第3話 「挟」

 家に帰り、部屋着に着替えるとベッドに体を横たえた。

 ミナトとの飲み会は刺激的であり、少々体力を使う。コヒナタの体には言いようのない達成感と確実な疲労感が同時に襲いかかっていた。


 ふぅ、とため息をつきながら寝返りをうってみる。

 8畳のワンルーム(キッチン付き、風呂トイレ別)という広さであり、家具も最低限のものしかないが、コヒナタは十分に満足していた。自分だけの城があるというだけでもコヒナタは嬉しかったし、この場所で生活を営むことができるだけの生活力があることにある程度の満足があった。


 去年までのコヒナタだったら、部屋を見渡すことで満足感を得て、その日一日の行動を振り返り、仕事の反省をほんの少しだけして、眠りについていた。しかし、今は違う。仕事が一つ増えてしまった。

 眠りに付こうと思っても、閉じた瞼の裏に彼女の長い髪の毛が映り、何も聴こえていないはずの耳には彼女の声が響く。どれだけ掻き消そうと思っても、その姿や声はむしろ現実味を帯びながらコヒナタの体の中にはびこる。


 彼女は、今年度の異動で配属された、はずだった。コヒナタにとって、その出来事は自分の行動範囲の完全に外側だったので、そのことを知ったのは少し後のことだった。

 コヒナタはもちろん、顔が広いミナトですら「朝」部門の職員とは滅多に顔を合わせることはない。「朝」と「夜」の総合会議は違う運営部署が行い、そこでの決定事項、連絡事項が現場のコヒナタたちに下りてくるため、やはり現場にいる職員同士が会うことはない。だから、コヒナタが彼女の存在を知ったのも、ミナトから聞かされた連絡事項が最初であり、彼女の存在に直に触れたのはやはりあの「受話器」だった。


 コヒナタは自分が今抱いている気持ちを「恋」である、と全面的に肯定することに踏み切れない原因はここにもあった。彼女は「朝」の住人であり、コヒナタは「夜」の住人である。この境目は厳然としてコヒナタの前に立ちふさがっていた。

 

 コヒナタも週3、4日しか働かないものの、生活リズムは完全に「夜」中心にまわっている。休みの日はもちろん「朝」の時間帯に動くことはできるが、やはり翌日の仕事を考えると朝にあまりにも活動をし過ぎると「夜」の12時間勤務に響いてしまう。だから、いつも太陽が昇ると同時にコヒナタは家に帰り、「朝ご飯」を食べて、風呂に入ってそのまま寝てしまう。通常の人間の生活(太陽が昇っている時に活動して、夜に寝ることがどこまで『通常』であるかは保証できないが)とは完全に逆のリズムが定着している。


 彼女は「朝」の住人で、いわゆる「通常の生活」を送っている。コヒナタと彼女が所有する時間は決して交わることはない。

 同じ星に住み、同じ星でつくられた食べ物を食べ、同じ星の空気を吸っているものの、違う時間を生きているだけで、コヒナタにとっては違う世界を生きているのと同じだった。

 もちろん、ミナトのように積極的にアプローチをかけるだけのエネルギーがあれば時間の壁を超えることはできるかもしれない。しかし、コヒナタにはそれができるだけの非凡さと度胸を備わっていなかった。これまでの人生で、彼は平凡を愛しすぎたのである。

 この平凡が崩れることを恐れ、平凡が続くことを愛する彼にとっては、彼女に対してアプローチすることは、やはり恐怖であった。彼女に対する想いを「恋」と定義しないのも、一種の防衛行動であったのだ。


 しかし、それでもコヒナタには割り切ることは出来ない。

 ミナトが言うような願望がコヒナタの中にないわけではない。

 彼女の髪の毛に触れてみたいという気持ちだってある。高校の時には思春期の男子なりの恋愛だってしてきたつもりだ。恋愛をしたいという気持ちだってある。彼女への想いを肯定したい気持ちだってある。

 しかし、それを「朝」と「夜」の関係が阻んでいるのである。


 コヒナタは、この仕事に就くまではこんなことで悩むことになるとは全く思っていなかった。「夜」を中心とした、日光を浴びなくなる生活に染まることができるかどうか、という心配はあったものの、時間の壁のせいで積極的に恋愛ができなくなるかもしれない、という悩みに到達するほどコヒナタはロマンチストではない。


 コヒナタはどうにもならないことについて悩んだ。コヒナタの悩みが深まれば深まるほど、それをあざ笑うかのように、カーテンから差し込む光は明るくなっていく。カーテンの向こうには、輝かしい世界が広がっている。でも、僕の前に広がっているのは広大な闇と、圧倒的な静寂の世界だ。そこに、恋の輝きは待っていない。


 コヒナタは、ここに来て初めて自分の境遇を呪いはじめた。

 もし、「朝」部門に配属されていたら。もし、別の部署に配属されていたら。

 そういう仮定を考えないようにはしているが、やはり自然と頭の中に湧いてきてしまう。

 

 たまらなくなって、ベッドから体を起こしてキッチンへと向かう。蛇口を捻り、コップを水で浸す。それをぐい、と飲みほして一つ息を吐く。

 喉は潤うものの、コヒナタは自分の中の何かが乾いていることを自覚していた。


 家のドアの向こうからは朝特有の人々の声が聴こえてくる。

「おはよう」と交わされる挨拶が耳に飛びこむ。

 その一言を、彼女に言いたい。

 太陽の下じゃなくてもいい。彼女に直接対面して、そのたった一言を言いたい。

彼は心の中で強く願った。

 しかし、その願いは「朝」の喧騒の中に溶けて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る