第二章 魔女
第一話
一度自宅へ戻り、出歩く事の出来る服へと着替えると白銀の蝶に残っていたリーン草の匂いを覚えさせ、農家のおじさんが牛を用いて耕している畑を抜ける。
そして、一ヶ月ぶりに町の外へと探索へ出かけてから既に数刻――。
何故だか分からない。分からないのだが、本来ならこの辺り一帯に群生している筈のリーン草を全くもって見つける事が出来なかった。
辺りに広がるのは何かを刈り取って出来たどこまでも続く長い砂利道と群生している何にも使えないいわゆる雑草だけだ。
止血や火傷の治療、鎮痛効果がある薬草でもあるのできっと今のこのご時世を考えると、薬を大量生産する為に刈り取ってしまってもう残っていないという事なのだろう。
だとしても、ここまで来て何も見つけられないまま帰る訳にもいかない。
片道だけで相当時間を喰っている。ただ、やっぱり帰りを考えるとそろそろ限界か。
勢いで飛び出しただけに夜間の装備を用意していない。このまま夜になってしまえば、辺りは暗闇に包まれてしまい周囲の様子も方位すらも分からなくなってしまう。
野犬や野生動物に襲われたらひとたまりもない。もしも、傭兵崩れのような連中にでも出食わしてしまえば……想像したくもない。
それに、運よく出食わさなかったとしても携帯食料がない。
既に日も暮れ始めた事だし、今日はこの辺りが頃合いか。
ここは無理せず一度アトリエまで戻り、準備を整える。そして、翌日改めて遠出するという方法を取るというのが堅実な答えなのだろう。
そう思い、自分の周りをひらひらと舞っていた白銀の蝶を回収して日が暮れる前にアトリエまで帰ろう。……とするのだが、気が付けば白銀の蝶は何故かどこにも見当たらない。
それだけに言葉を失ってしまう。その事実に混乱し、どうしていいのか分からない。
アレは香料士の証でもあるのだ。あれがなければ、香料士を名乗れない。
「えっ……!? 嘘でしょ! なんで! あれがないと……どこ、どこに行ったのよ!」
大慌てで辺りを見回すのだが、どこかに止まって羽を休めている訳ではなさそうだ。
だとしたら、一体どこで何をしているというのだろうか。見付けなければ……。
深く深呼吸して、まずは気持ちを落ち着ける。動揺しても状況は悪くなる一方だ。
冷静にどうしてかを考えてみる。どうして、白銀の蝶の姿が見えないのか。
この場合、考えられる可能性で高いのは、白銀の蝶の機能の一つ。『匂いを覚えさせた材料を探す』――つまり、捜索範囲を拡げ過ぎた為に見失ってしまったという事。
簡単に言うと、完全な私のミス。……その結論に思わず溜息が漏れてしまう。
何をやっているのだろう。私は……。って、落ち込んでいるような暇はどこにもない。
私は顔を上げると、足を止めず辺りを見回す為に高台へと足を向ける。
確か、記憶が正しければ白銀の蝶を授かる時に蝶の位置を知る方法について何かを聞いた筈だ。えーっと……確かこんな言葉だったと思う。
『汝、証の在り処を道として指し示さん』
私がそう呟くと、どこからともなくキラキラと煌めく鱗粉の道がゆっくりと目の前に姿を現した。まず、一先ずは安心してもいいという事だろうか?
私にだけ見える道。これを辿れば、自ずと白銀の蝶の下へと辿り着ける。
問題があるとすれば永遠に鱗粉が漂っている訳ではなく、数時間ほどでその痕跡が消えてしまう事だろう。それがなければ、一度アトリエへと戻る選択肢を選べるのだが……。
現状でそれを言っても仕方がない。
高台から見る限り、鱗粉の道は街道から逸れ北西の方角へと一直線。
フラフラと左右に揺れていない事から推測するに、きっとリーン草を見付けたのだろう。
ただ、問題があるとすれば蝶の向かった先にあるのはうっそうと茂る森。妖精が住み、一度入ると出られないと噂されている村の人間もあまり近寄らない曰く付きの場所だ。
森の中には野犬や狼がいるという話も聞く。それに今は戦争が終結したばかりで治安が良いとは言い辛い。もしかしたら、傭兵崩れが森の中に隠れ住んでいるかもしれない。
「出来れば、森の中に入る前に追い付ければいいんだけどな……」
普通の森ですら一度入ってしまえば方向を見失ってしまい易くなる。もしも、そうなってしまえば、無事に森を抜けるのは非常に難しい。
前回のギルド認定試験を受ける為の旅でも、師匠との旅でも不用意に森の中に入る事だけは避けるようにしていた。そして、入るにしても装備を整えていた。
だから、出来る事なら森に入る前に何とかしたかったのだが……。どうやら、悪い予感は当たってしまったらしい。本当に足が重い。
銀色の鱗粉。風に揺らめくその道はまっすぐに森の奥深くへと続いており、木々の作り上げた暗闇の中で輝いている。しかし、どこまで続いているのか、先が全く見えない……。
その上、気のせいだろうか? 森の奥からは不気味な遠吠えが聞こえる気がする。
「…………はぁ。でも、こうなったら覚悟を決めるしかないよね」
僅かではあるが、銀色に輝く鱗粉の道が薄くなり始めている。
ここで迷って立ち止まっていては本当に喪失もあり得てしまう。急がなければならない。
もしも、そうなってしまえば笑い話にすらならない。とてつもなく、不味い事態だ。
未来の姿と現実の恐怖との狭間で震える脚を抑え、唾を飲み込み覚悟を決めると私は夕暮れ時の薄暗い森の中へとザクザクと音を立てながらゆっくりと入って行った。
森の中の様子を表すならば、『暗い』の一言に尽きるだろう。
夕方時という時間帯もあるのだろうが、まるで夜の闇の中に迷い込んだかのようだ。
その上、似たような木に不気味に張り付いたツタ。自分がどちらに向かって歩いているのか分からない。この状態で本当に森から出る事が出来るのだろうか?
目印になっている銀の鱗粉がなくなってしまえば、確実に迷子になってしまう。
どこからか聞こえてくる羽音に背筋が凍る。ガサガサという物音に固まってしまう。
それでも歩き続け、奥に入り込むと辺りに生い茂る植物の様子がガラリと変化した。
街道とは違い人の手が入らない森。の筈なのだが、なんだろう。
この辺りでは見られないような不思議な植物。その様子に少しだけ違和感を覚えた。
だが、今はそんな事はどうでもいい。
大事なの白銀の蝶を確保する事。ついでにリーン草の発見だ。
これだけ多種多様な植物があるなら、きっとリーン草もこの森の中ならばあるかも知れない。きっと、風に流された匂いに反応して白銀の蝶は森の奥へと誘われたのだろう。
しかし、興味深い植物がたくさんある。これなんて確か、図鑑で見たが食当たりによく効く他国の薬草で煎じて飲む……ってこんな事をしている暇なんてなかった!
急がないと本当に道標が失われてしまう上、身を震わせて辺りを警戒しながら夜を明かさなければならなくなる。夜行性の動物に襲われたりしたら……止めよう。頭が痛い。
「それにしても、こんな森の中に入る事になるならもっと服を選んでおくべきだったな」
白銀の蝶は後から追いかけて来る私の事などお構いないように藪の中を迂回せず、まっすぐに突っ切っている。けれども、それは人間である私には難しい。
でも、遠回りなんてしている余裕もある訳がなく、その藪の中を身を小さくして何とか潜り抜けるのだが、服から見え隠れしている肌は木々に引っ掛かり、きり傷だらけ。
当然、服の方も枝に引っかかった時に解れが出来たりしている。
これは帰ったら服の方も新調しなければならなそうだ。この服、お気に入りだったのに。
そんな事を考えながら、顔をあげると目の前に広がっていた光景に言葉を失った。
信じられない。その言葉以外には思い浮かばない。
先程までの鬱蒼とした森とは違う。人の手の行き届いた美しい薬草園。
まさに宝の山とでも言うべきそれが目の前に広がっていたのだ。
「えっ? なんで、こんな所に薬草園なんて……。しかも、こんなに手が行き届いてる」
こんな場所に領主さまの薬草園があるとは考えられない。
それにこれ程までの薬草園ならば、風の噂を聞いていてもおかしくはないレベルだ。貴族様でもここまでの薬草園を経営している人はいないかもしれない。
でも、そうだとすれば誰の土地だろう? ここが私有地であるならば、白銀の蝶を見付けて早々に立ち去るべきだろう。そうしなければ、厄介な事態にもなりかねない。
リーン草については諦めた方が良さそうだ。
私はそう結論付けると、駆け足で白銀の蝶を探す為にその薬草園の中を駆け回る。
だが、運が悪い事に背後から狼らしき遠吠えがいくつも聞こえてきた。近い。多い。
しかも、遠吠えだけではなく、私の方へと走って来る足音まで聞こえ始める。
「えっ! 嘘でしょう! どうしよ……」
野犬にしろ、狼にしても隠れてやり過ごすのは無理だ。臭いで追跡される。
追い着かれたら……考えたくもないが、肉を噛み千切られ、骨までしゃぶられてこの森の肥やしとなってしまうだろう。想像しただけで顔が青ざめてしまう。冷汗が止まらない。
やっぱり、こういう時は木に登ってやり過ごしたらいいのだろうか?
時間がない。どうしよう……。背後から荒い息遣いまで聞こえてきた。
「って、見つけた! 本当に勝手にどこまでも飛んで行かないでよ……」
登れそうな手頃な木を探して薬草園の中を見回していると、その一角。
リーン草の生い茂った区画を白銀の蝶が優雅に舞っていた。私の気も知らずに。
私は大急ぎでその白銀の蝶を素手で捕まえると、アドの入っているポケットとは反対の懐へ押し込んだ。そして、生き延びる為に必死になって木へと登ろうとするのだが、幾らか上った時、急ぎ過ぎたのか手を滑らせてしまう。
「えっ……嘘でしょう……」
ゆっくりと身体が落ちていく。しかも、運が悪い事に落ちた先は急斜面。
無意識の内に私は頭を丸め、小さくなる。時の運に任せ、斜面を転がっていく。
だが、どんな身を守ろうとしても転がるうちに何度も身体を地面にぶつけ、全身に激痛が走る。その上、坂を転げ落ちる速度を維持したまま、崖下にあった木の幹へ衝突。
背中からぶつかった事もあり、肺の中の酸素を全て吐き出してしまう。
体中が焼けるように熱い。先程、身体を打ち付けた場所が悪かったのか、立ち上がるどころか動く事すらままならない。目が霞んでしまう。
いつの間にか、アドが私を起こそうとポケットから出て鼻先に噛み付いているが、そんな小さな頑張りも無駄に終わり、私はゆっくりと重い瞼を閉じていく。
どこからか土が崩れる音と共に足音が聞こえてくる。気が付くと耳元で生暖かい息がかかる。そして、仲間を呼んでいるのか狼が遠吠えが響いた。
あぁ、私はここで食われてしまうのか。でも、これなら痛みも感じる暇もなさそうだ。
やりたかった事、まだまだたくさんあったけど……悔しいな。
生きたまま、食われるのか生温かい何かが私の頬を舐める。
仲間だろうか、私の下へ駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。
私は苦笑いを浮かべると、ゆっくりと暗闇の中へと落ちて行った。
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