前の女性が何を言っているのか理解出来ない。
話を聞いた? 誰から? 一部始終を誰かが見ていたのだろうか?
ただ、ここで空気を悪くすれば印象が悪くなり、居辛くなるだけに何も言い返せない。
私は「はぁ」と、適当な相槌を打ち、その話を流そうとする。
「あぁ、そんなに固くならなくても構いませんよ。それに、同業者に会うには初めてなので、私としても色々とお話とか聞かせて頂きたいですから」
同じ職業? ――つまり、香料士という事だろうか?
確かにそれならば、あの立派な薬草園にも納得がいく。
でも、何だろう。この違和感。話がうまく噛み合っていない気もする。
もしも、同業者がこの近くにいたのなら噂で耳にしていてもおかしくはない。
しかし、今の私にはそこまで気を回す余裕などある訳もなく、ただただ頷いていた。
「そうでした。そろそろ、湿布を取り替えないといけませんね。祖母の残した調合書を頼りに手探りで作ったので痛みの方が引いたか心配で……。大丈夫でしたよね? 一応、触診をさせて頂いて骨には異常がなく、ただの打ち身である事は確認しましたが……」
「えっ……あっ……はい。その、ジッとしている限りでは痛みはありません」
確かに身体を動かすにはまだ鈍い痛みがあるが、こうしている分には痛みはない。
けれども、診断したという事は背中の傷を見られたという事か。まぁ、見られてしまった物は仕方がない。あまり、気持ちの良い物ではないが……。
それにしても、私に巻かれている包帯は緑色――薬草から抽出した液体にでも漬け込んだのだろうか? なんだろう。こうしていると、昔を思い出してしまう。
昔も私が怪我をした時、母さんが似たような事をしてくれた。そんな気がする。
「大丈夫ですよ。その背中のキズで私は貴女の事を気味が悪いとは思いませんから」
「ありがとうございます……。本当にすごいですね。同い年くらいなのに、こんな事まで出来てしまうなんて……。本当にすごいなぁ……」
背中の傷を見ても何も変わらず、私に接してくれる。ここまでの治療をごく当たり前のように施してしまえる。私と同い年ぐらいの彼女がだ。
それに比べ私は調香に失敗し、リーン草を無駄にしてしまった。それを使う人間の事なんで考えず、ただ自分の技術の高さを示す事にこだわったばかりに。
その上、森の中に迷い込み狼に追いかけられてこの怪我だ。呆れてものも言えない。
嗤いが込み上げてくる。本当に自分が惨めで情けない。
そんな私に対し、彼女は咳払いするとこう告げた。
「いえ、私なんて祖母に比べたらまだまだ未熟も未熟ですよ。この薬草園だって整備するだけで手一杯で、……どうしようもないバカで……。私なんて全然すごく、ないですよ」
なんだろう。その彼女の笑みは確かに優しいのだが、どこか自虐的にも見えてしまった。
何故だかは分からない。分からないけど、それでも一つ感じたのはこれは私を元気づける為に着いた嘘ではなく、彼女の本心からの言葉であるという事だ。
ただ、私とは違う。何かもっと根深い問題に苦しんでいる。そんな想いを感じ取ったのも事実。しかし、出会って間もない私にそれが何かまでは分からない。
だからこそ、私はそれ以上は深く考えず、感じたままの言葉を彼女に投げかけた。
「でも、あんなに素敵な薬草園なんて見た事ありません。それを切り盛りしているだけでも十分凄い事ですよ。手入れも行き届いていましたし」
「そうでもないです。昔はこの森中にあの薬草園が広がっていて、もっと明るくにぎやかな場所でしたから。……って、ごめんなさいね。つまらない話をしてしまって」
昔を懐かしむような言葉に私は森の中に広がっていた光景を思い出していた。
一歩入った時、目に入って来た見た事もない植物が群生している光景――あれはきっと、あの辺りまで昔は薬草園が広がっていた名残なのだろう。
まったく手入れがなされていない藪、鬱蒼と茂る木々。その合間に生えている薬草。
良く考えてみれば、あれらは普通に群生するようなものではない。人の手が入り、環境を整備する事によってなんとか育てる事が出来る類いの薬草だった筈なのだ。
三年? いや、十年以上だろうか?
あの様子から私の知識だけで判断しても、それぐらい長い期間に渡って人の手が入っていない事が理解出来てしまう。なるほど、元はもっと凄い所だったのか。
「あはは、こちらこそ変な事を言ってごめんなさい。ところで、私を助けてくれたのは貴女っていいましたけど、ここに一人で住んでいるんですか?」
こんな森の奥地にある薬草園に一人。
流石にこれだけの土地の整備を考えればそれはないだろうと思っていたのだが、次の言葉に私は言葉を失ってしまう。それ程に驚いてしまったのだ。
「えぇ、今は私一人だけです。昔は祖母もいたのですけど、随分と昔に亡くなってしまって……。でも、寂しくはないですよ。私を守る為に貴女を襲おうとした狼が一匹……。って、あのその……悪い子ではないんです。その……ごめんなさい」
あぁ、なるほど。あれは彼女の飼い狼だったのか。って、やっぱり狼だったの!
その事実を知らされ、私は思わず苦笑いを浮かべてしまう。もしかしたら、骨までしゃぶりつくされてしまっていたかも知れなかったからだ。
ただ、私がこうして生きており手当てを受けている辺り、彼女の言う通りのいい子なのだろう。私を追い立てたのも、私を森から遠ざける為だったのかも知れない。
まぁ、私はその警告を無視してこんな奥にまで入り込んでしまった訳だが。
「いえ、私も警告に気付かなかった訳ですし、同罪ですよ。でも、七つも日を跨いで眠っていたんですか。……私。……きっと、みんな心配しているだろうな」
「あっ、あの、私にも貴女のその怪我をさせた責任の一端はありますから……」
彼女は自分が悪いと言っているが、悪いのは私だ。私の不注意が原因なのだ。
彼女は何も悪くない。そもそも、私の何も考えていない暴走が始まりなのだから。
何を思ったのか、計画性もなく、リーン草採取に飛び出した。伝言すら残していない。
急に村から消えて、アトリエにも姿はない。そんな状況を前にしてみれば、帰ったらジュリアおばさんに怒られるか、泣かれるか……。考えたくもない。
「帰る場所……ですか。まだ、安静にしていなければなりませんが、初期の熱は引いていますし、あと数日もすれば少しなら動く事は出来るようになると思います。無理な運動は控えた方がいいですけどね。何か、心配事があるようでしたら私の方で言伝しましょうか?」
「あぁ、すいません。お願いできますか? 一応、連絡を入れておかないときっと……ね。リンカーベルで酒場を切り盛りしているジュリアおば……ジュリアという女性にレスティナは無事だとお伝えしてはいただけないでしょうか」
七日。アトリエを始めてから数えればもう一月と半だ。
まだ、創業開始したばかりなのに急に姿を消した。あぁ、よく考えてみれば他の人にも何か言われそうな気がする。特にレナさん……認定試験受験からずっと会ってないし。
「はいはい、リンカーベルの酒場ですね。あぁ、えーっとそれってどの辺りにあるか詳しい場所とかってわかりますか? その、そういうのに疎くて……」
「あぁ、はい。リンカーベルに酒場は一つしかないのですぐに分かると思います。大通りを真直ぐ入った広場にある黒猫のマリネという酒場でいつも夜は大騒ぎしてますから」
だが、その簡潔な説明に彼女は困ったような顔をする。
そして、私に予想外過ぎる一言を投げかけるのだった。
「いえ、その……。そういうことではなくてですね。こういう事を言うのはお恥かしいのですが、――リンカーベルってどの辺りの町なのかなって思いまして……」
「えっと、この辺りにある村の筈なのですけど?」
私は彼女が何を言っているのか、すぐには理解する事が出来なかった。
何故ならリンカーベルは小さいとはいえ、この近辺を治める領主が住む村。辺境かつ交通の要所ではないとは言え、それなりの物流もあるのだ。
それにこの辺りの地域で考えるならば、それなりに発達している村と自負している。
確かに町になるまで発達している都市は中央当たりに行かなければ存在しないが、そこまで地理に疎いというのは有り得るのだろうか? いや、もしかしてここが実はリンカーベルからとても離れた場所にあるだけなのかもしれない。
となると、どう説明したらいいのだろうか?
「一応、この森から街道に出て半日程度の距離なんですが……本当にご存じないですか?」
その問いに対し、彼女は困ったように目を逸らすと大きなため息を吐いた。
そして、恥ずかしそうに小さく頷くと目を合わせないまま、こう告げる。
「実はその……もう何年もこの森で薬草園の管理をしていまして、それで毎日が手いっぱいで……。人に会うのも実は数年振りだったり……。それで、森の外の事はあまり……。昔はそれなりに人の出入りもあったみたいなんですけれど、今はこの有り様ですから」
彼女はそう呟くと、一枚の絵を指差した。
そこに描かれていたのは、彼女の祖母なのだろう。もう随分と擦り切れて大まかな概要しか見て取れないが、数名の女性と共に描かれている。
――だが、そこには彼女らしき姿はなかった。
「私も昔は恥ずかしながら、旅芸者になって色々な土地を巡るのが夢だったんです。まぁ、それも今となっては随分と昔の話なんですけど、ね。今はここでこうして、薬草園を昔みたいに戻す事が私の夢ですから……そうしないといけませんから」
それは素敵な夢だと思う。目標に向かって歩いている彼女は尊敬出来る筈なのだ。
しかし、なんだろう。素敵な夢である筈なのに、どこか歪に感じてしまう。
ただ、それは私が口を挿んで良い話のようにも思えない。私は彼女の事を何も知らない。まだ会ったって日が浅い。赤の他人でしかない。ただ、偶然交わっただけ。
でも、それでいいのだろうか? 香料士であるなら。困っている人を目にしたら、手を差し伸べるのが本来の姿なのではないのだろうか?
きっと、師匠なら何も言わずに――。
そこまで考えた所で、私の頭にマリンさんに言われた言葉が過ぎ去っていった。
『香能は強過ぎれば体に害を為す毒にもなり得るの。コロンも薬も変わりない。本来は毒に等しいの。その香能を利用しているだけ。度が過ぎれば命だけじゃ済まないわ』
私の香料士としての腕は未熟。認定されても、結局はこうして失敗続き。
分からない。まだ、マリンさんが私に何を伝えようとしていたのか。
その答えが私にはまだ見えない。けれど、ここで彼女が何かに苦しんでいる姿を見て見ぬふりをして、私はこれから先も香料士である事を誇れるのだろうか?
香料士と胸を張って名乗り続けられるのだろうか?
私は師匠に憧れて香料士になったのに。誰かに救いの手を差し伸べる師匠の背中に憧れて、いつか私も誰かの力になりたい。そう思って香料士になった筈なのに。
「祖母が死んで誰からも見捨てられたこの薬草園をここまで戻すのには随分と苦労しました。もう、嫌になって逃げ出そうとした事も何度もありました。でも、やっと軌道に乗り始めたんです。どれだけかかるか分かりませんが、それがきっと私にとっての……」
彼女は何かを言いかけると、苦笑いをしながらこんな言葉で締めくくる。
「変な事を聞かせてしまってごめんなさい。久し振りに誰かと話してたら楽しくて、つい」
「あっ、いえ別に気にしていませんから。それに、まだ動けないみたいですし、こう暇を持て余してますからおしゃべりなら大歓迎です」
ころころと変える彼女の表情――それのどれが本当でどれが嘘なのか。はたまた、全てが本当でどこにも嘘なんて存在しないのか。
戸惑いを覚えてしまうが、やはりこの人は――人が恋しいのだろう。
それに、薬を作る腕は確か。こんな森の奥地に籠り、燻っているのは非常に惜しい人。
私なんかと違い、才能に満ち溢れていて。輝かしい道があって。
求めていたモノがそこにはあって。でも、私にとっての当たり前がそこにはなくて。
羨ましいと思ってしまう反面、彼女の事を憐れんでしまっている自分がいる。
まぁ、それを置いてもレナさんとは別の意味で大人びた雰囲気を持っており、女性らしい身体つきをしている。実に妬ましい。特に胸とくびれの辺りが……。
「そう言えば、まだ名乗っていませんでしたね。私はエリナ・スケルター。エリナと呼んで頂いて構いません。私にはスケルターと名乗る資格はありませんから」
スケルターとは恐らく、家名。それを名乗る資格がない、か。
それなら、私は一体なんと名乗ればいいのだろう。
もしも、彼女に家名を名乗る資格がないのなら、私には家名なんてないに等しい。
孤児だった私にはそれは……きっと……。
気が付くと、エリナさんは私へと手を差し伸べていた。
握手なのだろう。私はすぐにはその手を握ることは出来なかった。
怖いとか、嫌だとかそういう感情ではない。ただ、ふわふわした不確かな感覚。
私が彼女と友達になってもいいのか。私なんかでもいいのだろうか。
でも、そんな自問自答に答えなんて出る筈もなくて。気が付けば私はエリナさんの雪のように白く冷たい手を握りしめていた。
「私はレスティナ・ティンカーベルです。ティナと呼んで下さい。レスティナだと長いので、みんなその愛称で呼びますから」
私はそうエリナさんに告げると安静にする為に再びベッドに横になり、眠り始める。
本当なら、今は眠りたくはない。でも、今の私にはそうする以外にすることはなく、頭の中で色々な事を考えながら私は意識を闇へ沈めていくのだった。
私が意識を取り戻し、三つほどの日を跨いだ。
エリナさんの当初の見立て通り、少しばかり身体に違和感は残っているものの順調に回復する兆しを見せていた。身体を動かしただけで感じていた痛みは引き、まだ歩き回るのは難しいがベッドから起き上がる程度の運動ならば問題もない。
私はベッドの上で日課になった軽めのストレッチをすると、再び横になった。
暇だ。こうして、ベッドに横になっていると体がうずうずしてしまう。
普段からジッとしているのが性に合わない人間な上にここずっと、ベッドの上。それだけにいつも以上に身体を動かしたくてしょうがない。
そんなベッドの上でごろごろしていた私の様子に、湿布の交換をする為に部屋を覗きに来ていたエリナさんは苦笑いを浮かべながら、新しい湿布を取り出した。
「その様子なら、もう大丈夫そうですね。違和感に関しては自然と気にならなくなっていく筈です。あとは歩けるまでになれば日常生活には問題ない筈ですけど、無理は禁物ですよ? 横になっていた事もありますし、身体も弱っているので……」
「分かってます。分かってますって。これでも、足腰は鍛えてますから! 自分の身体の限界は良く分かってますもん。こんな怪我をした人間がいうようなセリフじゃないけど」
まだ絶好調とは言い辛い。ようやく、半分程度だろうか。
私は身体を起こすとエリナさんが包帯を取り換えやすいように大きく伸びをしてそのままの体勢になる。当然、ベッドの外では足をぶらつかせて。
「言ってる事とやってる事が反しているようにも見えて心配ですけど……。確かに気持ちは分からなくもありませんが、休息を取り身体を労わる事も時には大切ですよ」
「分かってます。それにしても、一週間の間、本当にありがとうございました。この前も、わざわざおばさんに手紙を届けてくれたみたいで、本当に感謝してもしきれなかったり。帰ったら、怒られるだろうけど……はぁ、みんなどんな顔して迎えてくれるやら」
「そうでしょうか? やさしそうな人だったそうですよ。随分とティナさんの事を心配してらしたそうですので、早く顔を見せてあげると喜ばれるんじゃないでしょうか」
心配か。アトリエを空けてから随分と日を跨いだ。その上、音信不通。
何も言わずに飛び出している事もあり、泣かれてしまうかもしれない。私、成人しているんだけどな……。こんな背丈でも一応は……。見えないかもしれないが。
まぁ、手紙が来たと思ったら大怪我をして動けない。
そんな事を言われたら、顔を合わせた時に何を言われても仕方がないか。私でもきっと色々と小言を言ってしまうかもしれない。愛情とはそういうモノだと聞くし。
「そうですね。でも、こうして立ち止まって見て初めて知りました。こんなに時間ってゆっくりと流れていたんだなって……。それで色々と考えちゃって……。もしかして、ジュリアおばさんもこんな風に感じていたのかな」
「私には分かりませんが。――ずっと一人なのでそんな風に思える人がいるのはとても羨ましいです。気付いた時にはもう遅いですから。その繋がりを大切にされるといいと思いますよ。貴方にとってそれはきっと――かけがえのない宝物ですから」
私ではない誰か。まるで、そんなここにいない人物に語りかけるようにエリナさんはつぶやくと、どこか哀しげに微笑みながら、私にハーブティーを差し出してくる。
ここ三日間はずっとこれを飲んでいるが、本当にエリナの入れるお茶はあきない。飲んでいるだけで温かい何かに包まれ、心がゆっくりと静かになっていく。本当に美味しい。
香能とは違うのだが、もしかして似たようなものなのだろうか。
雰囲気に酔うような。――ただ何も考えることなく、落ち着いた時間を過ごす。時間の流れに自然体のまま身を任せるように。
本当にエリナさんは凄い人だと思う。薬にしても、ハーブティーにしても素材の持ち味を引き出し、その時にあったその人の為の物を作ってしまう。
同い年くらいの同業者。なのに、そこには歴然たる差。大き過ぎる壁が二人の間には横たわっている。それだけに負けてはいられないと何かが胸の奥底で燃え始めた。
エリナさんだって頑張っているのだ。私もここでへこたれている訳にはいかないと。
「そう言えば前から気になっていたんですけど、どうしてエリナさんはこれだけの薬草園を一人で切り盛りしてるんですか? これ程の腕があれば外でも十分に活躍できますし、この薬草園を立て直すにしてももっと別の方法もありますよね」
薬を調合する技術。お茶を淹れる腕。薬草を管理、育成する知識。
これらの技術一つ一つが並大抵の努力では手に入れられないモノだ。
才能もあるだろうが、多くの経験による知識の蓄積。努力の賜物。エリナさん自身がこれまで、育んできた時間の結晶とも言えるモノである筈なのだ。
だが、それは私の思い違い。いや、勝手な押し付けだった事を思い知る事になる。
「そうかも知れません。でも、私は一人でこの薬草園を立て直さなければならないんです」
エリナさんはそう告げると、祖母の絵の前に立ちその絵をそっと撫でた。
「前にも言いましたけど、昔は私もこの森を飛び出し、広い世界へと羽ばたいて行く事を夢見ていました歌を歌うのが好きで大勢の人の前で歌いたいなんて考えてましたから。本当に幼かったなと今では思いますけどね。夢は……いつか覚める。覚めてしまうんです」
その言葉。いや、その後悔の滲み出る表情に拳を震わせる事しか出来なかった。
本当は違うと否定したかった。夢だから覚めるなんてことはない。叶える事も出来る。だから、私は香料士を目指したんだ。って、そう言いたかった。
でも、その言葉が私の喉から出て来る事はなかった。
エリナさんの過去に何があったのかは私には分からない。けど、夢を挫折するだけの大きな出来事があり、きっとそれが彼女をここに縛り付けているのだろう。
三日間。それぽっちの短い期間かもしれないが、それだけの間でも分かった事はある。
それに、私は彼女に助けてもらった恩を返せていない。お節介かも知れない。嫌われるかもしれない。マリンさんに知られたら、絶対に止められる事は目に見えている。
けれども、それでも私は何かに苦しみ続けているエリナさんを――友達の悩んでいる姿を見て見ぬ振りするという選択肢を私は選ぶことが出来なかった。
絶対にエリナさんを、彼女を救ってみせる。
私は胸の中でそう決意を固めると目を閉じて、拳へ力を込める。
「幼くなんてないです。とてもいい夢だと思います。私にはエリナさんが何を考え、その夢を諦めたのかまでは分かりません。けど、それを夢見て頑張っていた時間を否定しないで欲しいです。だって、そうじゃなければ、そんなに辛そうな顔はしない筈ですから」
これが私の精一杯の言葉だった。否定も肯定も出来ない宙ぶらりなどっちつかず。
でも、そんな私の言葉にエリナさんの雰囲気が確かに変わった。
「あぁ、そう言えばティナさんはリーン草を探してここに来たんでしたよね。少しだけなら分けられると思いますから、どれくらい必要か教えて貰えませんか? 品質劣化を抑える下処理もしておかなければなりませんから」
エリナさんは私の言葉を真正面から向かい受けるのを拒み、それから逃げるかのように私の欲していたリーン草へと話を逸らした。
その様子に私はエリナさんがまだ過去に未練を持っていると確信すると、更に決意を固める。そして、マリンさんからの依頼『コロン十瓶』を最速で終わらせられるように、はっきりとした口調でこう答えるのだった。
「十五束で十分です。あまり、貰い過ぎても痛ませちゃいますから」
十瓶作れるか作れないかギリギリのライン。だからこそ、その十五束に全てを賭けよう。
それが出来なければ、きっとエリナさんの為にアロマを作るなんて絶対に不可能だから。
「もっと、持って行ってもいいのだけど、ティナさんがそれだけでいいと言うなら無理強いするのは良くないわね。分かったわ。私のほうで質の良いのを見繕わせて貰います」
そう言うと、薬草園に行くのか私を小屋に残し、エリナさんは一人どこかへ行ってしまった。まるで、何かから逃げるかのように……。
それにしても、こうして家主のいなくなった小屋は静寂が支配している。
ただ、薪のパチパチという音が響く。時折、森を抜けて来る風が窓に吹き付ける。
室内には先程のハーブティーの残り香が漂い、その残滓を私は思いっきり吸い込んだ。
「私も頑張ろう。私も私なりに頑張って――アロマを作るんだ」
アロマは人の心の傷を癒す事が出来る。魔法の薬だ。
私も実際にそれがどういう意味なのか。完全には理解出来ていない。
知識としてアロマの存在を知っているだけだ。あくまで知識として。
これまで、一度もアロマを作った事がない。何度か実物を見た程度だ。
そう、何度も旅先で苦しむ人を救う師匠の姿を見てきた。この両瞼の裏にその光景は今も焼き付いている。人々を救い、正しい道へと導く香料士の姿が。
そして、そんな師匠のようになる為に私は香料士を目指した。
何かに苦しんでいる人を救う。そんな香料士になりたい。
「目標も目的もはっきりした。でも、今はちょっとだけお休み……」
私はそう決意を新たにすると再びベッドへと体を横たえ、まどろみへと沈むのだった。
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