第11話 「再」

 夜の世界で眠りについていたジカンは、コヒナタが病院から保安隊に連絡してから1時間後に発見された。コヒナタが読んだニュースには、保安隊が発見したときもまだジカンは眠っていたという。「そこにあったのは夜の静寂と穏やかな表情だけだった」という保安隊隊長のコメントが印象的に報じられた。


 この星の歴史が始まってからジカンが眠ったことはないので、保安隊も処置の仕方がわからなかった。超重量を誇るジカンの体を運搬する手段もこの星にはないので、とりあえず「経過観察」という措置が取られた。夜の世界という環境の都合上、つきっきりで誰かがジカンに着くわけにもいかないので、自律型の監視ロボットを夜の世界と朝の世界の境界に配備し、24時間カメラで観察することになった。


 そしてコヒナタが眠り始めてからちょうど1日が経った頃に、ジカンは朝の世界にやってきた。

 何事もなかったかのように。いつものとまったく同じように。ジカンは大きな体を揺らしながら、また太い6本の脚を器用に操りながらゆっくりと走り始めた。

 それと同時に保安隊はジカンの元へと急行した。保安隊の目視によれば目立った外傷もなく、歩調にも異常は見られない。速度計で歩行スピードを調べても眠る前のスピードと一切変わらない。そのようなデータを集めた結果、健康状態は「良好」と判断された。


 コヒナタは断片的だが、そのようなニュースを見て安堵した。ジカンが健康でいることもそうだが、走るスピードが変わらなかったと聞いて特に安心感を覚えた。またこれで、この星の「時間」の秩序が守られることになる。

 ジカンの速さが変われば、この星の「時間」の速さも変わる。コヒナタにしてみてもそれがバカげた論理だとは思うが、どうしてもその論理が愛おしいと感じてしまう。


 同時に、同じ病院に入院しているホシノの情報も入ってきた。

「まだ完全に健康状態に戻ったわけではないけど、目も覚ましたし物を少しずつ食べられるくらいには回復したらしい。あと10分遅かったらどうなったかわからなかったんだと。いやぁ、お手柄じゃないかコヒナタ。これをネタに飯でも誘ってそのままアバンチュールに持ち込め」

 コヒナタが目覚めた次の日も見舞いに来たミナトが言い放った最後の一言に関しては、コヒナタの大脳で言語を処理する前になんとか抹消することができたが、その前の情報はきっちりと処理をして、その事実に安堵した。ゴシップと他人の恋愛に首を突っ込んでぐちゃぐちゃにかき回すことが趣味であるミナトにとってはこの手の話は大好物であろう。


 ミナトによると、ホシノは一つ上の階の病室に入院しているらしい。普段は違う建物で働いているので二人の距離は隔てられているが、今は同じ建物の中にいる。しかし、コヒナタにはその階層の違いも大きな違いに感じた。まるで『朝』と『夜』のように。


「それはよかったです」

「よかったってのは彼女の容態が回復したことか? それともアバンチュールに持ち込むっていう俺の提案が?」

「愚問過ぎて返す言葉がありません」

「相変わらず無駄に固いんだよコヒナタはさぁ。外界にある全ての事実は自分の利益のために使わないと圧倒的に損だろ。こんなに良いタイミングってないと思わないか? 『朝』と『夜』という時間に隔てられていて話すきっかけを持つことがほとんどできないお前が彼女に話しかける最大にして最高にして最後のチャンスだろうが」

「勝手に最後って決めつけないでください」

「なんだ。やっぱり話しかけたいんじゃん」

 こういう誘導尋問の腕は天下一品だ。滑った自分の口を心の中でコヒナタはたしなめる。


「ちょっとは自分に正直になってもいいんじゃないのか、コヒナタ」

 ミナトは穏やかな表情を浮かべている。

「自分の欲望に忠実になってみたって、お袋さんの言うようなバチはあたりはしないよ。まぁ俺みたいに欲望に忠実になりすぎるとバチが当たるっていうケースもあるけどな」

「バチが当たってるんですか?」

「あぁ。バチだらけの人生。罪と罰だよ、俺の人生は」

 ミナトは腕を組んで、少しだけ俯く。

「俺の話はいいんだよ。何事もバランスだ。お前は自分に対して謙虚すぎる。確かに謙虚さを失った人間に待っているのは死だ」

「死ぬんですか」

「社会的にな。しかし、欲望を持っていない人間にだって平等に死は待っている。たまには欲望を謳歌しろ。ちょっとは気が晴れるぞ」

「考えておきます」

 コヒナタは窓の向こうに視線を向ける。『朝』の日差しが網膜に焼付く。もうすぐ冬だというのに日光は厳しい。


「少しでも、自分がミナトさんのようになれたら」

 そんな言葉がコヒナタの心の片隅で体育座りをしてじっとしていた。


          *


「よし、じゃあ始めるか」

 ミナトの声に、コヒナタは小さく頷いて応える。

 コヒナタが入院した翌日の朝11時。二人は管理棟のコントロールルームで作業を開始する。


 コントロールルームにミナトとコヒナタの二人が入ることは極めて稀だ。コヒナタがこの部署に赴任してきてから3年半が経つが、最初の研修期間を除けば1回もない。リスク対策として安全性が高いとは言えないが、基本的に一人いればこの部署の作業は成立してしまう。どの時代でも、どの世界でも、厳しい条件でもなんとか回ってしまっている場所には金と人は割かないのが組織だ。

 

 ミナトはジカンの通路に沿って浮遊している監視・管理カメラが映しているモニターを観ている。コヒナタは、「夜粒」増幅マシンのすぐ横に設えられているマイクの前に座っている。

 コヒナタはスイッチを押し、マイクから少し離れて一度咳払いをする。


「市民の皆様にお知らせします。まもなくジカンが『境界の広場』の広場を通過いたします。それと同時に、各家庭の電波時計を夜6時に合わせます。今一度、確認をお願い致します。繰り返します…」

 コヒナタは原稿に書いてあることをゆっくりと正確にアナウンスをする。そのコヒナタの声がカメラと同じように各地で浮遊している拡声器から出力され、市民の耳に届く。


 数日前にジカンが停止してしまったが、この星の「時間」はつつがなく動いていた。ジカンが「境界の広場」を通過しないことで、「時間」の流れを視覚で確認することはできないが、時計は確実に同じスピードで動いている。なので、ジカンが眠っている間は、時計が指し示す「時間」を元に「朝」と「夜」を操作していた。

 つまり、時計が午前6時を指せば「朝」になり、午後6時を指せば「夜」になる。


 しかし、ジカンが再び動き出した今、事情は変わってくる。

 今流れている「時間」とジカンが「境界の広場」を通過する瞬間がかみ合わなくなるのである。

 午前6時、午後6時ぴったりに「境界の広場」を通過していたジカンは、今の時刻では午前11時36分と午後11時36分までズレてしまった。元の時間から5時間36分の誤差が生まれている。

 

 もちろん、このままでも人間の営みも、ジカンの営みも正常に機能する。人間は人間独自の「時間」を生きればいいわけであり、ジカンはジカンが持っている個別の時間を過ごせばいいのだ。

 ただ、そうするには人間の営みとジカンの営みはすでに密着し続けていた。体調になんの影響を与えないとしても、やはり市民の生活にとって、同じ時間に同じ場所をジカンが通過する、ということは当たり前になっていたのである。

 それはコヒナタも同じだった。仕事終わりにバイクを走らせ、橋の上に行ったとしてもジカンが優雅に走っている姿を見ることができないとなると、上手に一日を終わらせることができなくなる。


 そんな声が市民の中で相次いで、「まぁこのままでも特に問題はないのではないか」という意見だった国政をも動かし、「ジカンが再び門をくぐる瞬間を午前、午後6時とみなす」というように意見が改められた。


 そんなわけで、ミナト(休日出勤)はジカンが門を通過する瞬間に手動で電波を流し、コヒナタが市民にそのことを喚起しつつ、時間を「夜」に移行させるという作業に臨んでいた。

 コヒナタは自分がやっていることが、いかにローテクノロジーであり、そして人間の自然な営みからはみだしている行為なのか、ということを思って思わず笑ってしまった。時計の時間を統治する電波を人の手で送信するということは地球では絶対にあり得ないし、そもそも「夜」が来る時間を操作するなんてこともあり得ない。


 ジカンが広場を通過するのは今の時計で午前11時36分。この時間を改めて午後6時と定める。つまり、この日の「朝」は午前6時から午前11時36分の5時間半だけで終わりを告げる。本当は12時間ある「朝」は人の手によって削り取られることになる。


 コヒナタは、この仕事を始めたときに学んだ日本の暦のことを思い出す。

 まさに大昔、200年以上前のことだが、明治維新が起きた時に当時の日本はそれまで使用していた和暦である「天保暦」から太陽暦であるグレゴリウス暦に改暦された。なので、明治5年の12月はわずか2日で終わりを告げ、その次の日から明治6年1月1日として新しい暦が始まったのである。


 地球に暮らしていれば、暦が変わるという経験もせずに、自明のものとしてカレンダーとしての暦を享受していく。しかし、この星に暮らしていれば、「朝」の時間が短くなったり、時計の針を動物の動きに合わせなくてはならない事態に直面する。

 その中で、コヒナタは遥か昔、明治の時代を生きていた人間に和やかな親しみを覚えた。その人たちは今まで生きた暦がなくなるときにどんな気持ちで暮らしていたのだろうか。その瞬間をどんな気持ちで迎えたのだろうか、と想いを馳せながら、ジカンが門を通過する瞬間を待った。


「あと2分」

 モニターを観ながらミナトが言う。右手はタッチパネルの上にあり、いつでも電波を流せるように用意をする。コヒナタもマイクの前でじっとその瞬間を待つ。


「あと1分」

 こうしてまた、この星の「時間」が動き始める。

 しかし、ジカンの姿が消えたときに考えた疑問はまだコヒナタの中に滞留している。

 本当にこのままでいいのか。

 人間の営みが、ジカンの営みを阻害しているのではないか。

 本当は、この星に人間が来ない方がよかったのではないか。


 確かに、ミナトの言うことも正論だ、とコヒナタは思う。同時に、しかし、と反論する自分も確かにいることもコヒナタは自覚していた。

 誰が正しいのか。何が正しいのか。人間にとって何が最適なのか。ジカンにとって何が最適なのか。コヒナタは考えをめぐらしても、答えは見つからなかった。


「電波送信」

 ミナトの静かな声がコントロールルームに響く。

 それと同時に、この星にあるすべての時計の針が動き始める。

 ぐるぐると針は回り、過ぎるはずだった朝の時間が縮められていく。

 こうして、人は営みを続けていく。


「お知らせします。ただいま『境界の広場』をジカンが通過いたしました。お手元の時計が午後6時になっているか確認してください。繰り返します。ただいま『境界の広場』を時間が通過しました…」


 コヒナタの声が「朝」の時間に響く。

 これから、世界は「夜」へと収束していく。


 しかし、コヒナタの「時間」はさらに加速を続ける。

 それもまた、1本の電話によるものだった。

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