第12話

十一


実家へ戻った博は、小学校教員免許取得のための、通信教育の手続きを取り、重ねて教育事務所と言う所に、臨時採用教員の申し込みをした。

手続きをしたその足で帰宅すると、すぐにメールをした。

【冴ちゃん、採用試験に受かり次第、ご両親を説得する。それまで、待っててね。このままじゃ終わらせない。でかい壁だけど、朝の来ない夜は無い。上等だぜ】

 すると、すぐに返信が来た。

【LIMIT冴子∞二人=1】

「?」

 速く来たのは良いが、全く意味不明だ。悩んでいると、しばらくして

【物理記号】

 と来た。

“なるほど。彼女の専門で返信したのか。でも、全然分からない”

 全くお手上げだ。しかし、今更聞くのもちょっと、雰囲気が壊れる。せっかく彼女が、自分の専門を使って返事をして来ている。

“多分、いい返事なのだろう”

 と、やはり前向きにとらえる博だった。そうだ、そうでなきゃ!携帯を閉じると、その目は輝いていた。予備校の時に見せた、意欲満々の時の目だった。闘志が前面に出ている顔だ。

目指すは小学校教員の免許と、熊本県教員採用試験の合格だ。東京で受けた、採用試験の勉強が役に立った。昼間は父の工場を手伝い、夜、通信教育と教員採用試験の勉強をした。そのような生活で、一か月が経った。通信教育はレポートを出して、合格すれば単位が取れる。

ただ気になっていたことがあった、その往復の日数だ。田舎であるがために、集配の関係で時間が掛かり、往復に三週間かかる。複数を提出するが、一年で取得するには、間に合いそうもない。スクーリングで精いっぱいの単位を取ったとしても、残りが半分もある。博は少し焦っていた。

一年後と言う事は、早くても六月だ。採用試験一か月前になる。万が一、一つでも取りそこなうと、後期の取得になるため、試験には中学校で臨まなくてはならない。大量の定年退職者は出るらしいが、中学校からは専門科目での受験だ。どうしても、教員養成系の大学卒業が強いだろう。しかも熊本県には、国立熊本大学がある。到底、相手にはされない。

“こりゃヤバイ。どうすればいい。博、どうすればいい。考えろ。良い方法は無いか”

 二階で独り、コタツの台に参考書を広げ、思い悩んでいた。

“そうだ。東京暮らしを勝ち取った時、冴子を思い浮かべた。今も、やってみるか”

 藁にもすがる思いで、一か八かやってみた。彼女の可愛い笑顔を思い浮かべる。しかし残念な事に、羽田での悲しそうな顔しか浮かばない。人の記憶は、現在に近いものからだんだんと、遠い記憶になるにつれて薄れていく。羽田が一番近いので、それは至極当然だろう。

“違う。その顔じゃない”

 頭を振って、やり直す。

“箱根、美術館、ロマンスカー、鎌倉、長谷寺”

 思い浮かべていると、あの超可愛い笑顔の冴子が出て来た。すると、懐かしい記憶が次々と蘇る。そして極め付きは、あの《松尾》からの帰り。公園での出来事。そして、ハッと現実に戻った。するといいアイデアが閃いた。何とも簡単な男だ。

“そうだ、東京に行けば良いんだ。レポートのやり取りに、時間が掛からない。スクーリングに行けば、天草と東京の往復の金も掛かる。その間の宿泊代も掛かる。交通費も掛かる。そう言うのが一切不要だ。親父にはちょっとの間、きつい思いさせるかも知れないけど、それが一番早い。結果的に親父も早く楽になる。よし”

 そこまで考えて、思考が止まった。

“また金を掛けて上京するのか”

 経済的な事が引っ掛かった。

“うう、せっかくいい案だったのに。どうしよう。どうどうめぐりだぞ”

 その夜、勉強は手に付かず、やっとの事で結論を出した。

「と言う事で、お父さん、お母さん。行きの旅費だけ出してくれませんか。他は、一切いりません。布団も向こうで購入します。バイトも探します。その方が、結果的に絶対良いんです。お願いします」

 翌朝、博は思い切って頼んだ。もし、出してくれないとでも言おうものなら、その時は『貸してくれ。必ず返す』と言うつもりで、心構えもしていた。すると、透かすように

「そこまで考えたなら、行っておいで」

 と、すんなり出してくれることになった。そうなると、動き出すのは早いこの男。二日後には、熊本空港を飛び立っていた。しかし、冴子には黙っているつもりだ。自分の最優先事項が何であるか、しっかり見えている。その見えている目標を掴んでから、連絡するつもりだった。羽田に着いたのは、午後三時。取り敢えず、この三月までお世話になっていたアパートのおばちゃんに、一日だけお世話になれないか尋ねてみた。すると、気安く引き受けてくれた。荷物を預けると、バイトを探しに出た。これも、出来れば今日中に決めたい。その後に住まいだ。手っ取り早いのは、三月までやっていたあの【三河屋さん】だが、もう、次のバイトが入っているかも知れない。しかし入っていなければ、必ず雇ってくれるはずだ。博の自信は確信があった。それは卒業して故郷に帰ると言う、挨拶をした時だった。親父さんが

「このまま東京に残るって言ってたのに、やっぱり帰るのかい」

 と、名残惜しそうに言ってくれたこと。それまで、『東京に残って、声優がアーティストに』などと言っていたので、すっかりそのつもりでいたそうだ。実は、真面目でさっと体の動く、博の事が親父さんはお気に入りで、自分の娘と結婚させて、店を譲ろうとまで思っていたらしい。だから『帰らなくちゃいけなくなりました』と言った時は、とても驚いて、残念そうに言ってくれた。

“だから、頼む。誰も入っているなよ”

 そう思いながらも、実は心配な事が一つあった。それは、その店がなんと《経堂》にあるからだ。北口にあるとは言え、冴子の住む《経堂》だ。出会う可能性は高い。出会ってしまった後、果たして今の気持ちを持ち続けられるか、それだけが不安だった。しかし、今はその店に当たるのが一番早かった。懐かしい《経堂》駅の北口を、百メートルほど行くと、すずらん通りと言う商店街がある。その一角に【三河屋さん】はあった。

「こんにちは」

 暖簾をくぐって入ると、

「いらっしゃい、あれ」

 親父さんは目を真ん丸にして、まるでお化けでも見るかのように驚いた。

「長谷川君。どうしたの。何だよ、今頃」

 その問いに応えもせず博は聞いた。

「親父さん、次は入りましたか」

“頼む、『まだ』って言って”

 その願い通り、まだ次のバイトは入っていなかった。そして、早速経緯を話し、雇ってもらう事が出来た。次は住まいだ。もうここまで来たらいっその事、おばちゃんに聞いてみよう。同じ職種の人ぐらいご存じだろう、と腹をくくって、管理人のおばちゃんに尋ねた。するとこれも読み通り。近くに間借りがあった。教えてもらい、行ってみると、机と本棚があった。その他はムートンが二枚。

“ちょうどいいや。トイレは部屋の外。お風呂と食事は無い。これで十分”

おばちゃんにお礼を言うと、早速、越して来た。敷金や礼金は、去年から空いていた部屋なので要らないと言う。渡りに船だった。

次の日から、バイトと勉強の二本立てで進めた。バイトは、朝十時から、夜の九時まで。昼食、夕食が付いている。これが助かった。そして急いで帰ると、夜中遅くまで勉強した。そんな日々を、毎日頑張った。

そして夏休み。通信教育の本部がある大学に、スクーリングに行った。大学で実際に受講するのだが、電車賃だけで済むので、大変助かった。レポートも順調に進んだ。やはり予想した通り、早い時は、三日でやり取りできた。幸運だったのは、冴子と全然会わなかった事だ。奇跡的な事だった。ただ、生来のぐうたらが顔を出し、布団を買いに行かなかったので、冬になって布団が無い事に気が付いた。ムートン二枚しか無い。ところがここで、さらに驚くようなぐうたらが顔を出す。

“もう、数か月後すると、確実に部屋を出る。だから、寒さをどうにかしのいで、布団は買うのを止めよう。取り敢えず、貯金だ”

 そう決めた。アンビリーバブルだ。しかし実際のところ、どうにかしのぐ事が出来た。

それはある方法を編み出したのだ。これも、負を正に変える、発想の転換が生きた。

実は、寒さのピークが分かったので、その時間には起きておくように、勉強時間を変更したのだった。寒さのピークは、朝方の四時から五時頃だ。それまでに睡眠をとっておけば、冬でもムートンだけで十分過ごせる事を発見し、得意になった。誰かに教えてあげたくなったが、多分、誰も聞かないと思う。

やがて年が明けると、実習等が待っている。いよいよ、免許取得に向けて最終段階に入る。免許取得、採用試験合格、がうまくいくと、その先に霞んで見えている冴子との【結婚】が、ズームアップしてくるのだ。そう思うと、年明けには、特別な思いがあった。

“今年、人生の一番大きな出来事が起きるかも知れない。気合を入れ直そう” 

 そう誓って、新年を迎えた。新年の祝いだけはメールで送った。冴子も今回は、訳の分からないメールでは無く、ごく一般的な『おめでとう。二人にとっていい年になると良いね♡♡』だった。ハートマークの数に、ちょっと寂しいものを感じたが、付いているのだから良い。こういう所は、口には出さないものの『欲しがる』男だった。幸い、父の病状も良い方向に向かっている。やはり若いせいか、リハビリも順調だそうだ。

教員養成系の大学ではないので、実習は一か月と、専門の大学の二倍になる。新年度になって、恐る恐る五月にお願いした。

臨時採用教員で実感したが、学校にも商売と同じように、忙しい時期とそうでない時期がある。忙しい時期は、先生方の動きや仕事はとても早い。しかし、その間に【生徒】と言う人間が介在しているため、先生方が思うより仕事の処理に時間が掛かる。自分でやる方が、先生にとっては楽だし速い。ただそれでは、生徒のためにならない。そのジレンマをぐっと飲み込み、生徒に任せる。しかし多忙な時期は、さすがに先生も手を貸す。

それが四月、五月なのだ。だから、学校側としてはその時期に、実習生を受け入れる事は、相当厳しい。一般的には、実習生の方から学校に伺いを立てるのだが、今回ばかりは厚かましい事を承知のうえで、お願いに行った。すると、そこは地元の強みだ。校長以下、ほとんど知っている先生方ばかり。父の事もご存知で、博の『できるだけ早く取得したい』と言う、その理由を聞くと快く受け入れてもらえた。六年生の実習を担当させてもらう事になった。しかし、小学校では何年生を担任するかは分からない。そこを考慮して下さり、一年から五年まで二回ずつ授業をさせてもらう事になった。しかも、どの時間も授業を見学して良いと言う事になり、毎時間授業を参観させてもらった。すべてが幸運だった。熊本県の中学校の採用試験では、実技試験に【模擬授業】があるのだ。また東京都の採用試験では、小学校でも実技で【美術】があり、静物画を描く。そう言う事もさせてもらったため、とても有難かった。充実した一か月があっという間に過ぎ、これまたあっと言う間に上京した。そして博は、一つのハードルを越える実感を得た。ムートンで過ごした部屋で、東京都の教員採用試験に向けて勉強する博。終わるとすぐに熊本県教員採用試験だ。ついこの前上京したかと思ったら、あっという間に熊本に戻っている。夏まで、東京と熊本の往復を繰り返した。今までであれば、経済的な負担を気にしていたが、ここに来て『布団も買わず、取り敢えず貯金』の効果が出た。

若くて、頑張る意欲満々だった博も、二つの採用試験と東京熊本の往復には、さすがに疲れた。

「どがんだった。試験は」

 父が聞いた。

「うん。出来たて思うけど」

「免許は取れたの」

 母が聞く。

「取得見込みばってん、それで試験は良かったとよ。単位は取ってしまっているけん」

「で、東京は」

 気になるらしく、母が聞いた。

「あっちの方がうまく出来たかも知れん」

 本当は分からないのだが、ワザとそう言った。そう言うと、両親とも

「ふうん」

 と、興味無さそうに返事した。

“東京に受かっていてほしい”

 心からそう思った。八月になると二次試験が始まる。ただし、一次に合格した者だけが受けられる。博には、何と両方から一次試験合格の連絡があった。

“あいや、また往復かいな。ちょっと、疲れたりして”

 一瞬、いつものぐうたらが顔を出し、慌てて自分を叱責した。

“バカヤロー。ここが最大の踏ん張りどころだろ。ここをクリヤーすれば、彼女との【結婚】が一気に近づくんだぞ。力を振り絞れ”

 そう気合を入れ直し、東京へと旅立って行った。そして、試験後直ぐに熊本に戻ると天草には帰らず、熊本市内のホテルで熊本県の二次試験に備えた。そして無事に、二回の二次試験を終えた日、久しぶりに冴子にメールした。

{やっと終わりました。元気でしたか。もう忘れちゃったんじゃ}

 すると

{お疲れ様。いかがでしたか。研究中は、忘れてました。でも、研究室から出ると思いだしてたよ}

 と返信が来た。まさか、忘れてはいないだろうと思ったが、万が一

{『誰だっけ』}

 と来たら、どうするつもりだったのだろう。

{ところで、一つお尋ねです。去年くれた最後のメール。あの記号みたいなものは何だったの。分からなかった。ごめん}

 するとしばらくして

{言葉じゃ恥ずかしくて、物理の式を少しもじったの。やっぱり分からなかった。ごめん。読みを書いておくから、時間が出来たら解いてみてよ。}

 そう返信が来て、続けて読み方が文字で書かれていた。

{リミット、冴子、無限大、イコール、いち、です}

“名前はもちろんだけど、イコールと一くらいは分かるんだけどなあ。リミットって、限界だよな。でも物理の式に使われているなら、調べなきゃだめだ。じゃ、後で調べようっと”

 天草への帰り、二時間半のバスの中。博はずっと、式を解いてみようと考えた。しかし肝心の、リミットが分からない。その混乱した頭のまま、本渡からバスを乗り換え、家に着いた。

「もう、こっちにいるんだろ」

 母親の言葉が、全て、疎ましく感じた。何とかこっちに居させようと、そう言う気持ちがありありと滲み出る。

“こっちにしばらくいようかな”

 と思っていたその矢先に、その言葉が飛んで来て、つい、

「いや、明日また帰るよ」

 と、思わず心にも無い事を、口走ってしまった。

“しまった”

 思った時にはすでに遅い。覆水盆に返らず。

「明日。そがん早く帰るとね」

「何で。いかんとね」

「そがん早く帰らんでも良かろうに」

 こうなると、売り言葉に買い言葉だ。言い返そうと息を吸った時、母の横に立つ、弟の顔が目に入った。

「兄ちゃん、もうすこしおれば(居たら)」

 その言葉に、早速飛びつき、

「ああ、そうたい。猛と遊んでなかったね。じゃ、あと二~三日こっちにおって、猛と遊ぼうか」

「そうそう、そがんしなさい」

“ええい、あんたのためじゃない”

 そう思いながら、今度は口を滑らすことは無かった。やはり十歳も年が違うと、兄弟と言うより、どこか親戚の男の子と言うイメージだ。猛が可愛くて仕方のない博だ。とにかく、純真なのだ。田舎であるがために、周りに派手なものは無い。博がそうであったように、自然の中で遊ぶしかないのだから、心のゆがみようが無い。父親の車を借りてドライブに連れて行ったり、海に泳ぎに連れて行ったりした。そして、三日後。博は上京した。

バイトを頑張って金を貯めておかないと、いつまた、熊本に帰るか分からない。来年の春に、冴子に吉報を届けられるようにしたかった。そして、十月。二次試験の結果が来た。

『あなたは、東京都公立学校教員採用試験に、合格されましたので通知します。近日中に必要書類を揃えて』

“よっしゃ”

 右手で小さく、ガッツポーズだ。

“後は、熊本県。この結果いかんで、人生が決まる”

 数日後、熊本県教育委員会からの通知には『合格』の文字は無かった。そのまま、博は実家に電話を掛けた。

「ああ、お母さん。僕、博」

「何ね」

「東京に受かって、熊本は落ちたよ」

「あら。残念だったねえ」

「でも、東京でも良かったよね。これはこの前確認したろ」

「そら、そうだけど」

 その言葉を聞いて、うんざりした。

“この期に及んでまだ、言うか”

 しかし現実はこの通りだ。カチンときたが穏やかに話した。

「だけん、こっちで教員をしながら、借金を返します。お父さんの具合はどう」

「ああ、お父さんはだんだん良くなってきてるよ。そっちは安心だけどね。まあ、残念だこと」

“うるさ~い”

 博は、携帯の画面に向かって思い切り、イーっとしかめっ面をした。しかし、晴れて東京都の教員になる事が出来る。これで冴子との結婚も、随分前進した事になる。実家への電話が終わると、冴子にメールをした。

{東京に決まりました}

 しかし、返信はなかなか来なかった。実験中なのかも知れない。バイト先の親父さんにも

「親父さん、おかげさまで東京に決まりました」

 そう言うと、

「そうかい、そりゃあ良かったねえ」

「ありがとうございます。また、しばらく働かせてもらって良いですか」

 すると間髪入れず、

「もちろんだよ。なんなら、この店継いだって良いんだけど」

「ははは」

“この親父も、諦めないなあ”

 腹の中で思ったが、言う訳は無い。冴子からの返信は、夕方だった。

{遅くなってごめん。実験中で外せなくて(‘◇’)ゞ。で、東京に決まり。やったあ。超嬉しい。いつか会えるの}

 博は、会おうかどうしようか迷った。迷う必要は無いのだが、せっかくここまで一直線に突っ走って来た。もし今会えば、ふにゃふにゃになるのは見えている。あと数カ月もすれば、それこそ一生一緒にいられるかも知れないのだ。しかし、そうならないかも知れない、可能性もある。会いたい気持ちはもちろんだ。

“この際、自分の気持ちの強さを確かめてみるか。しかし、ちょっとそれも怖い。冴ちゃんともし、何かあって会えなくなったら、一生会えない。それも嫌だ”

その日はとうとう、返信を見送った。次の日の夕方。風も冷たくなった。バイトの店は、昔ながらのシャッターが、開店、閉店の合図だった。出入り口に戸は無い。つまり、吹きさらしに近かった。逆に言えば、通りの人が良く見える。店の奥のレジでお客さんを待ったり、出入り口に並べてある味噌の蓋を磨いたり、酒の瓶を磨いたりする。しかしこの日になっても、相変わらず迷っている。迷ったままバイトだった。メールをできないままだ。レジに立ってはいるものの、お客さんの方はみていない。早くメールしなければ、と、そわそわしたまま時間だけが過ぎた。そしてやっと

{会うのはもう少し、待っておこうか。会うのは、やっぱり仕事が決まってからだ。それが僕の、ステータスかも知れない。ごめん}

 やっと返信した。そしてホッとしながら、やっと通りを見ていると、お客さんが来た。

「いらっしゃ」

 入って来たのは冴子だった。

「こんにちは」

「さ、冴ちゃん」

 嬉しさのあまり、大きな声を出しそうになった。

「元気そうね」

 久しぶりの冴子の笑顔。最高だ。

「冴ちゃんも」

 すでに頭は、冴子一色だった。

「メール見たわ」

「メール」

 さっきの格好イイ理由のメールは、もう忘れていた。冴子の全てに、一瞬にして心を奪われていた。

「さっきくれたでしょ。返事」

「あ、ああ、あれね。ああ、さっきまではそう思ったんだけど、や、やっぱり会いたいなって思ってたんだ。ちょうど良かったよ」

調子の良さは相変わらずだ。

「だって、ステータスって」

「いや、たまたま思い付いたんだ。自分を納得させるために、そう考えれば自分を抑えられるかな、って思ってて。でも、もうそれは無し」

「えっ、いいの」

「も、もちろんさ。あんなメールは忘れて」

「じゃあ会ってくれるの」

「いつにする」

 冴子も嬉しそうだ。しかしこの変わり身の早さ。この自由な思考や発想に、生真面目な冴子は度肝を抜かれて、いつしか魅かれたのだった。それが冴子にとっては、博の魅力だった。彼女なら多分撤回しない。言ったらその通りにする。

 その週の金曜日。二人は会う事にした。

このように、決めたら動くのも早い。この点もなかなか冴子には魅力だった。じっくり考えて、慎重に行動する冴子に対し、博は、思い立ったが吉日、と言う諺そのものだった。そして、万が一失敗しても、引きずらない。格好良く言えば潔い。悪く言えば諦めが早い。裏腹であるが、世の中往々にしてこの方が楽だし、実際にそうである。ただ、この場合の博のように、その判断に行くまでは『深謀遠慮』を、知らないうちにやっている。

惜しむらくは、その意識の実感が、博自身に無い事だろう。とにもかくにも『会う事になった』。その日を迎えた夜。会う場所と言えばやはり《松尾》だった。

「こんばんは。空いてますか」

「いらっしゃい。あらあ」

 相変わらずのおばちゃんの笑顔が、二人を温かく迎えてくれた。

「どうしたの。九州に帰ったんじゃなかったの」

 突き出しとおしぼりを出しながら、博を見ている。

「はあ、いろいろあって。おばちゃん。僕達、あ、いや、いい。済みません」

「あら、何だよ。余計聞きたくなるじゃない」

「ああ、その時には、ちゃんと言いますよ」

「ひょっとして、結婚とか」

 ニコニコした顔で、冴子の方を見て言った。まるで、町内会の世話焼きのおばちゃん風だ。

「あ、そ、そんな事って」

 真面目な冴子は、肯定も否定もしない。

「あ、おばちゃん、取り敢えずビール、いいですか」

「あらあ、もったいぶっちゃってえ。この年になると、だいたい分かるんだけどさ」

 そう言いながら、厨房へ消えた。博は、久々の冴子を、穴が開くように見ていた。

「博君、よく頑張ったね。乾杯」

 その博を、こちらも負けないくらい、見つめ返す冴子。

「ああ、予備校以来、頑張る事が出来たよ」

 ビールで乾杯しながら言った。

「はあ、うまい」

 その言葉には、よくぞここまで来た、と言う満足感も含まれていた。

「私、実験があったから良かったけど、もし、それが無かったら、あなたの声聞きたくなっていたかも知れない」

「そりゃ、良かったよ。僕だって、君の声一度聞いたりしたら、もう、やり通せたかどうか、疑問だ。まさに、実験さまさま、ってとこだね」

「それで、お父さんの具合はどうなの」

「ああ、若かったので回復してるよ。マヒもほとんど残ってないし」

「それは良かった」

「はい、お待ち。いつもの」

「えっ、おばちゃん、こんなの頼んでない」

 そう言う博の言葉を遮って、おばちゃんが言った。

「だから、この年になって、何も分からないとでも思っているのかい」

 出されたつまみは、刺身の盛り合わせ。しかも、タイの尾頭付きだ。

「お、おばちゃん」

 二人は、言葉を失った。

「おばちゃん夫婦からの、ほんの気持ちさ。食べておくれ。それと、これ」

 そう言うと、日本酒が二合徳利に入って来た。

「す、済みません。ありがとうございます」

 二人で座り直してお礼を言うと、おばちゃんは

「その代わり、何かあったらちゃんと報告に来てね。でなきゃ、これ引っ込めるから」

「あ、そ、それは。言いに来ます。ちゃんと来ます。絶対。だから、食べさせて」

 しっかり誘導尋問に引っ掛かった博だ。それを聞いて、ニコッとしたおばちゃんは、冴子を見て、ウインクすると、

「じゃ、ごゆっくり」

 と、上機嫌で消えた。

「凄い、ご馳走だね」

 おばちゃんに引っ掛かった事など、全く気が付かない。目の前の料理に、ひたすら感動する博だった。話し始めると、これまでの半年近く何も知らない二人の、とめどない話が続いた。あっと言う間に、十二時だ。

「あ、もうこんな時間。私、もう帰らなきゃ。明日の朝、餌をやったり、水槽の掃除をしたり、しなきゃいけないの」

「明日。明日休みでしょ」

「ああ、今、実験中の虫を飼ってるの。その虫に」

「どんなの。虫って」

「虫って言っても、ホウネンエビとかネムリユスリカとか、一般的にはあんまり知られていない、昆虫よ。知ってる」

「あ、ホウネンエビなら知ってる。小学校の時、飼った事あるよ」

「ええっ、あんなものを飼ったの」

「雑誌の付録でついてた。申し込んで、代金分の切手を送ると買えたんだ」

「それって多分、【クリプトビオシス】と言う状態になっているのを、見つけ出して商品にしたのね」

「何。クリプト、何とかって」

「まあ、簡単に言えば、乾燥した状態で休眠している卵なの。そして、水分が確保出来たら、その時に復活するのよ」

「あ、そうだった。水を入れたら、大人になるって書いてあったし、実際そうだった。でも、そいつ、餌やらなくても、随分生きていたけどな」

「えっ、そう」

「だって、哺乳類のように、餌を貯め込んで休眠するんじゃなくて、乾いてきたら卵で休眠するんでしょ」

「そうよ。良く知ってるわね」

「餌って確か、緑藻かドライイーストだったよね」

「何だあ、私より知ってるんじゃないの」

「いやいや、そんなことは無いけど。だったら、餌はあんまりやり過ぎない方が良いって言われなかった」

「言われてるわ。『水が濁ったら、餌が多すぎと言う事だから掃除して、十二時間は餌をやるな』って、ね。水槽のチェックもあるし、休みってあんまり関係無いの。こう言うのは独身の新入社員の仕事だし」

「じゃ、やっぱり、帰らないといけないんだね」

 博のテンションは、明らかに下がっている。

「ごめん。また、いつか会おうよ」

「そりゃ、もちろんそうだけど。さ」

 テンションの低いまま、二人は帰り支度を始めた。靴を履く時も冴子は、必死に博の気持ちを盛り上げようとしてくれる。

「今度は、こんな仕事の無い日にしようよ。一晩中、付き合うから、ね」

「冴ちゃん、ありがとう。自分でも分かってるんだけど、こう言うテンションになったら一回、何か違う事をして、目先を変えればいいんだ。この長谷川博は」

 そう言うと、店の真ん中にある、小さな生簀(いけす)を見ていた。その中には、カニやエビ、魚が入っている。

“そうかあ、海に行けなかった、って言ってたから、好きな海の生き物を見て、気持ちを入れ替えるのかな”

冴子は傍で、一緒に覗き込みながら、実は、博の顔色を窺っていた。そのうち、何かに興味を示した。

「あれ」

 そう呟くと、水槽に顔を近づけた。横から見たり、上から見たり、している。

「あれ、親父さん。凄(すげ)え。ガザミがいますね」

 と、突然声を掛けた。

「ああ、博君。帰って来たんだってね」

 そう言われ、慌ててお礼を言う博。

「昨日入ったんだよ。さすがに九州だなあ」

 カニの仲間に、ガザミと言う種類がいる。昭和初期までは、東京でも獲れていたそうだが、今では全国でも数か所でしか獲れなくなった。九州では、佐賀県の有明海内湾が有名である。天草とは海を隔てて、対岸になる。天草のカニは、このカニの事を言う。毛ガニなどは、流通しない。

「九州にしかいないの」

「いや、他の地方にもいるんだけど、天草ではこれがメインだったので、他のカニを知らないんだ」

「確か、『ワタリガニ』って言うんだよね。九州じゃ」

 さすがに親父さん。良く知っている。

「地方の呼び名だってこと、上京して初めて知ったよ」

「ズワイガニやタラバガニも」

「テレビでしか見た事無いよ」

「北の方のカニは、流通が良くなった二十年くらい前から、やっと九州にも行くようになったはずだ。冷凍だけどね」

「そうですやっぱり冷凍なんです。おまけに高い」

 カニ談議で盛り上がる。

「さ、帰ろうか」

 カニさんのおかげで、気持ちはすっかり収まった。

“さすがに、気持ちの転換が速い。好きな海の生き物で、あんなにはしゃいで、博君、可愛い”

 冴子は心の中で、可笑しくなった。

勘定を払って外に出ると、漆黒の闇夜だった。その闇に乗じて手を引き寄せ、つないで歩いた。冴子は肩を寄せて来た。黙って歩く。しかし、何も言わなくても、鼓動で分かるくらい二人の心は通じた。アパートに着くと、博が言った。

「じゃ、今度会う時は、三月にしようか」

「えっ」

 意表を突かれたように、冴子は、頭を起こした。

「冗談だよ。あはは」

「ん、もう」

「メールするよ、じゃ」

「今日は、ごちそう、んぐ」

 いきなり博がキスをしてきた。冴子も博の腰に手を回し、他人の目を忘れた。

「じゃ、明日は頑張ってね、お休み」

 そう言うと、おでこに軽くキスをして帰って行った。冴子が見送っていると振り返り、

『中に行って』

 と言わんばかりに、両手で払う仕草をした。それを見て冴子は、笑顔で手を振り部屋に入った。

“やっぱり、ダメだなあ。強い意志なんて、やっぱありません。ステータスなんて、書かなきゃ良かった”

 翌朝、博はため息をついていた。会うことは、別に何とも無い。試験に受かり、行く先が決まるまでバイトをして、できるだけ金を貯めれば良いのだから。悩む事は無いのだが。博は、決めた事をあっさり変更した、自分の態度を反省していた。ただ、その叱責する中で、いつも二人の博が葛藤する。責める自分と、もう一人は当然、正当化しようとする自分。しかしこれは、半分言葉遊びの様なものだった。結局は、いつもどうどうめぐり。

“就職先が決まるまで、冴ちゃんとは会わないでいてみよう”

 などとは、一回も口にしていないし、彼女にも、自分にも言ってない。しかしいつの間にか、そう試してみようかな、と思うようになっていた。それは、このいい加減な男が、一生を左右しかねない出来事と、対峙していることを確認することでもあった。だから今回こそ、本当に三月まで会わないでいられるか、自分を試してみたい気になった。それくらい強い気持ちでいなければ、冴子を迎えに行く事が出来るかどうか。そのためにも、自分に自信を付けたかった。ただこの男の負けん気は、はっきりそれを打ち出すと、決めたことに縛られ、その事ばかりが気になって、固くなってミスをする。今までの人生の中で、何回失敗した事か。その事で自分に負けるのは、最も苦手なのでやりたくない。だから何となく、しかし自分の思った方向へ、行動を導いていく。

“それとなく、三月の発表まで会わずにいられるか、試してみるか。これは、前回のリベンジだから、それとなくでも何となくでもいいから、やり遂げたいな”

 いつの間にか、そう誓う博だった。しかし途中で一回だけ、どうしても外せない日にちがある。それは、冴子の誕生日だった。二月三日の節分だ。その日だけはどうしても会わなくてはいけないだろう。

“その日だけは、自分で許して良い”

と思って納得した。バイトで収入もある。彼女の好きな貴金属か、好みのフレグランス。彼女は【ニナリッチ】が好きだった。そして当日。二人は会った。しかしその日だけは《松尾》では無かった。さすがに、居酒屋で渡すような、無粋な男では無かった。隅田川沿いの、おしゃれなイタリアンカフェの一室を予約し、そこで、貴腐ワインを頼み、渡した。【ニナリッチ】のフレグランス。以前贈ったネックレスと合わせてくれれば、きっとお似合いだろう。予想通り、とても喜んでくれた。しかし、三月までに会ったのは、これ一回限り。幸い、冴子は入社したばかりで、先日の様に若い者担当のような、仕事が回って来て、それどころでは無さそうだった。その証拠に、メールをしなくても、一日、二日、何て事はない。さすがにそれ以上になると、博の方がたまらず、こちらからメールをした。メールで済ませる日々が続き、とうとう三月になった。この間に、車の免許も取った。博は、三月まで会わずにいられた自分に、自分独りだけで、自分の中だけで、ちょこっとだけ評価した。

“あくまでも、たまたまだと思え。今回は、冴ちゃんがたまたま忙しかったから、会わなくて済んだ。これが違うシチュエーションで、同じようにできるなんて、調子に乗るな。お前はそんな凄い男じゃないんだからな”

 ちょっとうまくできると調子に乗って、やらかして来た数々の失敗。やはり、少しだけ大人になったのか。舞い上がりそうな自分の気持ちに、カツを入れ直した。大切な人、冴子との結婚に向けて、もうすぐ答えを出せる。そこまで来ている。

{明日が発表です。分かったら連絡するね}

 そうメールした。

{明日、学校が分かるの。楽しみね待ってます}

 今回は、すぐ返事が来た。三月下旬。東京では珍しく、名残り雪が降った。

『東京都公立学校教員に補する。世田谷区立太子堂小学校教員に補する。三級百十二号給を給する』

 通知が来た。四月一日に、辞令交付式があると言う。身の引き締まる思いだった。つい先日、通信教育の大学から免許状の取得修了の通知も来ていた。それを持って、都教育委員会に行けば、免許状が交付される。

“ついにやった”

 さすがの博も、今回ばかりは自分を褒めた。すぐに冴子にメールをした。そして、その夜は、二人だけの祝賀会をした。前回のように遅くまではならなかった。冴子は次の日も仕事だったからだ。しかしその分、例の公園で二人だけの甘い時間を過ごした。冴子を送って帰り道。これからの段取りを考えた。

“まず、仕事に慣れる事だ。それから、問題の冴子。実家のご両親を説得に行き、結婚の承諾を得る。そして、結婚。式は挙げず、入籍だけ。披露宴は後から日をみつけて行う。

住まいは取り敢えず、冴子のアパートに転がり込む。それだけで取り敢えずは、いいはずだ”

 帰りながら、楽しい事ばかりを仮想した。あの電話があるまでは。


        十二


 翌朝早く、電話が鳴った。

“誰だよ、今頃”

 携帯の画面には、自宅の文字が浮き出ている。

“お袋かな。もう、こっちで決まったんですけど”

 寝ぼけた頭のまま、半分目を閉じたまま、応対した。しかし、数秒後。博は、目の玉が飛び出るくらい、驚いて飛び起きた。

『お父さんが、脳梗塞の再発で緊急入院した。今、ICUにいる。意識は無い。すぐ帰って来て』

 一瞬、意味が分からなかった。

“親父、脳梗塞、再発”

 ぼんやり、何回か繰り返すうちに、事の重大さが伝わって来た。

“う、嘘だろ。こんな時に。まさか、だよな。マジか。ちょっと待ってくれ”

 現実を受け入れる言葉を探すが、見つかる訳は無い。電車の中も、飛行機の中も、ずっと

“悪い夢であってくれ。お袋、『冗談にもほどがある』って、俺に言わせてくれ”

 そう願っていた。

病院に着くと、猛と妹の裕子、そしてお袋がいた。

「兄ちゃん」

「博」

「どうねお。父さんは」

 バッグ一つで急いで駆け付けた。

「その荷物、下ろせば」

 ICUの入り口のソファに、荷物を下ろして腰掛けた。

「発見が早かったけん、命は大丈夫って」

 その言葉を聞き、ホッとする博。

「ばってん、脳の左側が壊死しているそうだけん、右半身にマヒが残るだろう、って」

「マヒが残る」

「しばらくリハビリで、入院が必要てたい」

「しばらくって、どれくらい」

「一年くらい掛かるかも知れないし、ずっとマヒが残ったまま、かも知れんって」

 話を聞いて行くうちに、血の気が引いて行くのが分かった。顔を覆って、俯いた。

“なんてこった。俺が、家に戻らなきゃいかんのか。勤め口も見つかって、今から新しい生活をスタートさせて、結婚して、と言う、やっと自分で見つけた将来への道。その道を、真っ直ぐに突き進む覚悟だったのに。誰が、何で、どうして進ませてくれない。なぜ”

 さすがにここでは、ポジティブな博もマイナスを考えてしまう。果たして、このまま潰れてしまうか。どん底だった。しかし、しばらくすると、心の底にぽつっと湧いた負けん気。小さい頃は、この気持ちをストレートに出して、友達とよくケンカをした。そんな博は、小学校三年生の時に、取っ組み合いをしていた相手と、クラスの他の者から知らんふりをされた。いつもケンカばかりする二人なので、それまで止めていたクラスの友達が、呆れて止めるのを止めたのだった。その時残された二人は、とても惨めな気持ちになり、それ以来ケンカは絶対しなかった。その負けん気を、ミスった時には逆にプラスの所を探す事で、怒りからパワーに変える事が出来るようになった。言わば、負けん気の強さが、ポジティブな発想を生み出していると言えた。

 このどん底の時にも、ぽつっと湖に落ちた一滴の水の輪。その輪はどんどん広がっていく。そして次々と波を広げ、大きないくつもの波が、波動砲のように湖に広がった。

“誰が、何で、どうしてか、分からん。だけど、上等やんけ。俺を、幸せの絶頂から突き落とそうと思ってるらしいが、舐めるなよ。俺は、這い上がる。やっと掴んだ幸せ。やっと見つけた道。簡単には諦めんからな。どこかに新しい道を探し出してやる。誰か分からんが、俺は、倒れんぞ”

 さすがに博。簡単には沈まない。沈められても浮き上がる。予備校にまで落とされた経験は、強い博を作っていた。

“待てよ。お前は去年、熊本県教員採用試験を受けている。そうだ!熊本県に合格すれば仕事が見つかるって事だ。そうしたら、冴ちゃんさえこっちに来てくれれば、クリヤーできるじゃないか。よし、それだ”

 この切り替えの早さ。

「お母さん。分かった。東京を引き払って来る。そして、熊本県を来年度受験する」

 そう言うと、その足でまた、その日のうちに帰京してしまった。残された家族は呆気に取られ、尋ねる言葉を探しているうちに、目の前から去って行った。

「冴ちゃん、明日の夜。救急だけど大事な用事がある。ちょっとで良いから時間取れないかな」

 羽田で冴子に電話をした。そして、部屋に着くと管理人さんにその旨を伝えた。次の日はバイトの【三河屋さん】にも伝えた。どちらも急な事なので、たまげてぶっ飛んだ。昼間は、都の教育委員会に出向き、状況を説明した。赴任拒否と言う形なので、本当は民事訴訟レベルなのだが、状況が状況だけに、始末書で済ませくれた。そしてその夜。例の《松尾》で会った二人。冴子に経緯を説明した。さすがに驚いていたが、博の

「結婚を諦めた訳では無い。東京での勤務が出来なくなっただけだ」

 と言う話に、大きく頷いた。そして

「今年、熊本県の採用試験を受ける。今年渡、東京に受かっているし、去年も受けているので、自信はある。受かった時点で、君との結婚を申し込みに行く」

 と伝えた。

「高知に来るの」

 と尋ねるので、頷いた。少し不安そうな顔をしたが、すぐに、

「じゃあ、連絡してね。私も一緒に行く」

「じゃ、必ず連絡するよ。それまで、ちょっとの辛抱だ。この一年我慢すれば、世界一大好きな君と、一生居られるんだ。頑張って、まずは熊本県の合格を」

 博はじっと冴子を見つめ、強い決意をのぞかせた。その目を信頼した冴子の目は、夜のネコの瞳のように、大きく開いていた。今回は、見送りに行けない。その旨を伝えると、にっこりと微笑み、

「大丈夫。携帯で十分さ」

 と、力強く言った。別れ際にキスをする二人。この日は、昼間のように明るい、満月の夜。いつもは二人の背中を照らした月が、今日は歩いて帰る博と、見送る冴子の、間に入る。その月の光が、今夜はやけに明るく見えた。翌々日。博は、熊本に帰った。そして、父親の様子を見に行く。もう、普通の部屋に移され、目を開けていた。しかし、言葉が少し聞き取りにくかった。

「どうね、具合は」

 父に聞くと

「ちっとは、良か、ばい」

 と、少しきつそうに言った。

「僕は帰って来るけん、安心してください」

 そう言うと、父は頷きながら微笑んだ。父の病院を出ると、早速、本渡の教育事務所を訪れ、臨時採用教員の申し込みと、その年の採用試験の願書をもらった。そして、帰宅すると、早速、冴子にメールした。

{準備万端整った。冴ちゃんに向かって、ゴー}

 すると、今日はすぐに返信だ。

{吉報を待ってます♡}

 今日は博も、物理の記号で返した。

{LIMIT博∞二人=1}

 それを見た冴子は、つい嬉しくなった。

“博君、解読したんだ”

『博が無限大に冴子に近づくと、二人は一緒になる』と言う意味を表していた。この半年の間、物理記号を探して、やっと見つけた【リミット】だ。

新しい生活がスタートして、博は早速、島内の宮野河内中学校と言う所に、臨時採用教員として配属された。冴子は、二年目の研究室を始動させようとしていた。博は、部活の女子バレー担当となった。中学校で一年間やっていたので、基礎は分かっていた。専門の社会と、免許外を理科。全く相反するが、本来勉強したかったコースなので、自信はあった。

中学校では、専門の免許教科と、免許外教科の授業をする事が出来る。この際、免許外教科授業申請を、県教育委員会に提出する。天草の中学校では、特に免許外申請は多かった。一学年が四十人二クラス。六学級と言う規模の学校が多いと言う、天草特有の地域性もその要因の一つだった。

中学校の部活は遅い。だいたい七時までと決めているが、後始末や反省等をしていると、すぐ七時半になる。それから帰して、生徒が家に帰り着くだろうと言う、八時半まではだいたい、学校に残った。それから帰るので帰宅は遅い。食事、風呂を急いで済ませると、授業の準備。それが終わって、日付が変わる頃から、採用試験の勉強をする。この繰り返しだ。睡眠時間はほとんど、四~五時間。中体連の試合が近くなると、土日も練習試合が入って来る。各地区予選大会が六月の末にある。三年はそれを最期に、部活は二年中心になる。県大会には、予選で二位までが行ける。しかし、この年、他に強い中学校があって、宮野河内中学校は県出場を果たせなかった。しかし、密かに、博個人は胸を撫で下ろしていた。教員採用試験が七月末にある。これで、試験に向けて全力を注ぐ事ができるのだ。生徒には申し訳ないが、採用試験に向けて勉強したかった。

そして、運命を左右する採用試験の日が来た。熊本市の熊本大学で実施された一次試験。一般教養と専門教養。昨年の経験が生きて、かなりの手応えがあった。しかも二年目の有利さもある。通知が来て、その手応えの通り、見事一次試験を突破した。嬉しくて喜んだが、気を引き締めた。二次に実技が入って来る。博は【小学校教員採用】で受験しているので、模擬授業は無いが、水泳五十メートルと、ピアノ演奏の実技が入っている。水泳は大丈夫。ピアノも、昨年いろいろと聞いていたので、実家で妹のエレクトーンを練習しておいた。果たして、合格通知は来た。いよいよ二次試験だ。二次試験は夏休み中の八月後半だった。熊本市にある県立高校で実施された。小論文と実技。エアコンの効いた教室。論文題を確認して書き始める。カリカリと言う、紙の上を鉛筆の走る音だけが、その室内を独占していた。そのうちに『ふう』と言う、吐息の音。そして、終わった者が鉛筆を置く音。午前は終わり。午後から実技だ。終わったのは三時過ぎ。息つく間もなく、車を走らせた。その日の夕方、再び病院に直行した博。

「あらあ、どがんだったね」

 熊本県となると、途端に本気で聞いて来る母。母の気持ちは、分からないでも無い。しかし、高知県を目の敵のように言われると、何となく冴子を否定されているようで、寂しかった。実際のところ、母の須加子は博が、高知に行く事を恐れていた。その事は、裏を返せば冴子の魅力を、恐れていた事にもなる。同性の年配者だ。実際に会ったことは無いが、息子の話しぶりや写真を見せてもらえば、大方察しがついた。

“息子を取られるかも知れない”

 真面目にそう思ったようだ。博も、弟がいる。『長男だろうが、養子に行ってもかまわない』と言う考え方の息子。へたすれば、平気で『養子にいく』と言いかねない。【高知】と言う言葉に、敏感になるのは当然だった。

「今年は大丈夫と、思うよ」

 博の力強い言葉に、やっと笑みの出た母。

「お父さん、博が大丈夫かもしれない、って。良かったですね」

 父はホッとしたように、笑顔になった。しかし、その顔は少し変形している。顔にもマヒが出ているのだろう。

「それなら僕は、家に帰って妹達のご飯を作るけど、お母さんはどうする」

「じゃあ、あんたに迷惑は掛けられん。お母さんも帰ろうかな」

 そう言うと、二人は同じ車で帰った。その夜。博は冴子にメールした。

{今日が二次試験でした。かなり手応えがありました。来年の春には、高知に挨拶に行けるかも知れない。日程をいくつか、考えておいてください}

 随分と気の早い、しかし、自信に満ちたメール。冴子は、年明けには日にちを決めたいと思った。

“帰省した時に、その旨を両親や祖母に伝え、日にちを相談しよう。いよいよだ”

 思わず、顔が引き締まる冴子だった。夏が過ぎると、時は日一日と加速がついて来る。

特に、どこの地方でも祭が多い、十月から十一月。そこを境に、坂から転げ落ちるように十二月を迎える。そんな忙しくなり始めた十月。博から決断のメールが来た。

{元気。発表します。熊本県。合格しました}

{おめでとう。これで、決まりやね}

 夢にまで見た博の就職。やっと、手に入れた。後は二人の時間を合わせて、高知行きを決めれば良い。あと四か月。宮野河内中学校の先生達も、とても喜んでくださった。

“後は、ご両親にお願いするだけだ”

そう思いながら、東京で会った二人の顔を思い出していた。

“あの『できたら結婚させたくない』と言う気持ち満載の、言葉の数々。果たして、人より三年も遅れて就職する自分のように、不出来の人間を認めてくださるのだろうか。博は率直な所、自信は無かった。

クリスマスを過ぎると、あっという間に年末になる。冴子は、年末の二十九日に高知に帰った。まず相談したのは、やはり祖母だ。

「ほう。あんたの恋人は、熊本県に合格しちゅうがか」

「そうなが(そうなの)」

「人より三年、遅いんじゃね。頑張ったが。偉い人ぜ」

「そうながやき。ホントに偉いんじゃき」

「あんた、結婚したいが、やろ」

「お祖母ちゃん、その通りなが。一回会(お)うてみて。納得してもらえるき」

「その人、いつ来るがかね」

「その日にちを決めたいが」

「そして、その人っていつ来るが」

「ああ、来年の春よ」

「そうか」

 冴子はひとしきり話すと、その日は両親には言わず、新年になってから言うつもりだった。その方が、気分も新しくなれるし、みんな揃う。みんなに紹介したかった。お祖母ちゃんが褒めてくれた人だ。博の事を、自信を持って紹介できると思った。新しい年になったばかりの、一月一日の夜中。博からメールが来た。新年のお祝いメールだ。

{おめでとう。僕も君も、大切な年になったね。精一杯、力を出せるよう精進したいですね♡}

 古めかしい言葉だが、日本語にこだわる博。はやりの短い言葉は、あまり使わない。ただ、【精進】とはいかにも古い。まるで古文だ。絵文字もちょっとダサくて、思わず失笑した。しかし、気持ちは十分伝わった。

『大切な年になった』と言うフレーズ。心に重く響いた。その部分を何回も読み返していた。

{大切な年になりましたね。三月、楽しみでもあり、ドキドキでもあり。(;’∀’)日にちは、後で教えるね。元旦に、みんなの前で知らせようと思っています。♡♡♡♡}

 博は、ハートマークの多さに、目がハートになった。いつかは、マークの数が少なくてがっかりした。今夜は、キラキラだ。簡単な男だ。

その後冴子は、初詣に出かけた。一緒に行った妹も、大阪の大学にお付き合いしている彼がいると言っていた。

「ほんなら、二人一緒に、みんなに言うぜよ」

「冗談やめてんか。あんた達、恋人やろ。うちら、まだ学生やし、友達や。そんなレベルや無い」

 妹のその言葉に、冴子のスイッチが入った。

「そやろ。学生の時に、結婚なんて考えられんわいね。それを、お父さんとお母さん言うたら、姉ちゃんに見合いさせたんじゃき。信じられんぜ。あんたそうは思わんか」

それを知った妹は、目を丸くすると、漏らすように言う。

「なに、それ。そんな事させたん、お父さん達。あり得ん。アホ」

「そうながやき」

「姉ちゃん、怒ったらええのに」

「怒ったが。ほなけんど、懲りずに二回も。まっこと」

妹の栞は、珍しく姉が真剣に怒っている事に、驚いていた。厳かな気分で新年のお参りに行ったのに、帰りはすっかり、怒りまくりのお参りになった。帰ってからも、一緒の部屋で寝る冴子の怒りは、しばらく収まらなかった。朝になると、両親は新年のあいさつに、ホテルに行った。今両親は、直接の現場に出る事はほとんどなく、こう言う特別な時にだけ、来客に挨拶に出る。経営を仕切っているのは、親戚の叔父だ。両親は顧問として役員に入っていた。挨拶から帰って来ると、奈良原家の新年の会だ。屠蘇を飲み、雑煮を食べ、お節を囲んで、みんなテレビのお笑い番組を見る。ここ数年の習慣になっていた。

しかし今年は、お雑煮を食べ終わった後、冴子から話があると言う事で、五人みんなが集まっていた。

「みんな、元旦から済みません。実は報告したい事があって」

「冴ちゃん、まさかあんた」

 母親の言葉に、耳を貸すふうでも無く、冴子は続けた。

「お父さんとお母さんには、前から言ってたんやけんど、私には恋人がおる。その人は熊本県の人です。本当は東京で、学校の先生をやる予定やったんじゃけんど、お父さんが急病になって」

 と、経緯をずっと話した。二十分くらい話していただろうか。いつもは、冷静でおとなしい冴子の熱弁に、他の家族はその熱い思いを感じていた。

「彼がもし熊本県の教員採用試験に合格していたら、この三月に、この高知まで挨拶に来ます。もちろん、結婚のお願いです。その事を前もって、お知らせしておきます」

 冴子の熱い気持ちを感じた両親は、今までの自分達の行動が、姑息で愚かだった事を思い知らされた。可愛い娘の大事な気持ちを、親が踏みにじる所だった事に、今、気付かされた。

「冴子」

 娘に申し訳ない気持ちで一杯だった。自分達が間違っていた事に、恥じ入る両親。しかし冴子は、その親の気持ちにさえも、思いやりを持っていた。自分を思う気持ちが強過ぎたための、親の勇み足だった事を、理解してくれた。

「大丈夫よ、二人とも。二人の気持ちは分かっているから」

 親子が逆だ。冴子の手を取って、言葉に詰まる両親だった。

 一方、博はと言うと、元旦はやはり病院だった。父親が入院している。余り祝う気持ちにはなれない。だから元旦とは言っても、屠蘇を飲んで雑煮を食べただけで、病院に来ていた。

「どうね、お父さん。病院での年越しは」

 からかいながら、博が残りの三人と病室に入ってきた。他にも患者さんがいらっしゃるので、静かな入室だ。少しだけ、お節らしきものを持参して、父に食べてもらった。その父も回復は順調で、右半身のリハビリも頑張っていると言う。しかし、言葉が良く出て来る割には、若干聞き取りにくい。

「何かするのか」

 が

「なんふぁ、ふるのか」

 と言う発音になる。長いリハビリの必要性を実感した。 

帰りに、母と話すと

「工場は、しばらくは今の工場長に任せるから、発注が、今の機械に合わない製品に変わってきたら、頃合いを見て閉鎖する」

と言う。今となっては、三月まで何とかなれば、博も心配はなくなる。母の生活が何とかできれば、弟の学費ぐらいはそのうち、博の収入で手伝っていけるはずだ。父の入院費も、両親の貯金で何とかなっている。後は、三月を待つだけだった。

そうこうしているうちに、一月が『行ってしまった』。二月も『逃げてしまった』。そして三月。高校入試の後、合格発表、卒業式、と三月初めの中学校は、緊張の毎日だ。そんな中、博の家に通知が来た。熊本市立日川城南小学校への、赴任が決まった。幸い、中学校での大きな行事は終わっている。急いで転居の準備。生活の準備。学校への挨拶等、臨時採用教員に与えられた年休をすべて使い、熊本市へ往復した。そんな中、冴子にメールした。すると冴子からの返信は、二十五日から二十八が良いと言う。博も、年度末年度初め休業の、その期間が良かった。一日には辞令交付式がある。その前に済ませたかったのだ。ルートは、大分の佐伯市から高知県宿毛を、往復しているフェリーがある。それを使う事にした。しかし問題は時間だ。大分までは熊本市からでも三時間。宿毛から高知までも、これまた三時間弱。最も効率の良い時間で組まないと、少なくとも三日掛かってしまう。何とか二日で済ませる事は出来ないか。あらゆるコースと、時間を考えてみた。すると、フェリーを朝早い便に乗ると、可能だと言う事が分かった。したがって、天草を夜出発して、夜中ノンストップで佐伯に着く。そのまま朝五時発のフェリーに乗り込む。約三時間半で宿毛へ。そのまま一気に、国道百二十キロを突っ走った。この時には、まだ高知自動車道が出来ていなかったのだ。若いせいもあったが、冴子への思いが、百二十キロを遠く感じさせなかった。

初めての四国。高知は、路面電車が走る。中心の市内は、どの県も賑わっている。路面電車の行き先表示に、『ごめん』と言う文字をみつけて、土地の名前の面白さを実感した。因みに、電車好きの横浜の遠藤によると、土讃線に『大歩危(おおぼけ)、小歩危(こぼけ)』と言う駅があるらしい。高知市内を過ぎて、十分。土佐山田町に着いた。電話をして駅に駐車していると、あの顔が走って来る。冴子だ。駅に向かって百メートル近い距離だ。博は、荷物も持たず、ロックもせず、キーを持ったまま走り出した。それを見ていた客待ちタクシーの、運転手のおっちゃんが慌てて声を掛けた。

「ちょっと兄ちゃん。ロックしとらんぜよ」

 それに気づいた博は、急ブレーキ。お礼を言うと、我に返った。奈良原家への、お土産の荷物も持っていない。冴子へのお土産も持っていない。久しぶりの愛しい彼女に、のぼせ上ってしまった。そうこうしているうち、冴子が着いてしまった。

「博君。元気だった」

 しっかり見つめて、そう言った。

「冴ちゃん。待たせたね」

 博の言葉に、首を振って

「しっかり待ってたよ。信じて」

 冴子はにっこり微笑んで言った。

「じゃ、行きましょうか」

 冴子はそう言うと、案内してくれた。さっき冴子が見えた付近を左へ折れ、進む事五十メートルほどで着いた。二階建ての瀟洒な家だ。博は思わず

「あれ」

 と声をあげた。

「どうかしたん」

 つい、高知弁で言った冴子。

「旅館、じゃなかったっけ」

「ああ、旅館は市内にあるがやき」

「……」

 思わず博は、冴子を見た。

「あ、ごめん。地元にいるので、つい」

「そうか。君は地元だよね。僕と話す時は、そう言う方言、全然出なかったから。でも、方言も可愛いね」

「そう。ありがとう。じゃ、どうそ」

 座敷に通された。さすがに社長の家だ。門構えからして、博の家とは違う。しかも、門から玄関までが遠い。両側を芝生が覆う小道を、十メートルほど歩く。玄関は、大きく白いドア。玄関を開けると、長い廊下。高い天井。掛け軸も生け花も立派だ。建売住宅の博の家とは、物が違った。博には『高そうな掛け軸。豪華な花』としか分からない。【○○鑑定団】と言うテレビ番組にでも出て来るような、威厳のあるものばかりだ。奥に通されて、しばらく待つと父親が顔を出した。挨拶をすると、意外にも柔和な顔で話をしてくれた。実は、冴子の家に着くまで、博は、テレビドラマであるようなシーンが、現れるものとばかり、ずっと想像していた。

「娘はやらん、帰れ」

 と言う、ドラマでありがちなシーン。博は、その事がずっと頭から離れず、食事も摂れなかった。緊張のあまり、吐き気もしていた。どうやって説得すればいいのか、ずっとその事しか考えられなかった。しかし、それが一気に無くなり、ちょっと不気味だった。いつ爆発するのか、今か、今かと、ビビりながら話していた。

「久しぶりやね。遠かったろう。何時頃出て来たの」

 優しくお父さんが声を掛けた。

“この優しさは何だ。東京の時と、表情も言葉も全然違う。嵐の前の静けさか”

 まだ疑っている。

「ご無沙汰しています。この前は、わざわざ済みません。東京まで」

 蚊の鳴くような声で言った。すると、横から突然、

「あらあ、いらっしゃい。遠かったでしょう。ゆっくりしてね」

 冴子の母親が、コーヒーとお菓子を持って来た。博は、ドキッとした。

「あ、遅くなりましたが、これ気持ちだけですが」

 慌てて、お土産を出そうとした。心臓は、鼓動がめっちゃ速い。震える手で、そう言って差し出したのは、天草にしか無い【杉ようかん】と言うお菓子だ。博の住む河浦町でしか手に入らない。約二百二十年前、難破した琉球王朝の船が、河浦町﨑津地区の人達に助けてもらった。そのお礼にと、作り方を教わったと言う。小ぶりだが、優しい甘さが、島内外で評判になっている。

「あら、珍しい。わざわざ、ありがとうございます。遠慮なくいただきます。さ、コーヒーでも飲んでくださいな」

「頂きます」

 カップを持つ手が、微かに震えている。

「どこか、寄り道して来たがかね」

「いやあ、そう言う余裕があれば良いのですが、明後日には、引っ越しが控えていますので、休憩も取らず突っ走って来ました」

「それは大変ちゃ」

 驚く両親。

「はい、若干疲れはありますが、そんなことは言ってられません」

 真面目な顔で言う博。両親は、二人の絆の強さを、改めて感じていた。博の人柄も、真面目で感じの良い青年だと思っていた。博は、ただ緊張して、笑えないだけなのだが。

「実は」

“おい、気合だ。アニマル浜口さんのように、気合を入れろ。一世一代の大仕事だ”

 そう気合を入れ、正座した太ももをつねった。柔道の試合前に、緊張する自分を鼓舞する時に、よく使った気合入れだ。そして、徐にカップを置くと、背筋を伸ばし直して、父親を見つめて、静かに言った。

「僕は、今年から熊本市で、小学校の教員として勤める事になりました。前回お話しした時は」

 そこまで言った時、父親の正人が話しを遮って、話しかけた。

「博君。話は聞いちゅうき」

「えっ」

 驚いた博だった。

「全ての経緯を、冴子が話してくれたんじゃき。そして、ワシらのした姑息な事も、全部許してくれたが。君達の気持ちの強さを、痛いほど感じたぜよ」

 そう言う父親の横で、黙って座っている母親の祥子。

「そこまで強い気持ちがあるがやきに、ワシらは許すしかないろ」

「お、お父さん」

 逆に、博がたまげてしまった。対策まで考えて来たのに、結婚を、いきなり許してもらえるとは。

「結婚するとえいちや(良いよ)。その代わり、大事にしてや」

「は、はい。あ、あの」

「何か」

「はい、あまりにも予想外の展開で、思考が働いていないんですが、勤めになれるまで時間が掛かると思いますし、父も入院しておりますので、すぐには無理なんですが」

「それは、君たちで決めたらえいわ(どうかい)」

 東京で会った時とは違って、顔も優しく、見つめる視線も優しい。これは本当の事だった。

“いったい何があったのだろう。不思議でたまらない”

しかしこれで、大きな一歩が踏み出せたのは、間違いのない事実だった。送りに来た冴子と来た道を戻りながら、両親の豹変ぶりに、思わず呟いた。しかし冴子は、ただ、微笑んでいるだけだった。冴子に別れを告げると、再び遠路を走り始めた。今日の夕方のフェリーに乗り、昨日と逆のパターンで帰る事になっていた。冴子も、次の日には高知を発った。東京と熊本で、遠距離恋愛をしばらく続けなければならない。夏には、東京に会いに行くつもりだった。それまでは、手紙を書いた。メールより手紙の方が、たくさん文章を書ける。それだけ、気持ちが伝わる。遠距離恋愛の間は、恋しい気持ちを率直に伝える事が出来た。それは冴子も同じだった。しかし飛行機の中の冴子は、なぜか沈み込んでいた。

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