第30話 「叫」
「なんて不安定な『夜』なんだ。この建物にしか『夜』が訪れてないじゃないか。とうとうおかしくなったかい、コヒナタくん」
どんな状況でも「人夜」の口調は変わらない。人を嘲るような乾いた笑いを含んだ声で、軽快に語る。
「やっと変わるのを辞める決意でもできたのかな」
「うるさい」
コヒナタは「人夜」を、自分の分身を見る。
あれは、自分だったんだ。
他でもない、自分の姿であり、自分の声であり、自分の想いだったんだ。
抑圧され、忘れようとしていた声を、こいつは拾いあげていたんだ。
「僕はいつだってコヒナタくんの味方だよ」
自分は、いつだって自分を甘やかそうとしていた。
「僕は、甘えてただけなんだ」
「いいじゃないか。人は何かに甘えながら生きていくものじゃないのかい? 信じることっていうのはつまり甘えることと同じだろう? 自分の思考を停止させて、他者を盲信するってことは甘えることに他ならない。でも、それは人間にとって必要不可欠じゃないか。いいんだよ、コヒナタくん。君は悪くない。人はみんなそうなんだ」
「人夜」は、やはり甘い言葉をかけてくる。これも結局コヒナタの心の中から出て来た正当化なのだ。
「前に踏み出すこともせずに、そこに立ち止まっていればいいんだよ。変化をしてはいけない。変化をするということは、破滅に近付くだけなんだよ。コヒナタくん、そこに立ち止まるんだ。他者との出会いなんて、ただの障害でしかない。君がここまで苦しんでいるのも、誰にも死んでほしくないと悩むのも、君に新しい出会いがもたらされてしまったからだろう? 誰とも出会わなければ、コヒナタくんはそんな気持ちになることはなかったんだ。すぐに自分だけ逃げるという選択肢が取れたはずなんだよ。ほら、人との出会いは、君の変化は、君に破滅を、死をもたらす。僕の言った通りだろう」
コヒナタはその言葉を聞いても、「人夜」から目を離さない。
「逃げよう、コヒナタくん。全てを置いて、逃げるんだ。まだ間に合うよ。君が助かってくれれば、僕はそれでいいんだ。それだけが僕の幸せだ。僕は、コヒナタくんの味方なんだからね」
「ごめん」
コヒナタの口から出たのは、謝罪の言葉だった。
「なぜ君が謝るんだ。謝る必要はない。君は逃げればいいんだ」
「僕は、間違ってたんだ」
「そうだよ。君は間違っていた。誰とも出会うべきではなかったんだよ。でも間違いは正すことができる。また新しい世界で、生きなおせばいいじゃないか。全ての出会いを放棄して、変化をせずにそこに留まればいいんだ。そうすれば、君が傷つくことはなくなるんだ」
「ちがう。そこじゃないんだ」
コヒナタの心には、どこか平穏が広がっていた。
いつも「人夜」と対峙するときに抱いていた怒りや焦りは存在しない。
「僕はお前を否定することばかり考えていた。お前を否定することが、僕を保てる手段だと思っていた。お前と闘って、お前を倒して、お前を蹂躙してそして前に進むことが、僕は成長だと思っていた。でも、それは間違いだったんだ」
それまでの「人夜」との会話を思い出す。
「人夜」の言葉を否定するということは、つまりそれは、自分の一部を否定することだったんだ。
「多分、僕が生きている間、お前を完全に倒すことなんて絶対にできない。僕の中には罪の意識だってあるし、不安だって弱みだって絶対に存在する。それを否定したら、僕が僕でなくなるんじゃないか」
罪も、不安も、弱さも、自分の一部だから。
「僕ができるのは、やっぱりお前と一緒に、君と一緒に、僕と一緒に歩いていくことしかないんじゃないか。僕と君は敵じゃない。僕は君であり、君は僕なんだ。そんな簡単なことに、今さら気がついたんだ」
コヒナタは「人夜」に歩み寄る。
「人夜」は、何も言わない。ただ、漆黒の闇をコヒナタに向けている。その暗闇の中に、なんの表情もない闇に、コヒナタは自分の顔を見た。
「一緒に歩こう。君と一緒に歩くことが、僕のできる唯一のことだ」
「人夜」の目の前で立ち止まり、ゆっくりと右手を差し出した。
「握手をしよう」
コヒナタの顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
「はずかしいけど、握手をして仲直りをしよう」
「夜粒」は、「夜」は、そこに立ちつくしている。
「こんなことを言うのは、人間では初めてだ」
「人夜」はぽつりと言った。
「人間はいつだって自分の弱さを否定したり、戯化したり、自ら虐げてみたりして自分の心を守る。そうしなければ、人の心は壊れてしまうから」
この言葉に、いつもの軽快さはなかった。「人夜」は過去を振り返るように、ゆっくりと言葉を編んでいく。
「この星を回るあの生物ですら、悩んでいた。自分はこんなところで走っているだけでいいのか、ってね。僕らは眠っていいんだよ、ゆっくりと眠る権利は君にはあるって言ってあげた」
「人夜」は少し俯いて、コヒナタの右手に顔を向ける。
「一度は眠ったけれども、もう僕の言葉を聴くことはなかった。僕と一緒に、この星を回り続けた。朝の世界も、夜の世界も。あんな経験は初めてだった。そして、人間では、君が初めてだよ、コヒナタくん」
やっぱり、ジカンは解放された生物なんだ、とコヒナタは確信する。
「僕はジカンのようには強くない。時には自分を責めるし、自分を虐げる。でも、それだって自分の一部なんだ。僕は自分を切り捨てることなんてできない。全てと手をとって、僕は歩いて行きたい」
ミナトの言う「忘れられない罪の意識」のように。
ホシノの言う「忘れたい過去」のように。
それらと手を取って、一歩一歩歩いていくしか生きる手段はないんだ。
「だから、握手をしよう」
窓の外にも「人夜」と同じような漆黒が窓の外にも広がっている。
誰にだって、こんな闇の部分は帯びている。しかし、それを太陽で無理矢理照らそうとしても逆に闇は濃くなるばかりだ。人の心の中にも、「朝」と「夜」は存在する。そしてその「朝」と「夜」は交互にやってきて当然なんだ、とコヒナタは思う。
「本当は僕らも」
「人夜」は言う。
「寂しかっただけなのかもしれないな」
「人夜」もその右手を差し出す。
そして、ゆっくりとコヒナタの手を握りしめた。
「夜」の中に、僅かな温もりを感じる。
その温もりは自分のものなのかもしれない、とコヒナタは自分に想いを巡らせる。
「そんなわけで、君に頼みがあるんだ」
「なんだい、コヒナタくん。僕らに頼みごとをするのも君が初めてだ」
「人夜」の言葉の中に軽快さが戻ってくる。
「君の家に纏わりついている爆弾を外してほしいんだ」
「あぁ、あの邪魔っ気なやつか。ちょうど僕もうざったいと思ってたんだよ」
「人夜」はコヒナタの右手を話し、コヒナタの背後にあるマシンに向く。
「少しだけ待っててくれ」
そう言うと、外で蠢いている「夜粒」が窓からざざざっと侵入してくる。「夜粒」が闇の塊となって、マシンを一気に覆い、部屋の一部が漆黒の闇と化した。粒子が渦を巻き、大きな竜巻を形成する。しかし、音はしない。静寂に包まれた竜巻は、自分の棲家を覆う。
10秒ほど経つと、マシンを覆っていた闇は一斉にマシンから離れ、その光景を立ちつくして見ていたコヒナタの方に向かう。
「これだろ。5個も張り付いてた」
コヒナタが両手を出すと、その上にコイン状の小さい物体が5つ乗せられた。
「僕にできるのはここまでだよ。起爆装置はまだ作動したままだ。あとは、コヒナタくんがどうにかするんだ」
「ありがとう。恩にきるよ」
「夜粒」は窓の外に飛び出し、そこにあった「人夜」も段々と姿を消していく。
「勘違いしないでくれ」
「人夜」はぽつりと言う。
「生命がある限り、そして僕らがいる限り、僕らは君たちの背後に現れる。君たちが忘れた言葉を集めて、君たちに浴びせる。もちろんコヒナタくんにもね。それだけは忘れないでくれ」
「まったく、迷惑な話だよ」
闇は渦巻き、外に解放される。
「人夜」の闇が、少し微笑んだようにコヒナタには見えた。
「じゃあ、またね。コヒナタくん」
「うん。また」
「忘れないで。僕はいつだって、君の味方だ」
同じようにそう言い残して「人夜」は去っていった。
「ミナトさんにも、聴こえてましたか」
ミナトを見ると、コヒナタから少し離れたところで窓の外をじっと見ていた。
その頬には、一筋だけ跡が見える。
「俺も、間違っていたんだ」
窓の外を見ながらミナトは言う。
「間違っていたんだな」
「多分、みんな、間違えているんです」
コヒナタぎゅっと5つの爆弾を握りしめる。
「でも、また前に進むことはできます」
そして、走りだした。
勢い良くコントロールルームを飛び出す。
もう、コヒナタには起爆までどれだけの時間が残っているのかはわからない。しかし、自分がやらなければ、自分がやらないと、この星の人々に明日はやってこない。
「僕が、明日を連れて、来ないと。僕は、僕が、やらなきゃ」
階段を駆け下りて、管理棟から出る。
コヒナタは、一瞬だけ「朝」の管理棟を一瞥する。
彼女にも、新しい一日をもたらさなくては。
彼女が歩くことができる、一日を連れて来なければ。
「朝」の管理棟に別れを告げて、近くに停めてあった愛車に跨る。
「頼むよ。僕を、なるべく遠くまで、連れてってくれ」
キーを差し込みエンジンをかけ、アクセルを全開にして発進する。
ミナトさんの、パトリシアさんの、メグミの、この星の人々の、そして、ホシノさんの、明日を消滅させるわけにはいかないんだ、その言葉だけがコヒナタの体を支配していた。
愛車はどれだけエンジンをふかしても時速80キロまでしか出ない。しかし、今のコヒナタはそんなことに頓着する余裕すらもなかった。コヒナタに出来ることは、ただ前に進むことだけだった。
自分だけが犠牲になれば、などということもコヒナタの頭にはない。
ただ、前へ。前へ進む。
その意志が、コヒナタの体を突き動かしていた。
「遠くへ、遠くへ」
コヒナタは言う。
風を切り裂いて、前へ進む。
右手には、爆弾がしっかりと握られている。
「遠くへ!」
自然と、コヒナタはジカンが進む通路の上を南へ向かってひた走っていた。
舗装されていない自然のままの通路は、愛車に大きな振動を加える。
「もっと、もっと遠くへ!」
コヒナタがそう叫んだときに、遠くに物体が見えた。
灰色に輝く体が、遠くに見えて、だんだんと大きくなっていく。
ジカンだ。
「境界の広場」をすでに通過したジカンが、夜の世界に向かって走っていく。
コヒナタの愛車のスピードは今ジカンが走るスピードよりも速い。
そして、すぐにジカンの横まで追いつき、ジカンのすぐ左について走る。
ジカンはいつもと変わらずのんびりした表情で前を向いて走っている。すぐ横を並走するコヒナタのことを少しも気にしないかのように前へと進み続けている。
「またね、ジカン。僕は行くよ」
ジカンの顔をじっくりと見てから、アクセルをまたふかして、スピードを上げてジカンを追い抜いた。
しかし、それは起きた。
スピードアップした愛車に、ジカンがついてきたのである。
コヒナタは驚愕する。
自分が走るスピードを上げることも緩めることもなく、常に一定のスピードで走り続けていたジカンが、スピードを変化させてコヒナタのバイクに追いすがってきた。
そんなことあるはずない。
眠ることもこれまでの歴史の中になく、スピードが変わることもまたこの星の歴史の中では存在しない事態だった。
「どうしたんだよ。どうしたんだ、ジカン」
コヒナタは思わず左を走るジカンを見て言う。
「危ないんだ! 離れてくれよ。もうすぐ爆弾が爆発するんだ。少しでも、遠くにこれを運ばなきゃいけないんだ。離れろ!」
コヒナタがそう言っても、穏やかな表情を変えずに、走り続ける。いくらコヒナタがスピードを上げても、コヒナタの横をぴったりとついてくる。
「離れてくれよ!」
しかし、コヒナタの言葉が耳に届いていないかのように、ジカンはスピードを緩めることをしない。
「お前を、お前を死なせるわけにはいかなんだ。お前がいなかったら、この星に明日がやってこないじゃないか。お前は、この星の時間なんだよ。だから、わかってくれよ。離れてくれ!」
コヒナタがそう叫んでも、ジカンはスピードを落とす気配はない。むしろ、体を離すどころか、だんだんとコヒナタが乗る愛車に近付いてくるようにも見える。
「どうして、どうして近付いてくるんだよ。なんでわかってくれないんだよ!」
ジカンは6本の脚を器用に使って、砂塵を勢いよくあげながら走る。ハンドルを持つコヒナタの手にも、その足音や振動がびりびりと伝わってくる。この6本の脚で明日を連れてくる。コヒナタにとって、この星の人々にとって、この足音は明日の象徴だった。
「 」
コヒナタの頭に、声が聴こえた、気がした。
声にならない声。声というよりは、波のような振動。
「 」
コヒナタは、その声に従ってハンドルから右手を離し、手をそっと開いた。
その掌には小さな小さな爆弾が載せられている。
この星の営みを滅ぼす、その爆弾が。
「 」
その言葉が聴こえた直後、ジカンは走りながら大きく口を開いた。
コヒナタは目を瞠る。
次の瞬間には、コヒナタの掌に載っていた爆弾を、全て口に含んだ。
「 」
声が聴こえる。
ジカンの表情は、変わらない。
いつものように、穏やかな雰囲気に包まれている。
生きる苦しみも、死への恐怖も感じさせないその安らかな表情。
しかし、その足並みは常に人々を明日へと導いてきた。
そして、この瞬間も。
一瞬だけ、ジカンは脚をぐっと縮める。
次の瞬間には、ジカンの体は弾けるように前に進んでいた。
それまでのスピードとは全く比較にならないほどの爆発的なスピードで。
衝撃がコヒナタの体にも伝わり、愛車がぐらりと揺らぐ。慌ててコヒナタはバイクを停止させる。
瞬きもしていないほどの刹那にジカンの体は遥か彼方へと去っていった。
そして、地平線へとジカンの体が消える。
これが、ジカンの本当の速さだ。
夜の世界を、星の外周の半分をわずか2時間で移動するほどの超高速。
その速さで、ジカンは爆弾を夜の世界に持ち去った。
まるで、ホシノが言っていたように、昨日までの記憶を夜の世界に封印するように。
ジカンは、朝の世界から去った。
コヒナタはその光景をただただ立ちつくして見ることしかできなかった。
「ジカンが、僕らに、明日を連れて来てくれるんだ」
一歩。
「明日を、持ってきてくれるんだ」
また一歩。
「僕らの、ために」
また一歩、コヒナタは前に進んでいた。
歩みは進められ、自然と歩幅は広くなり、速さも上がる。
いつの間にかコヒナタはジカンの通路の上を走っていた。
白い地面を。裸のままの地面を。
靴底を伝って、暖かくも固い地面の感触がコヒナタに届く。
コヒナタは、走った。ジカンの背中を追って。
そのうちに、コヒナタの目からは涙がこぼれていた。
大粒の涙が、どんどん溢れて行く。
溢れた涙は、白い地面に落ち、黒く滲む。
コヒナタは泣き叫んだ。
コヒナタの意識とは別に、目から涙が、喉からは叫び声が出てきた。
脚は止まらない。涙は止まらない。叫びは止まらない。
時は、止まらない。
数秒後、遥か遠くで閃光が上がった。
巨大な白い閃光は、空高く、天を衝くような勢いで上がっていく。
コヒナタはまた叫ぶ。
ぐしゃぐしゃになった顔で、また叫ぶ。
閃光が上がってから数秒後、けたたましい爆発音と、衝撃波と、地響きがコヒナタの体にびりびりと伝わって来た。しばらくの間、地面がぐらぐらと揺れて、足を取られる。
しかし、コヒナタは脚を止めない。
二本の脚を不器用に使って、前へ、前へ、前へ、前へと進んでいく。
自分がなぜ走っているのかわからない。
自分がなぜ泣いているのかわからない。
自分がなぜ叫んでいるのかわからない。
しかし、コヒナタは泣き、叫び、走った。
コヒナタは、ただ走った。
コヒナタは、ひたすら走った。
コヒナタの走る方向には、確かに来るべき、「明日」があった。
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