第一章 初仕事

第一話

 私の朝は早い。今日はいつもとは違うが、普段は鶏の一声と共に目を覚ます。

 どうやら、昨日は帰って来たままの服で寝てしまったらしい。宴会の途中から記憶がなく、どうして自室で眠っているか分からないが恐らくは連れてあがってくれたのだろう。

 寝惚けた頭で軽く髪形を整えると、服を脱いで全裸になる。

 相変わらずの貧相な体だ。私はそんな事を考えながら、布を胸に巻いて行く。

 そして、上から服を羽織ると、かるくペットのアドの様子を確認する。

 どうやら、旅に連れて行って貰えなかった事に不貞腐れているのか、餌を用意していても顔すら見せてくれない。もしかして、嫌われてしまったのだろうか。

 ただ、あまり時間を浪費する余裕はない。私は微睡の中をふわふわしながら階段を降り、家の裏手にある井戸へと辿り着くと水を組み上げ、顔を洗い意識を覚醒させる。

 あぁ、またこの村に戻って来たんだ。そう実感するのだが、香料士としての一日はまだまだ始まる事はない。朝一番の大仕事が待っているからだ。

 ジュリアおばさんのもう一つの仕事。そのパン屋のお手伝い。

 私がするのは焼くパンの準備。そして、村の人達への配達程度。

 見ず知らずの私を引き取り、住まわせて貰っている恩義から始めた毎日の日課だ。

 私とは違い、日が昇るよりも早く起きるジュリアおばさんは殆んどの下準備を終えて、パンを焼く為に石釜に火を投入していた。

「おはよう、ジュリアおばさん……久しぶりに自分の家で寝るとよく眠れた気がする……」

「あぁ、ティナかい。おはよう。ようやく起きたんだね。まぁ、遠出の疲れが残っていたんだろうさ。そりゃ、よく眠れるってもんだよ」

 えっ? ようやく? それにもう、下準備を終えてパンを焼き始めている? 

 もしかして、寝坊した? そう言えば、今日は随分と目覚めが良い気がする。

「あれ、今日はいつもよりも早くから始めてたの? ちゃんと言ってくれたら……」

「いつも通りだよ。疲れてたみたいだから、起こさなかっただけでね」

 どうやら、寝坊確定らしい。しかも、気を遣われていたようだ。しかし、そうなってくるとパンが焼き上がるまでの間、本当に何もすることがない。

「うっ……ご、ごめんなさい。そ、それで、な、何か手伝えるような事あったり……」

「もうあらかた片付いちゃったからね。焼き上がるまでそこでゆっくりしてな」

 挽回しようと何かする事はないか尋ねるもあえなく撃沈。私はパンの焼ける良い香りを嗅ぎながら、椅子に座ってじっと焼き上がるのを待つはめになる。

 そう言えば、今回の旅で外の世界に触れて分かった事があるのだが、首都の方とこの地方では生活様式から何から何まで随分と違う事に驚かされてしまった。

 身近な所で言えば、こうして毎日見慣れていた筈のパンもまるで違うのだ。

 まず、この地方のパンは固くて歯ごたえがあるパンで暗めの独特な色をしている。けれども、都会で食べられていたパンはもっと明るめの白。その上、柔らかく口の中でもちもちとした触感が楽しめる不思議なパンだった。

 その違いを不思議に思ってお店の職人さんに聞いてみたのだが、どうやら首都のパンはライムギではなく、小麦を挽いて粉にした物を使っているらしい。

 どうやら、前者は黒パン。後者は白パンと呼ばれており、向こうでも黒パンと呼ばれる物を探せば似たような物は食べられるという話だ。見かけなかったが……。

 こちらでは小麦は出回る事なんて殆んどない高級品で普段から使えるような代物ではない。畑で育てられているのだって、基本はライ麦。つまり、材料からしてまるで違うのだ。

 しかも、しかもだ。その柔らかいパンになんと、果物を甘く煮詰めたトロトロとしたジャムと呼ばれるものを贅沢に乗っけて食べていたのである。

 風邪などの特別な時に食べる事の出来る蜂蜜とは違うその独特な甘酸っぱさと不思議な触感に流石の私も目を丸くして驚いてしまった。

 恐らくだが首都には貴族様も多く住まわれている為、小麦や砂糖が広く出回っているのだろう。この辺境にも少しばかり、安く出回るようにして欲しいものである。

 そうすれば、ライ麦パン以外にもパンの種類が増えると思うのだけれど……。

 因みに、私はこの固いパンの方が好きである。きっと、慣れ親しんでいるからなのだろうが、柔らかいパンは食べた気にならない。やはり、重要なのは満腹感だと思う。

 ただ、私がそんな事を考えているともうすぐ焼き上がりそうになっていた。

「えっと、今日の予定は私の分を含めて十五個……って、今日はいつもより少なめだね」

 いつもはこの倍近い数を用意するだけに、常連の名前が何名か抜け落ちているこの注文が本当に正しいのかと私は首を傾げてしまう。

「まぁ、昨日はあれだけ飲んだり騒いだりしてたからね。今日は仕事にならない連中も多いのだろうよ。まぁ、足りなければ昼頃にまた焼けばいいだけの話さ」

 ジュリアおばさんは石釜の中のパンの焼き具合を確認しながら、額から滴る汗を拭う。

 確かに昨日の宴会――私も途中から記憶がない。

 お酒を飲んでいた人達の中には完全に酔い潰れてしまっていた人もいると考えると、確かにジュリアおばさんの言う通り今日は休業している人も多いのかもしれない。

 だが、そうなると明日の仕入れと反動の注文……これは明日は地獄になるぞ。

「あはは、もう少し考えて宴会すればいいのにな。みんな、もう年なんだから」

「それだけ、アンタがちゃんと戻って来た事が嬉しかったって事だよ。毎晩のように酒場に来ては、アンタはまだ帰って来ないのかって尋ねられていたからね」

「そうだったんだ。それじゃ、そろそろ私の方も始めますか!」

 簡単にエプロンを身に着けると、私も注文の品を作る作業を開始する。

 数が少ないからと言って、手を抜いて良い訳ではない。仕事は仕事なのだ。

 焼いたパンをサンドイッチにする為に地下室からチーズを運んでくると、薄くスライスしていく。そして、朝採れたての新鮮なトマトを水洗いし、リズムに合わせてナイフでサンドイッチの具材へと加工していく。

 レタスを洗った後、水切りしておく事も忘れない。

 それが終わると、最後の具材。ベーコンかハムか。

 その二択から今日のメインを気分で選ぶのだが、今日はどちらにしよう。

 いつも、この場面で非常に迷う。食材管理を考えれば……って、どうなっているのだろう。良く考えれば、私は結構な期間、離れていたから分からないじゃないか。

 えっと、昨日は宴会で確か……ベーコンが出ていたっけな?

「そう言えば、昨日はベーコンの方がたくさん出てたみたいだけど、残ってる?」

「あぁ、そう言えば確かに少しだけ残ってたね。そうだ、使い切っちまいたいからサンドイッチの具材に使っちまって構わないよ。欠片しか残ってないし、もったいないからね」

 なら、快く使わせて――と、思ったのだがこのベーコン。結構な質のモノな気がする。

 確かに欠片しか残っていないのだが、サンドイッチに使うのは少しばかり勿体ない気もする。けれど、残しておいても店には出せないのもまた事実だ。

 これは今日のサンドイッチは非常に豪勢なものになりそうである。

 ただ、そうなってくるとやはり、卵は外せない。

 この注文票によれば、宿屋のおばちゃんがチーズがダメ。畑仕事をしている最年長のおじいちゃんが卵がダメ。眼鏡美人なレナさんは確か……私と同じので問題なかった筈。

 記憶を頼りにそれぞれの特徴を思い出しながら、それぞれの注文にあった材料を用意する。パンが焼き上がると同時に仕上げられるように熱せられたフライパンへとバターを落とし、それを回すようにして溶かしていく。

 ぶくぶくと泡を吹きながら液体になると同時にベーコンを焼き始めるのだが、その肉の焼ける美味しそうな香りを嗅いでいるだけで涎が出てしまいそうだ。

 辺り一面に広がる肉汁の香り。目の前で焼き上がるベーコン。

 その相乗効果もあってか、私のお腹は根負けしてしまい大合唱を始めてしまう。

「そう言えば、朝がまだだったね。一仕事終わったら、すぐに準備するから少し待って貰えるかい? 今、手を離す訳にはいかないからね」

「い、いえ! お気になさらないでもいいですよ! べ、べっつに食い意地が張っているとかそういう訳じゃなくてですね。そ、その……」

 私は沸騰したかのように顔を一瞬で真っ赤にすると、手作業はそのままに口では自分でも良く分からない事を言い始めてしまう。

 ここ最近、宿屋で起きるとすぐに朝食を食べていた事もあったから時間的なリズムが出来上がっていたのだろう。だが、それにしても恥ずかしい。

 聞かれてしまった上に気を遣われている。

 このまま何もなかったように振る舞うのはもう無理だ……。

 本当に自分の生理的欲求が憎い。何故、こうも静かな時を狙うのか。

「……あ、あの。なんだか、急かしてたみたいになって本当にごめんなさい……」

「別にいいよ。それに、これからはこの後にレスティナも自分の仕事を始めるんだ。ちゃんと朝を食べておかないと、お前は小さい上に細いんだから倒れちまったら大変だろう?」

 そんな会話をしていると、パンが焼けたのか石釜からパンを取り出し始める。

 私の方もベーコンが美味しそうに焼き上がり、それをサンドイッチにしていくのだがその完璧な焼き具合に摘み食いという誘惑に駆られてしまう。

 けれども、これは売り物。売り物だ。食べて良い物ではない。

 自分に何度もそう言い聞かせながら、誘惑に負ける前にと慣れた手つきで手早くサンドイッチを仕上げていく。考える暇もない程に。

 そして、一通りの作業が終わるとこの中の一つが自分の昼食である事を思い出す。

 時間的には早過ぎる昼食。それどころか、朝飯前――とても魅力的な誘惑なのだが、私はその誘惑をごくりと飲み下すとフライパンに残った肉汁を舐める事で我慢するのだった。

「ジュリアおばさん、配達用のサンドイッチは全部完成したよ。朝御飯を食べ次第、配達に行ってくるね。えっと、領主さまのお館の方まで――でいいんだよね? 確か」

 レナさんもいるとなれば、領主さまの屋敷までいかなければならない。

 ほぼ、村を一周する形になるだろう。これは時間がかかりそうである。そんな事を考えていたのだが、ジュリアおばさんはその配達用のバックを私からそっと取り上げた。

「いや、これは私がやっておくよ。お前にはアトリエの準備があるだろう?」

「えっ? でも、これは私の仕事だよ……?」

 配達は私の毎日の日課。毎朝、配達するついでに挨拶をして村の中を駆け回っていた。

 しかし、ジュリアおばさんの言う通り、確かにまだ見ぬアトリエの様子も気になってしまう。場合によっては湿度や空調の調整もしなければならないだけに時間は必要だ。

 機材の点検も考えると開業は今日中には無理かもしれない。

「気にしなくていいんだよ。これは私の仕事さ。レスティナのやりたかった仕事はこれじゃないんだろう? お前にはお前の仕事がある。さぁ、朝御飯にしようかね。まぁ、パンと昨日の残り、簡単なスープ程度しか出せないけどね」

「な、何か勘違いしているみたいだけど、別に旅の間に豪勢な食事なんてしてませんからね! 確かにいつもの黒いパンじゃなくて白いパンが出た事もありましたけど、やっぱり物足りなかったですし……ジュリアおばさんのパンが一番ですから!」

「おやおや、言ってくれるじゃないか。そこまで言われたら、これからも頑張らないとね。レスティナも香料士。仕事一日目――頑張りなよ?」

 一週間前に焼かれた固いパンと温め直されたスープを受け取ると、小さな木製のテーブルに私とジュリアおばさんは向かいあって座る。

「今日も生きとし生けるもの全てに恵みを与え、私達の心と身体を支えて下さる豊穣の女神イリスの恵みに感謝します。この糧に力づけられ、今日も良き行いを行えますように」

 食事前の豊穣の女神イリスへのお祈りと食事への感謝を示すと、食事を始める。

 久しぶりのジュリアおばさんの食事だ。昨日は大騒ぎで味わう余裕なんてものはなかったが、この酒屋で出されている労働者向けのスープ。濃い目の味付けだが、こうして久し振りに飲んでみるとその美味しさと懐かしさを実感させてくれる。

 何より、この黒パンに少しだけそのスープを吸わせて食べると絶品なのだ。

「そう言えば、今日からアトリエを開業するとして、ちゃんと仕事はあるのかい?」

「まだ、一日目では流石にあるわけないじゃない。依頼だってマリンさんからの試験しかないし、本格的な店開きはまだまだ先ですよーだ」

 きっと、これからちゃんとやっていけるのか内心ジュリアおばさんも心配なのだろう。 それ以降、なんでもない普段通りの会話を弾ませながら朝食を終えるとジュリアおばさんはすぐに配達へと向かってしまう。

 私は残された皿を洗い、一通り室内の掃除を終えると不貞腐れて顔も見せてくれないペットのアドの様子を見る為に自室へと顔を出す。

「アドー? そろそろ、機嫌直さない? ほら、今日は美味しいチーズだよ?」

 先程、サンドイッチを作った際に出た屑を持って来たのだがそれでもやはり顔を出してくれない。これは相当、嫌われてしまったようである。

「そろそろ、出掛ける時間だからここに置いて行くね」

 アドには悪いが、いつまでも構っていてはわざわざ配達を代わってくれたジュリアおばさんに申し訳がない。この時間はアドの為ではなく、新しい一歩の為の時間なのだ。

 私はそう考え部屋を後にしようとするのだが、私の手をかけ上がると服のポケットへとアドが潜り込んで来る。きっと、アトリエへついて来るつもりなのだろう。

 だが、アトリエには仕事柄、刺激臭が頻繁に充満する事になる。それを苦手とするアドには流石に酷なだけに連れて行く訳にはいかない。

「ごめんね。帰ったら遊んであげるから……」

 私はそう言い聞かせてポケットからそっと籠の中へと戻すと鍵をかけ、抑えきれない気持ちに小走りと鼻唄を交じわせながら私のアトリエへと向かうのだった。

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