第23話 「解」

「すごい。本当に真っ直ぐ伸びてる」

「あんまり乗り出すと危ないぞ」

「だって本当にすごいんだもん。しかも、こんな土が露出してる場所なんてそうそう見られるものじゃないし。すごい。土だ。土ってこんなに白いんだね。すごい」

 メグミは橋から身を乗り出して何度もすごい、すごいと繰り返した。

 

 5時半になってやっとミナトは職場へ行き、パトリシアは自宅へと戻っていった。コヒナタも自宅に帰ってのんびりしようと思ったのだが、メグミが「どうしてもジカンが観たい」と言ってきかなかったので、仕方なくいつもコヒナタが仕事終わりに仕事を眺める橋まで歩いてやってきた。

 現時刻は午後5時57分。ここより少し北にある「境界の広場」を過ぎて、もう少しでジカンがやってくる。空には分厚い雲が立ち込め、冬の寒さを視覚的にも演出している。夏の暑い時期でも、冬の寒い時期でも、関係なくジカンはやはり走り続ける。

「なんでジカンは走り続けているんだろう」

 メグミは橋の手すりにもたれて、ぽつりと呟いた。

「私だったら絶対無理。三日で飽きる。現実逃避して違う星に逃げる」

 メグミは遠くの方に視線を向けながら言う。

「多分、何にも追われていないんじゃないかな、ジカンは」

「何にも?」

「うん。期限もない、意義を見出す必要もない、意味を付与する必要もない。そんな境地に立ってるからこそ、ジカンはいつまでも走り続けるんじゃないかな」

「でも、ジカンはこの星にとってすごく重要な意味を持ってるじゃない」

「そんな意味、人間が勝手に見出してジカンにくっつけてるだけだよ。人間が今までずっとしてきたことだ。世界は、人間が意味を付与するからこそ世界が成り立つんだ」

「ふぅん。お兄ちゃんもそんな小難しいこと考えてるんだ。意外」

「小難しくなんてないよ。当たり前のことだろ」

「だったら、世界を成立させてあげてる人間様が偉いってこと?」

「違う。偉くなんてない。そうしないと生きていけないだけだ。生きることを成立させるために呼吸をすることは全然偉くないだろ。それと同じくらいのことだよ。人は、何か意味を見出さないと死んでしまうんだ。そんな呪縛から、ジカンは解き放たれてる」

 コヒナタも道の向こうを見る。

 

 遠くから小さな点がこちらに向かって移動してくる。

 だんだんとその点は大きくなり、つやつやとした灰色の体がはっきりと目で捉えられるようになる。

「学問もそんなものかもね」

 メグミはあくまで淡々と言う。

「もともと因果関係のないところにわざわざ意味を見出してくっつけたりはがしたり。別にそんなことしなくたって物事は成立するのに。でも、そうしないと学問は発展していかない」

 ジカンが地面をしっかりと踏みしめる音がコヒナタの耳にも届く。

「人間は絶対にその呪縛からは解かれない。人間はこれからも自然に対して意味を付与し、利用し続ける。だから、こうしてジカンを眺めて、その呪縛から一瞬でも解放された気になりたいんだ、と思う。少なくとも、僕は」

 六本の脚がもつれずに整然と動き、大きな体を推進させる姿がはっきりと見える。

「お兄ちゃんらしくない」

 メグミはくすくすと笑った。コヒナタも微笑む。


 どどどっ、と足音が響く。そして、コヒナタとメグミが待ち受ける橋を通過する。あっと言う間にジカンは過ぎ去り、『夜』を連れてきて、また明日に向かって去って行く。

 メグミはジカンが通過するとすぐに体を翻し、右、左と車が来ないことを確認してから道を横断し、走り去って行くジカンの背中を目で追う。コヒナタもその後についてジカンを眺めた。


「私ね、安心した」

 しばらくジカンがいなくなった通路を見詰めていたメグミが口を開く。

「学生時代はクラスの少ない友達がいたからよかったけど、こんな田舎の星に来て、上司が一人しかいないって聞いて、友達も出来ずにひとりぼっちで寂しく暮らしてるんじゃないかって心配だったんだ。心配してたっていうか確信してたっていうか。お兄ちゃん、自分から積極的に友達作れるような人じゃないし」

 切なげな表情で厳しいことをびしばしとコヒナタにぶつける。

「ま、でもそんな心配も杞憂だったみたい。あんなうるさい上司さんもいるし、あんなかわいい美容師さんとも友達になって。楽しそうでよかった」

 メグミは、いつも悪戯っぽい笑顔ではなく、柔和な笑顔を空に向けて、そう言った。

「まぁお母さん方がよっぽど心配してたけどね。私は別にそこまででもないっていうか。お兄ちゃんを一人前の男にして社会人として送りだせなかったのが心残りだっただけ」

 メグミは早口でそう言って、橋の手すりから離れる。

「寒いから早く帰ろ。定期便の固い椅子で寝てたから、はやくベッドで寝転びたい」

 マフラーに顔を埋めて、メグミは早足で歩き始める。コヒナタはそんなメグミの姿を眺めて、少しだけ心を暖めて歩き始める。

 

 その直後、ポケットに入れていた携帯が震えた。手に取って画面を見ると、そこにはミナトの名前が表示されていた。

「メグミ、ごめん。先帰ってて。ミナトさんから電話かかってきた」

「はーい」

 メグミはコヒナタを振りかえることなく、右手を上げて掌をひらひらと振った。その姿を見届けて、コヒナタは電話の通話ボタンを押す。

「はい。コヒナタです」

「おう。ミナトだ」

「お疲れ様です。仕事のお話ですか?」

「あぁ。祭りの前日なんだけど、コントロールルームの機械について研修会やるみたいだから覚えといてくれ」

「研修ですか?」

「あぁ。俺もさっき上から聞いたんだが、少し操作が簡素化されるらしい。多分『朝』部門の職員も全員来るはずだ」

 コヒナタはその言葉にどきりとする。

 ということは、祭りの前日、ホシノは確実に職場に来ている。ただ、電話に出るかは未だ1/2の確率だ。

「つーことでよろしく頼むわ」

「了解しました。ミナトさんも、酔っ払って変な操作をしないように気を付けてくださいね」

「俺を誰だと思ってるんだ」

「天下の名手、ミナトさんです」

「その通り」

 ミナトは受話器の向こうで得意そうに笑う。


「じゃ、頑張ってください」

「おい、コヒナタ」

 コヒナタが電話を切ろうとすると、ミナトが言葉を挟んだ。

「はい?」

「俺はいつだってコヒナタの味方だ」

「え?」

「俺はコヒナタの味方だって言ってんだよ。それだけは忘れるな」

 コヒナタは突然のミナトの言葉に少し驚く。

「十分わかっているつもりですよ」

「ならいい。じゃあな」

 ミナトはそう言ってぶつりと電話を切った。


 変なことを言うな、とも思ったが、やはりミナトの言葉はどこか頼もしかった。電話をポケットにしまいなおして、コヒナタはメグミの後を急いで追った。

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