第9話 「星」

 保安隊に見つかれば確実に法定速度違反で一発逮捕されるほどの速度で2時間も飛ばし続けている。

 万が一、ジカンが歩いてきたときのために、ジカンの通路に沿って走り続けているが、やはりジカンと出会うことはない。ホシノも、ジカンを探すなら北に向かっているはずなので、コヒナタも同じように北に向かって走り続けているが、ホシノの乗った車両の姿は見つけられない。


 最初は500キロという速度を制御することに苦労をした。方向補正機能は充実しているので、スピードのあまりハンドルを取られることはほとんどないが、やはりスピードが速過ぎるため、どうしてもハンドルがぶれそうになる。そのハンドル操作にも大分慣れ、周りの景色を落ち着いて観ることができるようになってきた。


 大分北の方までやってきた。人家も殆ど見られなくなり、荒涼とした大地が広がっている。都心部と違って、ここまで人の手が届いていない。

 この星は、地球とは逆で緯度が高くなれば高くなるほど気温が上昇する。この星で人が住んでいるのは赤道付近であり「夜粒」の散布はその当たりに集中している。だから、人里離れた高緯度周辺には「夜粒」は少なく、したがって裸の日光に近くなっている。

 この星は、緯度が低いところは気温が安定していて、緯度が高くなるに従って気温が上がり、そして夜の世界に飛び込んだ瞬間、気温は一気に氷点下まで下がり、どこまで行ってもマイナスの世界が広がっている。


 耐久スーツに守られているので気温の上昇はあまり気にならないが、気温の上昇が夜の世界の接近を感じさせる。

 ホシノは、今どんな気持ちでジカンを追っているのか、コヒナタは自問する。

 時間的に考えても、ホシノはジカンの行方がわからなくなったことを耳にしてすぐに管理棟を飛び出したことになる。彼女は間髪いれずに、躊躇も熟考もなく、そのまま飛びだした。そんな行動を起こさせたホシノの行動力はどこから来ているものなのだろうか。

 

 コヒナタもジカンには愛着を持っているつもりでいた。一緒になって歩くことも大好きだったし、ジカンを見ることによって一日という時間を感じることもできた。しかし、コヒナタは行動を起こすことができなかった。しようとも思わなかった。ただ、管理棟の中で手をこまねこうとしていただけだった。ホシノとは、厳然たる差がある。コヒナタはまたハンドルを強く握り締める。

 自分は何を悔やんでいるのか、自分は何に苛立ちを覚えているのか。その対象を、コヒナタはわかっていたけど、どうにか意識の上には昇らせないようにした。


 ジカンが見えなくても、時間は過ぎていく。

 地面に人工的に敷かれていたジカンの通路もすでに無くなっている。素のままの大地がそこには広がっていた。気温は40度近くあるだろう。耐久スーツを着ていなければその暑さにやられているところだ。

 同時に、前方の空がうっすらと暗く鳴り始めていた。

 あれが、夜の世界。コヒナタは自分に言い聞かせる。

 時間が経つごとに日暮れに向かう空に暗闇が浸食してくる。そこにあるのは、コヒナタが作るような捏造された「夜」ではなく、正真正銘の夜だ。文明のために存在する

 仮初めではない、本物の夜。

 

 コヒナタ自身、本物の夜に突入することは初めてであり、肉眼で見ることも初めての体験だ。今までは考えてこなかった、身の危険にも考えが及んでくる。1時間が経つ前にはなんとか帰って来なければならないし、ホシノが突入してから1時間以内に見つけなければならないことも考えると時間はかなり限られている。すぐに見つかるかどうかはもう運次第としか言えない。


 そう考えている間に、ついに「夜」と夜の境界までやってきた。コヒナタはここまで来たら、躊躇することなくフルアクセルのまま夜の世界に飛び込む。

 耐久スーツを突き抜けて寒さが肌に突き刺さる。これで、耐久スーツがなかったら自分の体はどうなっているのだろう、とコヒナタは戦慄するも、そんな恐怖は一瞬にして吹き飛んだ。


 目の前には、途方もないくらいの星空が広がっていた。


 人工的な空気の汚染も一切届いていない。「夜粒」の干渉も一切受けていない。恒星の光の浸食も及んでいない。

 それらの条件が齎すのは、やはり正真正銘の夜であり、同時に、正真正銘の星空だった。

 コヒナタが作りだすような、ある種のグロテスクとエロスを兼ね備えている蠢く星空ではなく、それは本物の星空だ。

 人工物から漏れ届く消極的な輝きではなく、広大な宇宙に散りばめられている数え切れないくらいの恒星ひとつひとつの燃え上がる生命の焔がコヒナタの網膜に積極的に届いている。

 星々は自分たちの存在を証明するかのごとく、輝きを大地に降らせ、照らす。

 

 コヒナタは息を飲んだ。

 自分が今置かれている状況すらも一瞬だけ忘れるほどの、それは絶景だった。

 無性に涙がこぼれてくる。

 本物の夜は、地球でも見ていたし、火星旅行の時にだって夜は体験していた。

 しかし、それとは比べ物にならない体験であり、光景だった。

 これが、夜なんだ。

 これが、星の営みなんだ。

 コヒナタの胸に、それらの言葉が否応なく刻み込まれる。

 

 コヒナタは我に返る。

 前面のヘルメットのガラスに映った星空を見ないようにしながら、その向こうにある大地に目を向ける。ヘッドライトで前方を照らして走り続ける。とにかく時間がない。

 もしかしたら、ホシノはもっと前に夜に到達していて、タイムリミットを過ぎてしまっている可能性もコヒナタは否定することはできない。


 ホシノさんを助けられるのは、もう僕しかいないんだ。その言葉を支えにして、コヒナタは進み続ける。本物の夜をも切り裂くスピードで、星の裏側を失踪する。歯を食いしばり、血管が千切れるくらいに掌でエンジンを握る。まばたきを忘れたコヒナタの眼は、確かに輝いていた。そこには、空でひしめく星々のように、焔が宿っていた。


 その眼に、ある物体が映った。


 コヒナタは瞬時にブレーキをかける。

 500キロというスピードは出ているが、速度軽減装置によって迅速かつ安全に速度が落ちる。ハンドルをわずかにきって前方にあった物体を避け、Uターンをしたところで車両をとめた。

 

車両のライトを向けると、そこには横たわったジカンがいた。

星の淡い明かりで灰色の肌が照らされている。しかし、普段はしっかりと大地を踏みしめている6本の足は止まっていて胴体は完全に地面についている。


 コヒナタは急いで車両を降りて、ジカンの元へと駆け寄る。コヒナタは立ち止まっているジカンを初めて目にした。おそらく、この星に住む人間でジカンが止まっている姿を見た者はいないだろう。初期捜索隊すらも見たことがないかもしれない。

 ジカンが怪我をしていても、なんらかの病気にかかっていたとしても、コヒナタではどうすることもできないが、とにかく生死の確認はしなければならない。


 ジカンの肌に触れるが、耐久スーツでは体温も触感もわからない。そもそも、ジカンの正常な体温もよくわからない。

 困りながらも、ジカンの大きな体の裏側に回ってみる。

 

 そこには、ジカンにぴったりと倒れるようにして寄り添うホシノがいた。

「ホシノさん!」

 コヒナタはヘルメットの中で叫んでホシノに駆け寄る。

 ホシノもどうにかジカンのところまで到達していたのだ。

「ホシノさん! 大丈夫ですか」

 耐久スーツに包まれた上半身を抱えて、ホシノに声をかける。

 体はぐったりとして力が入っていないが、どうにかコヒナタの声に反応をしてうっすらと目を開けた。


「よかった」

 コヒナタは思わず安堵の声をあげる。

「あなたは」

 ホシノは微かな声でコヒナタに応える。

「大丈夫ですか。まだ、耐久スーツのリミットは来てませんか」

 ホシノの問いに答えずにどうにか容態を確認する。

「もうすぐ、1時間に、なります」

 あまり時間は残されていない。


「ジカンは、ぐっすりと、寝ています」

 ホシノはか細い声ではあるが、はっきりとそう言った。

「寝ている?」

「はい、すやすやと、寝ています」

 コヒナタはジカンの体に目を向ける。

 ジカンの巨大な体はゆっくりと上下している。鼻の穴を見てみると狭まったり広がったりと確かに呼吸をしているようだ。

「寝ている、だけなんですね」

「はい、寝てます」

 ホシノは、そう言うとうっすらと微笑んだ。

「何もなくて、よかった」

 短くホシノは言う。


「ジカンも、眠るんですね」

 ホシノは、まるで自分に生命の危機が及んでいることを忘れているかのように、柔らかい笑顔を浮かべていた。それはジカンが生きていて、ゆっくりと眠っていることを確認したことで自分の心配ごとはなくなったことを意味するかのような安らかな笑顔だった。

「ジカンも、生き物なんですね」

 コヒナタは、ホシノの言葉にはっとする。そして、頭の中にいろいろな考えが浮かんでくる。

 しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。


「とにかく、この場から離れましょう。このままだとホシノさんの体が危ないです」

 コヒナタはホシノの腕をどうにか肩に担いで、ゆっくりと歩きはじめる。

 ジカンの体をもう一度ちら、と観る。

 ジカンはいつものように平穏に包まれている。

 ここから先は、捜索隊の仕事だ。とにかく、コヒナタはホシノを病院まで運ぶことに集中した。

 

 星空の命の輝きが、コヒナタとホシノの体を照らす。

 その星の下で、ホシノの体を車両の後部座席に座らせ、コヒナタは運転席に座る。コヒナタの手の感触も寒さでだんだんと無くなってくる。

「どうか、間にあってくれ」

 コヒナタは、そう呟いて、アクセルを思い切り握った。

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