第10話


《ホウネンエビ》と言う小さな虫が、田んぼにいる。しかし、一年中ずっといる訳ではなく、田んぼに水が入ると現れる。つまり、水分がなくなると、仮死状態のようになって土の中で、水分が来るのを待つ事が出来る。似たような生態をしているのが《ネムリユスリカ》と言う昆虫だ。これは、もっと高等な休眠状態(クリプトビオシス)の方法を取っていた。それは、そのトレハロースと言う、保湿成分のある《二糖》を、細胞で作り、長い乾燥期間に耐えられる状態を造りだした。冴子は、高等生物の細胞にその《トレハロース》を注入し、ある組織の移植の際に活用できないか、と言う研究をしていた。

小さい頃、田んぼでオタマジャクシを採って遊んでいた冴子は、オタマジャクシの他に、小さなエビのような物がいるのを見つけて、とても興奮した。新しい生き物ではないかと、両親や祖父母に聞いたが誰も知らない。わくわくして図鑑で調べると、何の事は無い。普通にいる虫であった。しかし、現れる時期が決まっており、それ以外の時期は見られない、と言うことが分かった。そして、小学校高学年の時、他の調べ物で図鑑を見ていた時、再び《ホウネンエビ》を見た。しかし、さすがに高学年ともなると、なぜ、決まった期間しか見られないのかが不思議になった。調べてみると、水が無い時は乾いた状態で田んぼにいて、水が入ると一斉に孵化してくる、と言うことだった。その凄い生態に衝撃を受けた。そしてその時に、浮かんだ疑問が【なぜ、水が入るまで生きていられるのか】と言うものだった。この小さい徳の疑問が、冴子を日総大理学部へ行かせた理由だった。ここの伊勢教授が、あの《ホウネンエビ》や《ネムリユスリカ》の研究で、有名だったのだ。実験室で顕微鏡を覗きながら、一生懸命スケッチしている冴子。その携帯にメールが入った。博からだ。

[今夜、一杯いかがですか。奢ります]

 実験室を出て、メールを見ると、思わず顔がほころんだ。

“奢る。いつからそんなに余裕が出来たのかな。ひょっとしたら、自分の知らない間にバイトを”

「まあ、偉くなって。ふふ」

[今、実験中ですが、メドが立てば早く行けます。遅くなる時にはメールします。何時で

すか]

 そう返信すると、ほどなくして還ってきた。

[ありがとう。じゃ、《松尾》で七時からどう]

 出来るだけ行きたいが、この実験ばかりは外せない。必死に推論の検証と考察を記録し

た。時計を見ると六時半。大学から《松尾》二十分かからず行ける。ホッとして実験室を

出た。

「ごめんね、忙しい時に」

 おしぼりで手を拭きながら博は言った。

「ううん。少し難しいかな、って自分でも思ったんだ。でも、前からやってみたかったん

で、敢えて決めたの」

「へえ、前からって、いつ頃から」

「えっと、小学生かな」

「えっ、小学生」

「確か高学年よ。今でもはっきり覚えてるわ」

「小学生かあ。すっげえなあ」

「いらっしゃい。いつもありがとうね。とりあえずビール、かな」

 おばちゃんが、付き出しを持って来てくれた。

「いいですか。それと、《奴》と《枝豆》をお願いします」

「仲良しで良いね。あんた達って、爽やかでいいわ。今どきの若い者とは違うね」

「おう、そうですか?ありがとうございます。嬉しいです」

 冴子は、慎ましやかにほほ笑んで会釈した。

「大事にしなさいよ、その気持ち」

「はい」

「じゃ、待っててね」

「お願いします」

「いやあ、嬉しいねえ、あんなこと言われちゃ。ちょっと、照れくさいけど」

「恥ずかしいけど、嫌みが無いってことでしょうから、その点は嬉しいわね」

最近の冴子は、見れば見るほど、チャーミングだった。以前出会った時は、ただの可

愛い女子と言うイメージだったが、最近は、はっきり変わってきた。それは、付き合って四年目になる博でさえ、そう感じていた。女性は恋をすると美しくなると言うが、冴子もそうなのだろうか?しかし、その相手が自分だとは、どうしてまだ、信じ難い。

「随分、リッチになったのね。奢ってくれるなんて」

 冴子が冷やかすように言った。

「そうだ。実際に、リッチになったもの」

「へえ、いったいどうしたの。バイト見つけたの」

「ピンポーン。大正解です。すずらん通りの酒屋さん」

「あの、何て言ったっけ」

「三河屋さん」

「そうそう。三河屋さんだ。サザエさんに出て来るお店と同じだ、って最初に見た時思ったわ」

「そうなんだ。だから、やっと常時、普通の生活ができるようになったよ。君にも、いろいろプレゼントできる。それが嬉しいんだ」

「わあ、ありがとう。ようし、何でももらっちゃおうっと」

「オッケイ。ドンと来な。あ、その代わり、十五日か月末以外ね。月で半分ずつくれるんだよ、給料」

「分かりましたあ」

「かんぱい」

 夏が近づき、暑い日が出て来た。今日も暑かった。ビールがうまい。

「実は、今日ね。東京都の中学校教員採用試験の、願書をもらって来たんだ」

「へえ、凄い。決めたら、動くの早いのね」

「大学受験の時と一緒さ。高校時代勉強したくてもできなかった反動で、予備校じゃ無茶苦茶頑張った。今回も、早く就職活動したいのに、何をしたいのかが分からない。悶々としたまま動けなかった。でも、もう先が見えたから、迷う必要は無い。バンバン行きまっせ!」

 グイッとうまそうにビールを飲み干した。そして、

「何か食べたいものは無い」

 と聞いた。

「じゃあ、いいのね。いくわよ、本当に」

「いいよ。どんどん」

「おばちゃん、お願いします」

 そう言うと冴子は、

「マグロのトロとウニをください」

 と、注文した。

「じゃ、僕も豪快に行くかな。あの、僕もイカ刺を」

 この夜は初めて、ご馳走が並んだ。酒は、例のとおり冴子も強い。最初に来た時に教えてもらった、秋田の酒と、広島の酒が二人のお気に入りだった。暑くても、ぬるい燗にして飲むのが二人は好きだった。そして、酒が進むと、冴子の頬にほんのりと紅が差す。この時の冴子は、まさに妖艶だった。ゆるくウエーブの掛った髪を撫でると、博が一カ月分の生活費でプレゼントしたイヤリングが、金色に光る。

「で、合格しそうなの」

「いや、ごめん。今年は無理だな。もう日にちが無い」

「でも、来年も受けるんでしょ」

「もちろん。おっと、ご心配なく。その間は、臨時採用で食いつなぐか、今の三河屋さんでつなぐか、とにかく稼ぎますので」

「じゃ、しっかり頑張ってね」

「もちろんさ。小学校の通信教育も申し込むよ。卒業見込みで」

「小学校の免許も取るの」

「うん、どうしたって、数が多いから採用数も多いし、小学生って思ってたより、楽しそうなんだ」

「ふうん。前は、苦手かも知れない、って言ってたのにね。でも、良かったんじゃないの私も、小さい子は好きよ。だから、小さい子が好きな人は、私も嬉しいなあ」

「そう。じゃ、良かった。卒論、早めに仕上げて、教員の方に力入れて行くよ」

「そうね。待ってるわよ、吉報」

「まあ頑張ります。早くても来年だけど」

 そこへおばちゃんが持ってきた。

「お待ちどう様。今日はどうしたの。いつもこの後は、お酒か《冷奴》だけなのに」

 おばちゃんは、博の懐具合まで知っている。

「バイト代です。やっと見つかって」

「ああ、それで。じゃ、彼女さんは、もっと頼みなよ」

「ええ、今からお店ごと頼んじゃおうか、って言ってたんです」

「お店を全部。そりゃまた、豪快だね。あっはっは~」

 たっぷり飲んで食べて、二人は満足した。

「あら、もうこんな時間。まだ居たいけど、この前の誰かさん、みたいになると怖いね。むふ」

 ちょっと意地悪く笑いながら、冴子は言った。

「そろそろ帰ろうか」

 時計を見ると十一時を過ぎている。

「そうだね。満足した」

「ええ、十分に。ご馳走様」

 この後、小田急線の踏切を渡って、冴子のアパートへ送って行った。冴子のアパートは博とは反対の西口だ。博も今日は、気持ち良く飲んだ。つい、

「ちょっとだけ、涼んで行かない」

 と、酔った勢いもあり、誘ってみた。すると

「私も、そうしたかった」

 と快くオーケーしてくれた。近くに公園がある。二人が、お金を持ってない時、ベンチに座って、二人の時間を使った公園だ。そこは、駅を通り過ぎて、『松尾』と反対側に行き、斜めに折れ曲がる。途中、街灯の間が薄暗くなる。そこで初めて、博は冴子の手を握った。その瞬間、握った手が恥ずかしながら震えた。暑くなる季節なので、つないだ手は汗だくだ。しかし、お互いに離さなかった。そして、ベンチに着くと。腰掛けて、何気なく夜空を見た。水銀灯に混じって、満月が出ている。やけに明るい夜だと思った。幸い、ベンチは木の陰なので、二人の姿はよく見えない。しかし、もしもこの陰が無ければ、二人はまる見えになるくらい、明るい夜だった。酒の勢いと陰が、二人を開放的にした。握った手を離し、肩に回した。冴子は頭を寄せて来た。髪の香りが狂おしい。何も話さず、座っていた。冴子も博も同じことを考えていた。

「そう言えば私達って、こんなことやるの初めてだね」

 博の肩に頭を凭れて、冴子は言った。

「ちょうど僕も、同じ事思ってたよ。こんなこと考えもしなかった」

 少し、肩を握る手に力を入れた。

「博君」

 横を向くと、冴子の顔がほんのり白く、正面にある。目を瞑っている。

「ん。何、眠いの」

 博は、こんな時にも鈍い。

「んん、もう、バカ」

「えっ、どうしたの。何か悪い事したかい」

「もう、そうじゃなくて」

優しい冴子は、強くは言わない。しかし、気付いてほしい。冴子の顔を、少し遠ざけて博は少し焦った。

「博君。そうじゃなくて、好き」

 そう言うと冴子は、もう一度肩に頭を凭れて来た。

「冴ちゃん、僕も」

「博君」

 冴子の気持ちに気付かなくても、博は、自分の意思とは別に、自然にキスをしていた。博自身が驚いた。

“こんなに、何のためらいも無く、好きな人にはキスできるんだ”

そう思うと、自分の気持ちが昂り、ますます冴子が愛おしくなってきた。

“冴ちゃん、心の底から愛してる”

 博は唇を重ねながら、そう思った。とても嬉しくなった。人を愛することがこんなに素敵な事だとは、今まで思いもしなかった。キスをしたから。肩を抱いたから。手をつないだから、そう思うのだろうか。これまで、心はつながっていると思っていたが、体を触れ合うことも、とても大切な行為だと、初めて気が付いた。そして、信頼し合える人がいることの素晴らしさ。博は改めて、冴子と知り合えたことに感謝していた。

“帰したくない”

 ドラマや歌でよく出て来る言葉だが、博は初めて実感した。

“こう言うことなん…”

 博の肩に顔を埋めて、眠ったように動かない冴子。父親の胸で安心している娘のように思える。

“ああ、彼の香りだわ。少し、ヒヤシンスに似た、爽やかな香り。大好き”

 しかし博は、ムードを味わうより、一緒にいたい気持ちを、ひたすら正当化する方法を模索した。

“声を掛けたくない。帰したくない。このまま居たい。しかし、帰さなきゃ。でも、彼女が帰らないと言えば、もう少しいられる、かな”

 葛藤する博。しかし、こう言う大切な時間の流れは、なぜか恐ろしく速い。午前一時過ぎだ。胸が張り裂けるような思いの中、博は、声を絞り出すように言った。

「帰ろうか」

 しばし、返事が無い。本当に寝てしまったのでは、心配していると、一言、端的な言葉が返ってきた。

「い・や」

 博は、しばらく黙って、そのままでいた。博だって帰したくないのだから…。しかし、さすがにもう帰そう、と思った。さっきのまま三十分、黙って寄り添っていた。

「冴ちゃん」

「い~や」

「冴ちゃん、僕も返したくないけど」

「冗談よ」

 そう言うと、ぱっと離れて、普通に座りなおした。

「博君、帰ろうね。あ~あ」

 こんな拗ねた真似をする冴子は、初めて見た。博は、それほど自分と居たい、と思ってくれる冴子がいじらしくなってきた。

「分かった。分かった、けど、仕方ない。帰ろう」

「何が、何が分かったの」

 そう言いながら、博の脇腹を人差し指でツンツンとつつく。

「分かったってば。これこれ」

「さ、帰ろうか」

 そう言うと冴子は、博の右手と自分の左手を通してきた。そして肩に頭を凭れて、ゆっくり、ゆっくり歩き始めた。二人の影を、月が、透き通るように照らしていた。幻のような夜だった。静かな静かな、夜だった。

二カ月後、初めての採用試験を受けた博の元に、久しぶりに母親の須加子から電話が来た。


         八


「今年の夏は、帰らんとね」

「昨日、東京の教員採用試験を受けたけん、明後日くらいに帰ろうて思うとるけど」

「あら、東京を受けた」

「うん。何で。いかんかった」

「あ、いあや、いかんことは無いけど、熊本も受ければ良かったとに」

「何で。熊本に帰らんといかんと」

「ああ、そんなのも相談できれば良かねえ」

「ええっ、相談って」

 博にとっては寝耳に水だった。去年までは、別に帰って来たくなければ、来なくていいよ、と言っていた両親。卒業の年になって急に『帰ってほしい』と言う、ニュアンスを漂わせている。

“嘘やろ。帰って来いなんて、今まで一言も言わんだったくせに、何でまた、この時期になって”

 帰りの飛行機の中で、博は、悶々と考えていた。熊本空港から天草まで、約三時間。そしてさらに、本渡バスセンターから河浦町まで四十分。朝早く東京を出ても、着くのはいつも夕方。へとへとになる。

「ただいま」

玄関を入ると、十歳年の違う弟が出迎えた。

「兄ちゃん、お帰り」

「おう、猛。元気だったね」

「うん。兄ちゃんは元気」

「元気、元気。お母さんは」

「あっちにおるよ。お母さん、兄ちゃん帰って来たよお。お母さん」

 そう言いながら、博のバッグを抱えてくれた。

「ほい、どげんか一杯」

 父の忠が、ビールを勧める。

「頂いて良かとですか」

「久しぶりじゃ。ほい」

「そんなら、喜んで」

 母の用意した刺身をつまみ、側には博の大好物。ご飯のコロッケが準備してある。炒めたひき肉を、ホワイトソースで和え、ご飯と絡める。それをコロッケのように、俵型に丸く握って揚げてある。誰でも食べられる、優しい食事だった。

「うわ、美味しそう」

「こらあ、宮野河内で買って来たイッサキ(イサキ)。こっちは、杉下水産がくれた(くださった)イシダイばい。食べてみらんな」

「イシダイ。へえ。初めて食べるね」

 そう言って、醤油に少しつけて食べてみた。初めて食べるが、淡白な中に上品な旨みがまさに隠れている。

「どがんや」

「こら、うまか。旨味はあるばってん、淡白で上品ね。こんなのをくれるなんて、もったいなか」

「網に付いた貝を食べるらしか。ついでに網も切ってしまうから、って、捕まえるんだって」

「いやあ、こりゃあまさに【貝】さまさまだね」

 そう言いながら、二切れ、三切れと食べていく。

「そうそう、早速ばってんたい、この前の電話の件ね」

 母が口火を切った。妹が熊本市の高校に行っているため、弟は、一人で退屈だったらしい。久しぶりの兄貴の側から離れず、刺身を食べながらテレビを見ている。

「ああ、あれね。何ね、用事は」

「あんた、こっちに帰って来んね」

「ええっ」

 単刀直入に、本題をぶつけて来た。しかも、唐突に。博は、思わず絶句した。

「ええっ、そんな。東京におって良かよ、って言いよったでしょ」

 博は、思わずビールを置いて、箸も置いて言った。

“何を今頃。とんでもない。冴ちゃんがいなかったら、どうにでもするけど、やっと人生の行く先を決めた。それも、悩みに悩んで。それを、今さら”

「僕は、一年、二年、三年て、ずっと聞いたでしょ。『帰らんでも良かね』って。そうしたら、良かて言ったたい」

「ううん、それがあの時と、ちょっと事情の違ってきたったいね」

 母は、首を斜に傾け、絞り出すように言った。父は、黙ってビールから焼酎へ移り、おかずをつまみに飲んでいる。

「どがん、違ってきたと」

「お父さんが、工場を続ける、て言うとたい」

「えっ、本当ね。お父さん」

目を皿のようにして、父親を見る。すると父は、黙って頷いた。

「あんた達を私立にやってるために、借金が返せないって」

 申し訳なさそうに、母は、消え入るような声で言う。頭を大きな石で、殴られたような衝撃だった。

“自分のせいか。自分のために、借金が返せず、止めると言っていた工場経営を、続けざるを得ない、って訳か。何と言うことだ”

「で、帰って来て、工場を継げ。そして、自分で借金を返せ、って言う事ね」

 下を向きながら、呟くように言うと、父の箸が初めて止まった。

「済まんばってん、どがんかい」

 父が初めて口を開いた。大きな声でのやり取りではないが、ただ事ではない事を、弟もさすがに感じたらしい。いつの間にかテレビから目を離し、三人を順番に見つめていた。

“急に俺のせいで借金が返せないから、自分で働いて返せと言われても、あまりに無茶ではないか。妹は、高校から私立高校へ行っている。しかも熊本市にある。それなりに金が掛かっているはずなのに、なぜ俺だけ。長男だからか”

「そりゃ、経済的な負担は確かに、僕が一番掛けたと思うけど、急に言われても、こっちにもそれなりの考えがあるんだけど」

“ちょ、ちょっと待ってくれ。僕には冴ちゃんがいる。どうすればいいんだ”

「継ぐとは後回しにして、今、付き合ってる冴ちゃんとは、結婚したかとよ。その話をしたろ。その時にも、何も言わなかったでしょ。そしてこの前、東京都の区立中学校の試験も受けたとよ」

「あんた、東京に残るつもりだったとね」

「もちろんたい。それは何回も言うごと、一年の時から確認したろ。はっきり言ってくれれば、こっちもそれなりに方向性が決められたのに。いつも、曖昧にしか言わなかったたい。だけん、『東京におって良かとだろう』て思うとった」

「いろいろと時間が経てば、事情の変わってくるけんね」

 母も諭すように言った。しかし、この前約束したばかりだ。大きく、ハードな壁が、二人の前に立ちはだかった。

「冴ちゃんと結婚は良かと」

「こっちに来てもらえるとね」

「分からん。彼女が東京で、まだ研究したい、って言うけん」

「あんたが工場を継いでくれれば、なんて事はなかとよ」

「それなら、熊本県か東京都、または高知県の教員じゃいかんと」

「借金返すなら、そりゃあ、教員の方が良かたいね。公務員だけん」

「教員になろう、ってやっと決めたとに、そっちまで捨てんといかんなら、たまったもんじゃない」

「ばってん、高知は止めときなさい」

「何で」

「高知の人でしょ。冴子さんは」

「そうよ。それが何でいかんと」

「男が女の所に行ったら、養子みたいでしょ。長男を養子に出す親が、どこにおるね」

「実際、養子じゃないでしょ」

「他から見れば養子と一緒たい。そがんとも分からんね」

 母親が、子どもを取られるような感覚だろう。世間の目を気にする世代だから、仕方の無い事だが、博には関係ない。博からすれば、逆に疎ましい感覚だ。いつまでも子離れ出来ない親。あれだけ確認してきたのに、今頃になって帰ってほしいなんて。『工場を継ぐ』と言うのも、帰らせるための理由付けではないのか。母親の言葉一つ一つが、癪にさわるようになっていた。

「そんな事言われたら、もう、どがんすれば良いか分からん」

 やっと決まった、自分の将来を支える仕事。東京に残って、冴子と一緒になって、家族を持って、一生を子ども達のために捧げていこうと、やっと気持ちの整理が付いた。そして滑り出した、瞬間のストップ。博の思考は右往左往していた。長く話したので、博のビールのコップは、すっかり汗をかいている。

「帰ってくれれば、良かったい」

 母が、業を煮やして言った。

「ううん」

 父親がコップの汗を見て、ビールを勧めた。これが、博の頭も冷やしてくれた。

「どがんじゃろかい、博」

 父の言葉に、力がこもる。なかなか返事ができない。しかし、冴子を思い浮かべ、

「借金かあ」

 と呟いた時、閃いた。

「うう、借金さえ返せれば」

もう一回頭を整理した。

「そうか。借金さえ返すなら、東京で教員して返しても良かとだろ」

「ああ、そうか。それでも良かたいね。うん」

 母はあまり嬉しそうではない。仕方なさそうに返事した。両親はやっぱり、あわよくば長男に、天草の家に帰ってほしかったのかも知れない。何と言っても、田舎の事。今ほどには、少子化も進んでおらず、田舎に戻るのも珍しくない時代だ。当時から、子どもがみんな都会に出てしまい、夫婦二人で寂しく暮らす家庭もあった。そう言う家は、肩身の狭い印象だった。ただ、田舎だけに働く場所が限られている。郵便局、JA、役場、教員、宅配便等しかない。後は、自宅の家業である、農業や自営業を継ぐしかなかった。家業と言っても博の家は小さな町工場だ。しかも下請けの下請け。いわゆる孫会社なのだ。親会社は、国内では有名な大企業から、パンスト専門に製作を依頼されている。博は学部の講義で、繊維産業が下火傾向である事を勉強していた。おまけに、会社の社長だけを集めた研修旅行に、父に代わって行った時の事だ。原宿のお店を視察した後、親会社の研修部長が言っていた。

『これからは、化学繊維やシンカーパイル等による、アパレル製品にも力を入れていく』

と言う話。博はこの時、

“ひょっとしたら、今後、こういう製品を作ってもらう、と言う説明かな。だったら、機械が全然違うんじゃないか。数百万すると言っていた今の工場の機械。どうするんだろうか。もし、買い替えるとなると、一千万どころじゃ済まない”

 しばし不安になった事を、思い出していた。その事を思い出すと、やはり工場を継ぐ事には、踏み切れない。父親に、その時の事はつぶさに報告した。その後の、製品の現状を聞いてみた。すると父の口からは、予想していた答えが返って来た。

「ニット製品とパイルの製品を作れ、て言って来た。だから、機械を買い替えなきゃならない。一千万は下らない。機械を変えないなら、パンストを発注するが、先細りは目に見えている。覚悟しておいてほしい、って言ったとよ」

「そうだろうねえ」

“親の言い分も分からない事は無い。しかし、経済的な負担を掛けた負い目から、自分は三年間、天草に帰らなくて良いのか確認した。その間、何をして良いのか分からず、やっと東京で教員をやって行く事を決めた。冴ちゃんとの結婚も、気持ちを固める事が出来た。それは『東京に残っていい』と言ってくれたから、悩みに悩んでやっと、結論を出す事が出来たのだ”

 その矢先の話だ。また迷うのは嫌だった。申し訳ないが、自分の人生だ。これまでの人生で、最高に愛し、尊敬する人と一緒にいられることを選ぼう。とにかく、東京に残る事は、何とかして了解を取ろう。いくら経済的な負担を掛けたとはいえ、それくらいは、自分もわがまま言って良いだろう。幸いなことに、弟がいるではないか。博の大きな背中に凭れかかった、その小さな背中。弟に頼る事が出来るではないか。博は、取り敢えず弟を話に出し、何となく納得していない様子の、両親を説得する事にした。

「猛がおるたい」

「猛は、まだ小学生ばい」

「猛が大学を出るまで、僕が学費を出すから、お父さんは、工場がダメになるまで続ければ良かでしょ。それじゃあいかんと」

そう説き伏せ、やっとの事で《東京に残る》事だけは、承諾してもらった。そうなると、居ても立っても居られない。博は次の日。東京行きのキャンセル待ちで、飛行機に乗った。何としても、急いで帰りたい。木更津から東京湾を旋回して羽田に降りる。何回乗っただろうか。しかし今回だけは、いろいろな思いが交錯した。

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