第2部 「朝」
第10話 「母」
気がついたときには、コヒナタはベッドに横たわっていた。
真白とまでは洗練されていない、ほんのりとくすんだ天井が目にぼんやりと映る。目の焦点がなかなか合わない。耳からうまく音声を摂取することができない。鼻から上手に匂いを取りこむことができない。
しかし、窓から差し込んでくる眩しい光は感知することができた。その時点で朝だということがわかる。
だんだんと感覚が戻ってくるにしたがって、まわりの輪郭が掴めてくる。コヒナタはひくひくと鼻を動かして匂いを取りこむ。非常に特徴的な匂い。それが病院の匂いであるということに気がつくまでに時間はあまり要らなかった。
「お。目が覚めたか」
横からコヒナタの耳に声が飛び込んでくる。
ゆっくりと右に頭を傾けるとそこにはミナトの顔があった。
ミナトはいつもと変わらない表情でコヒナタの顔を覗き込んでいる。
「平気か。どっか痛いところとかないか」
ミナトはやはりいつものような声のトーンで言う。
コヒナタは大丈夫です、と答えようと思うのだが、上手く声が出て来ない。
「いいよ。無理して答えなくても。まだ声出しにくいだろ」
そう言ってミナトはおもむろに立ち上がる。
「お前のお袋さん来てるから呼んでくるわ。今売店で朝ご飯買いに行ってるから」
ゆったりとした足取りでミナトは病室を出て行った。
コヒナタは改めて顔を真上の天井に向け、残っている記憶を整理する。
眠っているジカンの横に横たわっているホシノを車両に乗せ、朝の世界に走り始めた。
星空に圧倒されるあまり時間がどれくらい経過しているのかがコヒナタにもよくわかっていなかった。とにかく、ホシノは間違いなく1時間を超えてしまうので、いち早く病院に向かうことだけが頭にしっかりと残っていた。
夜の世界から一番近い病院に辿り着いたのは夜の世界を脱出してから2時間が経過していた。ホシノはまだ息があったものの、顔面からは血の気が引いて青白くなっていた。とにかく早く処置してください、と叫びながら病院に駆け込んだ。ホシノが処置室に入ったことを見届けてから、保安隊にジカン発見の一報を入れた。その後は耐久スーツを着用したまま待合室の椅子でホシノの処置が終わるのを待っていた。
そして数十分後に医師が処置室から出て来て「一命は取り留めましたよ」という一言を聞いてからの記憶が一切なくなっている。コヒナタの低体温も進んでいて、緊張の糸が切れたのと同時に自分の体の制御が保てなくなってしまった。
そして気が付いたらこのベッドにいた。自分はどれくらいの時間このベッドで過ごしたのだろうか、とコヒナタは自問するが時間の経過を証明する手立ては何もない。
そこまで記憶が整理できてくると、ホシノはどうしただろうか、とジカンはどうしたのだろうか、という二つの疑問が頭に浮かんでくる。医師も一命を取り留めたと言っていたし、おそらくホシノの容態は平気だろう。
問題はジカンだ。ホシノの言う通り眠っていただけなのならいいが、本当は別の病気にかかっているかもしれない。ただ、息があったことは間違いない。保安隊には適切な処理をしていて欲しい、とコヒナタは心で祈った。
コヒナタはもう一度あの風景を思い出す。
満点の星空。その下で灰色の生物と耐久スーツに包まれた細い体が寄り添い合う。あるで、その寒さを二人の温もりで払拭するように。それとも、母親が子どもをやわらかく撫でて寝かしつけるように、その光景は夜の厳しさとは対照的に和やかであり、穏やかだった。
その中で、ホシノは微笑みを浮かべていた。
本当の安堵の微笑み。
自分の置かれている環境は完全に忘れて、ただジカンが生きていたことを確認できたことのよろこびが、その表情にはたっぷりと溢れていた。
彼女はなぜあそこまで優しい微笑みを浮かべることができたのだろうか。
コヒナタはぐるぐると考え続ける。
「なんだ、生きてたの」
そこまで考えたところで、ドアの方から声が飛んで来た。
久しぶりに聞いた、少し低い女性の声。
「随分ゆっくり寝てたじゃないか」
その声は、間違いなくコヒナタの母親のものだった。
「母さん」
自分でもびっくりするくらい掠れた声で言った。
「なに、その声。おもしろ」
母親はさっきミナトが座っていた椅子に腰かけて、コヒナタを見た。長い髪の毛を黒いゴムでひとつにまとめている。逆光で少し見づらくなっている顔は、心なしか老けてコヒナタには見えた。そういえば、会うのは2年前の正月以来だっけ、と思いながらコヒナタも照れながら少しだけ顔を母親の方に向ける。
「久々に他の星から連絡が来たと思ったら、あんたが入院した、なんて言い出すんだもん。本当に急だし定期便だって全然出てないし、こっち来るのにも苦労したんだから」
母親は矢継ぎ早にコヒナタに愚痴を投げつけてくる。
「地球にほんのちょっとの仕送りだけしておいて電話したり里帰りしたりしないことのバチだね」
「うるさいな」
コヒナタも必死に応戦を試みるが、喉の調子がついてこない。
「女の子を守ったらしいじゃない」
母親はにやにやしながらデニムを穿いた細い脚を組み、肘をふとももに乗せ、上手に頬杖を着く。確かに顔に年を感じさせるようになっては来たが、その仕草はまだ若さを感じさせるものがある。
「そんなたいそうなことはしてないよ」
「でも、反重量車両に女の子を乗せて病院まで連れて来たんでしょう? それも、『夜』の世界まで探しに行ってさ」
「それはそうだけど」
「やろうと思ってもなかなか出来ることじゃないよ」
母親は頬杖をついていた右手をそっとコヒナタの額に乗せた。
「それであんたもきちんと生きてるんだ。うまくやったじゃない」
うまくやったじゃない。母親らしい言い方だ、とコヒナタは思う。
「んじゃ、私帰るから」
母親はすくっと立ち上がり、おさげを揺らしながらベッドの近くに置いてあった自分の荷物を片づけ始める。
「もう、帰るの」
「あんたも目覚めたし、早く帰らないとあの人が飢え死にしちゃうから。ろくに荷物も持って来れなかったからこれ以上長居もできないしね」
「父さん、元気してる?」
「元気だけど、だんだんと落ち着いて来ちゃったなぁ。最近、一層あんたに似て来たよ。おかしいよね。普通子どもが成長すると親に似てくるのにさ、父さんはあんたの性格とか表情に似てくるんだよねぇ」
「なんだよそれ」
コヒナタも僅かに笑う。
「ま、私がそう見たがってるだけかもしれないけどさ」
そう言って、母親はパンパンになったボストンバッグのジッパーを締め、取っ手についたスイッチを押し、ショルダーバッグの大きさまで体積を縮小させる。
「なんでもいいけど、たまには帰ってきなよ」
母親は肩にバッグをかける。
「あんまり帰ってこないと、メグミを送りこんでやるからね」
「妹だけは勘弁してくれ」
「あの娘だって、あんたが帰ってこなくて寂しがってるんだからさ」
「金貸してくれる奴がいなくなって困ってるだけだろ」
「そういう意味で寂しがってるって言ったんだけど」
くすくすと笑いながらドアへと向かう。
「じゃ。また生きて会いましょう」
そう言って、コヒナタの言葉を待たないでぴしゃりとドアを閉めた。
完全に母親のペースに飲まれていた。地球にいた頃から、もっと言えば子どもの頃から母親が作る流れの中に巻き込まれて生きてきた。母親の持つ強力な引力に引き寄せられながら、しかしその背中に追いつこうと思って生きてきた。父親よりもはっきりと意見を持ち、ぐいぐいと家族を引っ張って行く母親にはやはり勝つことはできない。
「お袋さん帰ったか」
少し間を開けてミナトが病室に入ってくる。
「すいません。うるさい母親で」
「いいお袋さんじゃないか」
ミナトは買ってきた缶コーヒーを開けて、まだ母親の余韻が残る椅子に腰掛ける。
「そんなことないですよ」
「ああ言ってたけど、相当心配してたぞ。結局コヒナタが寝続けた2日間はほとんど寝ずに看病してたからな。感謝しておけよ」
少し顔に翳りが見えたのはそのせいか、とコヒナタは思い直す。
「そうですね」
コヒナタは掛け布団をぎゅっと握りしめて、短く答えた。
「やっぱり、自分が生んだ子どもはどれだけ成長したって心配なんだよな。子どもに何かがあれば、自分に責任があるんじゃないか、とか自分の手でなんとかしてあげないとって思うんだよ」
「ミナトさん、子どもさんいましたっけ」
「5番手まで女の子をキープしてる俺に子どもがいるわけないだろ」
「それなのによくそこまで自信満々に子育て論語れますね」
「フィクションだ。フィクションを編めるのは人間だけに与えられた特権だからな」
ミナトはコーヒーを口に流し込んで、あんまうまくねーなとつぶやく。
「とにかく、退院してからはいろいろ仕事が待ってるから今は休め。もちろんジカンとか彼女のことだって心配だろうけど、今は自分の体調を万全にすることだけ心掛けろ。社会人の最大の仕事は健康を維持することだ」
ミナトは淡々と言う。
「つーか、お前が帰ってこないと俺が連勤になるんだよ。俺が仕事中に寝落ちして『朝』がずっと来ないってことが起きる前に、コヒナタに復帰して貰わないと困る。そうなったらコヒナタの責任だけど」
「僕の背中を無理矢理押したのはミナトさんでしょう」
「そんな証拠はどこにも残ってない。裁判じゃ勝てないぞ」
ミナトはふん、と鼻で笑って見せる。いつものミナトだ。
コヒナタはミナトの背後にある空に目を向けた。
あの時に見た完全な夜とは違う、偽りの青空。
しかし、この世界が、今のコヒナタの世界だった。
改めて、自分が自分の世界に帰ってきたことを実感し、もう一度目を閉じた。
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