第11話
九
東京に戻ると、冴子に[ただいま]のメールはしたが、帰省の意味は言わなかった。それから間もなく、東京都の公立学校教員採用試験があった。お盆過ぎに合否の発表だが、結果は火を見るより明らかだ。しかし、来年度に向けての対策を立てる意味でも、今回の受験は大切だった。
「どうだった、試験。難しかった」
「うん、そうだね。一般教養は何とか分かったけど、専門教養って言うのがあって、チンプンカンプン」
「やっぱり、いきなりは難しいのね」
帰京した次の日、いつものカフェ【エルム】で、二人は会った。
「ま、そんなとこです。あはは。で、冴ちゃん、実家には帰らないの」
「うん、もう帰るのは疲れたわ。四年になって、何回も帰ったから、もういいの」
「確かに凄かったね」
微笑みながら、コーヒーをすする。
「きつかったわ。もういい。あ、ただ博君の事はちょっと言ったの。だから、私の気持ちは、感じていると思うわ」
「僕は、今回はっきり言ってきたよ。冴ちゃんと結婚したい、って」
「そうしたら」
「そうしたら、僕が天草に帰って、それでも冴ちゃんが良いって言えば、良いんじゃない
の。っだってさ」
「ええっ、私」
「ちょ、ちょっと最後まで聞いて。お願い」
「分かった」
「でも、東京に残りたいって説得したら、最終的にオーケーだったんだ」
「わあ、良かったあ。これで、私がはっきりすれば、二人で住めるんだね、東京に」
「と、言う事だね」
言った後、嬉しそうに笑う博だった。冴子も、心の底から嬉しそうだった。
それから一カ月後の事だった。バイト中の博の携帯に、高知の市外局番から電話があ
った。出るとそれは冴子の母親だった。何と、今週末に上京するので、
『何とか時間を見つけて、会ってもらえないか。冴子には、黙っておいてくれ』
と言う内容だった。『冴子には、内緒でお願いしたい』と言う言葉に、何となく違和感
がある。一抹の不安を感じた。しかし彼女のご両親のお願いだ。とにかくバイト先の親父さんに休みをもらい、待ち合わせることにした。
午前十時の待ち合わせに、早めに行って待っていた。場所は、入ったことも無い
「こんにちは。長谷川君ですか」
上品そうな女性が声を掛けた。
「あ、奈良原さんですか」
博も、察しがついていたので、声を掛けた。
「はい、長谷川博です。どうぞよろしくお願いします」
「あ、急に呼び出したりして、ごめんなさいね」
「いいえ、それは全然構わないんですけど。今日は何かのご用で、お出でになったんで
すか」
ドキドキしながら、一応、知らないふりをして聞いてみる。その口から【結婚】の話が
出ないように祈った。
“【結婚】の話が出ませんように。せめて、東京の採用試験に受かっていれば、状況も違
う。しかし如何せん、今は無職だ。『方向性は決まっている』のとは違う。今の俺の立場
は、非常に弱い。それくらいは分かる“
「いやいや、君と話がしたくてね」
冴子に似て、きりっとした顔の父親だ。しかし、どこの父親も、最初は怖い。この父親
も、優しそうな母親とは違い、笑顔一つない。
「ええっ。じゃ、そのためにわざわざ、高知から。それは済みません。呼び出していた
だければ、僕が出向きましたのに」
「ま、掛けようか。さ」
冴子は、父親に鼻と眉、顔の輪郭が似ている。あとは、母親に似ていた。ふかふかのソ
ファーで卓を囲み、その父親が切り出した。
「先日、冴子から電話があってね。君と結婚するって言うんだ。まだ、卒業もしとらんの
に、ちっと早いろ。って言うたら、絶対、君とするから。それだけは言うとくきね。って
言うぜよ」
“出た。しかも土佐弁、怖(こわ)っ”
口から心臓が、飛び出しそうになった。ドストライクだ。
「本気なが。長谷川君は」
「本気か、って言うことですか」
「あ、ごめん、ごめん。方言がきついきにねえ。分からんわね」
「あ、いいえ、決してそんな事は。ちょっと人の声で聞き取れなくて」
父親の方言がひどいのに、博が苦笑いして、場を和ませている。
「そう。本気ですかって言う事なの」
母親がフォローして言ってくれた。しかし、その顔は笑顔では無い。博が無職である事
を心配しているのかも知れない。それはそうだろう。お互い仕事もしていない。特に年上
の博は、本来であれば就職している年齢だ。それが、やっと方向性だけが決まっているに
過ぎない。これから採用試験もある。合格して初めて口に出来る話題だ。
「もちろん、本気です。本当なら、今でも結婚を許して頂きたいくらいです」
「そ、それはいかんろ。それは」
「それは分かっています。だから、卒業してから、正式にお願いに行くつもりです」
「あ、あのね。冴子は、高知にお見合いした人がいるじゃき。その事は長谷川君、知っ
っちゅうがかね」
「はい。彼女から聞きました」
「もし、君が結婚するなら、熊本へ帰るろ」
「いいえ。東京に残ります。この前、両親と話し合って、残っても良いと言う返事をもら
い、区立中学校の採用試験も受けています」
「もし、受からんかったら、どうするが」
「何度でも挑戦します。彼女と結婚するために」
「冴子の祖母が、どうしても高知であの子の花嫁姿を見たい、っちゅうがやきね」
「でも、冴ちゃんも、東京に残るんでしょ」
「うん。ほなけんど、家の旅館の跡取りやきね。何年かしたら、高知に呼び戻そう思うち
ゅうが」
「ええっ。じゃあ、冴ちゃん、ずっと居るんじゃないんですか、東京に」
「いや、あの子は居るつもりみたいなけんど、そうばっかりも言うとれんのじゃき。それ
でも長谷川君、大丈夫がかね」
博は、万が一高知に行くと言う事になると、《冴ちゃんと一緒になって、東京に住みた
い》と言って説得した両親を、騙した形になる。まして
『養子にはなるな』
と、強い口調で言った母親が、それこそ猛反対だろう。また博としても、それは最後の
最後まで避けたかった。冴ちゃんと一緒になるのに、心の中にもやもやしたものがあった
ままでは、素直に喜べない。しかし、冴ちゃんとは絶対に、結婚したい。
「ちょっと、それは」
と、少しためらいを見せただけで、父親が畳みかけるように、話して来た。
「じゃろう。ほいたら、長谷川君。冴子とのことは、よう考えてね。頼むき」
冴子の両親と別れた後、ソファに座ったまま、両親の突然の上京の意味を考えていた。
“どう言うことなんだろう。別れてくれ、とは言われなかったが、別れてほしいのだろう
か。何か、奥歯に物の詰まった言い方だった。言葉の裏に隠された意味が分からない”
【エルム】で会った博は、今日の事を冴子に伝えた。
「何で、急に。また、いらん事言うたんじゃない」
冴子は、不機嫌な様子だ。
「知らなかったの。冴ちゃん」
「知らなかったわ。今日来た時も、私には連絡も無かったわ。何だろう」
「ま、とにかく、こんなことは結婚する時には、いろいろあるんじゃないかな。テレビドラマでもよくあるじゃん」
「そうね。そう言う障害を一つずつ、協力して乗り越える。そこで初めて結婚できる喜びが生まれて来るのかもしれないわ」
ニコッと微笑んで、コーヒーを口にする冴子。博も、力強く頷いた。
季節はいつの間にか紅葉が終わり、まだ十一月だと言うのに、ジングルベルが、気の
早い都会の街並みを賑わせていた。冴子は無事に内定を取り付け、卒論の提出ももうすぐだと言う。博の方は、卒論は終わったものの、小学校教員免許取得に向けて、情報の収集に取り掛っていた。年末に向けて、酒屋のバイトは当然忙しくなる。配達に次ぐ配達だった。二人のバイト生は、交代で自転車に瓶ビールや日本酒、焼酎のパック等を乗せて、千歳船橋や梅ヶ丘等まで配達した。いよいよ歳も押し迫り、その年のクリスマスイブ。博は冴子を誘って、いつもの『松尾』に行った。カッコイイ、ムーディーな店の方が、普通はいいのだろうが、二人には慣れた店の居心地が良かった。そして、博はそこで、この日のために買った、三連のネックレスをプレゼントした。バイト先の親父さんが、頑張るバイト生二人に、ボーナスを出してくれたので、それで買ったものだった。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「付けて見せてよ」
博が言うと、そーっと首に通し、
「どう」
と、嬉しそうに見せてくれた。
「はい、今日はおばちゃんからも、二人にプレゼント」
「わあ。ありがとうございます。刺身の盛り合わせじゃないですか」
「ええっ、良いんですか」
「クリスマスって言えば、若い人は、横浜だとかスカイツリーだとか、いろいろあるだろうに、こんな小さな居酒屋に来てくれんだもの。差し入れくらいしないとね。あら、ちょっとお邪魔だったわねえ。そんな、いいプレゼントの所に」
「いや、良いんです。あ、おばちゃん、見てください。似合いますか」
「似合うよお。そんな可愛い顔してるんだもの。大根でも、白菜でも似合うさ」
「そんなあ、あははは」
三人は、とても盛り上がった。冴子はもちろん、博もとても嬉しい日になった。バイトも終わろうかと言う、その年の年末。『三十日に帰る』と言うメールを母に送り、部屋の整理をしていた。十二月二十九日。それは起こった。
十
「お父さんが脳梗塞で倒れたから、急いで帰って」
と言う、母の電話を受けた博は、冴子にはこのことを内緒にして、
“急用が出来たから”
と、一日早く帰ることにした。別に、気にも留めなかった冴子だった。キャンセル待ちでやっと帰った博は、父親の忠が入院する市立病院に急行した。病室へ行くと母の須加子と、弟の猛が付き添っていた。幸い、軽い脳梗塞で、処置も早かったため、早ければ二週間ほどで、退院できると言う。それを聞いて一安心した博だった。残念ながら、年越しは病室になったものの、言葉の回復も良く、リハビリも順調だった。おかげで冴子とも、新年のメール交換もゆっくり済ますことが出来た。ただ、どこかにマヒが残る可能性はあるので、内服薬は絶対飲み忘れがないように、病院からの注意があった。家族はホッとして聞いた。
年が明けて冴子と久しぶりに会ったのは、成人の日を過ぎてからだった。母親の気持ちを考え、一週ゼミを休んで帰京したためだ。帰ってすぐに冴子に会った。
「どうだった。田舎は」
「ああ、相変わらずさ。冬は海の獲物が獲れにくいから、退屈だったよ」
「獲れないの」
「いや、寒いから下手に近づけないんだ。あの幸のっちゃんも、今年は帰って来なかったし」
「いつも話している、小学校からの友達」
「うん。大の親友さ。あ、千葉に居るから今度紹介するよ。結婚したら、どうしても知り合いになるからね」
「そうね。ぜひ」
冴子は、ニコニコしながら博の話を聞いていた。
「冴ちゃん、こっちで何してたの」
「バイトだけ」
「野本さんも帰ったの。広島だっけ、実家は」
「ミッチーは、さっさと帰ったわ。彼女、県職員の試験に受かってるから、こっちには未練も何にも無いみたい」
「じゃあ、一人で退屈だったね。ごめんね、バタバタして帰っちゃって、こっちに来るのも遅くてさ」
「あら、大丈夫。研究は、すればするだけ、やることが見つかっていくから。バイトが暇な時は、研究室に居たのよ。でもさすがに、大学のすべてが閉まる三が日は、困ったけどね」
「さっすがあ。研究が好きだねえ。感心するよ」
冴子は、都内の大手製造業の研究室へと言う事で、内定をもらっていた。
「面白いからやってるだけよ」
さりげなく口にする冴子。博は、そんな冴子が眩しかった。
“自分はやっと見つかった将来の夢。冴子は、小さな頃から見つけていて、今も、そしてこれからも追及しようと言うのだ。羨ましい。どういう人なんだろう。もっともっと知りたい。こんな人と知り合えて良かった”
「どうしたの」
テーブルに片肘をついて、コーヒーをスプーンで掻きまわしながら、ふと博の目に気が付いた冴子は、不思議そうに聞いた。
「あ、いや。そんな風に研究に打ち込めるって、幸せだよね」
「そうねえ。好きだからね」
微笑んで、窓の外を見た。真っ青な空だが、風が冷たい。冴子のセーターが、コーヒーの湯気で、ますますふっくらした印象になり、見ている方まで暖かそうだった。しかし、博の心の中には、その暖かさでは覆うことができない、不安なことが蠢きつつあった。
一月は《行ってしまう》。二月は《逃げて行く》。三月は《去ってしまう》。と言う、語呂合わせのような、言葉を聞いた事があった。その言葉通り、あっという間に、一月も終わりになった。いよいよ、博も両方の結論を迫られることになった。
やっと方向性を見つけた《冴子と一緒に東京に残り、教員を目指す》のか、それとも《冴子と別れ、父親のあとを継ぐ》のか。それとも《冴子とは、やはり別れ、熊本で教員を目指す》のか。《東京に残る》と言ったが、今の家庭状況でそう言い切れるのか。冴子が研究で忙しくなり、幸いなことにメールのやり取りしかできない。
“今のうちにしっかり、考えておかなければ”
博は、考えを整理していた。バイトの時も、部屋に居る時も、食事の時も。そんな二月のある寒い日だった。木枯らしが吹き、人々は襟を立て、背中をかがめて歩いていた。
冴子から突然、しかも、一週間ぶりに電話があった。聞けば、両親が東京に出て来たという。まったく突然のことで驚いたらしいが、内容は、やはり《しばらく東京で研究したら高知に帰って、ホテルを継いでくれないか》と言うことだったらしい。しばらくは押し問答だったそうだ。そのことは、冴子の中では、お見合いの時にきちんと、結論は伝えていたつもりだったのだから。しかし、両親はどうしても帰ってほしかったらしい。
「あんな姑息な事までして、お見合いさせたり、私が大好きな、お祖母ちゃんの話まで持ち出したりして」
それを聞いた博も、言葉に詰まってしまった。
「僕は、君と一緒になりたいんだ。それだけだよ」
以前の博とは違い、電話ではっきり伝えた。
「私もよ」
そう言いながら、結論が出るはずもなく、電話を切った。そう言う中、《行ってしまう》と言う一月は、あっという間に流れ、《逃げていく》二月も終わりになった。博は、いよいよ決断の時を実感していた。お互いの心を最終的に確かめよう、と決めた。そして、やはり寒い夜。久しぶりに、研究で忙しい冴子に、無理を言って会うことにした。
{今から迎えに行くよ}とメールして、南口へ急いだ。《経堂》の踏切は、マグネシウム灯でオレンジ色に光る。柔らかい警報機の音が鳴り始めた。上り電車が通り過ぎる。その時だ。電車の車両と車両の間から、何と冴子の姿が見えた。
「冴ちゃん」
思わず叫んだ。手を振る冴子に聞こえるはずもない。しかし、電車が通り過ぎると、冴子がそのままどこかへ行ってしまいそうで、怖くなった。
「カン、カン」
電車が通り過ぎた踏切の向こうには、間違いなく冴子がいた。オレンジ色の光にぼんやり浮かび上がり、キュートな笑顔で手を振っていた。
「博君。ごめん、待てずに来ちゃった。えへ」
珍しく、甘えたように言う。いきなり手を組んできて、頭を凭れて来た。明らかにいつもの冴子ではない。妙に明るい。博は、違和感を隠せず、何も言えなかった。冴子の口から出て来る彼女の心の叫びは、どう言う内容なのか。博は、自分の気持ちを伝えられるのか。何も話さず、寄り添って歩いた。初めてキスをした夜のように、綺麗な満月だった。
あの日のように、背中を押してもらえるのか。何も話さぬまま【エルム】に着いた。
いつものように、マンデリンとブラジルを注文した二人だが、今夜は二人を結ぶ声が出て来ない。冴子も、さっきまでの異状なハイテンションはすっかり影をひそめ、いつもの落ち着いた冴子に戻っていた。しかし、内心は穏やかではなく、博の意思が分かっているのでもない。自分の選択が間違っていなかったか、その選択と、博の考えが符合するかどうか不安で、心臓はバクバクしていた。それは博とて同じだった。なかなか最初の言葉が出ない二人に代わり、
「お待ちどう様でした」
と、ウエイターが切り口を作ってくれた。
「あの。冴ちゃん、やっぱり東京に残るんでしょ」
そう言うと博は、ごくっと唾を飲み込んだ。
「そう、ね」
カップのコーヒーをくるくるとかき混ぜながら、冴子はカップを見つめたまま言った。
その言葉は、不安に押しつぶされそうになるくらい小さかった。もちろん、博の緊張も痛いほど伝わっていた。
「博君は」
「僕も残りたかった」
「えっ」
瞬間的に顔を上げた冴子は、
「残りたかった」
博の言葉を、確認するように繰り返すと、しばらく絶句した。
「じゃ、帰っちゃうの。熊本へ」
絞り出すように言うと、下を向いたまま、膝に当てた手を握り締めた。
「僕は、君と結婚したかった。東京に残って、君と一緒に暮らしたかったんだ」
「じゃあ、なぜ」
下を向いたまま冴子は聞く。
「実は、親父が倒れちゃって」
「えっ、いつ」
冴子は、驚いて顔を上げ、聞いた。
「去年の年末に」
「どうして教えてくれなかったの」
「その時は、取り敢えず落ち着いてから、と思ってたんだ。もちろん、死んでたら別だけど、行ってみたら軽い脳梗塞だった。だから、君とのことは現実に実行できる、東京に残れるって思った」
「駄目だったの」
冴子は、悲しそうな顔で静かに聞く。
「半身マヒが出るかも知れないんだよ。そうすると、長いリハビリが必要なんだって。だから、工場を継ぐか教員をするか相談をしなきゃいけない。とにかく家に帰らなくちゃいけなくなったんだ。まだ高校生の妹もいるし、小学生の弟もいる。君との事を考える前に、目の前の現実をクリヤーしなくちゃいけなくなった」
博はそこまで言うと、がっくりと肩を落とし、下を向いた。
「だから東京には残れない、って訳ね」
「いや、ハーフハーフだ。親父の具合如何によっては、東京に戻るかも知れない」
冴子は、再び下を向き、
「でも、帰っちゃうんでしょ」
そう呟くと、ぽたぽた涙を落とし始めた。点々と涙のあとが、スカートに附いていく。そして、大粒の涙になると肩を震わせた。
「好きなのに」
「ごめん。僕も、大好きだよ」
沈黙が長く続いた。そして、意を決したように
「出ようか」
と、博は言った。冴子は黙って立ち、ハンカチで顔の涙を拭くと、静かにドアを開け店の外に出た。
「送るよ」
博が言うと、軽く頷き、側に寄ってきた。肩を抱き締めて歩いた。アパートまでの時間を大切にしたかった。幸いにも遮断機が下り、電車が通り過ぎる間の時間が増えた。しっかり博に凭れかかり、博の香りに包まれていた。警報機が鳴り終わると、だんだん近づいて来る別れの時。そしてとうとう着いた。抱いた肩を離して、正面を向かせると博はキスをした。その頬が冷たく、彼の涙である事を知った。そして、何も言わずおでこに再びキスすると、アパートへ帰るよう、無言で背中を押した。冴子は、振り返らず部屋へ帰って行った。それから、一カ月近く。とうとう、東京を離れる日が近づいた博は、部屋の片づけをしていた。すると、あの夜から連絡を取れなくなって依頼、久しぶりに冴子からメールが来た。
{いつ、発つの}。{今週の終わり。一四時十五分発ANA四五七便熊本行きだよ}と返信すると、{分かった。経堂を出る時間は}と返って来たので、{多分、十一時半くらいになる。メールするよ}と送った。いよいよ、東京を発つ日が来た。冴子にメールして経堂駅の改札に行くと、冴子がいた。
「冴ちゃん」
嬉しくて、つい小躍りしそうになった。
「送るわ」
「えっ、本当。ありがとう」
喜ぶ博。しかし、羽田までの楽しいはずの時間は、徐々に重たい空気になっていく二人だった。ほとんど話すことも無く、小田急の車輪の響きを聞いていた。何度も楽しい思い出を作ってくれた、その心地よい音と揺れ。
“もう、君と乗ることも無いかもしれない。最後かもしれない”
博は、同じように正面の車窓を見ている冴子に思いを馳せながら、ふう、と軽く息を漏らした。しかし博は、この時すでに気が付いていた。例のあの顔が何処かでサボって、マイナスの顔をのさばらせている事を。そして見つけた。そしてそいつと語り始めた。
“おい、博。お前、何を勘違いしている。悲劇のヒーローみたいに、何を感傷に浸っているんだ。お前はそんな弱虫だったか。そんな情けない男だったか。だいたい、そんな格好イイ男じゃないんだ。勘違いもいい加減にしろ”
そいつの性根を叩き直してやった。
“冴ちゃんとの事は終わったのか、完全に。そうだとしたら、いつ結論が出た”
マイナスの顔が、ネガティブの頭が、だんだん後ずさりしていく。
“いい加減、目を覚ませ。まだ終わっちゃいないだろ。早いとこ前を見て、冴ちゃんの気持ちを支えてやれ。このドアホ”
羽田に着くと、空港のカフェでコーヒーを飲みながら、時間を潰すことにした。その頃博は、すっかり前を向いて、冴子を支える言葉を探していた。
「博くん」
「ん、何」
窓の外の発着する、各社の飛行機を眺めながら、博は応えた。
「結局、私達って壁、越えられなかったね」
同じように窓の外を見ながら、冴子が聞いた。珍しく博が黙っている。そして、余りの長さに、冴子が博の顔を見ると、博も冴子を見つめて、徐に言った。
「冴ちゃん、そうだろうか」
「えっ、だって」
“二人で力を合わせて、襲ってくるであろう、幾つもの障害を乗り越えて、東京で結婚して家族を持とう、って約束したはずでしょ。でも、今となっては、それは叶わない”
冴子はそう思った。
「冴ちゃん、僕達って、結婚まではいけなかった。いや、いけていない」
「いけなかったね」
冴子は、ため息まじりに漏らした。すると博は、はっきりと言った。
「いや、冴ちゃん。いけなかった、じゃないよ。過去形じゃない。たどり着いていないだけ。まだ終わっていない」
「え」
納得できない様子の冴子だ。
「最善の努力はしたはずだろ」
ゆっくり頷く冴子。
「そして、これで終わりだと思う」
俯いて、黙っている冴子。
「これって、いくつかの壁を乗り越えて、ここまでたどり着いたんじゃないかな。今からが、本当の壁。それで最後かも知れないし、そうじゃないかも知れない。でも、今回の壁は、それくらい『乗り越える意味のある壁』だ。僕は、そう思うんだ」
窓に目をやる冴子。これまでの出来事を、思い返しているのだろうか。
「お互い、結婚に向けて最善の努力をする事が出来た。これは、あくまでも今の段階での話だよ。お互いの愛のために、最大限の努力をした。その結果が、今の僕達の時間を作ってると思うんだ」
博がそう言うと、冴子は急に顔を覆い、肩を震わせた。
「冴ちゃん。僕は、君の事を忘れる事なんてできない。この運命は、きっと神様がくれた、最高のプレゼントさ」
「最高の、プレゼント」
冴子は顔を手で覆ったまま、俯いて言った。
「そうだよ。『君との気持ちをもっと高めなさい。僕達が、最高の気持ちで一緒になれるように、もっと、もっと、努力しなさい。僕達は、まだまだ深く、愛し合えるはずだ。そのための大切な時間をあげるよ』って言う、最大、最高のプレゼントさ!だから、待っててくれ」
博は、そう言うと、冴子の手に自分の手を重ねると、涙でぬれたその手を引き寄せ、強く握った。
「博くん」
「距離を理由にしたくない。僕は気持ちが続く限り、君を愛し続ける。これだけは約束する」
「……」
冴子は大粒の涙をいっぱいためて、ただ頷いている。何回も何回も。
「そして、僕は必ず君を迎えに来る。他の人に渡したくない。高知だって、東京だってどこだって、僕は君と結婚したいんだ」
そう言った後、しばらく二人は黙って手を握っていた。このまま離れたくなかった。ずっといたかった。しかし、時は二人を追い立てた。
「行こうか」
黙った頷く冴子。搭乗ゲートへ向かう廊下で、握った手を離し、冴子は
「早(はよ)う行きや。ここで帰るき」
博の前で初めて、故郷、高知の言葉で言った。
「さよなら、じゃないからね。待ってて」
そう、博は言った。そして、しばらく見つめ合った二人は、同じように背中を向けて、反対方向に歩きだした。離陸した飛行機は、木更津、横浜と過ぎて一路熊本へ飛んだ。機内で思い出す冴子の顔。その顔に誓う博だった。
“君のご両親も、何としても説得する。君を忘れるために、熊本に帰るんじゃない。君への気持ちを最大限、大きくするために離れるだけさ”
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