第1話 「夜」
コヒナタは職場に出勤し鞄を置くと、マシンの主電源を入れた。
コヒナタの前に聳える巨大なマシンは、半日の睡眠から目覚め、ごうんごうんという仰々しい音を立てながら活動を開始する。僕の小さな体を布団からひきはがすことすら指南の業なのに、ここまで大きな体を奮い立たせるのはさぞかし大変だろうな、と思いながら床から響いてくる駆動音を体で感じた。
コヒナタはマシンの前に設えてある椅子に腰掛け、その巨体と対峙する。マシンの巨大さが、この椅子のこじんまりとした印象を際立たせる。自分のちっぽけさを昨日と同じように噛みしめながらマシンを操作する。
「
天候調整技師の腕の見せ所はこの最初の設定である。
自転を一年に一回しかしないこの星にとって、日光は最大の恵みであると同時に、最大の脅威でもある。
もちろん、日光が照らなければ人間は生きていくことはできない。作物は育つことはなく、せっかくぴかぴかに洗った洗濯物だってじめじめとしたままだ。しかし、一日中裸の日光を浴び続ければ、逆に食物はカラカラに乾き、ろくに育たない。洗濯物は早く乾いていいかもしれないが、やはり昼だけでは人間は生活できない。
しかも、恒星との距離が近く、摂氏でいうところの70度近くまで気温が上昇してしまう。なんにせよ、そのままでは住むことは出来ない。
だからこそ、技師の手によって日光の量を調整する。気温の上昇をなだらかにして、人間が生活するのに適した気温まで調節している、らしい。それは「昼」の部門技師が行う仕事であり、「夜」の部門技師であるコヒナタにはその技術がどのようなものかは詳しくは知らなかった。
「夜」部門であるコヒナタは、降り注ぐ日光を「遮断」することが専門だった。
自転が一年に一度しかしない星であるだけに、昼の面は常に恒星を向いているため、太陽が地平線に沈むことはない。常に頭上で燦々とその勢力を誇っている。それでは地球から移住してきた人間が適応することができない。
だからこそ、人間は「夜」を創り出した。
「夜粒」と呼ばれている特殊な粒子を空気中に散布することによって、空から降る日光をほぼ全反射させ、宇宙空間に向けてはね返し、強制的に「夜」を創っているのである(コヒナタも理論上では理解しているものの、実際はなぜそうなっているかは実感としてわかっていない)。
コヒナタの前にある巨大なマシンは、「夜」を製造、増幅、散布するためのものではあるが、この技術が確立したのはほんの10年ほど前であり、改良の余地はまだまだあった。コヒナタ自身も、マシンを操作しながら「なんて操作性の悪いマシンなんだ」と心の中で悪態をつきながら作業をしている。地球のテクノロジーであれば、機械はことごとく極小化され、「持ち歩く」という概念すらも最近ではなくなりつつある。コヒナタの世代が電話をする時に声を発していたのだが、今の機種では脳波を音声にする技術が確立し、声を出す必要もなくなり、それに従ってマイク、スピーカーの必要性もなくなり、通信機器は耳たぶの部分に小さなマシンを取りつけるだけでよくなった。
そんな時代に育ってきたコヒナタが、この場所で最初にこのマシンに出会ったときの驚きと呆れは大きなものだった。まだ、この世にはこんな大きな機械が存在するんだ、と呆れを通り越して感心してしまったほどだ。
しかし、3年も付き添っていれば操作性の悪さにも慣れ、ある種の愛着まで湧いてきた。「夜」を創造する技術は、この星でしか使われないため技術開発のための援助があまり無く、機械の性能がよくなることは一向にない。今はやはり火星開発が地球連合政府の目下の大目標であり、惑星建設予算のほとんどはそこに割かれてしまう。こんな銀河のはずれのはずれにある小さなド田舎小惑星に割く費用などほとんどないのだ。そのことはこの星に住む人なら誰しもがわかっていることであり、それに異を唱える者もいなかった。
地球では掃除も料理も洗濯もほぼオートメーション化されている中、この星ではそのほとんどが手作業でなされている。技術の搬入もまだまだ遅れている。ただ、この星の住民はそのことを少しよろこんでいるようにも見える。
相変わらずマシンはごんごんと大げさな音を立てて働いている。コヒナタは長いこと散髪にも行かないためぼさぼさになったままの髪の毛をかきむしりながら調整を続ける。黒ぶちの眼鏡も最近は度が合わなくなってきて小さなスイッチがぼやけて見えてしまう。ずり落ちてくる眼鏡を何度も直しながら、操作盤に顔を近づける。
気象条件は毎日変化する(それもマシンによって制御されている)ため、散布する量、領域は違ってくるものの、大きな差ではなく、微妙な違いであるため毎日することはそこまで変わらない。ほぼ毎日職場に来ては同じようにマシンのスイッチをいれ、うるさいまでの駆動音を肌で感じ、ぼやけるスイッチを操作しながら「夜」を創造するということをひたすらに繰り返す。職場には基本的に一人しかいない。仕事中に喋る人間もいない。普通の人間だったら、退屈の渦に巻き込まれて出られなくなるかもしれない。
コヒナタはそんな毎日が愛おしかった。
平凡に「夜」を創造し、平凡に「朝」が来て、平凡に一日が繰り返されていく。その中でさらに平凡な自分の体が生きていく。そのことに何の不満も持っていなかったし、コヒナタにとってはその事実は「退屈」ではなく「安定」だった。
人並みに努力をし、なんとか試験をパスして、はれて公務員としてこの職業につけたことをコヒナタは精一杯よろこんだし、この平凡な繰り返しを目いっぱい生きてきた。
しかし、今年の三月。そんな平凡な繰り返しが瓦解してしまった。
その日の分の散布調整も終わり、どかっと椅子の背もたれに体重を預けて、黒いジャケットに包まれた細い腕を頭の後ろで組んでみせた。このわざとらしいポーズも、どこか無意識に心の中で平静を保とうとしている証なのかもしれない。
コヒナタは自らの鼓動が高鳴るのを見逃すことは出来なかった。
どうしてもそわそわしてしまう。どうしても落ち着かなくなってしまう。
しかし、それが悪い感覚ではないことも同時に自覚していた。
もうすぐ、時計が「夜」の時間に差し掛かる。「ジカン」も「境界の広場」に到着する頃だ。
その時、コヒナタの背後にある電話が高らかに鳴った。
コヒナタはびく、と体を震わせて反応する。そして、誰もいないのに照れ隠しをしながら椅子から立ち上がり、電話の方へと歩み寄る。腕と同じように細い脚を一歩一歩前へと出しながら受話器に近付いて行く。
そして、少しだけ汗ばんだ掌で受話器を取り、ほんのりと赤くなった耳につけた。
「もしもし」
受話器から声が聴こえる。
「はい。『夜』部門です」
コヒナタは応える。なるべく心に浮かんでいるニュアンスを言葉に含ませないようにしながら。
「『朝番』、終了いたしました。引き継ぎをよろしくおねがいいたします」
その声は、今日も透き通っていた。
高いというわけではない。「澄んでいる」、という表現の方がしっくりくる。
「了解しました。お疲れ様です」
コヒナタは言い、受話器を置いた。
それと同時に窓ガラスの向こうに視線を向ける。
「朝」部門の社屋と「夜」部門の管理棟は隣り合って建てられている。マシンの巨大さもさることながら、その日の気温、風向き、気圧などの詳細な膨大な気象情報を補完するために社屋が別々に設置された。別々ではあるが、構造は殆ど一緒で双子が佇んでいるような外観になっている。
「夜」の調整室からは、「朝」の調整室の様子を見ることが出来る。
だから、今日もそこにいる「彼女」を見ることができた。
電話から聴こえてくる、澄んだ声の主。受話器を置いて、「夜」部門と同じように巨大なマシンの方へと歩いて行く。黒く、長い髪がさらさらと揺れる。コヒナタは、一瞬だけその光景に見惚れる。
まだ、頭の中に「彼女」の声が鳴っている。
まだ、掌には汗がじんわりと浮かんでいる。
コヒナタは、その余韻に浸りながら、「夜」を創り出す主の方へと戻って行った。
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