第2話 「恋」
「無理無理。付き合えないよ、そんなの」
上司であるミナトはそう言い放ってビールをぐいっと飲み干した。ジョッキをどん、と勢い良く机に置くと縁についていた白い泡がはねた。
二人は、行きつけの居酒屋で対面して飲み交わしていた。時刻は「朝」の7時半。こんな時間に営業している居酒屋はこの星にはこの店をいれて2軒しかなく、おのずと飲む店が限られてくる。
店内にはコヒナタとミナトの他に客はいない。こんな時間から酒を飲もうなんていう酔狂な人間はいない、が、この店はなぜだか開店している。
照明はほどよく落とされていて、少し薄暗い。窓はなく、外の光は差し込まない。ここは一日中「夜」の空間を演出している。その物静かな部屋の中に、ミナトの無遠慮な声が響く。
「別に、諦めるとか諦めないとかそういう問題じゃないって言ってるじゃないですか」
コヒナタはウーロン茶が入ったコップを頼りなさげに持って応える。
「なんでだよ。その朝部門の子のことが好きなんだろ」
「好きじゃないです。気になってるだけですよ」
「うるさいな。好きって感情に量的な定義なんて存在しない。一滴でも好意の気持ちがあれば好きってことになるんだよ」
「だからミナトさんは女性関係が派手なんですね」
「派手で何が悪い。持っていることは富だ」
何日も剃っていない無精ひげをわしわしと手のひらでこすりながらおつまみを口の中に放り込んだ。髭とは対照的にきっちりとセットされた髪の毛が店内の照明に照らされて輝く。
元々、この夜部門の所属はコヒナタとミナトの二人しかいない。この星の一週間は前任者の転勤の関係でコヒナタはこの部署に配属された時、このミナトが待ち構えていた。
一週間の7日間をこの2人でまわしている。どうしても「夜」の間はマシンの前についていなければならないため、1日の労働時間が12時間になってしまう(その間は常に数値を安定させなければならないため、仮眠を取ることができない)。それが激務とみなされ、週に3日ないし4日を働くことになっている。週4で働いた次の週は週3、というシフトでなんとかやりくりしている(ミナトの権力によって強引に連続で週4を任されることもたまにはあるが、それも上下関係のうちか、とコヒナタは諦めている)。
「好きな女の子を自分のものにしたいとかどうこうしたいとか思わないわけ?」
「だから、好きとか付き合うとかじゃないんですってば」
「往生際が悪いやつだな。気になってる女の子がいたらとにかくアタックするんだよ」
ミナトは矢継ぎ早に言葉を浴びせる。
「押してダメなら引いてみろっていう言葉はみんな誤用してるんだ。女は扉だ。体当たりで押して明かないなら、ドアノブを握りしめて力任せに引っ張るんだ。そうすりゃいずれは開くに決まってる」
「どういうものを食べればそういう思考に辿り着けるんですか?」
「経験だよ。俺の主食は経験だ」
「ナルホド」
こんな力任せの会話を繰り広げるミナトではあるが、コヒナタはミナトのことを嫌ってはいない。もちろん、口はこの通り悪いし、悪酔いしがちだし、特定の女性との付き合いがなかなか続かない。
しかし、後輩想いであることは間違いない。ミナトの仕事終わり(今日のように朝になってから)ご飯にコヒナタを誘い、奢ってくれるのは同じように単身のコヒナタを気遣ってのことだ、とコヒナタは希望的に観測している(もちろん、遊ぶ女の子がいない日の埋め合わせという名目が大きいだろうが)。
その希望的観測の根本には、研修期間のミナトの姿にある。
配属された時、初めてこの「夜」を製造するマシンに触れたコヒナタに、口は悪いながら、親身に、かつ非常にわかりやすく指導してくれたことによってコヒナタの中にミナトへの信頼感が生まれた。
それから3年の付き合いの中で、ミナトの良い面も極悪な面も見ることで、ミナトの悪態への耐性も出来た。ミナトとのコミュニケーションの中で最も大切なことは、「まともに取り合わないこと」だ。
「とにかくだ。コヒナタには欲望が不足している。欲求不満じゃない。欲求不足だ。絶対量として欲求が足りてないんだよ」
「様々な言い方で僕の人物像を形容しないでください」
「でもまぁ確かに、あの娘はかわいいよなぁ。俺も電話の声を聴くたびにドキドキしてるんだぜ。この俺がよ」
ミナトからの「好きな女の一人や二人いないのか」という質問にうかつに彼女の話をしたことが運の尽きだった。
ただ、コヒナタの言葉に偽りはない。
確かに「朝」部門にいる「彼女」のことを気になっていることは間違いない。ミナトではないが、受話器から聴こえてくるほのかな澄んだ声を聴くと胸が高鳴る事は間違いないし、受話器を置くときには必ず向こうの建物にいる彼女のことを一目見てしまう。
しかし、そのことが恋愛感情に結びついているかどうかはコヒナタには言い切れない節があった。
彼女について知っていることは声と外見だけだ。内面については何一つ知らないし、生い立ちや好きなものなんて全くわからない。こんな状況で女性のことを好きになったと言ってもいいのだろうか。
「コヒナタ。お前しゃべったこともない女のことを好きになるなんて不純だ、なんて思ってるんだろ」
まるでエスパーかのようにミナトは言ってのけた。こういうところが抜け目なく、油断ができないとコヒナタはいつも油断しないようにしているが、ミナトはそれを一枚も二枚も上を行く。
「そう顔に書いてある。お前は中学生か。天下の『夜』部門技師の肩書が泣くぞ」
「別に、そんなこと考えてないです」
「そうかいそうかい。まぁ仮にそう考えてるのだとしたらそれはただの思い過ごしだ、コヒナタ」
ミナトはにんまりと不敵な笑みを湛え、じっくりとコヒナタの眼を捉える。
「好きって感情はもれなく不純なんだよ」
そう言ってから、大きな声でビールのおかわりを頼んだ。
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