第14話 「髪」

 この時間、いつも何を考えているっけ、とコヒナタは考える。

 今日一日の仕事の振り返り。数値を調整するスピード、正確さはどうだったか。確かに「人夜」に言われた通り、正確さはまだしも適切な数値に調整するスピードは落ちている気もする。そんなことを反省しながら、テレビをつける。

 放送されているニュース番組は一日の天気予報を流している。予報とは言っても天気は全て時候管理事務センターで制御管理されているため、外れることは絶対ない。コヒナタにとっては必要のない昼の天気情報を見ながら午前10時半頃に布団に入る。外からは明るい声が僅かに届き、固く閉じられている分厚いカーテンの隙間を縫って、眩しい光が差し込む。それらを背中におしやりながらコヒナタは眠りにつく。

それが、コヒナタの「朝」の過ごし方だった。コヒナタの日常であり、平凡。


 しかし、今日は違う。

 昨日の夜は休みで、ちょっとだけ仮眠を取った。久々に「夜」という時間に睡眠を取って、不思議な気分なった。それが人間にとっては普通な行動なはずなのに、それを不思議と思うなんてさらに不思議だ、と、コヒナタは朝日と共に起きた後に考えて少しだけ顔を綻ばせた。しかし、これから明日の仕事終わりまで起きていなければならないと考えると少しだけ体が重くなる。そんな二つの相対する気持ちに挟まれた体をキッチンへと運ぶ。

 時計の針は午前8時を指している。テレビをつけると天気予報が放送されている。

「今日は全国的に晴れる予定です。洗濯日和になるでしょう」

 

 食パンを袋から取り出して、レンジに入れて「トースト」のボタンを押す。

 冷蔵庫から出しておいた卵二つを割ってかき混ぜる。

 火星から輸入された「ガンベ」のフレークの壜を冷蔵庫から取り出し、スプーンで一掬いして溶いた卵にいれ、少しだけ砂糖をまぶし、再びかき混ぜる。ガンベの適度な塩加減と砂糖の相性が良い。2本の細長い脚(腕とも呼ばれる)で器用に小魚を捕えて食べるという、少し奇妙かつ怖ろしい習性を持っているが、味は間違いなく美味しい。

 電気コンロで温めたフライパンに流し込む。じゅう、と言う音が鳴り、ガンベの匂いと共に食欲をそそる。

 程良く半熟になったところでタイミング良く、食パンが焼ける。レンジを開けると小麦の香ばしい匂いが解放される。

 慌てつつも食パンにマーガリンを塗って、フライパンのスクランブルエッグを乗せる。

 皿をテーブルに置き、前もって熱しておいた薬缶を持って湯をコップに注ぐ。


 これらの作業はコヒナタにとっても当たり前のことだ。毎日仕事前に行っている営み。

 ただ、その当たり前の営みも、時間帯が違うだけで、こんなに違う意味を持つとはコヒナタは思っていなかった。コヒナタにとっての「朝ご飯」は午後5時に食べるものだ。今日は違う。今は、午前8時。辞書の意味通り、正真正銘の朝ご飯だ。

 コヒナタの中にはやはり戸惑いもある。いつもは晩ご飯を食べる時間に朝ご飯を食べる。そんな戸惑いとは別に、なんとも言い難い気分が混じっている。ただ、朝ご飯を食べるだけなのに。


 午前11時。朝ご飯の食器を片づけて、数少ない私服に着替えて家から出る。

 愛車に跨り、エンジンをかける。コヒナタには、そのエンジン音もなんだか違って聴こえる。「あれ、こんな時間にどこにおでかけですか?」とコヒナタに問うているようだ。


 ミナトが創り出した「夜」は空の彼方へと霧散し、「朝」の空気が今日の日に飽和している。その中を、愛車が滑るように走る。空は青く、雲は白い。そんな陳腐でありきたりな風景が、何か重要な意味を持っているかのようにコヒナタには見える。気のせいだとわかってはいるものの、やはりその考えを打ち消せないコヒナタがいた。

 

 コヒナタがいつもは熟睡している時間になぜ外に出なければならないのかというと、先日の飲み会の時にミナトが放った一言が発端となっている。

「とりあえず、その髪の毛と私服をどうにかしろ。そのまま行ったら合流する前に彼女が遠目でお前を見た段階でそのまま直帰するぞ」

 というわけで、コヒナタが寝る前の早朝には営業していない美容院と洋服店に行くことになってしまった。コヒナタはこの星に来てからただの一度も床屋や美容院には行っていない。無理をすれば午前8時に開店する床屋に行けなくもないのだが、仕事前や仕事終わりにあまり外に出る気にもなれなかった。なので、適当なすきバサミを買ってきて、伸びてきたら鏡を見ながらジャキジャキと髪を切っていた、というよりは減らしていた。なので、コヒナタの髪の毛はいつもぼさぼさであり、くしゃくしゃなのである。


 その点、やはりミナトのきっちりとした髪型は努力の証なのかもしれない。確かな時間帯はわからないが、「真夜中」か仕事前の僅かな時間に美容院に行っているのだろう。コヒナタにはなかなか決断できないことだった。

 しかし、どうにか情報網を頼りに美容院の予約をし、ろくに行ったことのない中心街の店の情報を調べ、服を見る店に目星をつけた。

 美容院なんて行くの、大学生以来だ、とほんのりとノスタルジィに浸りながら愛車を走らせる。風が気持ちいい。「朝」の風。


 中心街にある美容院に到着し、愛車を止める。

 やはり初めて訪れる美容院というのは緊張する。店員と話し、希望の髪型を伝えてそのイメージをマシンに入力すれば、あとは過去のデータをAIが参照しながらオートメーションで切ってくれる。それはコヒナタももちろんわかっているが、やはり体が硬くなってしまう。そもそも、管理棟で働いている人以外の人と話すこと自体がかなり久しぶりだった。


「いらっしゃいませ」

 ドアを開けると明るい女性の声が聴こえる。笑顔を浮かべた店員がこちらに歩み寄ってくる。そこまで高くはない身長、ブロンドの長い髪、青い、大きな瞳、ヨーロッパ地方の人だろうか。緊張するコヒナタ。頭が一瞬真っ白になる。

「えと、ご用件は」

 店員が怪訝な顔をして、無言になったコヒナタの顔をのぞく。

「あ、11時半に予約した、コヒナタです」

「コヒナタ様ですね。お待ちしておりました。こちらにお座りください」

 店員が柔らかい声で示した椅子に腰を下ろす。


「このお店は初めてですよね」

「はい。そうです」

「あの、突然こんなことを言うのもあれですけど」

「はい?」

「その、なんというか、個性的な髪型ですね」

 店員はコヒナタの顔ではなく頭をじっと見ている。

「あ、いや、これは」

「ものっすごく適当に見えますけど、じっと見てるとなんとなくテーマが浮かんでくるような、こうしたいのかな、っていう方向性が見えてくるというか。アシンメトリでありながらも構造的で骨格がしっかりとある感じで」

 店員は驚いたような顔でコヒナタの頭を凝視しながら次々と言葉を紡ぎ出す。

「もしかしてあれですか。古き良き前衛芸術の面影を表現しているとか。アヴァンギャルドが観た夢をもう一度ここに具現化したとか。でも、それにしたってこんな髪型見たことない…すごい」

「いや、ちょっと、待ってください」

 コヒナタが必死に言葉を遮ると、やっと店員は我に返る。

「あ、ごめんなさい。おもしろい髪型を見るとテンション上がっちゃうんですよ」

 頭をぶんぶんと横に振って、赤くなった顔を隠す。


「申し遅れました。改めまして、今回コヒナタさんを担当させていただきます、パトリシアと申します。よろしくお願い致します」

 店員、パトリシアは深々と頭を下げる。

「どうも。よろしくお願いします」

「いや、本当、それにしてもすごい髪型。もしかして、自分で切ってるんですか?」

「は、はい」

「やっぱり。凄い才能というか感性というか。多分、やってくれって言われても私にはできないです。切り口がランダムすぎてコンピュータに入力のしようがないし、仮に手でやったとしてもどうしたって作為的になっちゃう…。こんな自然の意志の赴くままハサミを動かしたような髪型、やろうと思ってもできません」

「まぁ、特に自分が意志を持ってこういう風にしようとは思ってないから、自然の意志っていうのは正しいかもしれないですけど」

「普通の人間って自分の髪の毛を切ることにすごく敏感なんですよ。他人に切らせるにしても、自分で切るにしても。髪型は服と一緒で、記号的な働きをしますし、その人のパーソナリティを如実に決定づけますからね。でも、コヒナタさんの髪型は、なんというか、裸です。うん。裸」

 まさか美容院に来て髪型が裸だと言われるとは思っていなかった。ここまで来るとなんて言い返せばいいかわからない。しかし、パトリシアは小さい体から大きな声を響かせてコヒナタに言葉を投げる。

「無頓着だからこその自由。無欲の勝利っていうやつですね」

「勝ってるんですか」

「はい。明らかに勝利しています」

「何にでしょう」

「自然です。神が与えし理性にです」

 髪だけに、という言葉がコヒナタの頭に過ったが一瞬にして抹殺した。


「え、それでお店に来たっていうことは、他人に切ってもらおうってことですか?」

「そりゃあ、そうですね」

「それももったいない気もしますね」

 パトリシアは手を顎にあてて、じっくりとコヒナタの髪型を眺める。髪を切るのをもったいないという美容師。商売気が一切感じられない。

「どうしてまた、突然美容院に?」

「それは」

 コヒナタは言葉に詰まる。「女性とデートするために髪を切りに来ました」なんて言えるはずもない。

「あー、わかりました。言わずもがなですよね。申し訳ありません」

 掌をコヒナタに向けて、言うな言うな、というメッセージをジェスチャーで示す。

「髪型に無頓着だった人が気にするようになるのは、就職するときか恋愛するときって昔から相場は決まっているんです」

 彼女が自分のことを就職するつもりなのか、恋愛しているのか、どちらで解釈したのだろうか、とコヒナタは疑問に思ったが、愚問だと判断し、言葉を飲み込んだ。


「じゃあ、コヒナタさんにぴったりの髪型を一緒に探しましょうね」

 パトリシアは弾けるような笑顔をコヒナタに向ける。コヒナタは恥ずかしくなって視線をそらした。ここまで直接的な他人のエネルギーを被ったのはかなり久しぶりだった。


 早起きは三文の徳、という日本で古くから伝わることわざがある。

 徳かどうかはわからないが、朝早く起きなかったらこんな出会いはなかったはずだ、とコヒナタはこの瞬間を噛みしめる。

 そして、パトリシアが開いた髪型のカタログに視線を落とした。

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