第5話 「化」
コヒナタの平凡な生活を脅かす存在は「彼女」以外にもいた。
マシンは正常に作動し、空には安定した「夜」が広がっている。
コヒナタは椅子の背もたれに体重を預けて、隣にある大きな窓から街と空を眺める。この星の高い建物と言えば、この時候管理事務センタービルと戸籍管理センタービルくらいだ。それ以外の建物はせいぜい3階建てくらいに留まっている。それだけに、空が広く見える。地球の空は、ビルという風景にほんのわずかにアクセントを加える程度のものだが、この星の風景は完全に空が支配している。
この星の夜の空は、少々賑やかだ。
地球であれば、星が動くスピードは人間が簡単に知覚できないほど遅い。だから、空の星は常に動いているはずなのだが、まるで画のように停止をしているように見える。専門家や天体が好きな人間ではない限り、夜空を見上げるのはほんの一瞬だ。
しかし、この星の「夜」の空は違う。この夜は細かい粒子で太陽の光を遮断しているため、他の星の輝きもろとも遮断する。だから、理論上は夜の空は星一つない漆黒の空に包まれるはずだ。ただ、粒子はその場に制止することなく、風の動きによって常に対流を起こしている。そのため、粒子の間から太陽の光が細かく細かく漏れて地上まで到達するのだ。
木漏れ日ならぬ、「夜粒」漏れ日だ。
粒子の対流によって星の位置が変わるため、地球の星の動きに比べたら遥かに速いスピードで運行し続ける。固定された星空というものは存在せず、星座を形作ることもできない。
コヒナタは、流動し続ける星をじっと眺めた。地球にいる時は、星をみることなんてほとんどしなかった。そもそも地球の空は狭い。星を眺めているのだが、建物の灯りを眺めているのだかもわからない。
でも、この星空はいくら眺めていても飽きることはない。絵画としての星空ではなく、映像としての星空として楽しむことができる。
「夜」を創り出す仕事は特に孤独に悩まされる職業だ。職場には他に人もなく、街は昼とは違ってすっかり寝静まっている。そんな中で一人だけでこの「夜」という時間を守らなければならない。「夜」が狂えば、人々の生活リズムも狂う。空が明るくなり、暗くなるという当たり前なことだが、この二つの事象から秩序が失われれば、文明は機能しなくなる。
その大きな使命感と孤独感を、コヒナタは流動する星の輝きを見て僅かに癒す。その小さな光が、コヒナタを包む暗闇をか細く斬り裂く。
しかし、今はこの小さな癒しをも脅かす存在が、コヒナタのすぐ近くに存在していた。
コヒナタは背中に冷たいものを感じる。
確かな感覚ではない。しかし、確実に背後に「何か」がいる。
初めてのことではない。今年度に入って、ほぼ毎週のように「何か」はコヒナタの元へとやってくる。
「今日も精が出るね、コヒナタくん」
その「何か」は言った。
「もう午前4時か。あと2時間経てばジカンがまた広場に戻ってくる。それまでの辛抱だねぇ。仕事が終わりに近くなれば、いつもは寡黙なコヒナタくんでも少し興奮してくるのかな? 日の出を拝みながら家に帰って、人々の起きる声を聴きながらベッドにもぐるって言うのはどういう気分なのかな」
「うるさい」
コヒナタはぴしゃりと言った。「何か」、「奴」に弱い態度を見せれば、あっと言う間に身体を支配されてしまう。身体も、そして心も。
「もっと仲良くしてくれてもいいじゃないか、コヒナタくん。僕と君とは同じ『夜』の住人なんだから」
「僕はたまたま仕事の時間が『夜』なだけだ。『夜』に住んでるわけじゃないよ」
「何を言っているんだい。人は、起きている時は常に労働をしているだろう? つまり暮らすっていうことは働くということだよ。君だって、『朝』は寝て、『夜』は働く生活だろう? そう考えれば君だって僕だって立派な『夜』の住民じゃないか」
「お前は、人じゃないだろう」
僕は椅子を回転させ、背後に目を向ける。
いつも彼女の姿を見る大きな窓がそこにはある。その窓の前に「奴」は立っていた。
「奴」は、確かに人の形をしている。身長はコヒナタと同じくらいだろうか。細さも同じくらいだ。背中を後ろの窓に預け、気だるそうに右手をズボンのポケットに突っ込む格好をしている、ように見える。しかし、それを確信することをコヒナタはできない。
なぜなら、その姿は漆黒に包まれているからだ。
髪はもちろん、顔も、胴も、腕も、足も、すべてが黒に塗られている。
本来目や口があるところも全て黒い。黒いというより、暗いと表現する方が正しいだろうか。それは、まるで地面に現れるはずの影を地面からはがして、そこに立たせたような姿だ。その表情は笑っているのか、怒っているのかもわからない。ただ、そこに人の形をした闇が立っていた。
「人じゃないとしたら僕は一体なんなんだろう」
「そんなこと自分で考えたらどうだ。僕の知ったこっちゃないよ」
「つれないねぇ。せっかくコヒナタくんが孤独に悩まされている時間を埋めてあげようと思ってこうして馳せ参じているのに」
「余計なお世話だよ。僕は仕事中なんだ」
「そう。コヒナタくんが汗水たらさず人差し指一本で『夜』を創り出してくれるおかげで、僕はこうしてここに現れることができる。その点は、コヒナタくんに感謝しなければならないね」
「僕にとっては百害あって一理なしだ」
「本当にそう言えるかな?」
「奴」は言う。表情はないはずなのに、不敵に笑っているように見える。コヒナタには、そう見えた。
コヒナタは、「奴」のことを、「夜の化身」であると定義づけている。心の中ではこっそりと「人夜」(ひとよる)と名付けてしまっている。それだけ、「人夜」との距離が意図せず近付いているということだ。
この「人夜」はなんなのか。コヒナタの頭の中にはその疑問がぐるぐると回り続けていた。
しかし、コヒナタは自分の心の中にすでにある「答え」を無意識のうちに抑圧しているのかもしれない。コヒナタ自身は、そのことを認識できないでいた。
「確かに、今は『夜粒』の散布量、範囲は安定してるけど、今日は特に安定に至るまで時間がかかってたね。ほんの僅かだけど、日に日にそのスピードは落ちている。この原因は一体なんだろう」
コヒナタは椅子の方向をマシンの方に直す。同時に「奴」の発する言葉を遮断しようと努力する。
「『こうなる前』のコヒナタくんを僕は知らない。僕がここに来始めた時から君の注意力は散漫になりつつあった。僕がここに来る前に何かがあったか、それとも、僕がここに来たと同時に何かが起こり始めたかの、どちらかだね」
「奴」がここに来始めたのは今年度の5月だ。そのことが何を意味するのか、ということはコヒナタも痛い位にわかっていた。
「コヒナタくんだって、原因は自覚しているんだろう。自分の仕事に影響を与えているのがなんなのか、ってことくらい」
コヒナタの背後から声が聴こえてくる。抑揚があまりない、少々不自然な喋り方。
「仕事に支障をきたすものは、早々に排除しなきゃいけないとコヒナタくんも思わないかい?」
「奴」は言う。不自然な言い方で。しかし、はっきりと断言するような言い方で。
「コヒナタくんがしている仕事はこの星にとって極めて重要だ。それは君もわかっているだろう? 『夜』のバランスが崩れれば、何が起こるかわからないんだ。僕にだってわからない。この星に悪影響が現れれば火星や月にだって問題が波及するかもしれない。コヒナタくんの左手には人類の命運がかかっていると言っても過言ではないだろう?」
コヒナタは、「人夜」の言葉があくまで極論であると自分に言い聞かせる。しかし、極論は間違いではなく、少量の真実を含んでいる。
「数値の安定は毎日保てている。今のところ問題ないよ」
「今のところ、だろう?」
「人夜」は、決然と言う。
「数値が狂ってからじゃ遅いんだよ。歯車がほんの僅かに狂ってしまえば、システム全体が停止してしまう可能性だってある。数値がほんの僅かにズレれば、未来が変わる可能性だって捨てきれない。そんなこと、コヒナタくんだって避けたいだろ?」
「そうならないようにこうして寝ずに管理しているんじゃないか。君がいなくなってくれた方がもっと仕事が捗るんだ」
「それは嘘だ」
「嘘じゃない」
コヒナタは少しだけ声を荒げる。
「僕は君を怒らせるためにこんなことを言っているんじゃない。君のために言っているんだよ。君の生活を守るために。ひいては人類の命を守るためにね」
「そんな詭弁は聞きたくない」
「詭弁を弄しているのはどっちだい」
コヒナタは、思わず「人夜」を見た。コヒナタには、明らかに「人夜」が笑っているように見えた。錯覚ではなく、はっきりと笑顔が見えたのだ。
「大丈夫。君が『あの恋』を諦めるまで、君の側を離れたりはしないよ。君には、『恋』なんかで心の動きを乱してほしくないんだ。いつだって僕は君の味方だ。それだけは分かっていてほしい」
穏やかな口調でそう言うと「人夜」は静かに姿を消した。「人夜」によって穿たれていた空間が、もとの景色で補填される。
コヒナタは前に向き直り、椅子に体重を預ける。
僕にどうしろっていうんだ。どうすればいいんだ。そう心の中でそう呟く。
窓の外を眺めると、やはりそこでは小さな星々が蠢き続けている。
その星の蠢きに、コヒナタは自分の心の蠢きを投影する。
「恋なんか」。恋なんか、と切り捨てられたらどれだけ楽か。そう考えながら、また目の前に並んでいる計器に視線を移し、仕事の中に自分を没頭させようと努力し始めた。
しかし、コヒナタの蠢きは止まりそうにはなかった。
そしてこの心の蠢きは、コヒナタの「平凡」がこれから破壊されていくことの、ほんの前兆に過ぎなかった。
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