第4話 紫の少女

 お互いを見つめたまま動けない、俺と少女。


 彼女から目が離せない。

 彼女も目をそらさない。

 

 それは、せ物をようやく見つけ出した感覚に似ていた。

 もうだめだと思った頃、なんだ、こんな所にあったのか、と。

 徒労に息をつき、安堵から力を抜く、そんな感じ。


「……何だ、それは」


 震える声が、彼女しか認識していなかった俺の意識に割り込んだ。

 見れば、ジードと呼ばれた水色の髪の若い男――俺を殺そうとしたヤツ――が、化け物でもいるかのような顔で、こちらを見ていた。

 ジードだけではない。周囲の兵士たちの誰もが、不快な、恐ろしげな表情で、正視するのも耐えられないといった態で、顔を引きらせている。

 

 ――何だ?


 俺の髪のことを、汚らわしいだのなんだの、散々吐き捨てた時より、ひどい有り様だ。

 何がそんなに、彼らを恐怖させているのか。


「何をしている!? 全員、持ち場に戻れ!!」


 凍った空気を、鋭い声が裂く。

 主席――セレンディアスと、もう一人、彼以上に深い青の髪をした男が走って来た。

 男は白い長衣を着て、少女と同じような、先端の輪にいくつもの輪を通した形の杖を持っている。髪は地面につきそうなほど無造作に長く伸ばされ、どこか浮世離れした雰囲気だ。

 彼らの登場で、俺たちを囲んでいた連中がたじろぎ、包囲がところどころ割れた。


「……!」


 少女はそで口で目元をぬぐって、再び彼らと対峙する。

 彼女が体の向きを変える瞬間、強く唇を噛んだのが見えた。


「……合図をしたら走って」


 小さく、俺にだけ聞こえる声。

 少女は前方を見据えたまま、後ろ手に俺の手を掴んだ。

 長い髪の男が、少女を見て、目を見開いた。


「その杖は、シャンティの……いや、その、髪の色は」


 声に覚えがある気がして、俺は首をひねったが、思い出せなかった。

 それよりも、男の隣に立つセレンディアスの顔色が変わったことが気にかかった。瞠目し、浅く口を開いて、こちらを凝視している。


「お初にお目にかかります、青の大兄。この度は青の神に拝謁はいえつたまわらんと参りましたが、叶わぬご様子。であるならば、く去ります。――見送りは無用に!」


 少女は言い切った次の瞬間、「走って!」と怒鳴った。

 腕を引かれるまま、反射的に地面を蹴る。

 少女が目指したのは、割れた囲いの隙間だ。


「……っ待て、この」

「よさんか、馬鹿者が!!」


 とっさに道を阻もうとした兵士たちを、雷のような怒声が押しとどめた。

 セレンディアスの声だ。なんという威圧感。骨の芯を震わせて、萎縮いしゅくさせる叱責。

 だが、この場で一番小さな少女は圧されず、その隙をついて、兵士の間を通り抜ける。

 俺はただ必死で足を動かし、少女に続いた。


 庭を抜け、回廊を駆け、螺旋階段を滑り降りて、ようやく俺たちは建物の外に出た。少女は、人の少ない道順を知っていたかのように、正しく道を辿り、俺を導いてくれた。

 

 走っている間中、俺の目の前を揺れていた、長い紫色の髪。

 癖のない真っ直ぐな髪は、現実味のない色合いをしているのに、なぜか違和感がなくて、ずっと見惚れていた。


「ここまでっ、来ればっ!」


 息を切らして、少女が言った。

 俺の息も上がっている。上がっているどころか、肺が潰れそうだ。

 男の俺がこんなザマなのに、少女は荒い呼吸を早々に整えて、ふぅと肩を落とした。


「すみません、あのまま神殿にいたら、えらいことになりそうだったので。大丈夫ですか?」

 俺は「ああ」の一言も発せず、何とか片手を上げて心配ないと示す。

 少女はほっとしたように頬をゆるませると、胸の前で結んでいる外套マントの紐を外し、脱いだそれを俺に被せた。


「申し訳ないんですが、とりあえずその頭は隠しておいてください。この国だと、悪目立ちしちゃいますから」


 言いながら、彼女は腰に結んだ袋からスカーフに似た物を取り出し、自分の髪をまとめて隠した。彼女の髪の色も、あまり良い物ではないらしい。

 俺は、わかった、と頷く。むしろありがたい。これ以上、髪の色について騒がれるのは勘弁だ。

 ようやく呼吸が通常の状態に戻り、俺は身を潜ませている路地裏から、表の通りを見た。

 道路に相当する路地はほとんどなく、代わりに滔々とうとうと水が満ちている。

 水の上に浮かんでいるかのように、いたる所に水路がある町だ。いつか、海外旅行の特集で見た、イタリアの都市ヴィネチアを思い出した


 日本に、こんな場所はない。

 俺はいったいどこに迷い込んだんだと、眩暈めまいを覚える。


「それで、ご主人様」


 少女の言葉に聞き慣れないものを聞いて、俺は半眼になった。

 少女は俺を見上げて小首を傾げる。自分は何かおかしなことを言いましたか、と聞きたそうな顔。

 真っ直ぐなその視線がつらくて、そっと目を泳がせる。


 うん、おかしい。おかしいわ。

 誰がご主人様。メイド喫茶じゃあるまいし、俺にそんな倒錯的な趣味はない。

 この子もそんな変な子には見えないんだけど。主に性癖的な意味で。それとも、人は見かけによらないのか。


「あの……」


 一人で悶々と考え込んでいると、少女がおずおずと、こちらの機嫌を窺うように上目使いになった。女が男に甘える媚態びたいはなく、親に叱られる子供のようにびくびくしている。


「ご主人様? 何か失礼を……」

千早ちはや


 きょとん、と、左右で虹彩の違う眼が大きくなる。

 ああ、しまった。つい反射で。

 きちんと訂正するために、俺は思考を巡らせる。


「俺は志筑千早しづきちはやって名前。ご主人様って、何なのかわからないけど、千早でいいよ」


 むしろそう呼んでくれ。どっちが年上で敬語がどうとかいいから。呼び捨てでいいから。

 いや、志筑の方でもいいけど。どっちでもいいけど。

 ご主人様は何か、何か、駄目な気がする。


千早チハヤ、様?」

「様もいらない」

「いえ、さすがにそれは……不敬が過ぎるというか、何というか」


 今度は、少女の方が視線を泳がせはじめた。

 消極的だが、俺の提案を否定している。それも、強固に。


「やっぱり、ご主人様って――」

「千早様でお願いします」


 俺は彼女の言葉を無理やり遮って言った。

 様付けも大概にして倒錯的な気がするが、ご主人様よりマシだろう。


「……君は、何て呼べばいい?」


 話題を変えようと俺がそう訊くと、少女は慌てた。しまった、という顔をしていた。


「名乗りもせず、ご尊名を拝聴するなど失礼いたしました」


 そう前置きしてから、微笑む。とても嬉しそうな、面映おもはゆそうな、そんな表情で。


「わたしはあけぼののシャーナ。暁のシャンティの娘です」


 シャーナ。

 あきらかに和名じゃないから、意味はわからない。

 でも、耳に心地良い響きの音で、いいな、と思った。


「シャーナ」

「はい?」


 呼ぶと、嬉しそうに破顔する。犬が尻尾を振って甘えてくるのを思い出した。

 しかし、和んでいる場合じゃない。


「ここはどこなんだ? 俺、いきなり水の中にいたと思ったら、あそこに出てさ。髪が赤いからってだけで、牢にぶち込まれたんだけど」


 その元凶となった髪も、染めていたはずなのだ。家を出る前、洗面台の鏡で見た自分は、確かに黒髪だった。

 髪が伸びてきて、根元がまだらに、なんてこともない。

 シャーナは、困ったように首を傾げてから、視線を宙に投げた。それから少しして、難しい顔で答える。


「……千早様がどこからいらっしゃったのかはわかりませんが。ここは、青の都。青の神おわす、青の竜国ドラコスブリュの首都です」


 意味の分からない単語が山ほど出てきたが、つまり、青い国。

 そういえば、建物には青い石が使われて、水路も青い。


「そして、先ほどわたしたちが居たのが、青の神殿。青の神の寝所であり、神を祀る場であり、人と神を繋ぐくさびでもあります」


 シャーナは、そこまで説明して、視線を落とした。表情に、影が差す。


「……千早様が捕らわれたというのは、青の国にとって、赤の色は禁忌だからです」


 どうやら宗教的な理由らしい。

 マジか、と俺は天を仰いだ。どうしようもねぇ。一番、性質たちが悪い。


「――ご存じ、では、ありませんか。千年の昔に、赤の女神を討ったのが青の神だと」

「いや、知らない。というか、ここの神様って、色なんだ?」


 疑問に思ったまま、何のてらいもなく訊いてみた。実感がなくて、薄絹一枚へだてた向こう側の話だった。

 シャーナは微妙な表情をしてから、まあいいか、という風に息を吐いた。


「はい。世界に光の御柱が立ったあと、色彩の神々が生まれました」


 色に光とは、幻想的なようでいて、その実ひどく科学的だ。

 人間が色と認識しているのは、光のスペクトルだ。光の波長が網膜に刺激を与え、それを人間の脳は色だと感じている。

 つまり、光がなければ色という概念もない。

 それは、この現実味のない世界でも同じらしい。


「なあ、これ、夢じゃないんだよな」

「哲学的な問いであれば答えを持ちませんが……そのままの意味であれば、『はい』。これは現実です」

「そっか」


 そっか、と口の中で繰り返して、片手で顔をおおう。冷たい壁に、背中を預けた。

 うすうす考えてはいたけれど、どうやら別の世界に迷い込んだらしい。

 『不思議の国のアリス』じゃあるまいし、こんなことがあってたまるかと毒づいても、目の前の景色は変わらない。

 認めたくないが、認める。少なくとも、ここは地球じゃない。

 俺は相変わらず日本語を話しているはずなのに、異国染みたここで、言葉が通じる不思議も、それなら納得だ。


「俺、異世界から来たらしい」


 自棄ヤケになって、頭がおかしいと思われそうなことを、簡単に言ってしまった。

 いくらこの子でも、引くだろうなぁと思っていると、シャーナは神妙な顔つきで頷いた。


「はい」


 俺は怪訝に思い、眉を寄せて彼女を見つめる。


「ご帰還、心よりお喜びを。紫の神ヴィオラチェウス様」


 少女は真っ直ぐに俺を見上げて、言祝ことほいだ。






















 騒ぎの元凶が逃げ出した青の神殿で、神殿騎士エクエス主席、セレンディアス・スカイディはため息を吐いた。

 場所は、赤い髪の少年を捕らえていた地下牢。

 彼は、白い長衣を纏い、鳴杖めいじょうを携えた男に付き添って、ここまで来た。


「やはりここに戻られますか」

「巡礼者がおらんのだ。役目がない以上、ここが私にふさわしかろう」


 男は長い髪が床に擦れて汚れるのもかまわず、笑った。そしてセレンディアスに自らの杖を渡し、結い紐を解いて衣を床に落とすと、牢に入る。

 そして、一匹の獣へと姿を変える。

 途端、床に沈んでいた枷がひとりでに動き、獣の首、胴、四肢を拘束した。

 耳障りな鎖の音に、セレンディアスは目を細める。


「……大兄と呼ばれたのは、久しぶりだったよ」


 嬉しげな獣の声が、牢に響く。

 自らを大罪人とし、今なおごくに繋がれることを良しとするこの先達の心の内は、若い騎士たちには理解しがたいものだろう。

 だが、セレンディアスには理解できる。この先達と、似た後悔を抱えているからだ。


「セレンディアス。……セレンド。どうやら、止まっていた時が動き出したようだ。この先、世界は、確実に変化する」

「……それは、良いほうへ?」


 獣は低く笑った。


「さて。良し悪しは立場によって変わるだろうさ」


 だが、と吐息にまぜて、獣は続ける。


「私は、今、救われた気分だ」






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