第6話 「迷」

 「夜」の創造が終わり、数値データなどの書類整理、その日の気候の推移などの後片付けも一段落し、「夜」の管理棟を出る。すでに「朝」部門の仕事が始まっているため、段々と空が明るくなり始めている。

 この星には日の出と日の入りという現象は存在しない。「朝」部門は昨夜コヒナタが散布した「夜粒」を回収しつつ、太陽の光を調節する。「夜粒」を過度に回収してしまうと、今度は日光の勢いが強くなりすぎてしまう。その調節に「朝」部門は心血を注ぐ。そして、回収した「夜粒」は地下のパイプを通じて「夜」の管理棟にあるマシンまで戻される。

 だから、この星の日は常に南中の状態であり、その角度が傾くことはない。この星で「夜」から「朝」へと移行する時は、空全体がぼんやりと明るくなっていく。地球のように東の空が赤々と明るくなり、段々と西の空が明るくなっていく、という順序による夜明けはない。もちろん、日暮れはこれの逆だ。段々と空全体が暗くなっていく。


 コヒナタもこの星特有の夜明けに慣れるまでに時間を要した。日暮れというよりは部屋の照明を弱くしているような時間の移行を不自然に思ってしまった。しかし、慣れてしまえばなんということはない風景の変化に思えるようになった。

 

 東の空だけではなく、世界が平等に照らされていく。


 その光景を目にしながら、管理棟の駐車場に停めてあった二輪バイクに跨り、エンジンをかける。ぶん、と、軽くはないが重厚感もない音が「朝」になりゆく星に小さく響く。今日は「朝」番が「彼女」ではなかったため、今日は安全運転で帰ることができる。以前、「彼女」の声を聴いた後、胸の鼓動を抑える前にバイクに乗って、危うく中央分岐体に突っ込みかけたという苦い経験がある。その時は自分自身でも辟易したものだ。


 バイクのハンドルをぐるりと回すと、二つのタイヤがしっかりと地面を踏みしめ北に向けて発進する。「朝」特有の肌寒くも、何か今日を予感させる風が身体全体を一瞬包み込み、そして背中の後ろに流れて行く。しかし、その予感の恩恵にあずかることはコヒナタにはできない。

 管理棟からコヒナタが住んでいる社宅までは南北に走る一本道で繋がっていて、交差点を曲がる必要もない。最短距離なら10分で到着し、通勤が楽でコヒナタは助かっている。


 しかし、コヒナタは「いつものように」二つ目の交差点で左にウィンカーを出し、左折する。遠回りになってしまうのだが、わざとこの道を帰るようにしている。

 しばらく走ると、「通路」が見えてくる。その広い通路に架かる橋をのんびりと昇る。橋の頂上に到着すると、ハザードをたいて停車する。バイクのスタンドを立て、バイクから降りて、反対側の車線の歩道まで歩く。

 

 橋の下を貫く「通路」に目をやると、ちょうどジカンが、のしのし、と北から向かって走ってきた。朝の和やかな光に照らされてジカンの灰色の肌が淡く輝く。朝でも夜でもやはり眠そうな目をしている。この北に「境界の広場」があり、午前6時に通過したばかりのジカンだ。

 仕事終わりには出来るだけこうしてこの橋に来て、ジカンを眺めるようにしている。この淡い乳白色に包まれ始める朝の空気と、眺めているだけでのんびりとした時間を感じさせるジカンの組み合わせを見ると、「夜」の間にコヒナタの体いっぱいに溜め込んだ疲れがこの空にゆっくりと溶けて行くような感覚に陥るのだ。

 管理棟の自動販売機で買った砂糖多めのコーヒーの蓋を開け、ぐいっと一杯口に注ぎ、喉を通す。喉を暖かいコーヒーが包む。息を吐くと僅かにだが白くなる。段々と冬が訪れ始めている。


 数分ではあるが、ジカンの鑑賞を楽しむとまた道路を横切ってバイクに跨り、発進させる。

 あと残された日課は買い物だ。仕事帰りのこの時間でないと「晩ご飯」の買い物ができない。そして、朝のこの時間から開いているスーパーマーケットはこの街には一つしかないため、その店に向けて、今日明日あたりの献立を考えながらバイクを走らせる。


 到着してバイクを降り、スーパーに入る。どうしても冷蔵庫に残っている野菜がなんなのかが思い出すことができずに献立がなかなか決まらない。確か大根がまだ残っていたような気がするのだけど、定かではない。こういう時のために携帯端末に冷蔵庫の中身をメモしておけばよいものを、コヒナタは面倒でそのようなことができない。味噌汁を作ろうか、それとも大根がないと仮定して、和風だしのスパゲティを作るか。ひたすら悩みながらスーパーの中をぐるぐると回る。

 スーパー内は客もまばらで、静かなBGMすらも店内では目立つ存在になっている。

 

 と、そこでコヒナタはあり得ないものを見た気がして、足を止めた。

 一瞬にして心臓が高鳴る。

 まさか、こんなところで。

 コヒナタは必死に躊躇しながらも、数歩後ろに下がって右の方に視線を向ける。


 そこには、紛れもなく「彼女」がいた。

 

 コヒナタはすぐに視線を戻す。「彼女」が観ていないのにもかかわらず、ズレかけた眼鏡を急いで直した。その手は、わずかに震えている。

 この数カ月の間、「朝」部門の管理棟にいる「彼女」、すなわち長い距離を隔てた場所でしか見たことのなかった「彼女」をこんなに近くで見たのは初めてだった(凝視はもちろんできないが)。あまりにも突然の事態に、「どうしてこんなに朝早い時間にスーパーで買い物をしているのだろう」という疑問すらもコヒナタの頭には過ることはなかった。

 一瞬で網膜に焼き付いたその姿は、もはや神々しさすら感じた。美人だとかそういう外見の問題ではない。長い髪がまっすぐに床に伸びている。少し俯いた顔は、手に持っていたツナ缶に向けられていた。そのツナ缶すらもごっそりまとめて神々しく見えてくる。

 コヒナタの頭の中には受話器の向こうから聴こえてくるあの声が響く。

 足が前にも後ろにも動かない。


 僕は、どうしたいんだ。そう自分に問いかける。

 僕は、このまま彼女の元に歩いて行って「おはようございます」と話しかけたいのだろうか。「彼女」は驚くだろう。しかし、仕事内容を明かせば僕のことをわかってくれるだろう。そして聞くのだ、今日は「朝」が早いですね、と。いや、そんなことを言ってしまえば僕がスーパーを回っているときになんとなく「彼女」の存在を探しているということが露見してしまうかもしれない。いや、でもそうしたら他に話すことがなくなるぞ。いやいや、そもそも急にスーパーマーケットの中で話かけるのは失礼だし、引いてしまうのではないか? しかし、そんなことを言っていては前に進めない、いや、前に進む必要があるのか?

 ぐるんぐるんとありとあらゆる言説が頭の中に渦巻き、いつの間にか「彼女」の声はかき消されてしまっていた。


 どうするべきなのか。いや、僕は、どうしたいのか。コヒナタは思う。

 この「夜」から「朝」に向かう、「朝」でも「夜」でもない時間の中でなら、前に進むことも可能なのかもしれない。

 しかし、前に進むということは、後ろに下がれなくなるということを意味している、という考えがコヒナタの頭の中で明滅する。


 深く息を吸い、吐く。

 そして、手に持っている買い物かごの取っ手をぎゅっと握りしめる。

 「彼女」の姿をもう一度、頭の中で反芻する。

 ミナトがここにいれば、間違いなく「行け。抱け」とでも言うに違いない、とコヒナタは思い、思わず小さく笑ってしまった。


 僕には無理ですよ、ミナトさん。いわんや抱くことなんて。

 心の中でそう呟いて、コヒナタは前へ、「彼女」の方ではなくレジの方に向かって歩き始めた。そうだ。これでいい。これでいいんだ。コヒナタは何度も心の中でその言葉を繰り返す。


 スーパーの窓からはさっきよりも明るくなった光が差し込む。

 頭の中では、この後作る和風だしのパスタのことで埋め尽くされていた。いや、コヒナタが埋め尽くそうとしていた。


 コヒナタは「彼女」に声をかけることはできなかった。そして、これが「彼女」に対して「平凡に」話しかける、紛れもない最後のチャンスだったのである。

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