第3話 出会い、もしくは再会
「ああ、怖がるな、怖がるな。……頼む」
小さい子に言い聞かせるような、気安い、それでいて
囚人の男――巨躯の狼は、体を揺らしたのか、じゃらりと鎖が鳴る。
俺は軽いパニック状態に陥った。
「なん……っ、なんで、狼が、しゃべっ……!?」
獣がすぐ隣の牢にいるのも恐ろしいし、その獣が人間の言葉を喋っていることも意味不明で錯乱しそうになる。
「――この身がそうであると、名乗るのもおこがましいが」
狼は、ゆっくりと前置きをして、答えた。
「私は
「まぐす……?」
またわけのわからん言葉が出てきた。
俺はどこに迷い込んだんだ。
変なカルト教団の施設だったら最悪だな、なんて考え、現実逃避もできない自分の思考に呆れた。
更に質問しようとしたのだが、遠くからガチャガチャと響く金属音と複数の足音に邪魔された。
「主席! こちらにおられましたか」
この声は。
俺を殺そうとした男、だ。
足音が近づいてきて、気配までするようになると、俺はじわじわと後退して鉄格子から遠ざかった。すぐに、冷えた壁に背中がつく。
喧嘩の経験は、それなりにある。特に、中学時代は髪のせいで絡まれることが多かった。
でも、じゃあ人を殴るのが平気かっていうと、違う。殴られるのだって、いつまでも痛いことに変わりない。
そして、すぐ近くにあるこれは、喧嘩などと甘いものでは済まない。
「どうした」
「は、その……
男の言葉で、場の雰囲気が変わった。
隣の牢から、体を起こすような気配がある。
揺れる影に従って、鎖が鳴る。
「愚か者。いかなる場合においても、神殿は巡礼者を迎え入れる。古に
厳かな声が断じる。
これは、さっきまで穏やかに聞き手に徹していた男の声と同じだが、同じではない。
俺は、寒気を感じて腕を擦った。隣にいた男の正体が狼だったと知った瞬間より、今のほうが緊張している。
そして、体を強張らせているのは、どうやら俺だけではないようだ。
「しかし……」
力のない声は、俺を殺そうとした、水色の髪の男のものだ。
なぜだか奴も、狼には強く出られないようだった。
かといって、いい気味、と溜飲を下げることもできない。それくらい、張りつめている。
「対応できる者は」
「は。主だった方は儀式のほうに。……ミュゼ様も、先ほどの騒ぎの心労で」
ちら、と視線がこっちに向けられた。
知るか、という反抗的な感情を込めて睨む。本当に、知ったことか。
「……ならば、私が行く」
じゃら、じゃら、という音のあと、がちゃん、と金属が石に叩きつけられる振動があった。
独特の軋みを上げ、牢の鍵が開いた。
「
「それが愚かというのだ、若き
驚きに声を張った若い男に対して、隣の狼は、ぴしゃりとその言葉を遮る。
「本来ならば。他でもない、我らが父神に見定めを請う巡礼者には、何を置いても最上の歓待をせねばならん。まして、ここを最後の神殿とする旅人だ。
馬鹿にしているのでも、呆れているのでもない。先達者が、若く未熟な者に、道を示すような言い方だ。
説かれた方は、息を呑んで耳を傾けている。
「……赤い髪の少年」
びく、と体が跳ねる。
「なぜこんな所に入れられたのか、だいたいの察しはついた。悪いようにはしない。もう少し、我慢してくれ」
「……期待せずに待ってる」
生意気な言い方をしたが、内心では安堵していた。
この狼は、少なくとも、俺の話を聞いてくれる。
「……ああ」
俺の言葉に応えた声は、苦笑しているように感じた。
隣の房に誰もいなくなって、男達も去って行き、残ったのは俺一人。
自分の心臓の音が、いやにうるさかった。
壁に背をついて、ずるずる座り込む。石の冷たさと湿り気が不快だったが、張りつめていた気が緩んで、俺はそのまま目を閉じた。
目覚めは唐突だった。
揺り動かされたかと思うと、強烈な鈍痛が腹に響いた。
ぐ、と呼吸が詰まったあと、えづきながらなんとか目を開ける。
暗い中で、人影が
「なん……ガッ……!!」
問い質そうとして、口を開いた瞬間、再び腹へ衝撃があった。
こふ、こふ、と浅い息を繰り返しながら、喧嘩の経験をなぞり、蹴られたのだ、と察した。
「汚らわしい赤が、喋るな」
頭の上から、嫌悪感に満ちた声が吐き捨てた。
敵対者に、というより、異物に対して拒絶するような声音。
俺は、これを、よく知っている。
髪が赤いというだけで、俺ははみ出し者だった。
事情を知らない者、知っても特別親しくない者は、こぞって俺を社会不適合者のように扱い、遠巻きにした。
――
――髪、真っ赤じゃん。何アレ。不良かよ。
――地毛らしいよ?
――どうだか。カッコつけてんじゃねぇの?
俺の前では何でもない顔をして、裏では好き勝手言っていた奴を知っている。
想像だけで物を言って、根も葉もない噂を、面白がって広げた奴を知っている。
ああ、知ってる。知っているさ。
こいつらには、悪意がない。
叩きつけてくるのは負の感情なのに、本人達に悪気はない。
下手をすれば、喧嘩をふっかけてくる相手より、性質の悪い人間。
俺を傷付けることに、何の罪悪感もない。
害虫を駆除するようなもんで、そこに誠意とか、同じ人間を相手にしているという感覚はないんだ。
だからこそ。
分かり合おうなんてのは、無駄だ。
俺は荒れる呼吸を整えて、腹に力を入れ、ゆっくり腰を浮かせた。
光源のおかげで、通路側はよく見える。
牢の入り口は、開いていた。
「もたもたするな、主席が戻ってくる」
「ああ、そうだな」
複数の、男の声に交じって、刃物を抜く独特の音。
向こうは多数で、こちらは一人。
油断しきっている男たちを横目に、チャンスは一度だと自分に言い聞かせる。
息を、吸って、吐く。
浮かせていた腰を屈め、足に溜めを作り、そのまま一気に体当たりした。
「なっ……!?」
「おい……!」
突き飛ばした一人が、もう一人にぶつかって床に倒れる。その際、もう一人も巻き込んだらしい。そもそも、広い牢ではないのだ。
俺は一目散に牢の入り口を出て、扉を蹴り閉める。
がちゃん、と鍵の落ちる音がした。どういう仕組みか知らないが、閉じただけで鍵がかかる仕様らしい。
俺はそのまま、心もとない光源を頼りに階段を探り当て、外を目指した。
がむしゃらだった。
殺される、という予感と恐怖が、俺を突き動かしていた。
逃げる算段をつける脳の端で、悪いようにしないと言った、狼の言葉が蘇った。
だが、待つ余裕は無くなった。
息が切れる。
持久力はあるほうだと思っていたが、過剰な自信だったらしい。
地下にあった牢から、ようやく地上に出る。まぶしさに目がくらんだ。
ひらけた空間の新鮮な空気を堪能する暇もなく、遠くで、鎧のような物を着た兵士らしき男が、声を上げた。
「囚人が脱獄したぞ!」
「どういうことだ!?」
「
屋外に出はしたが、まだ敷地内なのか、高い壁が場所の把握を困難にする。
どちらに行けば出られるのかわからないまま、追われる方角に逃げた。
走って、走って、庭のような場所に出たが、四方を壁で囲まれている場所で、狭い。
「いたぞ! 挟み撃ちにしろ!!」
前方に兵士が見えて、俺はたたらを踏みスピードを殺した。振り返ると、うしろからも追手が来ている。
前にも後ろにも、当然左右にも逃げられない俺は、その場で動けなくなった。
兵士は全員抜剣していて、その切っ先は容赦なく俺に向けられている。
輪になり、ゆっくりと俺を追いつめる兵士たちの眼は、興奮からか血走っていた。
その、凶暴なぎらつきを見て、舌を打つ。
これは、追い詰めた相手をいたぶる前の高揚だ。
ああ、ちくしょう。
捕縛なんて頭にないんだ。
こいつらは、俺をめった打ちにするだろう。
その予感の通り、目の前にいた兵士が、剣を真上に振りかぶった。
もうだめか。奥歯を噛んで目を閉じる。
「何をしているッ!!」
高い、怒鳴り声が、頭上から降って来た。
ふっと、鼻先を通る風。金属がぶつかりあう衝撃。
目を開けると、文字通り、上から降って来た人間の衣が靡いていた。
頭から
彼女は手にした長い棒――杖、だろうか――を振ると、一番近くにいた兵士の剣を叩き落とした。杖の先の輪にぶら下がる、いくつもの金属の輪がしゃんしゃんと澄んだ音を鳴らす。
ふと、記憶にざらりと触れるものがあった。
この音を、どこかで聞いたような気がする。
「ジード様! こちらです!」
奥が騒がしくなったと思ったら、あの、最初に俺を殺そうとした水色の髪の若い男が、兵士に伴って現れた。
「なっ、貴様!!」
男は、俺を見つけると絶句し、次の瞬間には怒りを
「……どういうことだ、巡礼者殿!! なぜ、そいつを庇っている!!」
「どういうことだはこちらのセリフです。なぜ、赤い色を宿した者がここにいるのか。……丸腰の相手一人に、兵士が寄ってたかって、何をしようとしたのか?」
男の声が沸騰した熱湯なら、少女の声は透明な冷水だ。よく通るのに、どこまでも冷たく、厳しい。
少女は杖を回し、尖った先を
「――よもや、赤狩りと称して、
「そいつは神聖な儀式に乱入した
男は、腰の剣に手をかけた。気迫が、他の兵士の比じゃない。
展開についていけなかった俺だが、はっとして目の前の少女の肩を掴む。
「いい。やめろ、アイツは、駄目だ」
頭が十分に回らず、
いいから、庇うな。そう伝えたかった。
俺だって死にたくない。痛いのもごめんだ。逃げ切れる保証もない。
でも、俺のせいで、俺より体の小さい女の子が痛めつけられるのだって、同じくらい嫌だ。
自分のせいで人が傷つくという罪悪感のせいで、余計に耐えられない。
「しかしっ」
少女は弾かれたように、俺を振り返る。勢いでフードが外れ、長い髪が波打つ。
目が、合った。
まるで、世界が時を止めたようだった。
彼女の頬を滑るのは、やはり現実にはありえないような、紫色の髪の束。
でも、そんなことより、彼女の瞳に釘づけになった。
右目は青、左目は赤。
虹彩異色症なんて、この時の俺は知らない。
ただ、引き込まれる。
胸をかきむしりたくなるほど、強い郷愁の念が湧く。
瞼が燃えるようだった。留まりきれなかった熱が、目から溢れて頬に流れる。
「……ごしゅじんさま」
少女が、舌足らずに呟いた。彼女も、両目を見開いて、泣いていた。
よく見ると綺麗な子なのに、眉尻を下げて、頬をひきつらせて、情けない顔で。
ああ、なんだろう。
女の子の泣き顔は苦手なのに、苦手なはずなのに。
俺は今、嬉しくてたまらない。
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