第17話 「止」

 マシンのメンテナンス作業も終わり、ホシノとの会食の日が翌日となった。

 「夜粒」の調整をする手の動きもどこかぎこちなくなり、データを処理するために集中しようとしても、どうしても散漫になる。こうなることを見越していつもより早く職場に来たのでなんとか事なきを得た。


 数値がようやく落ち着いたところで、背後に妙な気配を感じ、恐る恐る振り返るとやはりそこには「人夜」がそこに立っていた。

「久しぶり、コヒナタくん。元気にしてたかな?」

 漆黒の顔面から陽気な声が発せられる。口も、目も、鼻もない。全てを吸いこまんとするような、深い暗闇がそこにあるだけだ。

「なかなか出て来られるタイミングがなくてね。本当は一日も早くコヒナタくんの元に来ようとは思ってたんだけど。申し訳なかったね」

「別に、僕はお前に来て欲しいだなんて頼んだ覚えはないよ」

 コヒナタはマシンの方に向き直ってきっぱりと言う。

「そうだね。コヒナタくんは僕のことを心の底から嫌っている。そんなこと、僕だって重々わかっているつもりだよ」

「だったらどっかに消えてくれよ。仕事してるんだからさ。お前に付き合ってる暇なんてないんだ」

「いいじゃないか。こんなに深くて良い『夜』なんだから。お酒を片手に生きているような星々を見ながら語り合おうよ。まだまだ夜は長いよ」

「僕はお前と語り合うことなんてない」

「僕にはある」

 「人夜」はあくまで楽しそうに、陽気に言う。

 

「一歩足を踏み出すということは、破滅への可能性を増やすってことだ。それは君も重々わかっていただろう?」

 その言葉で、マシンを操作するコヒナタの手が停止する。

「いよいよ明日なんだね。彼女との会食は」

 コヒナタはマシンから手を離し、また「人夜」の方を向き直った。

「なぜお前がそんなこと知ってるんだ」

「前にも言わなかったかい? 僕はコヒナタくんのことならなんでも知ってるんだよ。コヒナタくんが思っていることは全て僕にはわかる。手に取るようにね。だから、君の明日のスケジュールを把握することなんて朝飯前だよ」

 「人夜」の背後には大きな窓ガラスがある。いつも、ホシノを眺めている窓ガラスだ。その向こうにはやはり星々が見える。しかし「人夜」の部分には星は一つも見られない。絶対的な闇がそこにあるだけだ。


「僕はこうも言ったはずだよ。『君が『あの恋』を諦めるまで、君の側を離れたりはしないよ』ってね」

「覚えてない」

「覚えてないならまた改めて言うよ。君が恋の道を歩くのをやめない限り、僕は何度だってここに来るよ。僕が目を離している隙にそんな髪型になっちゃってさぁ」

 「人夜」は嘲笑いながら言う。

「どういうつもりなんだい? 君が髪型を変える必要がどこにある? 無理をして生活リズムを変えてまで髪型を変えて得るものがあるのかい? もしかしたら、彼女と会うために髪型をどうにかしようってことじゃないだろうね」

「お前には関係ない」

「そう仮定するならば、その行為の裏には『髪型をどうにかしなければ、彼女に嫌われてしまう』という危惧があるということだね」

「違う」

「その危惧を、誤解を恐れずに言えば、『彼女は外見によって人を選り好みする人間だ』と認めることになるんじゃないかな?」

「違う」

「違うというのなら、前のコヒナタくんの髪型のまま彼女と会えばよかったじゃないか。今まで、前の髪型のことを君自身だってどうとも思ってなかった。だけど、ここにきて突然外見を気にし始めるなんておかしいじゃないか。彼女に好かれたいからその髪型にしたんだろう? 自分が是としていることを脱却して、彼女の価値観に迎合しているんだろう? そこに自分の意志なんてあるのかい? そうしてまで、彼女に好かれたいのかい?」

「そんなもの、詭弁だ」

 コヒナタは否定を続ける。

 しかし、怒りのテンションはなかなか上がらない。むしろ、否定をすればするほど自分の精神状態が落ち込んでいく。


「そうだよ。詭弁さ。詭弁の他の何者でもない」

 「人夜」は肩をすくめる。

「でも、この詭弁はもともとコヒナタくんが弄しているんじゃないかってこの前も言っただろう。そんな君を心配して僕はここに来ているんだよ」

「だから頼んでないって言ってるだろ!」

 コヒナタは思わず椅子から立ち上がり、声を荒げる。しかしそんなコヒナタの様子を見ても、「人夜」は怯むどころか、さらにまくしたてる。


「そうやって虚勢を張るっていうことは図星を突かれたということかな。コヒナタくんは恋をしている。でも、その恋っていうのは自分の像を相手が望んでいるであろう像に無理矢理造り変えるものだよ。それが恋って言えるのかな。少なくとも、コヒナタくんにはなんのメリットもないじゃないか。自分の信じているものを、自分が持っている個性をねじまげることが恋をするということなのかな? しかも、そんなコヒナタくんが創っている像が、彼女の望んでいるものである確証なんてどこにもないじゃないか。コヒナタくんが急に髪型を変えたことを『自分に取りいっているのかもしれない』という意味で理解されるかもしれないよ。そして、簡単に他人に迎合する君を軽蔑するかもしれない。そういう想像をコヒナタくんは少しもしなかったのかな?」

 コヒナタは、拳を握りしめ、床に視線を落としながらその「人夜」の声を全身に浴びる。その一言一言、一音一音がコヒナタの体に隕石が直撃するかのような衝撃を与えている。


「でもね、コヒナタくん。こんな葛藤、悩みは恋の道を諦めればすぐに終わるんだよ。あっと言う間に雲散霧消する。恋の道を歩くことをやめれば、無理をして『朝』の世界まで飛び越える必要なんてないんだよ。無理矢理生活リズムを変える必要はない。自分の価値観を崩すことなんてない。それでいいじゃないか。それになんの不満がある? 仮に彼女の気を惹けたところでコヒナタくんになんの得があるんだ。それは営みを変えてまで得る価値があるものなのかい? 僕にはわからないよ。全くわからない」

 「夜」の世界には、ただただ沈黙が敷きつめられているだけだ。そんな沈黙の世界に、無情な声だけが旋律のように流れている。その音声は、内容の非情さに反比例して美しさすら感じるものだ。流れるように、踊るように、コヒナタの鼓膜に突き刺さる。


「言っただろう。一歩踏み出せば、破滅につながる。歩かずに、走らずに、その場に立っていれば破滅に飛びこむことはないんだよ、コヒナタくん。人が終わるときは、いつだって進む時だ。一番幸せなのは、その場に立ち止まって、冷静に外界を見ることだよ。そのことは、身を持ってわかっているはずだよ、コヒナタくんには」

 時計の針は真夜中の3時を指している。あと3時間経てばまた「朝」がやってくる。そうすれば、また「人夜」は消えることになる。

 しかし、頭の中から「人夜」の言葉が消えることはない、とコヒナタは自分で思う。

 

「コヒナタくんは変化をしている。まるでこの星の空のように。でも、人が変わるのは弱いからだ。完全ではないから。強さは不変にある。変わらないことが、強さだよ。だから僕は君のことを止めたいんだ。変化を止めたい。だから、僕はここに来る」

 「人夜」の声から、抑揚が消える。

「君に強い人間になって欲しいから、僕はここに来る。『夜』が訪れる限りね」

 流れるようなその声の調子は、コヒナタの腹の中に鉛の塊のようにずっしりと残存する。


「『いつだって君の味方だ』。これが僕の全てだ。君を支え、君を正しい方向に進ませるために、僕はいるんだ。それを忘れないで欲しいな」

 また、その声にはにこやかな表情が宿る。

「さ、まだ夜は長い。お仕事がんばってね。影ながら応援しているよ」

 コヒナタに向けてひらひらと手を振って、くるりとコヒナタに背中を向ける。しかし、前面と同じように、背面も真っ暗闇だ。


「そうだ、コヒナタくん」

 思い出したように言う。

「近々、この星で良くないことが起こるかもしれない」

 その言葉に、コヒナタは顔を上げる。

「どういう、ことだ」

 コヒナタはどうにか声を振り絞る。そこで喉がからからに乾いていることを自覚する。

「それは、僕にもわからない。でも、なんだか良くない雰囲気がこの星にたちこめている。気を付けた方がいいかもしれない。いや、コヒナタくんにどうこうできるような問題ではないかもしれないけどね」

「ちゃんと説明しろよ。何が起きるんだよ」

「わからない。でもこの良くないことも、誰かの前進によって、誰かの勇気ある一歩によってもたらされるものかもしれない。そう考えれば、やっぱりコヒナタくんはその場で留まっていることが賢明だと、僕は思う。そして、君もそう思ってるはずさ」

 その台詞を残し、「人夜」は姿を消した。消えたというより、夜の空に溶けていったという表現の方が適しているかもしれない。


 コヒナタの中では複雑の入り組んだ感情が蔓延っていた。

 「人夜」のコヒナタへの言葉、そして、最後に告げられた予言めいた言葉。

 「人夜」とはなんなのか。彼の正体はなんなのか。

 彼の言う「良くない雰囲気」の正体はなんなのか。

 コヒナタの中にある感情も、疑問もただただ膨張していくばかりで破裂をしたり収縮していくことはない。


 コヒナタはそれらのものをどうにか宥めながら、ただ「朝」を待つばかりだった。

 そして、次の「夜」に思いを馳せつつ、そこに立ち止まる想像を巡らせた。

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