第19話 「凍」
ホシノは過去を告白した直後に、停滞した空気を察してか「そういえばご飯を頼んでなかったですね。何か頼みましょうか」とメニューを眺め始めた。
その間、コヒナタは心ここにあらずだった。ぽかんと口を空け、宙を見つめていた。そのコヒナタの頭の中には「結婚」という二文字が大きく表示されてびかびかと光っていた。
「ごめんなさい。変なこと急に言っちゃって」
は、とコヒナタはホシノを見ると、メニューから視線を外し、わずかに上目遣いでコヒナタを眺めていた。コヒナタはその視線に顔を真っ赤にさせて視線を外す。
「あ、いえ、その、ご結婚、されてるんですね」
「昔、ですけど。今はしてないんです」
そう言って、またホシノは視線をメニューに戻す。コヒナタはなんとかホシノがメニューを見ている間に態勢を立て直す。落ち着け、落ち着け、平気だ、と慌てふためく精神を大人しくさせる。
「コヒナタさんはなにか食べたいものありますか?」
ホシノはコヒナタの方にもメニューを向ける。
「あ、じゃあこれとこれで」
コヒナタは何も考えず、反射的にメニューを指差す。
「じゃあそれは頼みましょう。サラダも頼んでおきますね」
ホシノはてきぱきと店員を呼んで先ほどコヒナタが適当に選んだメニューを告げる。店員が去ってからやっと、なぜホシノさんに全てを任せているんだ、僕がやらなければ、という後悔がコヒナタの体に到来する。
「ご結婚、されてたんですね」
しばらく時間を置いてから、改めてコヒナタはホシノに問う。コヒナタの中には深く聞いてはホシノに失礼だ、と思う自分もいるが、ホシノが話したいと思っているのなら聞きださないといけない、という親切心を述べる自分もいれば、ホシノの過去を探りたいという利己的な探究心を持つ自分もいた。
ホシノはコヒナタの問いに小さく頷いて答える。
「この星の、人ですか?」
ホシノは、そうコヒナタに問われるとワインをまた一口飲んだ。そして、一拍置いて答える。
「いえ、結婚していたのは私がまだ火星にいたときです。あの人は、まだ火星にいるんじゃないかな。それとも、地球にある実家に帰ってるかも」
今、昔の夫の居場所がわからない、ということはもう連絡は一切取っていないということだろうか、などとコヒナタは反射的に考える。同時に、そんな邪推はするべきではないと自分を戒める。
「もう別れたのは3年も前の話なんですけどね」
「結構、前なんですね」
そうなんです、とホシノが答えたところで料理が運ばれてきた。「レーテのマリネ」だ。レーテは浅瀬に住んでいる魚で、口の形が網の形になっていて、小魚を捕食するとき網構造を活かして口が大きく開く。生で食べても焼いて食べてもおいしい魚だ。
「おいしそう」
ホシノは目を輝かせてフォークで一口頬張った。うんうん、と頷きながらレーテを味わう。コヒナタはそんな少し無邪気にも見えるホシノの姿をほほえましく眺めていた。
「私、慌てっぽいって話をしたじゃないですか」
マリネを飲み込むと、ホシノが口を開いた。
「その結婚も、私は慌ててしまったのかもしれないんです」
「慌てた?」
「そう。勢いでしちゃったっていうか、熱くなっちゃったっていうか。一時の感情に流されて、一緒になっちゃったのかもしれないって、思ったんです」
コヒナタはどう返事をしていいのかもわからずにとりあえずマリネを頬張る。塩気がよく効いていて非常においしい。レーテの歯ごたえも抜群だ。しかし、大脳はホシノの言葉ばかりを処理している。
「私ね、昔歌手を志していたんです」
「歌手ですか」
また新たな事実が登場し、コヒナタは驚く。なかなか会話の展開についていくことができない。
「そう。声楽科に通っていて、歌を勉強していたんです。ゆくゆくは歌を中心とした仕事について、それで生計を立てられればいいな、って漠然とした夢を立てていたんです」
ホシノの目は近くにいるコヒナタにではなく、どこか遠くに向けられているようにコヒナタには見えた。
「でも、やっぱり駄目でした。努力が全く足りなかったんですね。コンクールも落選続きで、学生の中でも成績は中の中。上手くもなく、下手でもないみたいな、一番つまらない場所に収まってたんです」
コヒナタはワインを飲みながらホシノの声に耳を傾ける。
「若い頃って、自分だけには本当に才能があると簡単に思い込んでしまうんですよね。私だけかもしれないけど」
「そんなことないですよ。みんなそう思ってます」
「そうかな、そうならいいんだけど」
ホシノは微笑む。しかし、その微笑みは悲しげな空気を帯びていた。
「自分の才能を過信して、大した努力もせずに学生という場に安住して、気がついた時には凡才の沼に嵌って抜け出せなくなっていました。私は、それを認めたくなかった。でも、認めるしかなかった。だから、歌でご飯を食べる道は諦めて、他の職業につくことにしたんです」
自分は凡才だ、と話すホシノの声に、コヒナタは確実に魅了されていた。ホシノが唄う歌なら、聴いてみたい、とも強く願った。
頼んだ料理が次々と運ばれてくる。しかし、コヒナタの興味は料理には向かずに、ホシノへと向けられている。店内に充満している柔らかなピアノのBGMはコヒナタの耳には入ってこない。コヒナタの耳に入ってくるのはホシノの凛とした声のみだ。
「ごめんなさい、私ばっかり話しちゃって。つまらないですよね、こんな昔話」
「いいんです。こう言ってはなんですけど、僕も聞きたいですから」
ホシノの過去を共有するということが自分にとってどんな意味を持つのかはコヒナタにもわからなかった。しかし、それでもコヒナタはホシノの過去を欲した。
「それで、職場にいた年上の人と恋に落ちて、急ぐようにして結婚、って感じです。出会ってから結婚まで1年も経たなかったな」
「その人のことが、すごく好きだったんですね」
「うーん。どうだったんだろう。確かに、そのときの私にしてみれば、彼が全てだったけど、今考えてみれば、私の中にぽっかりと空いた穴を埋めるための栓だったのかもしれない。その人が本当に必要っていうよりも、まず私の穴を塞ぐことが重要だったんじゃないかって。酷い女ですよね」
俯くホシノからはやはり悲しげな空気が立ち込める。
「でも、結婚生活は続きませんでした。彼のことは愛していたけど、私の中には違和感ばかりが募っていきました。いや、愛していなかったのかもしれません。私が愛していたのは、私だけだったのかもしれない」
どんどん、コヒナタの意識はホシノの中に引きずり込まれていく。もう、味も匂いも感じなくなっていく。そこにあるのは、ホシノの存在だけだ。
「何回も話しあった結果、離れ離れになることになりました。全部私のせいなのに、彼は許してくれました。笑って、見送ってくれました。何回も心の中で謝りました。でも、別れの時の記憶は、薄れることはありません。鮮明に、私の心に今も映ります」
ホシノの瞳が、うっすらと濡れる。
「だから、全てをやり直したくて、この星に来たんです。と、言ってもこの星に来たのは偶然なんですけどね。公務員試験を受けて、合格したらこの星に赴任することが決まって。でも、私にはそれが清算のチャンスなんだと思いました。そして、ここでジカンと出会ったんです」
ホシノは、顔を窓の方に向ける。コヒナタもつられて窓から外を眺めた。まだ夜は始まったばかりで、人の往来は多い。その向こうで、星々が蠢いている。
「ジカンは、私のそんな過去をどこかへ封印してくれる。どこかへ持っていって凍らせてくれる。そんな気がして。でも、やっぱりだめですね。私の過去はずっと私の中にあるし、私の中に息づいてる」
ホシノは、まつ毛にじんわりと沁み込んだ滴を人差し指でさっと拭って顔をまた前に向ける。そして、ワインをぐいっと飲み干して、コヒナタがランダムで頼んだ揚げ物をさくっと一口つまんだ。
「はぁ。すっかり話しちゃいました」
ホシノは深く頭を下げる。
「本当にごめんなさい。ほとんど初対面なのに、こんな話、長々と」
コヒナタはいえいえ、と首を横に振る。
「紆余曲折があって、この星に辿り着いたんですね」
「変にいろいろとありました。人生経験だけは無駄に豊富なんです」
ホシノは微笑む。ホシノの残念そうな微笑みは、寂しげを感じさせると同時にコヒナタを魅了する何かを含んでいた。
「多分、そんな人生経験も含めて今のホシノさんがあるんですよね」
コヒナタの言葉に、ホシノは僅かに驚いたような表情を浮かべた。
「無駄なんかじゃないです。ホシノさんの人生は。人の人生に、無駄なんてないんです、きっと。どんな経験も、その人の人生を構成する要素として、必要なんです。多分、ジカンだって、この星をくるくると回っているだけの人生、人じゃないですけど、人生かもしれないけど、それはジカンにとっては絶対に必要なんです。ジカンという存在が成立するためには、絶対に必要なんです。だから、ホシノさんの人生も、絶対に、無駄なんかじゃない」
コヒナタは、一気にそこまで言った。
自分が喋り過ぎたことに気がついて最後に申し訳程度に「と、僕は、思います」と付け足した。
ホシノは、真剣な表情でコヒナタの言葉を聴いていた。そして、またわずかに笑顔をその顔に湛えた。
「そう、かもしれませんね。それなら、私は過去を忘れる必要なんてないのかもしれません。私に必要なものだったら」
「そうですよ。ジカンが持っていかなくてもいいんです。ジカンと共に歩きながら、その過去を持ち続けてもいいんだと思います。ジカンは今日を連れていってはくれません。でも、明日を連れて来てくれる。僕たちにできるのは、今日を想いながら、明日を生きることなんだと思います」
コヒナタが、ジカンと共に走っているときに考えていたことが、すらすらと口から紡がれた。コヒナタとジカンが二人で紡いだ言葉だ。
「そうですね。そうかもしれません」
ホシノは小さく頷きながら答える。
「ありがとうございます。こんな私を慰めてくれて」
「慰めるなんて、そんな。僕は思ったことを言っただけです」
コヒナタはまた顔を赤らめて俯いてしまう。
「私、コヒナタさんの昔話もきいてみたいな」
テーブルに肘をついて、掌にほんのりと赤らんだ頬を乗せ、コヒナタに視線を向ける。
「ホシノさんに聴いてもらえるような昔話なんてありませんよ」
「本当ですか? いろいろ聴きだしちゃいますね」
ホシノはうれしそうに微笑む。先ほどの悲しげな空気はいつの間にか払拭されていた。
コヒナタも、そんな笑顔を見てうれしくなった。コヒナタが観たかったのは、この笑顔だった。この笑顔を見て、初めて心の底からホシノが元気でいてくれてよかった、と安堵し、その事実を祝福することができた。
*
「それで、何もせずに帰って来たと」
「何もせずに、ってなんですか。ちゃんと食事してきましたよ」
いつもの薄暗い居酒屋。慣れた匂い、慣れた味、慣れた音、慣れた光景。普段はなんとも思わない要素だが、それらを感じるとコヒナタは「戻って来たな」という妙な感慨に耽った。
「食事するのは前提だろうが。将棋で言えば布石、ギターで言えばチューニング、落語で言えば枕だろ。まだ何にも始まっちゃいねぇよ」
「色んな娯楽で僕の食事を喩えるのはやめてください。ミナトさんの悪い癖ですよ」
いつもの朝の飲み会。いつものミナトの呼び出し。
食事を済ましたあと、コヒナタとホシノは少しだけ一緒に歩いて、そのまま別れた。「今日は、ありがとうございました。楽しかったです」と、輝く笑顔をふりまいて頭を軽く下げた。コヒナタは奢った分のお金をほんの少しだけ気にしながら「僕もです。ありがとうございました」と礼を言った。
その夜はワインで酔ったせいもあり、家に帰ったと同時にベッドに倒れ、そのまま泥のように眠った。そしてたっぷり9時間寝たあと、仕事終わりのミナトの電話によって起こされ、ここまで来た。
「それで、脈ありなのか」
ミナトは米焼酎をロックでぐいぐいと喉に流し込む。
「脈、なんてないですよ」
コヒナタはお茶を飲む。まだ昨日のワインの余韻が口の中に残っている。
そして二つの目には、ホシノの笑顔の余韻がまだ残っていた。
「なんだよーつまんねーなぁ」
「いきなり付き合うとかしなくていいって言ったのはミナトさんじゃないですか」
「でも、そこに行きつくための伏線はきちんと張らないとだめだろうが」
「そんな回収する気もない伏線を張る気はありません」
そうは言いながら、コヒナタの頭にはやはりホシノの笑顔があった。その率直な笑顔に魅了され、装いのない言葉に惹かれていた。言葉では否定するものの、心の中に残っている心情を払拭することはできない。
「やっぱり、僕は『夜』の人間で、彼女は『朝』の人間なんです。住む世界が根本的に違うんですよ」
「またコヒナタが元に戻っちまったよ」
落胆した様子を見せながらミナトは背もたれに体重を預ける。
コヒナタは「人夜」の言葉に屈服したわけではなかった。変化することは弱いことだ、という言葉を受け入れたわけではない。しかし、その「人夜」の言葉がコヒナタに与える影響は少なくなかった。『朝』の空気、音、匂い、言葉と触れあえたことはうれしかった。新たな出会いもうれしかった。しかし、そのことでコヒナタと「朝」の時間の距離がゼロになることはやはりなかった。
「ま、そんな簡単に人は変わらねーか」
ミナトはそう言って酒をぐいと飲む。
「でも、顔が違うよ」
グラスを置いたミナトは笑顔を浮かべながら言う。
「顔ですか? 髪型じゃなくて?」
「それは外見だろ。俺が言ってるのは顔の中身だよ」
「顔に中身なんてあるんですか?」
「顔は変わらなくても、顔の奥にあるものが変わるもんだ」
「そういうものですか」
「あぁ。自信を持て」
コヒナタは、このミナトの笑顔に弱い。
「もう、俺がいなくても女と二人で飯食いにいけるだろ」
「なんですかそれ。最初から一人で行けますよ、別に」
「嘘つけ」
コヒナタとミナトは僅かに笑い合って、お互い飲み物を口に注いだ。
こうして、コヒナタの「冒険」は「朝」の静けさと共に終わりを迎えようとしていた。コヒナタ自身、「朝」の出会いの中で、ホシノとの出会いの中で何かが変わったという自覚はなかった。しかし、コヒナタの心の中には、明らかに暖かい何者かが生まれていた。
そして同時に、「人夜」が残した予言が着実に現実になりつつあった。しかし、そのことにコヒナタは気がつくよしもなかった。
(第2部 完)
(第3部へ続く)
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