第5話 帰りたいよ


 ――ヴィオラチェウス、さま?


 意味のわからない言葉。おそらく単語か名前だが、なぜだか心臓の鼓動が速くなる。

 ど、ど、と動悸が激しく、じっとりと手のひらが汗ばんだ。

 あと、なんて言ったっけ。


 『ご帰還、心よりお喜びを』


 帰還――とは、なんだ。

 意味自体は帰ってくることだが、それは俺にあてはまらない。


 だって俺は、こんな所、知らない。


 呆然と少女……シャーナを見つめて、俺はただ立っている。

 涼しい程度だった路地裏が、氷室のように冷たく感じる。

 彼女は冗談を言っている風じゃない。嘘という雰囲気でもない。どこまでも真摯だ。

 だからこそ、不気味に感じた。


「何を、言ってるのか、わからない」


 彼女か恐いんじゃない。シャーナに対しては、嫌悪感や恐怖など、負の感情はわいてこない。

 自分の当たり前が当たり前じゃなくなる。

 そんな、足元が崩れていくような不安だ。

 薄氷の張った湖の上を渡っているような、心もとなさ。

 困惑する俺に、シャーナはゆっくりと語り出した。


「あなたは、紫の神。本当は千年前に生まれているはずだった、神様です」

「……いや、ホント、意味が」


 わからない、と続けようとして、シャーナに感じた懐かしさと、出会えた瞬間の歓喜を思い出した。

 俺は確かに、シャーナになんらかの繋がりを感じていた。

 ぶわりと鳥肌が立つ。怖気に似た寒気が背筋を走った。


「だって俺、人間だよ。生みの親はわかんないけどさ。神様とかそんな、特別なもんじゃない」


 嫌な感覚を消すように腕をこすりながらまくしたてた。

 生い立ちと髪の色を除けば、俺はただの男子高校生だ。

 友達と馬鹿言い合って、こっそりエロ本回し読むような。

 非行に走ってはいないけれど、まじめでもない、どこにでもいる思春期の未成年だ。


「ただの凡人だ」


 じっとりと嫌な汗が浮かぶ。

 シャーナは不思議そうに小首をかしげ、ひとつ頷く。


「はい。けれどわたしは、あなたを紫の神だと感じています」


 とんでもない暴論が直球で投げられてきた。

 つまり、どういうことだ。シャーナがそう感じるから、俺は神様、ってことか。

 そんな馬鹿な。


「あ、信じていませんね。でも、あなたがわたしの主です。これだけは間違いません」

 

 シャーナは杖を揺らして音を立てた。しゃん、しゃん、と金属がぶつかる。

 金属音なんて耳障りなはずなのに、風鈴が鳴るような澄んだ音で、頭が冷静になった。

 

「うん、でも、俺は人間だ」


 大事なことなので繰り返した。

 どんな期待をされても、俺は俺で、それ以外にはなれない。神様なんて大層な役目、とても負いきれない。その意思を示すために、重ねて言った。


「ただの、人間」


 シャーナは、少しぽかんとした顔になったが、すぐに表情を引き締めた。

 まっすぐに目を合わせて、はい、と頷いた。


「……千早チハヤ様は、望んでここに来られたわけではないということですね」


 少しずれた答えだけれど、シャーナは俺の言いたいことを、きちんと受け取ってくれたようだ。

 俺は、ゆっくり首肯しゅこうする。

 いきなり、わけのわからない場所に出て。髪の色でさげすまれて、殺されかけて、兵士に追われて。挙句、神様なんて呼ばれたって、嬉しくもなんともない。

 

「もともと、俺の居場所はどこなんだとか、思ってたけどさ。こんな、別の世界に来たいとか、夢にも思ったことはないんだよ」


 そう告げると、シャーナは一度瞑目めいもくしたあと、優しい声でいた。


「では、千早チハヤ様のお望みは? 今、考えられるだけでいいです。どうしたいですか?」


 問われて、俺の頭の中を駆け巡ったのは、俺を散々罵倒ばとうした青い髪の奴らの顔。それからセレンディアスの低い声と、牢の湿っぽさ、狼を繋いでいた鎖の音。朝、家を出る時に見た、母親の背中。

 記憶は一瞬で浮かんで消え、単純な答えだけが残る。


「帰りたい。地球――惑星としての名前だけど、俺の世界に」


 俺は、両親との関係に抱えたモノがある。

 直視するのも避けてきた溝。腫れ物のようなそれ。

 その溝を埋めるか、飛び越えるか。はたまた、ないものと無視して生きていくか。

 まだ、答えを出していない。まだ、距離を置いてどう変化するか、試すこともしていない。

 逃げ出すのだとしても、これでは逃げ出すことさえできない。


「帰りたいよ」


 シャーナはほほえんだ。花をさらう、春風のような笑みだった。


「はい」


 たった一言。ただそれだけなのに、俺は俺を丸ごと認めてもらったような気持ちになった。

 シャーナは、俺のことを知らない。性格も、家庭事情も、何一つ。

その上で、ただ俺の希望を訊いて、肯定した。

 たぶん、これは尊重だ。理解できずとも、納得できずとも、寄りっていこうとする意思だ。


「それがあなたのお望みなら。方法を考えましょう、千早チハヤ様」


 なんだか泣きたくなったが、見栄を張って、ぐっと息を詰めてうつむいた。
































 青の神殿騎士エクエス、ジードはいきどおっていた。

 よりにもよって、神聖な儀式を台無しにした赤い髪の男を逃がしたのだ。

 いくら神殿騎士エクエス筆頭であるセレンディアスが止めたからとはいえ、許しがたい失態だ。

 己に怒り。そして、紫などという、ありうべからざる髪の女に怒っていた。


「ミュゼ様のご容体は?」


 侍女の一人をつかまえて問えば、かんばしくない、という返事があった。

 これもまた、許しがたいことだった。

 彼女がどれほどの思いであの儀式を成そうとしていたのか、知っているだけに、怒りが治まらない。


 ――やはり、追捕ついぶの指示を。


 そう考えて、きびすを返す。

 このまま、あの赤と、紫なぞというおぞましい色を持つ者を、放置して良いわけがない。

 いくら巡礼者じゅんれいしゃといえども、訪れた国を混乱に陥れる権利はない。

 問題はセレンディアスだ。進言したところで、取り合ってもらえるかどうか。


「ずいぶんと、怖い顔だ」


 どう説得しようかと思考を巡らせていると、うしろから声をかけられて振り返る。壁によりかかるように立っているのは、細身を青い装束で着飾った男だ。

 胸に光る竜の紋章を見て、ジードはとっさに視線を落とした。


「これは、殿下。失礼いたしました」


 竜は王家の紋章。そして、それを身に付けられる人間は、王族の中でも限られている。目の前に立つのは、王位継承権を持つ男だ。


「許す。顔を上げろ」


 鷹揚おうように、それでいて傲慢ごうまんに言った男は、蛇のように目を細め、口の端を釣り上げた。

 内心を見透かされるような無遠慮な視線に、ジードはじっと耐える。昔から、この男は苦手だった。深い青の双眸そうぼうは青の神の眷属であるがゆえだが、男には神への敬意などないのだ。


「儀式は失敗。ミュゼラリアはせっている。しかも神殿内に、赤い髪の侵入者が居たって?」


 答えられないでいると、はっ、と男が嘲笑した。

 もとより、ジードの返答など必要としていないのだ。

 男は、哄笑こうしょうを上げて神殿の不手際をあげつらった。


「これはいい。傑作けっさくだ! これでおまえたちも、いい加減あきらめがつくというものだろう。青の神に――我らが父神に、かつての力はない。いや、かつてのように人間に与する意思がない、というべきか?」


 青の神が自分達を見捨てたかのような言い草だった。

 男の物言い、神への不敬を批判しそうになったが、ジードは己を押さえ込んだ。

 神殿内の者ならば、神殿騎士であれ、侍従であれ、侍女であれ、はたまた目上の神官であれ、ジードは異議を唱えただろう。

 だが、この男を相手に下手に意見などすれば、神殿そのものから王子への不敬と断じられる危険がある。

 自制したジードに、男はつまらなそうに鼻を鳴らし、ようやく蛇のような視線を外した。


「まあいい。この責任の所在は、セレンディアスに尋ねるとして、だ。ジード、おまえはルビナスに向かえ。獣に手こずっているそうだ」


 ジードは瞠目どうもくしたあと、きつく目をつむった。この時期に、まさか神殿を離れろとは。

 しかし、命令を拒否する権利も、力も、ジードにはない。


「……御意ぎょい


 悔しさに歯噛みしながら、頭を下げた。



















 感情の昂りが落ち着いたあと、俺はシャーナに連れられて、じめじめとした影の中にある市場を進んでいた。

 道の両脇に、それぞれ布を張った露店があって、地面に引いた布の上や、並べた箱の中に商品が並んでいる。果物であったり、肉や魚、衣服や鍋などの類もある。

 シャーナは衣類を売る露店の前で足を止め、外套を一枚求めた。くすんだ色で端はほつれ、とても真新しい品とは思えない。古着だろうか。


「ベス銅貨でもいいですか?」


そう訊いたシャーナに、偏屈そうな老婆がうっすら目を開き、しわくちゃの手を伸ばす。シャーナはその手に太陽が刻まれた硬貨を十枚以上握らせて、商品を受け取った。


「何?」

千早チハヤ様に。やっぱり、私の外套マントでは少し小さいですし」


 笑いながら言うシャーナだが、俺は女の子に服を買って貰ったのか、と打ちひしがれた。

 格好つかないじゃないか。いや、もともと格好なんてつけていられなかったけども。

 外套マントを受け取って、再び歩き出したシャーナについていく。触れた布の感触は、厚く丈夫そうだったが、やはり使い古されていたんでいるようだった。

 外套マントをシャーナの外套マントの上から被って、下の外套マントを器用に外してシャーナに返す。女の子の着替えみたいだけど、人前で髪をさらしたくなかったのだ。

 歩きながら周囲を見渡すと、市場に並べられた商品が貧相なのが目についた。果実は小さく、傷が多い。衣類を扱う店もいくつかあったが、先ほどの老婆の店が一番マシだった。つまり、他が酷いのだ。店頭に並べられた服に、堂々と穴が開いているものもあった。正直、目を疑った。それ売り物になるのかよ、と。

 それに、市場自体に活気がない。人は多いが、熱気とはほど遠い。


「なあ、ここって市場だよな?」


 隣を歩くシャーナに、こそっと耳打ちする。普通の会話も憚られる雰囲気なのだ。シャーナは、そうですよ、と頷いた。


「ただ、まあ、表では出ない物が流れています」

「それ闇市って言うんじゃ……」

「いえ、違法な品、というわけではないんですよ」


 シャーナは難しい顔をして、目を細めた。


「ここの通りから南は貧民くつです。そちらの方々が出品し、購入するための市場です。表の大通りとは、値と質が違うんです。まあ、需要と供給ですね」


 あっさりとした口調で言うシャーナに、俺は息を詰めた。

 貧民窟なんて、縁遠い話だ。テレビの中の出来事で、身近にはなかった。

 俺が緊張から固くなったのに気付いたのか、シャーナは安心させるように微笑んだ。


「大丈夫です。この辺り、治安はマシな方ですし……憐れむとしても、千早チハヤ様には関わりないことです。罪悪感なんて、感じる必要ありませんよ。それをすべきは、この国を治める者で、導く者です。責を負うは彼らであって、貴方じゃない」


 突き放すような物言いに、驚いて足を止める。

 シャーナは振り返って、きょとんとした顔で小首を傾げた。彼女が手にした杖が、歩くたびにしゃんしゃんと音を立てる。


「どうしました?」

「や、シャーナって、俺が言いたいこと、よくわかるなって」


 驚いたのは、シャーナの言葉の的確さにだ。冷たいように聞こえるけれど、彼女は俺の心情に配慮しただけだろう。


「当然です、と言いたいですけど、わかりませんよ」


 胸を張って見せたあと、肩をすくめながらシャーナは言った。

 おどけた仕草だが、その顔は苦笑している。


「だから、言葉を尽くします。千早様も、言いたいことは言って、聞きたいことは聞いてください。わたしに、心を読む力はないので」


 ああ、いいな。

 小気味よい踏み込み方に、俺は小さく笑った。

 シャーナはわからないと言った。その上で、言葉を尽くすから、距離を測っていこうということだ。何が互いを傷付けて、何が互いを尊重することになるのか。それを探っていこうと言っているのだ。

 ああ、いいな、こういうの。

 普段の俺なら気恥ずかしさが先に立っていたかもしれないが、こんな事態だからか、素直に受け止めた。


「ああ、よろしく頼む」


 ふわふわと気分が高揚する。軽口を叩くように、するりと言葉が出た。


「さっそく質問だけど、俺が帰る方法に、心当たりある?」

「いいえ、まったく」


 即答でばっさりと切られた。そりゃないよ。俺は遠くを見つめながら呟くしかない。

 落胆した俺に、シャーナは「だって」と唇を尖らせた。


「異世界からの来訪者なんて、古い歌にもないですもの。でも、わたしが知らないだけかもしれませんし、調べてみましょう」

「具体的には?」

火の獅子国フランリオンに向かいます」


 フランリオン。以前にも聞いた言葉だ。

 それは何だと問えば、古い国だと答えが返ってくる。


「火の獅子王が治める国で、赤の女神を奉じていました。女神はもういらっしゃらないけれど、赤の神殿を擁して、いまだその聖域を守っています。獅子王は女神が存在した時代から生きていますから、千早チハヤ様について、何かわかるかもしれません」


 はっきり帰る方法がわかるわけではない。でも、希望はある。

 向かう先を示してもらえば、不安を抱えても歩いて行ける。

 歩いた先が行き止まりかもしれないことは、今は考えない。


「とりあえずは、ここから南西のルビナスへ――」


 言いかけたシャーナが、ばっとうしろを振り返った。何事かと俺も振り向いてみると、あきらかに周囲から浮いている男たちが、露店の売り子や通行人をつかまえて、話をしているようだった。

 ざわり、と背筋があわ立つ。

 ただ話をしているのではない。男たちは威圧的で、通行人の腕を無理やりじ上げて何かを聞き出そうとしている。

 そして、周囲の人間が、誰一人としてあの暴挙に反抗していないということは、つまり。


「千早様、走って」


 頭の中で答えを出すより先に、シャーナが俺の手首を掴んだ。間を置かず走り出す。

 背後から、男たちの怒号が飛んでくる。

 見つかった。


「まったく、しつっこい!」


 シャーナは八つ当たりのように罵倒した。

 人の波をぬって走るのは、なかなかに骨だった。

 市場を抜け、さらに細い路地を通り、明るい通りに出たが、まだ追ってくる。水路が日差しを反射してまぶしく、俺は時折片目を瞑った。

 息が上がる。膝の裏がつる。足首から膝まで伸びる骨が、じんじんと痛む。


「あれっ、何!?」


 足りない息で叫ぶ。馬鹿な行動だが、そうでもしないと潰れてしまいそうだった。

 しゃんしゃんと杖の先についた金属音を立てながら、シャーナは声を上げた。


「追手です!でもあれ神殿の兵士じゃない!」


 神殿の兵士じゃなければ何なんだ、と思ったが、シャーナの声を聞く限り、神殿の兵士が追ってくるよりもまずい状況らしい。脳裏に、振り下ろされそうになった剣とか、牢で蹴られたことが浮かんだ。あれ以上に危険だと。

 俺は走ることに集中した。

 そうして三つ辻に出た瞬間。


「あ」


 前方から、追手とわかる男たちが走って来ていた。はさちだ。シャーナはすぐさま、残る左の道を選んだ。いや、選ぶしかなかった。

 道の先は階段で、高い場所に出る。水路の合流地点が川のようになっていて、その上に突き出た円形の広場だ。行き止まり、続く道はない。


「追い詰めたぞ!」


 男たちの一人が叫んだ。頭が真っ白になって、呼吸が止まる。

 どうする。どうすればいい。

 見えるだけでも、男たちは五人以上いて、戦って切り抜けられるとは思えない。

 じりじりと、突き出た広場の端まで追い込まれる。これ以上下がれば、水の中に落ちる。

 轟々ごうごうと響く水音と振動が足を竦ませた。


千早チハヤ様」


 シャーナの声は、こんな時でもよく通る。


「泳げますか?」


 マジかよ。

 だって、この状況でその台詞セリフってことは。


「およ、げる、けど……」


 喉が震える。ちら、と水路を見る。水の流れが一つになる所で、勢いが強い。しかも、人の大きさくらいの魚影がいくつか見えた。さめ、じゃないよな。淡水だし。


「じゃあ、いきますよ」


 なんでもないことのように言って、シャーナは俺の腕を引っ張った。躊躇ちゅうちょなく飛びこんだシャーナに引きずられる形で、俺も足を踏み切った。

 目を閉じて、息を止める。

 全身を打つ衝撃があり、俺は意識を失った。

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