第13話

 十三


博は、臨時採用の経験がある事から、六年二組の担任になった。一組に先輩の先生。三組に少し年上の先生。四組には、自分より年下の先生。しかし、全員熊本大学教育学部出身の優秀な先生ばかりだった。ここで例の、負けん気が心の奥底で蠢いていた。『先生方に負けない』と言うのではない。子ども達に自分の力不足を押し付けないように、『努力する事を負けない』ようにしたいのである。早速、授業の準備、教材研究、資料作り、学級通信、日記等、子ども達との信頼関係を大事に考えた。そして何より、子ども達と遊ぶ事を心がけた。すべてが順調に行き、夏には研修にもたくさん参加して、音楽や図工等のいわゆる実技も、身に付けていった。そんな、夏休みも半ば。もうすぐ、お盆の帰省ラッシュが始まる、と言う頃、冴子から突然電話があった。『東京で会いたい』と言う。

教員には、年次有給休暇と特別休暇、その他の種類の休みがある。ただ、普段の課業中には、担任の学級があるため、なかなか休みが取れない。その代わり、夏休みに集中して取る。その他は普通勤務なので、当番制にしてある。だから、子ども達は休みでも、教員は勤務である。ただ、休みが取り易かった。

博も、年休は一日も取っていなかったので、休める事は休めるのだ。ただ、急に、しかも電話で、さらに東京で『会いたい』と言う。その声は、明らかに重かった。

“何があったのだろう”

 少々心配だった。だから、すぐに動いた。翌々日。お盆の帰省ラッシュが始まった、八月十二日に上京した。羽田からメールした。すると、『自分も休みを取っているから、出来るだけ早く会えるように、品川で会おう』と言う事になった。

 駅ビルの近くの、雰囲気の良い居酒屋で会った。研究室で何回か来た事があると言う。

「冴ちゃん、突然、どうしたの」

 掘りごたつの個室に入るなり、博は尋ねた。今までの冴子からは、とても想像できないことばかりの連続だ。博の疑問も当然だろう。

「ごめんなさい」

 駅前で会った時から、元気が無く口数も極端に少なかった。それに、問いかけの返事が『ごめんなさい』では、余計に気になった。

「謝らなくても良いよ。僕も会えるのは嬉しいだけさ。でも、あまりに急すぎた。しかも珍しく電話で。心配はするだろう」

 冴子は頷く。ビールと焼き鳥が来た。取り敢えず乾杯するが、それさえも、何となくよそよそしい。

「で、何かあったの」

 博の問いかけに、冴子はゆっくり話し始めた。

「春に来てくれたでしょ」

「ああ。バタバタだったけど」

「あの時、両親は許してくれたでしょ」

「うん。僕の方がびっくりしたんだけど、嬉しかった」

 冴子のテンションの低さも、博には意味が分からない。

「あの時、両親から聞いて、とても嬉しくなって、お祖母ちゃんに報告に行ったんだ」

「あの後かい」

 頷く冴子。

「そうしたら、お祖母ちゃん」

 そこまで言うと冴子は、嗚咽し始めた。肩が小刻みに震えている。

「ちょ、ちょっと待って。いったいどうしたのさ」

 幼い頃から妹を泣かすと、父親からケツバット、と言って、大きな棒で尻を打たれていた博。女子が泣くのは、大の苦手だった。

「冴ちゃん、冴ちゃん。ねえ、泣いてちゃ分からないよ」

 しかし冴子は、収まらない。いったい何があったのだろうか。何分経っただろうか。ようやく冴子の涙は止まって来た。その間、心配そうな顔で見つめるだけしかできなかった博。焼き鳥はすっかり冷え、ビールは汗をかいている。頬の涙の後がいじらしい冴子は、やっと落ち着いたのか、俯き加減ながらも、顔を上げた。

「ねえ、話してくれない。いったい、何があったのさ」

 すると冴子は、台を見たまま話し始めた。

「あなたが帰った後、お祖母ちゃんに報告に行ったら、お祖母ちゃんが仏壇の前でお祖父ちゃんに呟いていたの」

「何を」

『お祖父ちゃん、このホテルはもう終わりですき。ごめんなさいね。孫達もどうしても継げない様で。頼りにしてた冴ちゃんも、良い人が出来ちゅうで、どうしても結婚させてあげたいが。すんません』

 そう言う話を聞いてしまったと言う。

「でも、それでどうして君が」

「博君。私、お祖母ちゃんだけは悲しませたくない。小さい頃から、忙しい親に代わって私を育ててくれた。お祖母ちゃんにだけは、心から祝ってもらいたかった。結婚には反対していないけれど、本当の所は違っていた。あれだけホテルを続けてほしい、ってお父さん達には言ってたのに。お祖父ちゃんと二人で、小さな宿屋から始めた、大事なホテルなの。それを諦めてでさえ、私の結婚を許してくれた。でも」

 話を聞きながら、神妙な顔の博。

「君は、どうしたいの」

 そこは聞いておきたい所だ。珍しく、的を射た話をする。

「私は、いくいくは高知に戻らなければ、いけないのかも知れない、って思うようになって」

「そうか」

 さすがに、しばらく沈黙があった。澱んだ空気が、二人の肩に重かった。焼き鳥どころかビールも、進んでいない。しかしそのうち、ふうっと大きな息を吐いた博。その温くなったビールを、思い出したように飲んだ。そして焼き鳥を、初めて口にした。

「なるほど、ここの焼き鳥って、なかなか美味いね」

“悲しい言葉を口にするのかと思いきや、今更、焼き鳥?”

 とも思ったが、

「冴ちゃんも食べなよ。お腹空いたでしょ」

 冴子は、黙って首を横に振る。

「そんな事言わないの。大事な話をする時なんだから、ちゃんと食べてからにしようよ。せっかく美味しいって、誘ってくれたのに。さあ」

“そう言われると、そうかも知れない。古くは『腹が減っては戦が出来ぬ』と言う。博は『大事な話を』と言った。ある意味、そうかも知れない”

 そう感じた冴子が、やっと串に手を伸ばし、ビールを飲んだ。今日までの心の迷い。不安。そして今日会った、久しぶりの博。感情の高ぶりや、落ち込み。心労に絶える事でいっぱいだった冴子。言われて食べてみると、気持ちに少し余裕が出来た。

「君が言った通り、美味しいね」

 暗い顔に少し笑みが戻り、頷いた。

「あの、もう少し食べたり飲んだりして良い」

「ああ、それじゃ、ここは」

 と、お勧めを教えてくれた。次の飲み物はもちろん、日本酒だ。こうなると冴子も、だんだんと以前の明るさに戻って来た。ただ、酔っぱらう事は無い。やはり、博の答えが気になっていた。そんな事は、まるで気にしていないように、博は酒を飲み、お勧めを食べた。そのうちに《松尾》の話まで出て来た。そして、とうとう答えが出ないまま、お店を出る事になった。終電まであと二時間と言う時、突然博は、《経堂》に行こうと言いだした。驚く冴子を、

「いいから、いいから」

 と、タクシーに押し込んだ。そして《経堂》に着くと、懐かしい公園の傍で降ろしてもらった。ベンチに腰掛けると、いつかのように、満月だ。

「冴ちゃん」

 そう言うと、肩に手を回し続けた。

「今日は、戦々恐々として東京に来た。心配、不安、いろいろな思いを抱えて来たんだ。

でも、僕の想像を超えた話だった。意外や意外。最後の大きなハードルは、君のお祖母ちゃんだった。いや、君の中のお祖母ちゃんだった。正直、これは僕の力でどうにも出来る事では無い」

 そこまで言うと、冴子が

「ちょっと待って」

 と博の手を振り払い、正面に向き直って口にした。ただ、言葉は穏やかだ。

「方法はあるの、一つだけ」

「一つだけ」

「そうよ、一つ。こんなに大好きな博君。何とか結婚できないか、考えてみた。すると一つだけ、とってもわがままな方法が見つかったの」

「それって、何なの。わがままなんて思わないから、言ってよ」

「あまりに身勝手すぎるから、電話はおろか、手紙でも書ききれないと思ったの」

「だから、今日だった訳か」

 こくっと頷く冴子。

「悪いとは思ったんだけど、そうでもしなきゃ、私の気持ちが収まらなかったの。私がもし、自由の利く学生ならもちろん、私が出向いたわ。それくらい、ちゃんと話したかったの」

「良いよ、言ってみてよ」

 ごくっと唾を飲み込んで、冴子は息を吸った。

「あなたがもし、高知に来てくれるなら、結婚できるの」

 そう言うと俯いた。よほど、自己嫌悪になったのだろう。相手の人を大事にする冴子だから、

“こんなわがまま、言う事なんてできない。嫌な冴子。でも、博君とは結婚したい。どうしたら良いの”

 そんなジレンマに、相当苛まれたに違いない。博が高知に来て両親と会った日の、帰りの飛行機の中。冴子はすでに、悩み始めていたのだった。

“きっと嫌われる。いや、怒って帰る。もう終わりだわ”

「なんだあ、冴ちゃん。そんな事か」

 冴子の耳に聞こえた言葉。それは冴子の予想を、見事に裏切った。

「な、なんだあ、そ、そんな事か、って、博君」

 あまりにも見事に、裏を書かれた言葉に、一瞬、博の本性を垣間見た様な気持ちにさえなった。

「まさか、いい加減な気持ちで言ったとは思ってないよね」

 そんな人間では無いと思ってはいるが、この反応は如何せん。冴子は、祈るような気持ちで言った。

「何を疑ってるの。僕、君にだけは、いい加減な言動を慎んでいるつもりだけど」

『君にだけは』と言うのは、少し引っ掛かるが、本当らしい。

「ごめんなさい。別に疑っている訳じゃないけど、あなたが、あまりにもあっさり言ったので」

「僕の気持ちは、そんな考え方じゃないでしょ。もう、忘れちゃった」

 ニコッとしながら、博は言う。

「いいえ、覚えてるわ。あなたのそこが、私にインパクトを与えたんだもの」

「現実をよく見ると、これだけお互いに努力して、やっとここまで来たんでしょ。でも、現在はどちらも、がちがちに動けなくなっている。だから、あとは」

「あとは」

「今の気持ちを、しっかり持ち続けようよ。それが今できる、最高の努力だろ」

 その言葉を聞いた冴子。博を凝視した。

“ああ、やっぱり博君だ。私の大好きな博君だ。そうだった。そうだったよね。いつ、どんな時でも、前しか見ない”

「そうだったよね。『悩んでも始まらなかったよね』」

 そう言うと冴子は、わーっと泣き出し、博に抱きついて来た。そしてその大きな胸で声をあげて泣いた。悩んで悩んで、どうすればいいのか分からなくて、すっかり負のスパイラルに落ち込んだ冴子。自分の力ではどうしようもない。そしてとうとう博に、正直に打ち明けるしかなかった。

 冴子は、祖母がすっかり喜んでくれると思って報告に行った。しかし、仏壇の前で亡くなった祖父に話しかけている祖母の言葉。『やはり祖母は、ホテルを残してほしかったんだ』と言う事を知ってしまった。自分の前では、そんな素振りも見せなかった。しかし、本当の気持ちは、そうだったと言う事を知り、愕然とした。冴子は、祖母だけは悲しい思いをさせたくないと、思っていた。特に結婚に関しては、祖母にだけは喜んで祝ってほしい、と思っていた。それが、一番大切な時に分かってしまった。しかし、冴子が熊本に行くとなると、その祖母を悲しませてしまう。つまり『ホテルを失くしてしまう』のだ。それはできない。しかし博も、父親の病気で動けない。ましてや高知で就職は出来ない。八方ふさがりだ。この難解な数式に陥ってしまった冴子は、帰りの飛行機の中では、もう悩んでいた。しかし、博の事を嫌いになった訳では無く、大好きだ。

ただ、この数か月間の冴子が持っていた、この悶えるような心痛。しかしそれは、博が知る由も無い。舞い上がる様な気持ちで高知を後にした、その数分後に、彼の知らない所で起きた事実なのだから。

「ど、どうしたの。冴ちゃん」

 いきなり抱きつかれ、また泣かれてしまった。しかも今度は嗚咽では無く、完全に泣いている。

“何だよ、また俺、何か悪かったかなあ”

 腫れ物に触るように、冴子の震える肩を抱く博だった。

 その夜、冴子の家に初めて泊った。しかし、現代のように『お泊りデート』など、ご法度の時代。指一本触れる事無く、翌朝、朝食を食べると、懐かしの小田急線で新宿へ。帰りに、あの【ロマンスカー】とすれ違った。それを見た時一瞬だけ

“冴ちゃんと、乗りたい”

 と、強く思った。それが今の本音だ。山手線で浜松町から羽田。そして熊本へ帰った。カフェで約束した

『持っているだけの、愛を貫こう』

 博は、必ず結婚できると信じて、メール、手紙、電話等、あらゆる手段で、冴子にラブコールを送り続けた。

“愛する心が潰れてしまうまで、全力で冴子との愛を引き留めておこう”

 と決めていた。そしてもしも、万が一愛が離れた時は、

“自分の力不足なのだ。自分にあんな素晴らしい人は、分不相応なのだ。と、神が判断されたのだ”

と思うつもりでいた。

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