第7話

「久しぶりやき、昼飯でも食べろ、思うてな」

「その後、あんたの着物でも作りや」

 両親が、次々と話しかけてくる。そのうちに、車は『徳星楼』の前に着いた。

「えっ、こんな高いとこで食べんでも、うどんでえいわ~」

「いや、ここでないといかんがや」

「何で。ま、まさか」

「ま、とにかく、顔だけ出してくれればええきに」

 正人が、冴子を半分押し込むように、祥子と三人で店の中に入った。

「えっ、騙したが。そんなあ。私、会わん、言うたやろ」

 店の中、と言うこともあり、大きな声を出せない。しかし、冴子は地団太を踏まんばかりだった。スーツを着た理由が分かった。

高知でも有名な料亭『徳星楼』は、《はりまや橋》の近くにある。歌にも出て来る《はりまや橋》は、現在、欄干だけが残っている。しかも、歌に残るくらいだからと、大きなものを想像していると、見落としそうな可愛らしいものだ。百四十年以上続く伝統ある店で、宮尾登美子が書いた小説陽暉楼の舞台となった。のちに映画にもなって大いに話題となったのは、周知のことだ。店の中はしっとりと落ち着き、気分までも落ち着きそうな雰囲気だった。実際、ついさっきまで憤慨していた冴子も、なだめるのに必死だった母親の祥子も、すっかり落ち着きを取り戻していた。ま、ここまでくれば、冴子も『まな板の上の鯉』同然だ。親への抵抗は諦めた。『早く終わらそう』と、考えを変えた。いつの間にかマイナスを突き通すより、プラスの道を模索するようになっている。ひょっとして博の[ポジティブ]が、身に付いたのか。通された部屋は、部屋の周りを回廊が通り、明り取りのガラスが入る障子が立っている。回廊の外側は全部がガラスと言う、大きな窓だった。その先には庭園が広がり、古(いにしえ)の重みを感じさせる、すばらしい部屋だった。総勢二十人は座れる部屋に、真ん中に六つの座布団と、懐石が準備されていた。慣れない歩き方でしずしずと部屋へ入ると、真ん中に男が座っていた。両端には両親と思しき大人が二人。

“写真の人だ”

 冴子は、思い出した。

“何で。何であんたは、こんないらんことするがかえ”

 と、顔では微笑みながら、心の中では怒っていた。

「こんにちは。今日はお忙しい所に、済みません」

 しっかりしている。さすがに社会人だけのことはある。まず、冴子の両親の正人と祥子に挨拶をした。そしてすぐに冴子にも、

「ごめんなさいね。僕が無理を言うもんで、迷惑掛けてしまって。急いで帰ってきたんでしょ」

 と、声を掛けて来た。

「あ、いいんです。帰省のついでだったので」

“ええ、ホントは、ごっつう忙しいんです。あなたになんか会(お)うてる暇は無いの”

 はらわたは煮えくり返っている。

「ありがとうね。忙しいのに」

そして、お茶を飲みながら六人で世間話。テレビでよく見る、お見合いの風景そのものだった。そして、例によって二人だけで、庭園を巡る事になった。二組の両親は、部屋で二人を待ち、帰ってきたら食事を、と言う予定だった。庭園を回るうちに、小さな小川に掛る橋の上で、二人は、川を泳ぐ鯉を見ながら、東京の話をした。

「冴子さんは、今、どこに住んでるんですか」

「世田谷の《経堂》です。小田急線沿いです。明さんは、どこに住んでいらっしゃったのですか」

「僕は白金。僕たちは一、二年と三,四年じゃ、キャンパスが違ったんですよ。転居が面倒だったので、どっちにも行けるように。また、都内だと何でも楽でしょ」

 そう言うと、照れくさそうに頭を掻いた。

「白金、って、港区の白金ですか」

「ええ。安い物件があって、父が買い与えました。僕、『要らない』って言ったんですけど。そこより、芝浦の方が良かったんです」

“港区の白金。買ってもらった。私とは次元が違う”

 冴子には信じられない言葉。しかも、年は冴子より上なのに。

「押し付けるんですよ。参りましたよ。独身なのに、3LDKを」

「3LDKを」

 冴子は、まさかとは思ったが、聞いてみた。

「ひょっとして、マンションですか。そこ」

「あ、ええ。それは当然です。四千万って言ってましたから、安物件なんです。そのうち、恋人や家族が出来たら、それくらいあった方が良いって言うんですよ。でも芝浦の方は、1LDKで六千万だったんです。こっちが絶対良いですよね」

“アホか。あんた。話についていけんちや”

 冴子は、微笑むだけだった。へたにしゃべると、その金持ち自慢が、だんだん鼻に付いてくるだけだ。

「あ、ところで冴子さんも世田谷は、マンションでしょ。今時は物騒だから、セキュリティもある程度は欲しいですからね」

「いいえ、昔ながらのアパートです」

“どうもすみませんでしたね。アパートで”

少々イライラしている心をなだめながら、住まいの話も含めて、大学進学までの経緯を話した。

「今時の女子にしては、珍しいですね。家の人は心配だったでしょうね」

「でも、仕送りをそれだけしかしてもらわない約束で、東京に出してもらいましたので、そこはどうしようも無かったんです」

「偉いですね。しかし僕には考えられない。ああ、心配だ。今、もし君と付き合う可能性があるのなら、すぐにでも引っ越しさせるなあ」

 明は話を聞くと、『すぐにでもお付き合いしたい』と言う気持ちを、アリアリと漂わせた。遠くを見つめながら、自分の言った言葉に酔いしれ、一人で微笑んでいる。歯の浮くような言葉の数々。『僕が、守ってあげる』と言う、上から目線の優しさ。自分では知らないうちに、金持ちを自慢している。それなのに、その事に自分が気付かない、デリカシーの無さ。言葉や態度の端々に、そう言う人柄が滲み出ている。冴子の一番苦手なタイプだ。特に今は、冴子のイライラに、相乗効果だった。

“博君、助けて”

 目の前の鼻に付く言動に、心の中で呟きながら、黙っていた。するとさらに彼は、

「冴子さんは、大学の勉強が好きなんですね」

「え、ええ。まあ」

「僕の場合は、大学は研修と同じような物で、卒業さえすれば良かったんです」

「どういう、事なんですか」

「ご存じのとおり、家は、大きな会社をやってます。僕は多分、跡継ぎでしょう。今の会社だって、『しばらく外を見てこい』と言うこと。言い換えれば『ちょっと外の社会で遊んで来い』って言う、親父の意向なんですよ」

「まあ、遊んで来い、だなんて」

「いやあ、先が決まってるってのも、楽そうで堅苦しいものですよ。ははは」

“何を、自慢ばっかしてんのよ”

冴子は、すぐに自分達と比較した。

“時間をいっぱいかけて、自分を必死に探して、もがき苦しんでいる博君。私だって、苦しい生活をしてでも、大学でやりたい勉強をして、その先も頑張りたいと思ってる…。それなのに、かたやこの人は、大学どころか、会社まで遊び半分だと言う。”

冴子は、この自慢が、すでに嫌味にしか聞こえなくなっていた。そしてそれは、どんどん怒りへと形を変え、膨らんでいった。

「今、どんどん大きくなっていて、もうすぐ関東進出です。小さな四国を出て、関西へ。そして次は関東へ。いくいくは全国進出です。もし、あなたが結婚するなら、いきな

り社長婦人、いや、最初は専務かな?役員の奥さんですよ。そうなると、今のような貧乏

な生活ともおさらばできますね。あはははは」

“くそったれ”

 冴子は、頭の中の血管が二~三本、ブチ切れそうになった。

“私が、空手やボクシングをやっていなくて、良かったですね。もしもやってたら、その不必要に伸びすぎた鼻を、間違いなくへし折られるでしょうよ”

 心の中で、思い切り苦虫を噛んだ冴子だった。

「じゃ、帰りましょうか」

「あ、一つおたずねしていいですか」

「はい、どうぞ。何でも。あなたのためだったら、何でもしますよ」

「家は、明さんの会社のように大きくはないのですが、我が家も、祖父が始めたホテルを経営しています。そして、その跡取りがどうやら、私になりそうなんです。もしも私が継がなかったら、ホテルは潰れるか、他人に渡すことになります。もし私が、明さんと結婚したいと言ったら、このお話はどうなさいますか」

「どう、って今のところは、さっき言ったように、僕は跡取りで社長になるつもりです」

「と言う事は、このお話は無かった事になりますね」

“やったあ。大どんでん返し。やったわ”

 冴子は、心の中でガッツポーズをした。

「えっ、ど、どういうことですか」

「そのホテルは、どうしても潰したくない、と両親は思っています。つまり、あなたがそちらをおとりになると言う事は、あなたと私は、結婚出来ないと言う事になりますね」

 澄ました顔で言った。慌てたのは明だ。

「あ、そ、それは、ちょっと待ってください」

 明は、確かに焦っていた。読みが間違っていた。

“社長夫人の話で、落とせると思っていたのに。貧乏な生活から、抜け出したくないのかこの子は。かと言って、俺も社長の座を、むざむざ捨てるのももったいない。でもこの子は逃がしたくない。ちっ、帰って親父と相談…”

「ぼ、僕は、あなたを失いたくないなあ」

「でも、現実がそうなら、どうしようもないですね」

「ま、ちょっと待ってください。僕がどうにかできないか考えます」

「いや、無理されなくても結構です。どうぞ、今のままで」

 橋の上でのやり取りに、川の鯉もどこかへ逃げてしまった。明の恋はどうなる。帰ってきた二人を、眩しそうに見つめる二組の夫婦。

「ほな、料理をお願いしようか」

 明の父親が、馴染みらしく、仲居さんに耳打ちして料理が出始めた。さすがに老舗の料亭だけあって、『太平望洋閣』よりワンランク上だった。冴子は、あまり喉を通らず、少ししか食べられなかった。しかし、これが今度は、明の親の方にお気に入りで、

『さすが、奈良原さんところの御嬢さんだけあって、上品で、清楚。明にはもったいないくらい』

 と、食事中に親にこっそり、べた褒めされる始末だった。

「どないやった。明さんは」

 車に乗るなり祥子が聞いた。

「どないやった、って、ええ人やったよ」

 精一杯、譲歩して言った。そう言う事を言った口が、ひん曲がりそうだ。

“あのボンボンの、どこがええの”

 心の中では、本音が渦巻く。胸糞が悪い。

「そら良かったわ」

「ほなけんど、それだけや。何ちゃあない。まっこと、ええ人だけやきに。でも、多分私には合わん。考え方が根本的に違うが」

「ただ、まあ、ええ人やったら、悪くは無い、っちゅうことなんやね」

「何回も言うけんど、私、まだしたいことがあるきね。それどころやない」

「まあ、わかったき。ゆっくりしいや」

 二人は、帰るなり、着替えながらも、また言い合いを始めた。見かねた正人が声を掛けた。しかし、冴子の怒りは収まらない。

「どうやった。冴子。今日の人」

 そう言いながら、離れに住む祖母の世津子が出て来た。冴子は小さい頃から、両親がホテルの経営で夜遅くまで働いており、ほとんど祖父母に見てもらっており、祖母とは仲良しだったし、信頼もしていた。

「あ、お婆ちゃん。どうやったって、お婆ちゃん知ってたが」

「知っちゅうで。冴子、まさか知らんの」

「知らんかった。だいたい、一回断ったがよ。ほなけんど、向こうがどうしても、って言うからって」

「本当なが。正人」

 ばつが悪そうに、頭を下げる正人だ。

「だいたい、子どもを騙すやなんて、親のする事がかえ。お婆ちゃん、何か言うてや」

 冴子が泣きそうな声で訴える。

「言ってなかったのは、親が悪い。冴子が言うように、騙しちゅうが。何ちゅう親や。バチ当たりが」

 両親は、立つ瀬がない。世津子は、傍に寄って来た冴子の頭を撫でながら、両親を叱りつけた。

「可哀想に。何も知らんと、お見合いさせられて、よう、黙ってその場をしのいでくれたね」

 冴子は、泣きそうになっている。世津子は続けた。

「でもなあ冴子、お前の事を少しでも考えれば、の事でもあるがよ」

「私は断って、って言ったのに、反対に会わせるし。嘘言われたんが、悲しいわ」

 冴子は訴えた。

「嘘も方便、って言うやろ」

 必死に弁解する正人だった。

「そんな。都合の良いことばっかり」

 冴子が言うと、世津子もピシッと言った。

「おまん、アホか!この期に及んで、弁解しちゅうつもりなが。使い方間違(まちご)うてるし」

「済まんかったね。私が悪いきに。謝るわ」

 祥子が、コーヒーを持ってきた。

「ま、とにかく座ってや」

 やっとテーブルについた冴子は、黙ったまま、コーヒーをすすった。両親と世津子も、下を向いたまま、コーヒーを飲んだ。そして祥子が徐に口を開く。

「私がね、あんたがもし、明さんに気を向けてくれれば、高知の人じゃき、安心だと思うて、お父さんに相談したんよ」

「ほなけんど、あの人東京におるが。帰って来ても、高知には残らん。関東に進出するって、言いゆうがぜよ」

冴子が言うと、

「それは、どうにかするのと違うか」

 祥子が、少し曖昧に答える。

「ま、お前が高知に帰ってくれれば、丸く収まる事や。それと、お婆ちゃんおるんで言うけんど、このホテルを何とか残したいんや。お母ちゃんもそうやろ」

 正人が言った。

「そりゃそうやけんどなあ。冴子が高知に戻ると嬉しい。おまけに、このホテルまで継いでくれれば、そりゃ最高だ。ほなけんど、冴子は冴子の人生やき、好きにしてもえいわ」

「おまけに私、まだ学生やき。今から就職活動、って言う時にそんな気には、ようならんわ。それに、博君と付き合ってるし」

「それやき、今は会うだけで、言うたんよ」

 祥子は、済まなそうに言う。

「当たりまえぜ」

 冴子は、そこまで言うと

「着替えて来る」

 と言い残して、居間を出て行った。しばらくして戻ってくると、

「学校に帰ったら、就職活動も本番やな」

 着替えて、気持ちまで変わったのか、正人が冴子に話しかけた。

「そうなんじゃき。一応、去年の訪問じゃ、いい印象を持ってくださったらしいけんど、こればっかりは分からんき、ね」

「やっぱり、東京のあの会社かいね」

「そう」

「そんなに、あの会社がええんやね」

「うん。だって、テレビでもよくCMしちゅうろ。人の事を、大切に考える会社なんじゃき。私、絶対入って、研究したいが。お祖父ちゃんのような人、たくさん救えるような研究やきね」

「ほうか」

 顔を見合わせて、お茶をすする両親だった。世津子は、目を細めて見つめていた。そして冴子は次の日、連休で混む新幹線の自由席に立って、一路東京へ向かった。


        六


その日の夜世田谷に着いた。電車に乗ってすぐに、【明日、会って話したい事がある】と、博にメールをした。博の意思だけでも確認したかった。

午前十時半、約束の【エルム】に着いた冴子は、待っていた博に早速話し出した。

「実は、今朝東京に着いてたった今、経堂に着いたの。話があるんだ」

「分かった、分かった。冴ちゃんにしては珍しく急ぐなあ。まず、オーダーしようよ」

「そうやね。私、またマンデリン」

「じゃ、今日は僕もマンデリン」

 酸味の少ない、独特のコクと香りが人気のマンデリンを二つ頼んだ。

「いったい、どうしたの?」

「実は、私、お見合いさせられそうになってるの」

 突然、とんでもない話題に突入し、博の頭はいきなり困惑した。

「えっ」

 と言ったまま、しばらく絶句して、冴子を凝視した。

「お待ちどう様でした。マンデリンです」

 店員の声で、やっと瞬きをして、博は現実に戻った。

「ごめんね。驚かせちゃった?」

「そりゃああ、当り前さ。びっくりして、声が出なかったよ」

 ふう、と一息ついて、コーヒーを口にする。

「また、どうして」

 冴子も、ちょっと興奮した。コーヒーを口にして、一息ついて話し出した。

「実は、春休みに一回、高知に帰ったことがあったでしょ」

「ああ、急に帰ることになった、って言った時だろ」

「何の用事かな、と思って怪訝な気持ちで帰ったのよ」

「そう言ってたね」

「そうしたら、それだったのよ」

「また、どうしてこのタイミングで」

「そう思うでしょ。まだ、学生なのに。しかも、東京で就職して、しばらく今目指している会社で、研究の仕事をしてみたい、って何回も言ってたのに」

「どうしてなんだろうね」

「そんなあ、他人事みたいに言わないでよ。何にも思わないの。私が、他の人と結婚を前提に、お付き合いをさせられそうになってるのよ」

「いやあ、いきなり言われてもね」

 困惑の顔で答える博。冴子は博に、『見合いなんて止めてくれ』と言ってほしい、と思っていた。

「いきなりだろうが、何だろうが構わないでしょ。少し、考えてよ。このまま進んでいいと思う」

「いや、そうは思わないけど」

「でしょ」

「そうだね」

「あ~もう。そうだね、じゃないわよ」

「何て言えばいいのかなあ」

「ああ、バカ。もう知らないから」

 いつも、恋愛感情には鈍い博に、冗談でむくれる事はある冴子だが、今朝は、マジだ。

そして、ふう、と一息ついて言った。少し、自分でも焦っていたのかも知れない。余りに理不尽な現実が、自分をどんどん追いつめている感じがしていた。だから、博の気持ちを確認して、少しでも、心の拠り所が欲しかったのだろう。しかし、彼の気持ちを確かめるまでもない。以前と変わらない彼の態度で、言葉にして聞かなくてもホッとできた。

「ああ、やっぱり博君だ。ほっとしたわ」

 事の顛末が飲み込めず、戸惑う博は、苦笑いするだけだった。冴子も、苦笑いだ。しかし、きっとした目で博をしっかり見つめ、

「お願いがあるの。あなたがこの後、どうするか、はっきり答えが出たら教えてね」

「えっ、この後」

「ええ。熊本に帰るのか。東京に残るのか。私との事はどうするのか」

「そ、それは、あ、はは」

「ちゃんと教えてね。その答えが、私の卒業後の、進むべき方向性を決める、大きな大きな、北極星になるのよ」

 と、静かに、でもはっきりと言った。

「ええっ、星」

 博は、どぎまぎしていた。しかし、冴子はそれだけ言うと、

「やっぱり博君。星なんてなれないし。ああ、疲れた。じゃ、帰って寝ます。おやすみなさあい」

 さっさと荷物を抱え、一直線にアパートの方へ歩き始めた。慌てて博も追いかけ、送って行った。

「あんな事、言われたってなあ」

 急に冴子が言った【お見合い話】。部屋に帰ると、ごろんと横になって、ゆっくり考えた。しかし、おいそれと答えは出ない。ただでさえ、恋愛感情には疎い博だ。女子の気持ちなんてすぐに分かる訳が無い。こんな男とよくも、冴子みたいな才媛が付き合ってくれていると、他人事のように感心していた。このまま、冴子と結婚まで行くとすると、自分も東京に残る必要がある。そのためには、東京で就職しなくてはならない。その就職で悩んでいる。

何をやりたいのか、もう一度考えてみた。そのための、自分探しの旅だったはずだ。

そしてよく考えてみると、あの能登半島珠洲で見た、野球少年のような目には魅かれるものがあった。だから、区立中学校の受験を考えてみた。もし合格すると、冴子とも一緒に東京に居られる。ただ、中学校はいじめによる事件が多発している。青年心理学の授業の時、教授が言われた事が耳に残っていた。中学で《十四の嵐》、高校で《十七の嵐》と言う定説があるそうだ。つまり、中学校では十四歳の中二、高校では十七歳の高二で、子どもたちが荒れる事が多い、と言う。その点、小学校では、そのような事は聞かない。

「小学校かあ」

 仰向けになって、頭の後ろに両手を枕にして、吐き出すように呟いた。そんな折、青木からメールが来た。

{今日は、彼女とデートの予定はあるのか。無ければ、連休で暇な者同士、一杯やらないか。今日は、梅津も、梅原も良いってさ。どうだ}

 冴子は疲れているし、デートの雰囲気でも無い。連休と言うのに、何も無い。何も無くて金を使わなくて済むが、何も無い、と言うのも寂しいものだ。他の友達は、就職に関しては早かった。遠藤は、父親が横浜市のパン業界のトップだ。その関連の会社に入る。小清水の父親は、横浜でわんこそばの店を三つ経営する、社長のご子息だ。当然、継ぐ事になっている。東京の小形は、大きな農家。多摩では名の知れた家だった。彼も、いずれは農家だ、と言っている。梅原の実家は伊豆の米屋。温泉街で、忙しいそうだ。もちろん、後継ぎに決まっている。梅津は山形の、これまた大きな農家。彼は一回社会に出て、いろんな流通を経験してから、実家を継ぐそうだ。青木は、静岡の市場。友達はみんなしっかり目標を持っているのに、博だけが長いトンネルに入っている。先がしっかり見えている者と、見えていない者。何となく、後ろめたい気はあるものの、友達とは飲みたい。

{場所と時間、教えて。行く}

 と、返信した。六時に渋谷の【鳥正】で待ち合わせだった。

【鳥正】は、焼鳥屋とは言っても、三階建てのビル全体が店だと言う、かなり大きな店舗だった。ある日、国学大との試合の打ち上げに、たまたま入った店だった。この時、皿を運んで来た店員に

「久しぶりだな。元気か」

 とため口で言われ、驚いて見上げたそこに、野田さんと言う、寮の先輩がいた。顔を見たとたん

「野田さん、こんにちは」

 と、反射的に大きな声で立ち上がり、頭を下げてしまった。寮では、三年が神様、二年が平民、一年は僕(しもべ)だった。その時の癖が身に染みついていた。

「おいおい、もう止めて」

 ニコニコしながら、座るように促された。寮では、こんな笑顔はみた事は無かった。

「今は、お客さんですから。どうぞ、ごゆっくり」

「はい、ご馳走になります」

「こらこら」

 シ―ッ、と言うように、口に人差し指を当てて、微笑みながら階下へ降りて行った。

「誰。どうしたの、お前。いきなり」

 チームメイトは、訳が分からず聞いた。博は、寮の規律の厳しさを、とくとくと話して聞かせた。すると、

「へえ、そんな寮って、今でもあるんだな。怖(こえ)え」

 みんなが肩をすくめる。

「まあ、田舎だからね」

「だよな。確か、パスポートいるんだよな」

「要らねえよお」

「電車、通ってねえんだろ」

「おう、悪かったな」

「馬車か」

「違う。車だ」

「船の売店があるって、言うじゃねえか」

「それはフェリーのお店。ああ、うるせえ、どうせ田舎ですよ。へへんだ」

 チームメイトは、そうやって天草のことをおちょくって遊んだ。しかし、全員遊びに来た事があるチームメイトは、その海の美しさに、言葉を失った。だからこそ、こうやって自然への賛辞としておちょくるのだった。こうやって反省会は延々と続き、時には、駒沢公園で一升パックを抱えて朝まで飲み、そのまま練習して帰ることもあった。

「おう、ひま人が集まってるな」

 博が到着した。

「よう、来たか、ひま人。じゃ、早速飲むか」

「よし、俺が先輩に挨拶がてら、注文して来るよ」

 博は、先輩に挨拶をすると、飲み物と料理を注文した。ただ、料理は最初だけだった。

最初に串盛りを注文すると、後は、ひたすら飲むだけなのだ。金がない。つまみは頼めない。焼酎をキープしてできるだけ濃くして飲む。そして時には、階段を二、三回往復して運動する。一番安く、一番酔える飲み方だった。しかし、その貧乏さを察してくれた野田は、毎回差し入れをしてくれた。

「お前ら、どこも行かないの」

「金無いし、どこかに行くって言ったって、人が多いし」

「どこかにけば、金掛かるし」

「スカイツリーなんて、入場すらできねえ」

「DLやDSなんて、行く相手いねえし、金もねえ」

 貧乏集団の集まりだ。

「俺達、お前にメールした時、キャッチボールしてたんだ」

 青木が言った。

「キャッチボール。そりゃまた寂しいね。ここにきて、キャッチボールとは」

「だって、何もすること無いし、仕方ないじゃん」

「そう言うお前だって、何もしてなかったんだろ」

「ああ、そうさ。だって金が無いからよお。バイトも休みだし」

 博は、当然のように答えた。

「ほれ」

 ビールを注ぎながら、博が梅津と梅原に聞いた。

「ところでさあ、お前ら就職決めたんだろ。梅さんは決まりだしな」

「俺、逃げようたって、親父が逃がしてくんねえからなあ。ま、その約束で、米の流通勉強さしてもらいに来たからね」

 伊豆で米屋をやっている、梅原が言った。

「梅津は」

「俺は、一応共済の方に行くよ。長谷川、どうするの」

「それが、決まって無いんだよ」

「まだ。どうするの、五月だぜ」

 串焼きを一本つまんで、博が答えた。

「分かんねえ。一応、区立の中学校の採用試験、受けてみようかな、って思うようになっては来たんだけど。中学も高校も、今いち気乗りしないんだよ」

「教員の線は見えて来たんだ。良かったじゃん。割に合わねえあおり喰ったから、せめて見つかってくれないとな」

 青木が、ニヤッとして言った。

「いやいや、お世話になりました」

博はそう言うと、焼酎をお願いした。

「家ってさあ、お前らんとこみたいに、家でしっかりした仕事してる訳じゃないんで、自分でどうにかしないといけないんだ。自由に出来るって言えば、そうかも知れないけど、いざ、一生かけてやり続けられる仕事があるか、って言ってると、俺みたいになるのさ、はは」

 自嘲気味に笑う博。

「本当はそれが大事なんだけどね」

 と、串焼きをつまみながら、梅津がフォローしてくれる。頷くチームメイト。

「でも、親父さんのあの工場はどうする。継がないのか」

「お前、繊維産業の孫会社だよ。お前だったら継げるか」

 みんな、繊維産業の下降傾向は勉強している。誰も、言葉は出ない。

「やりたい仕事、って言うのが、今勉強してる学部の内容と関連しているなら、見つけやすいと思うんだ。ただ俺は、いわば第三希望の大学、ってとこなんだ」

「何だよ、第三希望って」

 今度は、梅津がビールを注ぎながら、聞いた。隣で青木が焼酎のロックを作る音が、カラカラと涼しげに鳴っている。博はこの日総大の、この学部を受験した経緯を、初めてみんなに話した。

「だったら、腰掛けのつもりだったの」

「そんな訳じゃないよ」

「でも、今の言い方は、自分の逃げ道作ったみたいに聞こえたぞ」

「そうかも知れん。俺は、親の責任にして、やりたい事を見つけられない不安から、逃げていたのかも知れない」

「ま、そうは言っても、長谷川だけの責任でも無さそうだし、難しいね」

 カラカラと氷を鳴らしながら、梅津がうまそうに焼酎を煽る。

「だから、教職課程を受講して、万が一のために備えてたんだ。そうしたら、その万が一になりそうだよ」

「ま、先が見えたなら、一歩前進だな」

「そうだよな。そうしよう」

 少し、元気の出て来た博も、焼酎のロックを口にした。そのあと、渋谷から世田谷の三軒茶屋まで来た四人は、梅津の家の近くにある居酒屋で、夜中の三時まで飲んだ。この時ももちろん、つまみは突き出しだけ。博は、{おやすみなさい}のメールを忘れていた事を思い出し、慌ててこの時に送信した。

“冴ちゃん、おやすみ”

さすがに、目の焦点がぼやけていた。ただ、博の頭の片隅から、冴子の顔が消える事は無かった。やはり、冴子の言葉が気になっていたのかも知れない。

博と会った日の夜、冴子は美智子と、例によってお茶をしていた。しかし、その日は相談できなかった。さすがに疲れていた。

「で、何だったの、今回は」

「うん、別に」

「何か、歯切れ悪いね」

「ちょっと疲れたのかも知れないわ」

「そう言えば、ちょっと顔色も悪いみたい」

「そう」

「そうだね。ゆっくり休んだら」

「そうね。じゃ、もう部屋に帰るわ」

「それにしても、凄い体力ね。自由席で往復だなんて」

 机の上のチョコレートを頬張りながら、美智子は冴子の強い意志に、感心したように言った。

「おかげで、さすがに疲れちゃって。今日は、悪いけど一人で食べてくれる」

「ああ、大丈夫よ」

 卒論の準備が順調な冴子は、最近は美智子と一緒に食べる事が多かった。それも、冴子の作る回数が多かった。部屋へ帰ると、博の絵ハガキが机の上に乗っている。高知へ出る前に見直した物だ。今までのも、引っ張り出してみた。野辺山、小諸、松本、萩、松江、大間、竜飛崎、そして、この前の北陸。段々、文章が恋人らしく変化しているが分かり、嬉しくなるのだった。博に対する気持ちの強さを、再度、確かめておきたかったのかも知れない。それを見ているうちに、何故か知らないが、涙が溢れていた。

“なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。好きな人と一緒になりたい。それだけのことなのに、どうしてこう障害ばかりやってくるのだろう、博君”

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