第18話 「会」

 午後6時半。

 空は暗がりを帯び始め、間接照明を照らしたような橙色が空に染みわたっている。白かった雲も一様に赤らみ、「夜」の到来を告げている。ホシノが創った「朝」が終わっていく。


 コヒナタは家を出て「境界の広場」に向けて歩き始める。

 愛車のバイクで行ってもよかったのだが、酒を飲む可能性もあるし、平常心を保ちながら運転をする自信がまったくなかったので、徒歩を選んだ。彼女の声を聴いただけで事故を起こしかけたのだから、いわんや会う直前になれば、未遂じゃ済まないかもしれない、とコヒナタの理性が訴えた。


 バイクで行けば5分ほどで着くが、歩いていけば15分はかかる。集合場所でじっと待っているのも耐えられないと思い、ホシノより程よく先に到着できるであろう時間を狙って出発した。

 仕事を昨日の午後6時から始め、今日の午前6時に終了してからは緊張のあまりほとんど寝ていない。つまり、ほぼ徹夜でこの食事に臨戦してしまうことになった。寝ようと思えば思うほど睡魔はコヒナタの頭から去っていき、寝ないと決めて本を読んだ方が却って眠くなるかもしれない、と思って読書を始めたら結局最後まで読み切ってしまい、気が付いたら本来起きるべき時間になっていた。

 今は軽いナチュラルハイモードになり、さほど眠くはない。しかし、ここでアルコールを入れた場合、どうなるかはわからないのでできるだけ酒を飲むのは避けたい、とコヒナタは願った。酔いつぶれてホシノに迷惑をかけてしまったら元も子もない。


 そんな期待と不安に加えて、昨夜の「人夜」の言葉が心にひっかかる。

「一歩踏み出せば、破滅につながる」

 その言葉を思い出すたびに、コヒナタの心は揺れ動く。

 自分はどうしたいのか、どうするべきなのか。今になっても、その答えは見つからない。

 いくら考えても答えなんか見つからないんだ、という諦めの境地にもいたることはできず、コヒナタの心はぶらぶらと宙ぶらりんになっていた。

 しかし、時間は確かに流れ、集合時刻になる。

 このまま足を進ませていれば、集合場所に必ず到着する。

 その時刻、場所に近づけば近づくだけコヒナタの頭の中は真っ白になっていく。

 対照的に、頬はだんだんと赤らんでいく。コヒナタは、自分ではそれには気が付かない。


 とうとう「広場」に入り、ジカンがくぐる門へと向かう。

 すると、門のすぐ横に一人の女性が立っている。

 ホシノだ。

 集合場所には、ホシノがすでに到着して、コヒナタを待っていた。

 コヒナタはホシノの姿を確認するや否や、駆け出し、急いでホシノのところへ向かう。

 そんなコヒナタに気が付いて、ホシノもコヒナタが駆けてくる方を向いて、小さく手をあげた。


 薄手のコートを纏って、ホシノはそこに立っていた。

 微かな笑顔を空の橙が照らし、白い肌を染める。

 僅かな風が、同様に橙に染められた長い髪をふわりと揺らす。


「こんばんは」

 初めて直に聴く、ホシノの声。

 その声は、電話越しで聴くよりも、夜の世界でヘルメット越しに聴いたあの声よりも、より柔和で、より鮮やかで、より繊細だった。

「こんばんは。遅れてすいません」

 到着したコヒナタは慌てて頭を下げる。

「いえいえ。私の着くのが早すぎちゃったんです。まだ15分前ですし」

「でも、寒い中待たせてしまって」

「気にしないでください。私がここを集合場所にしたんですから」

 ホシノはそう言って門を見上げる。

「やっぱり、ジカンが走ってる姿は見ておきたくて」

「ジカンが?」

「はい。私、仕事終わりにジカンが走る姿を見に行くのが日課なんです。だから、今日も仕事を急いで片付けて、通路の方まで歩いて見に行ってからここまで歩いてきたんです。どうしても、ジカンを見てからじゃないと仕事が終わった気がしなくて。変な日課でしょう?」 

 ホシノは、照れたように笑う。

 

 僕も、同じです。コヒナタの心の中にその言葉が浮かんだ。

 僕も同じように、仕事終わりにジカンが走る姿を見てから帰るんです、と。

 コヒナタはホシノと日課が重なったことがうれしいあまり、うまく言葉が発せずにいた。目をみはったまま、口は閉じられている。

「どうかしました?」

 そうホシノに声をかけられて、我に返る。

「い、いえ、なんでもないんです。大丈夫です」

 コヒナタが言うと、ホシノはくすっと笑った。


「じゃ、じゃあ、そろそろ行きましょう」

 コヒナタはなんとか気を取り直してリスタートを試みる。

「はい。よろしくお願いします」 

 コヒナタとホシノは並んで歩き始め、門を離れていった。


          *


「女の人とご飯食べるならココ。おしゃれでメニューは豊富で味もいいけど、値段はかなりリーズナブル。奢るなら丁度いい店よ」

 飲み会の日、そう言ってパトリシアが推薦した店をコヒナタは予約していた。週末を避けることができたため、客も多すぎることはない。高い天井のフロアの中を、人の静かな会話が漂っている。照明も明るすぎず、夕方の空のようにぼんやりと照らされている。


「こんなおしゃれなお店でご飯食べるのなんて久しぶり」

 ホシノはコヒナタの対面に座り、コートを店員に預ける。

「外食するのは、珍しいんですか?」

「そうですね。私はこういうお店は誰かと一緒に来たい人なので。一人で暮らしているとちょっと遠ざかっちゃいますね」

 コヒナタは次の会話を考えるあまり、「現在は一人で生活をしている」という情報を聞き漏らしてしまう。

「僕も、外食ってほとんどしなくて」

「確かに、『夜』の仕事が入ってしまうとどうしてもディナーはできないですもんね。お疲れ様です」

 ホシノは微笑をたたえてコヒナタを労う。

「じゃあ、何か頼みましょう」

 コヒナタは汗をかいている手でメニューを開いて、ホシノに提示する。

「じゃあ赤ワインをいただこうかな」

「僕も、同じもので」

 コヒナタは反射的にそう言う。先ほどの誓いがあっさりと破られる。それよりも「ホシノを待たせてはいけない」という気持ちの方が上回ってしまった。


 コヒナタは店員を呼んで、赤ワインを二つ注文した。

 間もなく、グラスに注がれた赤ワインがテーブルに運ばれる。

「では、乾杯」

「乾杯」

 二つのグラスが重なり、澄んだ高音がテーブルの上に響いた。コヒナタは赤ワインを口に含み、なんとか味わおうと試みるが、普段あまりワインを飲まないこともあってよく味がわからなかった。


「さっそく、本題ですが」

 グラスをテーブルに置いたホシノは膝の上に置いてあった小さなカバンを探り始める。そして、小さくて、薄い包みをコヒナタの前に置いた。鮮やかな緑色の包装紙に包まれ、その上に白のリボンが結ばれている。

「この度は、危険を顧みずに助けていただいて、本当にありがとうございました」

 ホシノは深く頭を下げる。

「ほんの気持ちですが、受け取って下さい」

 先ほどの柔らかな笑みではなく、真剣な顔つきになっている。

「いや、僕はただ、なんていうか、本当に当たり前のことをしただけっていうか」

「コヒナタさんがあそこで来てくれなかったら、私は間違いなく死んでいました」

 ホシノが発した「死」という言葉を聴いて、コヒナタははっとする。

「夜の世界に来るということは、自分も同じことをしておいて言うのも変ですが、普通できることではありません。この世界にとって、夜の世界は死の世界と同じです。それはコヒナタさんもわかっているはず。それなのに、コヒナタさんはジカンを探し、私を助けてくれた。本当にありがとうございました」

 ホシノはもう一度頭を下げる。

「頭を上げてください。大丈夫です。お互いきちんと助かって、この場に座ることができているじゃないですか。それだけで、僕はうれしいんです」

 コヒナタが慌てて言葉をつなぐ。ホシノは頭を上げて、コヒナタの目を見る。

「そう言っていただけるとありがたいです。私の軽はずみな行動のせいで、コヒナタさんの身まで危険な目に合わせてしまって、本当に申し訳なくて」

「こんなにぴんぴんしてます。それよりも、ホシノさんが助かって本当によかった。今日は、そのことをお祝いしましょう。ジカンも助かって、僕たちも無事に朝の世界に帰ってこれたことを」

 コヒナタがそう言うと、ホシノの顔に柔らかな笑顔が戻った。

「ありがとうございます。そうですね。そうしましょう。今日はお祝いの席なんですね」

「そうです。楽しい会にしなきゃ」

「そうですね」

 ホシノが笑う。その笑顔を見て、コヒナタもようやく自然に笑うことができた。


 ホシノから受け取った箱には、白いハンカチが収まっていた。コヒナタは深々と礼を述べ、ホシノを恐縮させた。

「でも、ホシノさんの行動力にも感服します。やっぱり、夜の世界に飛び込もうとはあまり思えないですから」

「今考えてみると、自分でもやっぱりおかしかったですね」

 ホシノは赤ワインを口に注ぐ。

「でも、いてもたってもいられなくて」

「ホシノさんも、ジカンがお好きなんですか?」

 コヒナタも少しずつワインを口にいれる。だんだんと口の中でワインの甘さや渋さを実感することができ始めてきた。

「好きというか、大切な存在というか。ジカンが来なくなったって聞いて、生きていて欲しい、見つかって欲しいと頭で願う前に、すぐに体が動いてました。昔から、慌てるのが癖で。考える前にすぐに行動に移しちゃうんですよね」

 ホシノははにかむように笑う。

 コヒナタはおとなしそうなホシノの外見からそんな行動力を見いだせなくて驚いていた。

「だから、いっつも早とちりしたりして。間違いに気が付いたときには時すでに遅し、なんていうこともしょっちゅうあるんです」

「それだけ、ジカンのことを大切に思っているんですね」

「そうだといいな」

「僕も、仕事終わりにジカンを見に行くのが日課なんです」

 コヒナタは意を決して言う。

「本当ですか?」

 ホシノも驚くように答える。

「はい。『夜』の仕事が終わると、バイクに乗って通路を跨いでる橋まで行って、走ってくるジカンを見るんです。ホシノさんと同じで、なんだかそれをしないと一日が終わらなくて」

「すごくわかります。なんだろ。けじめをつける、というのとはまた違うけど、なんだか落ち着きますね」

「はい。そうすると、ぐっすり眠れるというか」

「私なんて、朝も観に行っちゃうんですよ」

「朝も? 6時前に起きるってことですか?」

「そうです。なんとなく早く起きちゃった朝とか、この日は見に行こうって思った朝は散歩がてら走っていくジカンを眺めにいくんです。その帰りに朝から営業してるスーパーで買い物したりして」


 コヒナタの脳裏に、あの日の光景が目に浮かぶ。

 あの時、ホシノが買い物をしていたのはジカンを見に行った帰りだったんだ、とコヒナタは理解する。

「ジカンを見ていると、私が持っていた時間を夜の世界に持って行ってくれるような気がするんです」

「ホシノさんの時間を、ですか?」

「そう。変な言い方だけど、そんな感じがするんです。忘れたくても忘れられない時間を夜の世界で凍らせて、封印してくれる。そして、また新しい一日を連れてきてくれる。そんな存在として私の中ではジカンは生きてるんです」

 コヒナタはホシノの話を聞きながら、自分の心情と重ね合わせてみる。ジカンが新しい一日を連れてくる。それは、コヒナタが抱いているジカン像と共通していた。

「だから、ジカンには絶対に生きていて欲しかった。そして、また走り始めて欲しかった。利己的な考えかもしれませんけど、そんな過去に対する願望が私を駆り立てたんだと思います」

「忘れたい過去が、あるんですか?」

 コヒナタは、言ってからはっとした。

「ごめんなさい。立ち入ったことを聞いて。無視してください」

「いいんです。私が言い出したんだから」

 ホシノは、少しだけうつむく。長いまつ毛が瞳を覆う。


「それに、私も誰かに話したいのかもしれない。自分の昔の話って、この星に来てからはしてなかったから、自分の心の中に溜まっちゃってるのかも」

 コヒナタは何も言わずにホシノを見つめる。

 そして、ゆっくりとホシノは口を開いた。


「私、昔結婚していたんです」

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