融けゆく呪われし氷

「恐怖の檻なんて、壊すのはお前の心次第だろ。俺がここに来るのが、怖くなかったとでも思うのか。そんな訳ないだろ。情けないことを言っているのは重々承知している。それでも、あんな目にあって、お前に前に立つことが平気だった訳がないだろ」


 そうだ、そんな容易い覚悟でこの場所に立っていない。ガリアスに一度殺されかけて、力量の差をまじまじと見せ付けられて、それでもアカツキはここに立っている。


「言っておくけどな、俺はお前に勝てるなんて、これっぽっちも思ってないんだよ。お前との戦いに勝つために、ここにいる訳じゃないんだよ」


 恐怖はアカツキを縛り上げ、何度引き返そうと考えたかわからない。アカツキにだって、恐怖の檻は確かに存在した。ガリアスには勝てない事だって、本当はわかっていた。それでも、その檻を壊して、負ける覚悟でここにいるのだ。


 ガリアスと同じ恐怖の檻だとは言わない。植えつけられた時間も、植えつけられた傷の深さも、比べものにならないかもしれない。


 でも、ガリアスはアカツキと比べ物にならないほどの力を持っているではないか。ならば、後は心さえあれば、その檻を壊すことはそんなに難しくないはずだ。


「辛くたって、苦しくたって、どれだけ怖くたって、人はそれに打ち勝つだけの強さを、ここに持っているんだ」


 アカツキは自らの胸を強く叩く。その強さはここにあるのだと指し示す。


「ガリアス、お前は怖かったんだろ。拷問を受けるうちに自分の中に暴力的なもう一人の自分が現れた。だから、あいつの命令に甘えて誰かを傷つけた。そうすることでもう一人の自分と折り合いをつけていた」


 アカツキの言葉は止まらない。どれだけ言葉にしても、ガリアスへの思いが溢れて止まらない。同情や憐憫なんかでは決してない。本気で彼を突き動かしたいと、そう思うからこそ言葉が濁流のように溢れ出す。


「そうしなければ、いつか自分の全てを、もう一人の自分に支配されそうで怖かったから。あいつの命令だから自分は悪くない。自分はただ命令に従っただけだ。そうやって罪の意識から逃げてきた」


 ここは二人きりの世界。二人以外の言葉は一切耳に入らない。ガリアスが、アカツキとの間に空いた残りの距離を詰め始める。


「でもな、ガリアス。それはお前の心が弱いからだ。お前の心が弱いから、自分ではない誰かを作り出すことで、自分から逃げ出したんだ」


 別に珍しい話でもない。自分の中に別の人格を作り出すことなど、大なり小なり誰もが行っていることだ。本当の自分を隠すための隠れ蓑。それは、誰にだって必要で、だけど、それだけに頼ってしまってはならない。


「逃げて、逃げて、逃げて、その先に何かあったのか!?ないだろうがっ!!」


 それは逃げでしかない。逃げて、それで済んでいくことならば構わない。けれど、逃げても、逃げても終わらない連鎖の中にいるガリアスには、その逃げは何の救いにもならない。


「お前の氷は、お前の心そのものだ。そうやって、自分の心を凍らせて、閉じ込めて、本当の自分から目を反らして逃げてきた」


 ガリアスの歩みは止まらない。


「もういいだろ……。本当の自分を殺すのは止めろ」


 一歩、また一歩とガリアスは前に踏み出す。


「俺がどうして、恐怖の檻を壊せたかわかるか?」


 やがて、ガリアスの歩みが止まる。それは、アカツキの言葉が通じたからか、それとも……。


「背中を押してくれる仲間がいるんだよ。俺の帰りを信じて待ち続けてくれる仲間がいるんだよ」


 ガリアスとアカツキはもう目と鼻の先、いつだって牙に掛けることができる距離。


「今のお前に、そんなものがあるか?ないだろっ!!」


 ガリアスは右腕に残された氷塊をゆっくりと上げていく。


「だから、いつまで経っても、氷漬けになった恐怖の檻を壊せないんだよ」


 そんな攻撃の姿勢を見せられても、アカツキは既にそれに抗う力は残っていない。


「俺がお前の氷を溶かしてやる。俺の炎で、俺の心で、お前の氷を、お前の心を溶かしてやる」


 だから、真っ直ぐにガリアスの瞳を射抜く。


「俺が、お前の背中を預けられる仲間になってやる。俺が、お前の帰る場所になってやる」


 信念を込めた眼差しは、ガリアスの紅蓮の瞳にどう映っているのだろうか。


「だから、逃げるのはもう終わりだ。恐怖の檻を壊して、自分の殻を破って、もう一人のお前と、あいつの呪縛と決別するんだ」


 もう終わりだ。これ以上、きっとガリアスも待ってはくれない。これで彼の心に響いていないのであれば、自分がそれまでの男だったと言うことだ。


 振り上げたガリアスの腕が震えているように感じた。ガリアスの紅蓮の瞳に、はっきりと自分が映し出されているのを確信した。


 ガリアスの紅蓮の瞳がキラリと輝く。さっきまで感情も出さず、言葉すら発さなかった彼が。それでも構えを崩さないのは、今まさに、もう一人の自分と戦っているから。





 腕を振り下ろせばいつでもアカツキを仕留められる。アカツキを仕留めれば、また今までと変わらない日常が待っている。


 それでも今まで誰が、自分の為にここまで必死になってくれただろうか。


 アカツキは最初、自分を救いに来たと言った。一度拳を交わし、殺されかけたと言うのに、どうしてそんな口が叩けるのだと、ガリアスは本気で理解ができなかった。


 恐怖がないはずがない。だって一度は殺されかけたのだ。その傷が心に深く刻み込まれていないはずがない。


 だと言うのに、彼は自分の目の前に立ちはだかっている。あまつさえ、死地に追い込んだ自分を救うと口にしたのだ。


 何も突然強くなり、ガリアスを超えるだけの力を手に入れてきた訳でもない。ただ、あの時と同じ姿のまま、弱い彼のまま、自分の前に立ちはだかっているのだ。


 どうしてそんなことができる。彼の言う通り、これまで逃げ続けてきたガリアスには到底理解できない行為だ。その覚悟の先にいったい何があるというのだ。


 恐怖に立ち向かう怖さは自分が一番理解している。傷つきながら、血反吐を吐きながら、恐怖を超える恐怖の海に溺れながら、それに抗うことにどれだけの意味があるのだろうか。


 彼と共に歩めばその先を知ることができるのだろうか。これまで逃げ続けてきた自分にも、これまで罪を重ね続けてきた自分にも、その先を知る権利があるのだろうか。


 自分がこれまでできなかったことを、できないと思ってきたことを、これから取り返すことができるのだろうか。


 止め処ない自問自答がガリアスの中で繰り広げられる。これまで閉じ込めていた思考が、濁流のようにガリアスの中に溢れ出す。


 これまで考えなかった訳ではない。考えないように自分で蓋をして、無理やりに押さえつけていただけだ。それももう限界だった。


 思考の渦に紛れて、もう一人の自分が耳元で囁いている。『殺せ、殺せ……』と。






 ガリアスの葛藤は誰が見ても明らかだった。これまでに向き合ってこなかったもう一人の自分と、初めて向き合うことで、身動きが取れなくなっている。


 だから、アカツキはもう一度だけ彼の背中を、彼の勇気を押し出してやる。


 両手を左右に大きく広げ、仁王立ちするように立ち尽くし、最後の一撃を、最後の言葉を、ガリアスに向けて放つ。


 響け、動かせ、突き立てろ。


「俺はお前から逃げない。だからお前も、お前自身から逃げるなああああああああああ!!」


 アカツキの叫びが部屋中に鳴り響く。アカツキの強い眼差しを、覚悟の言葉を受け、ガリアスは歯を食いしばった直後、部屋が軋む様な大声で叫んだ。


「ぐおおおおおおおおおおおお!!」


 その巨大な咆哮には、どれだけの感情が込められていたのだろうか。ともすれば、その咆哮は悲鳴のようにも聞こえたかもしれない。自らを奮い立たせるための雄叫びのようにも聞こえたかもしれない。


 その咆哮と共に大きく腕を振り上げたガリアスは、アカツキに向けて氷塊を携えた右腕を凄まじい勢いで振り下ろした。


 氷が砕け散る音が、ガリアスの咆哮の余韻が残る静まり返った部屋の中にこだました。


 氷塊はアカツキの目の前を通り過ぎていき、そのまま地面へと叩きつけられ粉々に砕け散った。


 こうして戦いは幕を閉じた


 ガリアスは力無く膝から崩れ落ちる。その瞳にはもう、これまでの戦意は残されていない。魔力も既に失われ、ガリアスが放っていた重圧も恐怖も綺麗さっぱり取り払われていた。


 そこにいるのは、憑き物が取れたかのように佇む、戦いを終えた、何の変哲もない唯一人の男だった。奴隷でも資質持ちでもなく、先の未来に希望を向ける、何処にでもいる青年だった。


「何をやってるでしか。そんな死に損ないの言葉を真に受けて、そいつはお前のことなんかなんとも思ってないでしよ。早くそいつを殺すでし」


 セドリックが必死でガリアスに命じるが、もうその言葉はガリアスの耳には届かない。


 今このとき、ガリアスは奴隷と言う呪縛からも、過去の記憶という呪縛からも解き放たれた。


 ガリアスを閉じ込めていた呪われし氷は、アカツキの炎によって優しく融け落ちていった。


「ここからもう一度始めよう」


 アカツキはガリアスの肩に優しく触れる。その温もりをガリアスは知らない。誰も優しく自分に触れてくれる者などいなかったから。だから、今自分の中に溢れるこの気持りが何なのか、ガリアスは理解できない。


 理解できなかったとしても、今はその気持ちに寄り添い、この暖かさに包まれていたいと、そう思えた。答えはいずれ知ればいい。答えを知らなくても、これが心地いいものだということは肌で感じることができるから。


「少し待っていてくれ」


 そう言って、アカツキはセドリックに向けて歩を進めた。アカツキが一歩ずつ近づく度に、セドリックの表情が歪んでいく。いくら敵だとは言え、そんな顔で見られるのは心外だ。


 やがてアカツキがセドリックの眼前へと辿り着く。顎だけでなく、身体中をガタガタと震わせ、目は剥き出したように見開かれている。まるで化け物を見る目だと、アカツキの心をチクリと針が刺す。


「この国の奴隷を、全員解放しろ」


 アカツキは一言だけ、ことさら冷たい声音で告げる。これ以上怖がれるのも心が痛むが、背に腹は代えられない。全身を震わせながらも、まだ敗北を受け入れられないセドリックは、額から汗をダラダラと流しながら抵抗する。


「ふ、ふざけるなでし。お前たち賊に、この国の、僕のものを、わ、渡すものか」


 セドリックのその言葉に、アカツキが静かに刀を一薙ぎした。


 刀の刃先がセドリックの服を捉え、豪華な装飾がされた服の腹の部分がぱっくりと開いた。それを見たセドリックは悲鳴を上げながら、さらに大きく震え上がる。


 なんだかやっていることが本当に賊っぽくなってきたな、などと暢気な感想を抱きながら、声音だけはひたすらに冷たくセドリックを脅しに掛かる。


「ここで首を刎ねられて死ぬか、奴隷を解放すると宣言するか……、さあ選べ」


 アカツキの感情のこもっていない冷めた声に、セドリックの恐怖は絶頂を迎えた。


 「あっ……、あ、あぁ……」と恐怖と困惑が入り交じり、言葉にならない嗚咽を漏らしながら口を開閉させていたセドリックが、遂に諦めたように脱力し、肩を落とした。


「わ、わかったでし……。この国の奴隷は……、全員解放するでし」


 あまりに不安定で、輪郭を捉えられない嗚咽交じりの言葉でセドリックはアカツキの要求を受け入れた。その言葉を口にしたセドリックは、まるで世界の終わりでも見ているかのように、虚ろな瞳で、身体中の力という力を失いながら王座にもたれ掛かっていた。


「わかった」


 そんなセドリックに、アカツキは短く了承の言葉だけを口にすると、踵を返してセドリックに背を向ける。そのままゆっくりと、ガリアスの元へと歩み寄る。


「後で俺の仲間を紹介するから、少しだけここで待っていてくれ」


 そうガリアスに残しながら、アカツキはその場を後にした。






 扉を開けると、そこにはアリスが胸の前で手を組み、祈るような姿でアカツキを待っていた。どうやら、我慢できずにこの扉の前まで来てしまったらしい。


 扉が開く音を聞いたアリスは咄嗟に顔を俯いていた顔を上げた。そこにある、ボロボロながらも確かに生きて笑みを浮かべるアカツキの顔を見たアリスは、笑みを浮かべるよりも前に、思わず表情を歪めて、涙を浮かべてしまう。


 突然泣き始めてしまうアリスに、少々戸惑いを覚えながらも、ゆっくりと階段を下りてアリスの前に歩み寄る。アリスの流すその涙がとても綺麗で、思わずその瞼に指を伸ばす。


 そんなアカツキの行動に、アリスはピクリと肩を震わせたが、嫌がる素振りもなく受け入れる。他意があったわけではないが、アカツキもおかしなテンションになっているので、そこはご愛嬌と言ったところだろう。やがて、アリスを落ち着かせるために、頭の上に掌を優しく置き、優しく撫でる。


 そんなアカツキに応えるように、アリスは自らの手の甲で涙を拭い、上目遣いでアカツキを見つめる。その姿があまりにも可愛くて、思わず心が跳ね上がる。


 少しの間アカツキを見つめたアリスは意を決したように、一度唇を噛み締めると、その小さな口をゆっくりと開いた。


「お帰りなさい」


 その言葉をきいた瞬間に心の中が一気に軽くなるのを感じる。ようやく自分は帰るべき場所に帰ってきたのだろ。彼女との約束を果たすことができたのだと。


「ただいま」


 その言葉をつむぐ為にずいぶん長い時間が掛かってしまったように感じる。実際は彼女と別れてから数時間しか経っていないにも関わらず、とても長い時間戦っていたような気がする。


 自分がこの言葉を紡がなければならないのは彼女だけではない。もう一つの帰るべき場所に。とても大切な親友が待つ場所へ。


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The Story of Ark -王無き世界の王の物語- わにたろう @iwan

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