第6話 水に落ちて
冷たい。服が水を吸って重い。
手足を動かしてもがいても、ちっとも進まない。ただ流される。
息を止めるのにも限界が来て、ごぽっと空気の泡が口からこぼれ、代わりに水が入り込む。
必死に息を吸う。次の瞬間にはまた水の中で、浮かんでは沈みを繰り返す。
上も下もわからなくなり、体力の限界が訪れた頃、強い力で水から引き上げられた。
「ごほっ……っひゅ……はっ」
口の中の水を吐きだし、必死で肺に空気を取り込む。苦しい。あれだけ渇望していた呼吸が肺と喉を痛めつけた。
「
誰かが呼んでいる。ああ、シャーナだ、と思って顔を上げる。濡れた髪が張り付いてうっとうしい。目を開けても視界が不明瞭だ。
「
泣きそうな声。大丈夫だと安心させたくても、口から出るのは荒い呼吸と
「落ち着きなさい、
ふいに、知らない声がした。
俺は慌てて
見れば、俺と同じように全身を水で濡らしたシャーナが、心配そうにこちらを覗きこんでいる。よかった、シャーナも無事みたいだ。
場所は川のすぐ側で、手をついているのは、草の生える土の上。水路に飛び込んだと思ったのに、周囲には建物がない。
「……だ、いじょう、ぶ、だ」
ぜひぜひと、
「ほら、言ったじゃない」
くすくす笑う声に、川を振り返る。岸辺に腰かけ、足の先を水につけた半透明の女が微笑んでいた。女の腰から下は魚のそれで、上半身には何も身に付けていない。
いわゆる人魚のような姿だが、美しすぎて劣情も起こらない。まるで
「何? 御子様は
不躾にじろじろと
「では、あらためて。お初におめもじ
彼女達が助けてくれたんですよ、とシャーナが言葉を添える。
「彼女達が都に上っていてよかった。でないと、水路に逃れてもすぐに水門で捕まっていました」
「……もしかして、それで飛び込んだのか?」
シャーナは、はい、と答えた。
シャーナは人魚が助けてくれると知っていたのだ。泳げるかと
そうか、と濡れた前髪を掻き上げて、フードがとれていることに気付く。気まずい気持ちで
「どうかお許しを、御子様。赤の女神が亡くなられてよりのち、人間たちが増長し、赤い色を嫌うようになってしまった」
「……貴女は、気にしないのか」
そう訊くと、エクトスの表情が寂しげなものに変わった。
「まさか。わたくしたちが、いと気高き赤の女神を
「……そうなんだ」
赤の女神というのが、どういう存在か知らない。
俺の髪の色を侮辱し、嫌悪した連中の様子から見て、疫病神のような種類の神かと想像していたけれど、どうやら違うようだ。
それを知って、なぜだか少し、ほっとした。
「でも、やっぱり髪が赤いってだけで捕まるんだな」
「この国では仕方ありません。
淡々と言うシャーナだが、苦い物でも食べたような表情で、やはり簡単に流せることじゃなかったようだ。
シャーナは杖を支えに立ち上がると、川上の方角を見つめて目を細めた。
「急ぎましょう、
「ああ」
シャーナの警戒の仕方からして、追手が諦めてくれるという期待は甘いらしい。
体全体が
ふと、シャーナがエクトスに向き直る。
「エクトス、感謝を。姉妹たちにもよろしく伝えてください」
エクトスが頬を緩めたのがわかった。
「息災で、
「……ありがとう」
なんだか気恥ずかしくで、尻すぼみな感じの「ありがとう」だったが、エクトスは包み込むような微笑をくれたあと、魚が跳ねるように綺麗な線を描いて川に戻っていった。
エクトスを見送ったあと、俺は
川に浸かって体力を消耗していたせいか、初めは喋る余裕がなかったが、意識して呼吸のタイミングを計ることで楽になる。徒歩通学で
そうすると、次から次へと疑問がわいてきて、思いつくまま口に出した。
「ここどこ?」
「都の外れ、でしょうね。大分流されては来ましたが……」
周囲を見渡す。川に落ちて全身濡れそぼっているせいか、水の匂いが濃い。
神殿を出てすぐの町並みは、石を組み整えられた道ばかりだったが、この辺りは土に草が生えたそのままだ。いや、川の周囲に手を加えず、自然のままに保っていると言うべきか。
川の幅は広く、水の流れはゆったりとしている。水路を流され、川の下流まで出たのだろう。
「追っかけて来た奴らが神殿の兵士じゃないって言ってたけど、どういうことなんだ?」
水を吸った服が重い。意識して膝を上げ、俺と同じく服が重いだろうにきびきびと歩くシャーナを追いかけた。
「服が違います。あれはたぶん、王宮付きの兵士ですね」
「王宮付きだとどうなる?」
シャーナが体を
早くこの場を離れ、都とやらから出なければならないのだ。それくらい、俺にもわかる。
じゃり、とスニーカーの底が土を踏みしめる。靴の中がぐっしょりして、歩くたびにおかしな感触があったが無視した。些細なことをいちいち気にしていては、動けなくなる。
「わたしたちのことが、王室に知られたかと」
「まずいのか」
小さく息を吐く音がした。シャーナの吐息だ。
「少し、いえ、ことによってはすごく。神殿ならば止める者もおりましょうが、王室に歯止めとなる者はありません。わたしが
ぞっとしないな、と思ったあと、ふと
「シャーナを? 俺じゃなくて?」
「はい。わたし、髪の色、紫じゃないですか。紫は、青と赤が混じって生まれますから。赤を否定する彼らにとって、わたしの髪は身の毛もよだつほどおぞましいのですよ」
覚悟はしていましたけれど、まあ、あんな反応でしたし。
そう続けたシャーナはあっけらかんとしていたが、平気なわけはない。あの時一瞬だけ見えた、唇を噛む様を覚えている。
俺は神殿での兵士たちの表情を思い出して、ぐっと奥歯を噛みしめた。余計なことを言ってしまいそうだったからだ。
今、シャーナの傷に触れることは、彼女の
「そっか」
「はい」
「面倒だな」
「面倒なんですよ」
深く息を吸って、ゆっくりと吐く。そうして腹の底で煮え
一つだけ、言っておきたいことがある。
「でも、俺は綺麗だと思うぞ。シャーナの髪」
思わぬことを言われたという風にシャーナが振り返り、小さく笑った。
「だったら、良いです。貴方にそう言ってもらえたなら。他の誰に否定されたって、わたしは良いです」
それは本心なんだろう、と漠然と思う。でもだからって、誰かに否定されても平気でいられるという意味じゃない。それを間違えてはならないと、俺は心にとめておくことにした。
ふいに、くすっと笑い声がして、俺は首を傾げる。
「何?」
「いえ。
「え……」
一拍おいて、ぶわっと全身に熱が走った。顔が熱い。たぶん、俺の顔は真っ赤だろう。
「ち、ちが……!」
自分で思い返しても、えらくクサいセリフを吐いたものだと思う。恥ずかしい。
後悔する反面、仕方ないだろう、と開き直る自分もいる。だって、本当にそう思ったんだ。
シャーナは振り返り、ゆっくりと目を細めてみせた。小さな唇は弧を描いている。
「冗談ですよ?」
こいつ。からかいやがった。
息を吐いて、手の甲を額に当てる。熱はまだ引きそうにない。
ああでも、シャーナのおかげで気が抜けた。ずっとがっちがちに緊張して歩いていたから、体力だけでなく精神的な消耗が激しかったのだ。
そうすると、歩きながら周囲を見回す余裕が出てくる。
川が光を弾いて美しく輝いている。緑は深く、土は香り高く、息を吸い込めば澄んだ空気が肺を満たした。
人の住む家はないようで、水車小屋がぽつぽつと見えるくらいだ。人も通っていない。そもそも、整えられた道ですらない。
地球の人類史において、文明は大河の側で産声を上げた。人が集まって暮らす以上、水場は重要なはずだ。なのに、なぜ。それとも、この世界では違うのだろうか。
疑問をそのまま指摘すると、シャーナは頷いて、斜めの方角を指差した。
「旅人や商隊の通る大道は、ここより西にあります。この辺りは、よく川が氾濫するので人家を建てないのですよ。
「へぇ」
感心してシャーナを見つめる。俺だったら、自分の住んでいる町の説明もできそうにない。
地図を読むのも、地理を覚えるのも得意だったけど、それだけだ。土地の特色とか、そこに暮らす人とか、興味を持ってこなかった。
「そういえば、話の途中で追っかけられたから、聞けてないけど。南西に行くって言ってたよな?」
太陽を見上げながら訊く。陽は高いが、真上よりは低い位置にあった。
「はい。ルビナスを経由すれば、気付かれずに
「何で? 関所とかないの?」
「ないこともないですが……元は赤の女神の神域の一つですから、人は住んでいません。旅人も避けて通るので、監視の目はないのですよ。ここからだと、馬で五日といった所でしょうか」
馬で五日。それがどの程度の距離なのか、自動車や電車が当たり前にあった俺には想像もつかない。しかも俺たちは徒歩だ。
そうすると、五日どころでは済まない。
これ、元の世界に帰るまで、どのくらいかかるんだろう。
慌てて頭を振り、硬直してしまいそうな思考を追い払った。
「途中で適当な商隊を見つけて、紛れ込めたら良いんですけどね」
「紛れ込む?」
「金銭を払うか、
ああ、そうか。そうすれば、商隊は人手や金が手に入るし、旅人の方は安全と足が確保される。持ちつ持たれつ、という奴だ。
商隊を狙う賊もいる、とシャーナは付け加えたが、それにしたって集団と一人では比べるべくもない。
「でも、俺の髪とか嫌がられるんじゃないのか。隠すとしてもさ……バレない保証はないだろ?」
「他国からの商隊を探すんですよ。できれば
「……俺たちの手配書が配られたりとか、しないの?」
「ないとは言い切れませんが、大丈夫だと思います。
いい加減、マイナス思考からくる心配を怒られるかと思ったが、シャーナは面倒くさがらず、一つ一つ答えてくれた。
つまり、国内ならばどうにでもなるが、国外に
「そういえば、シャーナ。
巡礼という言葉自体は、歴史の授業で聞いた覚えがある。たしか、キリスト教の十字軍のあたり。聖地を訪れることだったような気がする。
「はい、そのまま、六つの神殿を巡る者のことです。巡礼は
「何で?」
「そもそも、必要がないのですよ。
「じゃあ、何でシャーナは……」
問いかけて、はっと言葉を止める。なぜ、なんでと、疑問に思うままに口にしたが、これは
俺の戸惑いを見てか、シャーナは小さく笑いをこぼした。それが思いのほか明るかったので、無意識に息を詰めていた俺はほっと息を吐く。
「理由はいろいろです。……目的も、いろいろ。一番は
囁くような声に、心臓を握られたような気持ちになった。罪悪感で、臓器が絞られるような錯覚に
「……ごめん。俺のせいで、ちゃんと終わらなかったんだろ」
シャーナは足を止めて振り向いた。俺も足を止める。
この世界のことは、まだわからない。実感もない。でも、シャーナが頑張って来ただろう道のりを、台無しにしたのはわかる。
車とか飛行機とか、便利な移動手段のないこの世界で、神殿とやらを巡るのは、どれだけ大変だったんだろう。それが、達成する直前で、俺の起こした騒ぎに巻き込まれて、潰えた。
彼女の顔を、まっすぐ見ることができない。
「馬鹿ですねえ」
呆れた風なのに、ひどく柔らかな声で言われ、そろりと顔を上げる。
シャーナは笑っていた。とても晴れやかな表情で、目元を緩ませる。
「千早様に出会えたのが、わたしにとって一番の成果で、ご褒美です。貴方に会えた。それだけで、わたしのこれまでの不幸や不運を天秤にかけても、お釣りがくるくらいのことなんですよ」
とても嬉しそうに。これ以上ないくらい、幸福そうに笑う。
シャーナがそんな言葉をくれる理由がわからなくて、俺は、ただ、彼女の笑顔を記憶に焼き付けた。
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