第2話 拘束
ここはどこだ。
ごぽり。吐いた息が音を立てて泡になる。
(水、水か――?)
まとわりつく水を
息を吐いた時、反射的に空気を吸おうとして水を飲んでしまっていた。
苦しい中、必死に手足を動かして、水面に出る。
「ぶはっ! げほっ……!」
一気に酸素を取りこんだせいで、大きく咳き込んだ。
息をするたびに肺が悲鳴を上げる。辛い。苦しい。
何度かの
足が、付く。
おかしい。だって、さっきはあんなに深い場所にいたのに。
「ひっ」
「きゃあぁあぁああ!!」
「なぜっ……なぜ!?」
俺は水の中に立っていて、大勢の人間に取り囲まれていた。石組みの水場で、泉のようだったが、そんなことを気にしている暇はなかった。
異様な空気。刺すような視線は、俺に向けられている。
荒く呼吸を繰り返しながら周囲を見渡すと、周囲の
「なぜ!? 神聖な召喚の儀式で不浄の赤が現れた!?」
「貴様っ、赤の者どもの間者か!!」
わけのわからないことをわめく、いい歳をした男達に、俺は身構えながら思考を働かせた。
赤、赤って何だ。
そう思って視線を落とすと、水面に映る自分の姿が見えた。
「嘘だろ……!?」
黒染めしていたはずの髪が、赤い地毛に戻っている。
そんな馬鹿な。水で落ちるような染料じゃない。
「捕らえろ!!」
びりびりと空気が震える怒声に、はっと顔を上げる。
そういえば、ここは何だ。
周囲の人間の顔立ちは、あきらかに日本人のものじゃない。彫りが深く、目鼻立ちがはっきりしており、身長も高い。
着ている物も、いつの時代だと言いたくなるような服で、何よりありえないのが、水色とか青とか、漫画やアニメでしか存在しない髪の色だ。
「ちょっ、待てよ! どこなんだよここは!!」
武装した男達が近付いてきたので、とっさに声を上げるが、誰も取り合ってくれなかった。
口々に罵声を浴びせられ、抵抗しようとするが、腕をねじり上げられて床に叩きつけられた。
「がっ」
こめかみから落ちたせいで、脳がぐわんと揺れる。
何なんだ。何なんだこれは。
いきなりわけのわからない場所に出て。挙句に、何の話し合いもないまま拘束された。
かっと胃の
怒りのままに、押さえつけてくる男の一人を睨み上げる。
すると、鼻先に鈍く光る刃物が突きつけられた。見慣れた包丁なんかとは全然違う、厚い諸刃の剣だった。
ぞっと背筋が冷えて、一瞬怒りを忘れる。
「殺せ! 不浄の赤だ!」
誰かが叫んだ。
目の前の刃が、すっと振り上げられるのを、呆然と視線で追った。
剣が、空中で止まる。
――嘘だろ、やめろ、やめろやめてくれ!
きつく目を瞑る。反射的な反応だった。
間を置かずに、ひゅん、と空を切る音がした。
「待て」
は、っは、と自分の呼吸音がうるさい。心臓が破れそうだ。
いつまでたってもやってこない痛みに、目を開ける。
青い髪の男が、剣を振りかぶった男の腕を掴んでいた。
「主席! なぜです!?」
剣を止められた男が吠える。こっちの男は、髪の色が薄い。
主席と呼ばれた男は、濃紺の髪の隙間から鋭い眼を覗かせていた。
「何者か明らかにする前に口を塞ぐな」
「しかし!」
「ここは俺に預けろ。……各々方、よろしいですな」
「うむ」、「うぬ」、そこここから、不服そうな声が
男は、さらに言い重ねた。
「大事な水鏡を、血で穢すつもりはありますまい」
「それは……」
「ミュゼ殿。よろしいか」
「……はい。セレンド様のご判断を信じます」
震える、鈴の鳴るような声。水に落ちる前に聞いた声に、似ている気がした。
俺の位置からは見えないが、女の子のようだった。
「連れて行け!」
怒鳴ってはいないのに、びりびりとよく通る声。
その指示を合図に、両側から腕を掴まれて無理やり立たされ、半ば引きずられるようにして連行された。
がしゃん、と鉄製の格子に鍵がかかる。
男二人に放り込まれた俺は、石の上で転んで膝を擦り向いた。
「痛ってぇ……」
あいつら、どさくさ紛れに蹴りやがった。
抵抗したせいで殴られ、口の中が切れた。血の味がする。
わき腹をおさえて、
どうみても牢屋で、湿っぽく臭い。空気が淀んで、鼻が曲がりそうだった。
ここに来るまでに階段を下りたから、たぶん地下なんだろう。乏しい灯りが、頼りなく揺れている。灯りと言っても、火じゃないし、もちろん電気でもない。正体 不明の光球がふわふわと浮かんでいる。
「ちくしょう」
話も聞いてもらえず、乱暴に扱われたことが悔しくてたまらない。
「髪が赤いからなんだってんだ」
幼い頃から、吐き気を覚えるほど、不愉快だったこと。
この髪について、あれこれ言われることが、死ぬほど嫌だった。
本当は、黒く染めるのだって嫌だったんだ。俺が俺を否定するようで、たまらなかった。
でも、周囲と余計な摩擦を生むくらいならと、諦めの境地で染髪料に手を伸ばした。
俺が髪を黒くした時、両親は何も言わなかった。それがまた、心をやわく
悪態をつきながら、震える手を誤魔化した。
怒っていないと、恐怖でどうにかなりそうだった。
俺は、ついさっき、殺されかけた。
今だって、首の皮一枚繋がっただけだ。
これからどうなるのか、わからない。
「誰か、いるのか」
ふいに聞こえた声。じゃらり、と鎖の音がする。
俺は格子で隔てられた隣の牢に目をやった。灯りがあるのは牢の外の通路だけで、他は真っ暗だから、誰かがいるとしても目では見えない。
「……いるけど」
そろり、と返事をした。この暗さなら、俺の髪の色はわからないだろうけど、また殴る蹴るの暴行を加えられては困る。
俺は軽く腰を浮かせ、すぐに動ける体勢を取った。
「そう警戒するな。ただの囚人だ」
俺に相手が見えないように、あっちからも俺のことは見えないはずなのに、男の声は凪いでいる。
警戒しつつ、様子を見ていたが、声の主がいるのは別の牢のようだ。暗闇に慣れてきた目でぐるりと見渡したが、同じ牢の中には誰もいなかった。
「何をやって放り込まれた? ここは、よほどの重罪人しかいない」
「知るかよ……」
八つ当たり気味に返事をして、うなだれる。
「学校行く途中だったんだよ。鳥居が、変な扉になってて、引きよせられて。そんで気が付いたら水ん中だぜ。ようやく水から顔出せたと思ったら、殺されかけて、捕まるし――」
思いつくまま、今日の記憶をとりとめなく喋った。話す気になったのは、男の声が柔らかかったからだ。聞いてくれる、受け止めてくれるという気がした。
ぶつぶつと、不機嫌な声で乱暴に扱われたこと、話も聞いてもらえず、拘束の理由も聞かされなかったと呟く。
男は時折「ああ」、「そうか」と小さく相槌を打った。
囚人と言っていたが、犯罪者のイメージとはかけ離れた男の雰囲気に、俺は違和感を覚えた。
「あんたは、何をやったんだ」
つい、話の流れで訊いていた。
俺はいきなりこんなところに放り込まれたから、この男も理不尽に捕らわれたのではと思ったのだ。
でも、男は苦笑しながら俺の予想を裏切った。
「大昔、大罪を犯した」
声の響きが、柔らかいのに透明で、痛い。
ごくり、と喉が鳴る。
「……何をしたんだ?」
二度目の問いかけは、緊張した。
ふ、と笑みをこぼして、男は言った。
「恋人を殺した」
ぞわ、と鳥肌が立った。
後悔とか、苦しみとか、いろんな感情を押し込めたような声なのに、なんでそんな、静かに言うんだ。
好奇心のまま尋ねたことを後悔した。
触れてはいけないことだったのだ。相手を傷つけるとか、そういう次元とは別に、俺に受け止めるだけの心がない。
「……君は、どこか懐かしいな」
男の声は、凪いでいる。
殺人者だと言われても、俺は男が恐ろしいと思えなかった。
ぴちゃん。雫の落ちる音が、暗い中で妙に響いた。
「……おや」
男が、何かに気付いたように言った。
俺は一定の感覚で響く靴音に気付く。体が強張った。
ど、ど、と心臓が嫌な音をさせる。緊張している時の動きだった。
意図せず息が荒くなるのを、なんとかおさえる。
そうして、永遠にも思えるような、ごく短い時間の後、そいつは現れた。
「…………」
かつん、かつん、かつん。高く靴音を鳴らし、そいつは俺の牢の前に立った。
ぼう、と灯りに浮かび上がるのは、主席と呼ばれていた男の姿だ。
一目で鍛えているとわかる長躯。うしろに流した前髪と、威圧する眼光。あの水場にいた人間は、ずるずると長い服を着ていたのだが、この男はズボンにブーツだった。マントや、用途のわからない紐など、装飾が多くはあったが、機能性を重視した格好なのがわかる。
頭の冷静な部分が観察を続けるが、男の腰にぶらさがる長剣に意識がいく。
ああ、ちくしょう。
やっぱり、怖い。
「久しいなセレンディアス。ここに来るとはめずらしい」
「――は。近頃は、自由の効かぬ身で……。ご無礼のほど、ご容赦を」
どういうことだよ。
囚人のはずの男が、主席と呼ばれる、ある程度高い地位にいるだろう男に気安く声をかけたのだ。しかも、主席――セレンディアスが、囚人を敬うような態度を見せた。
わけがわからず混乱する。
俺が平静を取り戻す前に、セレンディアスがこちらを向いた。
びくっと肩が跳ねる。情けないが、どうしようもなかった。
「名は?」
一瞬、意味がわからず、緊張から唾を飲んだ。
ああ、名前を訊かれたのか、と一拍遅れで理解する。
迷って、口を開いた。
「……志筑千早」
「シヅキ……シヅキ……。歳はいくつだ?」
セレンディアスは俺の名前を、確かめるように繰り返しながら、質問を続けた。
正直、状況の説明もないままだから腹が立ったけれど、渋々答える。
話ができるなら、まだいい。
「17だけど……」
「親は……、髪の色は、母親譲りか?」
思わず顔を歪めた。
こんな風に、触れられたくなかった。
「知らねぇよ。養子なんだ。赤ん坊の時に拾われて、生みの親は誰にもわからねぇ」
「……そうか」
そうか。吐息だけで繰り返した。
セレンディアスは、どこか落胆したように見えた。
「髪?」
囚人だという男が声を上げた。
セレンディアスはそれに答えるように、片手を上げて軽く振る。すると、牢の外、セレンディアスが立つ通路で浮かんでいた光源が、ふわふわと揺れながら俺に近付いてきた。
急に周囲が明るくなって、逆に通路は暗くなる。
隣の房も、ぼんやりと見えるようになった。
「……ああ。その、髪、は」
柔らかな男の声が、途切れ途切れに聞こえる。
だが、俺は癇に障るそれを気にする余裕はなかった。
隣の房で、鎖に繋がれていた男。だが、灯りに浮かび上がる影は、人の形ではない。
――巨躯の狼。
とても、とても大きな獣が、いくつもの拘束具に捕らわれて、身を横たえている。
鉄の輪が首、四肢、胴を戒めて、そこから伸びる太い鎖がじゃらじゃらと不快な音を立てた。
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