第8話

 嗚咽しながら、絵葉書を抱きしめる冴子だった。次の日の朝は、スズメの声で目が覚めた。昨夜は知らないうちに眠ってしまったようだ。むっくり起き上がった冴子は、しばらく横座りのまま、ぼーっと壁を見ていた。そこには、博が旅先で買って来たキーホルダーがたくさんぶら下げてあった。そして、意を決したように立ち上がると、顔を洗って、シャワーを浴びた。来週からいよいよ、就職と卒論に向けての活動が本格化する。この連休のうちに、博の気持ちを確かめようと冴子は考えていた。目が覚めて早速、メールを打とうとした。すると昨夜の、博からのメールに気が付いた。急いで開くと、酔っぱらって送っている事が明白だった。

{今日はおやすみなさいでした。僕は、今駒沢公園です。じゃ、おやさみない}

“何よ、これ。文章が誤字脱字だらけで、めちゃくちゃだし。しかも、発信は今朝の三時じゃん。こりゃあ、まだ目が覚めてないわね”

と、しばらく、待ってから打つことにした。美智子と朝ご飯を食べようと、部屋をノックすると起きていた。なんと、冴子の分も作っておいてくれた。

「ありがとう。助かった」

「昨夜、相当疲れたように見えたよ、冴ちゃん」

「本当」

「うん。向こうで、何かあったみたいね」

「分かる」

「そりゃ、すぐ分かったわ。これでも、心配はしてるのよ」

「ありがとう。嬉しい。いろいろあったのよ。それが」

「でしょうね」

「朝、食べたら、お茶にでも行って、話せるなら話してくれない」

「わあ、いいの」

「もちろんよ」

「実は、あんなにうまく行ってた彼と、この時期に来てどうしてこんなに、邪魔ばかり入るのか、その事が悔しいの」

「そう言う事吐き出したら、少しは元気になるんじゃない」

「わあ、ミッチー、嬉しい。持つべきものは、友達だわ」

 そう言いながら二人は、朝食をさっさと済ませ、いつものカフェに出掛けて行った。

「実はね。私、お見合いをさせられたの」

 マンデリンをすすりながら、冴子は言った。すると美智子は、目を丸くして

「あんた、この前言ったじゃん。忘れちゃったの。大丈夫」

「いや、忘れてなんか無いわ。もう一回」

「えっ、もう一回」

 口に運んでいたカップを止めて皿に戻しながら、美智子は驚いて言った。

「ええ、もう一回。それも同じ人」

「何でえ。変な話。断ったんでしょ。訳分からないよ。ゆっくり、順序立てて話してよ」

「そんな長い話じゃないわ。相手の人が、どうしても会いたい、って言うんだって」

「でも、普通断ったら、もうそれきりじゃないの。お見合いの事なんて知らないから、よく分からないけど」

「て、感じするでしょ。私、最初に断ったから、てっきり終わったかと思ってたの。そうしたら、相手が『どうしても、もう一回会いたい』って言うらしいのよ。でも、会いたくない、って言ったんだけど、『とにかく帰ってきて話そう』って親が言うもんで、帰ったらなんと、なんと」

「どうした」

 美智子は身じろぎもせず、冴子を凝視して聞いている。

「セッティングされてるじゃない」

「まさか」

「まさか、って思うでしょ」

「まさか、お見合い」

「そう。本当のお見合い。私も青天の霹靂だったわ。親には半分騙されたような形だし、参ったわよ」

「逃げだせば良かったのに」

「だって、店の中に入ってから、言うんだもの。どうしようもなかったよ」

「で、相手の印象は、普通の人だった。顔や背恰好はいいんでしょ」

「まあ、最初は普通に【良い人】って言うだけね」

「最初は。じゃ、あとからは」

「まあ、金持ちの香りをぷんぷんさせるし、いかにも、自分は優しいと言う印象を押し付けてくるし。私が、貧しさに耐えて勉強しているかのように、同情してくるの」

「ええっ、冴ちゃんちだって、お金持ちじゃん」

「いや、家は経済的には普通だと思う。私が最低限しかもらって無いだけの話よ。東京で勉強したいから、お金をもらわずに来てるだけ。でもあの考え方って、なんか合わない」

「まあ、人の事を悪く言わないあなたが、珍しいわね」

「ええ、今回の事は、私もいろいろと嫌な目に遭って、ちょっと興奮気味なの。こんなこと、滅多にないと思うわ」

「ええ、そんな冴ちゃん、初めて見た」

 ふうーっと、一息ついた冴子。

「ミッチー、スイーツいかない。場所変えようよ。」

 最近できた、オランダのカフェが、人気だった。

「さ、何食べようかな」

 メニューを見ながら、

「あ、そうだ。ちょっとごめん。博君にメールしとくから。先に選んで」

 そう言うと冴子は、携帯を取り出し、保存しておいたメールを送った。すでに、十時半を過ぎた。もう、送っても良いだろう。

「私、チョコ系がいいな」

「あ、ミッチー。ここ、限定のショコラがあるよ。一日、五十本限定だよ」

「ええっ、じゃあたし、それにする」

「ええっと、私は抹茶あんみつにしよう、っと」

「ところで、そうなると長谷川さんの自身の方が、問題だよね」

 スイーツを注文して、美智子が聞く。

「そうなのよ。彼の、自分探しが終わったのかどうか。今夜、会って確認したいと思ってるの」

「本当ね。見つかってると良いけど」

 メールの着信音で目が覚めた博。

「痛(いて)え。何だよ、ひでえ二日酔いだ」

 発信を見てみると冴子だった。

{今夜、時間ありませんか。会いたいのです。返事待ってます}

 ついさっき打たれたものだ。

“いつ、高知から帰ったのかな。それより、珍しいなあ、冴ちゃんがストレートに『会いたい』って書いてる。俺も会いたい。でも、この前の答えって、ここで言わなきゃいけないのかなあ”

 寝ぼけた頭で、

{【エルム】でいいですか。夕方、待ってます。六時}

 と返信した。そして顔を洗い、ほとんど昼ご飯に近い、食事を作り始めた。卵と醤油と塩、それに天草から送られてきた鰹節で、うまいことチャーハンを作った。それに添えるものとして、醤油と鰹節を、これも送られたたワカメで、すまし汁を作った。ぼんやり考えながら食べる。当然、この前の答えだった。

“今後の、いや卒業後の冴ちゃんの、進むべき方向性を決める手がかりになる、って言ってたなあ、その答え。お見合いに対して、俺が言う事って。言って良いのかな。俺は冴ちゃんと結婚したい。でも、まずは仕事を決めてからだな。でないと、冴ちゃんは働いて、俺はアルバイト、だなんて嫌だからな。だったら教員でいいのだろうか。もし、中学校の先生になれたら、仕事をしながらでも、通信教育で小学校の免許を取ればいいよな。そうしたら、冴ちゃんとも結婚できるし、東京で仕事が出来る。冴ちゃんは、研究を続けられる。ええっと、だから答えとして『俺は冴ちゃんと結婚したい。でも、そのためには、まず仕事を決めなくちゃいけない。教員だったら、やって行く気持ちが出て来た。だから、多分大丈夫だと思う。順番として区立中学校の採用試験を受ける。不合格になるけど、冴ちゃんと結婚するチャンスは広がる。だって、臨時採用教員として東京に残れるから。そして、臨時採用教員で働きながら、冴ちゃんと結婚して、東京に住む。最後は、小学校の教員免許を取って、教員採用試験を受けて、正式に合格する。だから、お見合いは止めてほしい』これでいいのかな。よし、このまま、伝えればいいな。冴ちゃん。人を愛するって、こんなに素晴らしい事なんだね。偶然知り合った二人がお互いに、全力で愛を育てていく。その結果が家族なんだ。だから、家族って素晴らしいんだ。こんな気持ちを、教えてくれた冴ちゃんに感謝だな”

 やっと考えがまとまった。ホッとしている。そのことを考えて、全然箸の進まない博だった。ただ、冴子への気持ちは、うまく伝える事が出来そうだ。【エルム】で待っていると、冴子が少し遅れて来た。

「ごめん、待った」

「いや。いつ、帰ったの」

「誰かさんが、夜中まで飲んでた日」

 笑いながら冴子が言うと、博は、うぷっ、っと飲みかけの水を、思わず吐き出しそうになった。

「ああ、あの日、ははは」

「いらっしゃいませ。何になさいますか」

 ちょうどいいタイミングで店員が来てくれた。

「あ、冴ちゃん、何」

「あ、私今日はコロンビアを」  

「へえ、これまた珍しい。酸味が強いのに。僕はグアテマラを」

「ありがとうございます。少々お待ち下さい」

「ちょうど、青木からメールが来て、梅津や梅原もいるし、暇なら来ないか。って誘いがあったんでね」

 博は、頭を掻きながら、苦笑いした。

「あ、別にいいんだけど、どうせメールくれるなら、もっと早く欲しかったな」

 また、少し拗ねた振りをして冴子が言う。

「あ、そうか。少し遅かったね」

「少し。朝だったよ、三時だし」

「ええっ、そんなだった」

「むふふ。記憶無いんでしょ。いいわよ、覚えていてくれただけで」

「でも、珍しいね。冴ちゃんが呼びだすなんて」

「だって、この前の答え、どうしても教えてほしくなったの」

 待ってましたとばかりに、今朝考えたことを頭の中で復唱した。ちょうど来たコーヒーを一口飲んでのどを潤した。徐に背筋を伸ばして、えへんと咳払いをして、考えた事をゆっくり話し始めた。

「僕は、冴ちゃんと結婚したいです。だから、東京に残りたいです。だから、区立中学の採用試験を受けて、教員になりたいと思います。だから、お見合いして、高知に帰るのは止めてほしいです」

 俯いて、身じろぎもせず聞いていた冴子は、ゆっくり顔を上げると、満面の笑みを浮かべて、

「本当ね。今のが、博君の本当の気持ちね。信じていいのね」

 と、念を押すように言った。すると、冴子の嬉しい気持ちに圧倒された博は、

「う、うん」

 と、か細い声で答えた。

「嬉しいなあ。博君、ありがとう。私も博君と結婚したい。高知の親には、そう言うわ」

 コーヒーには手もつけず、喜びを噛みしめる冴子だった。

「あ、冴ちゃん、コーヒー冷めちゃうよ」

「あ、そうか。つい、心配で忘れてたわ。あはは」

 ホッとした笑顔になった冴子は、いかにも嬉しいと言うように、コーヒーを飲んだ。そんな冴子は、より一層可愛く見えた。お互いの気持ちを、確認する事ができた。冴子ももう、あの《高知のアホなボンボン》がどんなにアタックして来ても、跳ね返す後ろ盾が出来た。博はその夜、アパートに帰るとすぐにネットで、東京都の教員採用試験の期日を調べた。試験は七月だ。

“二カ月か。こりゃ、今年は無理だな。じゃ、臨時採用の教員で食いつないで、来年受けよう。一年すれば、必要な勉強もできるだろう”

 連休が終わると、まずは自分の学部のまとめに入る。その前に、東京都の教員採用試験に関する書物を購入に行った。《教職教養》とか《専門教養》など、初めて聞く言葉が、まず博を戸惑わせた。中を開いてみると、公務員試験と同じような内容もある。胸をなでおろす博だった。《学習指導要領》と言う冊子は薄く、数十円だった。教職課程で勉強した時には、これを基準に教科書を使って指導する、と聞いていたので、もっと厚くて金額も高い物かと思っていた。

テーブルの上で、試験関係の冊子を開いていた時だった。隣の空き地でスパン、スパンと、キャッチボールの音がしてきた。アパートの隣は、縦三十メートル、横四十メートルくらいの広い空き地だった。雑草が少し生えている。博が入居した時から空き地で、仕切りもしていない。そのうちに何かが建つのだろう、と大して考えもしなかった。そこで初めて、キャッチボールの音がした。居ても立ってもいられなくなった博は、窓から覗いてみた。陽射しは五月の爽やかな風に乗って、優しく照らしている。そこには、小学校高学年らしい、二人の男の子がいた。その子達がしていたらしい。キャッチボールを終わると今度は、十メートル間隔くらいの距離を取り、二つ四角を描いた。何をする気だろうと思っていると、一人がバットを持ち、もう一人が投げた。今度は打つのだろうか。しかし、空振りやボール球だと、後ろに行ってしまう。そのたびに、バッターになった子は走って取りに行っている。

“面倒な事するなあ”

 博は、小学生のこう言う点が、幼いと言うか、面倒くさいと言うか、小学校に踏ん切れない一因だった。能登半島の野球少年を見ても同じで、

“もっと効率の良い方法があるだろう。どうしてそれを考えようともせず、無駄な事に全力を絞る”

と、思っていた。しかし、そう言いながら関わりに行こうとしている。子ども達に魅力を感じている証拠だろう。

これは後で、博が小学校に勤めてから分かる事だが、

【無駄と分かっていても、その無駄を、無駄な事として考えず、乗り越えようと努力すること。その《努力》こそが、小学生にとっては大切な事だった。つまり、《学習の過程》を大切に考える事、それが小学校の大切な学習】

 であった。その《努力》をする時に見せる子どもの目は、輝いてキラキラ見える。その美しさに、この時すでに、博は魅かれていたのだ。

今度はバッターが打った。ピッチャーが後ろに走って取りに行く。それを何度も繰り返していた。

“ああ、もう見ていられない”

 博は降りて行き、子ども達に声を掛けた。とうとう、行動を起こしてしまった。

「ねえ、君たち野球やってるんでしょ。お兄さんも入れてくれない」

「ああ、いいですよ。でも、できますか」

“一応、野球やってるんですけど”

 と、思ったが、こんな所でむきになっても大人気(おとなげ)無い、と

「ああ、少しは、ね」

 と、謙遜して言った。すると

「じゃ、どこやりますか」

 と聞くので、

「どこでも良いよ」

 と答えると、キャッチャーをやってくれ、と言う。ただ、ボールを見て驚いた。硬式のテニスボールだ。これなら窓や家の壁に当たっても、相当強くないと割れる事はない。都会の小学生の発想だ。感心した。ルールは簡単だった。ピッチャーより後ろに行った打球だけ安打で、ホームからもう一か所のベースを踏んで、もう一度ホームに帰れば、もう一回打てる。ピッチャーは、後ろに行ったボールを取ったら、その人より早くベースに付くか、その人に直接当てればバッターになれる。このルールで、さっきはずっとやっていたのだった。

「よし、じゃちょっと練習しようか。投げて見て」

 そう言って博が受けたボールは、驚くほど速かった。ちょっと度肝を抜かれた博は、甘く見ていた自分に気が付いた。

“何だ。この子たちは。速いよ、あのボール”

「よし、いいよ」

 バッターに入った。投げる。打った。その打球も凄い。ピッチャーの後ろに行ったが、ピッチャーが取って、まさにバックホーム。間一髪、タッチアウトだった。

「おい、君たち凄いなあ」

 そう言うと、一人前に謙遜して

「いやあ、そこまでないですよ」

 と言う。

「いやあ、お兄さんはちょっと舐めてたよ」

「ありがとうございます。あ、今度はお兄さんピッチャーです。お願いします」

「分かりました。軽く投げればいい」

「ああ、どうでも良いですよ」

 自信満々だ。

“ま、小学生だし、軽く行こう”

 と、サイドハンドから練習を軽く投げた。すると、

「あ、割といい球来てますよ」

 と言う。

「あ、ありがとう」

 小学生に褒められた。

“割と。参ったな”

ちょっと癪にさわったが、お礼を言って、バッターに向かう。その初球。パン、と乾いた音を残して打球は、頭上を越えて行った。取りに行く気も起きない。端っこまで飛ばされた。

「くっそー。ちょっと甘い球だったかな。ようし、行くよ。今度は、ちょっと違うぞ」

 そう言うと、横のスライダーから入った。

「わお」

 と、声を出してのけぞった。思わず博は笑いを飲み込んで、わざと平然としてみせた。

「お兄さん、凄いスライダー。初めて見た。もう一回投げてください」

 そう言うと、バットをかなぐり捨て、審判の場所に行って構えた。

「よし、じゃもう一球。今度はシンカ―だよ。それ」

「うわあ、すげえ。もう一回」

 そう言うと、どんどん盛り上がって行く。博も調子に乗って、フォークとストレートと言う、持ち球全てを投げて見せた。

「すっげえ。フォークやシンカーって、プロが投げるみたいに変化していたよな」

 二人は、博のボールをすっかり気に入って、何回も投げてくれるよう要求した。博は、これも幼い子の大変な所だと、ちょっと尻込みしたが、輝いてきらきらしている目を見ると、不思議なことに、要求に応えようとする自分がいるのに気が付いた。

“こんなに、自分の球に感動している。しっかり投げて見せよう”

 博は結局、百球近くを投げてしまった。初めは見るだけ。そして、今度は審判役の子がジャッジをする。次は、キャッチャーがサインを出す。最後は、バッターを交代しな

がら打った。

「君たち、小学生でしょ」

「はい。そこの桜ケ丘です」

「六年生」

「はい。今日は何で、急に、ここに来たの」

 自販機でジュースを買って、三人で飲みながら話す。子ども達の汗が噴き出している。

博も汗だくだ。

「いつも遊んでいる公園が、工事になって使えなくなってたんです」

「だから、つまんないなあ、ってうろうろしていたら、ここがあったので、ここでやろう

って話して、来たんです」

「クラブチームには入って無いの」

「入ってます」

「桜木リトルって言うんです」

「今日は練習無いの」

「今日は、連休の最後だから無い、って。だったら、好きな遊びやろうぜ、って急いで行

ったら、あの工事だよな。がっかり」

「かなりかかるんだろ。日数が」

「分かんないけど、おじさんに聞いたら、夏までには終わるよ、って言ってました」

「じゃ、夏まで遊べないじゃん」

「だから、がっかりなんです」

「そいじゃあさあ、暇な時はここにおいでよ。お兄さんも、大学の試合があるんで、いつ

もいるかどうか分からないけど、呼びに来てみたら。あそこの二階だから」

 そう言って指差して、部屋を教えた。

「えっ、良いんですか」

「やったあ。良かったあ」

 喜ぶ二人。その笑顔は、こっちまで嬉しくなるほど、キラキラの笑顔だ。

「お兄さん、大学で野球してるんですね。凄いボール投げると思ったよ」

 帽子をずらして、日に焼けた顔でニコニコしながら言うその態度こそ、屈託の無い、真

っ白な【性善説】の子ども、そのものの印象だった。

「まさか、ピッチャーじゃないでしょうね」

「当ったりい」

「なあんだ!だから、シンカーなんて投げれるはずだよ」

「これはこれは、どうも済みませんねえ」

「でも、また来て良いって言ってくれたから、安心だね亮ちゃん」

「へえ、君は亮ちゃんて言うの」

「はい、大内亮って言います。そしてこっちが真ちゃん。篠山真太郎くんです」

「僕、長谷川博、って言うの。よろしくね」

「じゃ、またおいでよ。待ってるからさ」

「はい、ありがとうございました。また、ぜひ来ます。そん時は、あのスライダー、ホー

ムランですよ」

「打てる訳無いじゃん。あんなへっぴり腰で」

「いやいや、今度見ててください」

「なにを言ってんの。さ、帰ろう。じゃ、お兄さん、また来ます。今日はありがとうございました」

「さようなら」

「おう、またおいで。待ってるよ」

 二台の自転車を見送る博。その胸は、頭上の空のように、一点の曇りも無かった。清々

しい空気が周りを包んでいた。

“小学校か。やり甲斐があるかもな。毎日、こんな爽やかな時間を仕事として、与えても

らえるなら、どんな苦労も厭わない。第一、期待に輝いたあの目を見ると、期待を裏切る

ことは出来ない。授業で子ども達を喜ばせる事が出来るなら、もっと教材研究だって頑

張るだろう。小学校って良いかも知れない”

 二人を見送ったあと、博は、しばらく佇んで考えていた。部屋に戻った博は、もう一度教員試験用の参考書と問題集を開いた。再度、受験用の願書締め切りを見ると、六月

中旬である。そろそろ区役所を探して、近日中に願書をもらいに行こうと考えた。

博が、心も体も着々と、教員試験に向けて動き出していた時、冴子は卒論テーマの研

究に余念が無かった。

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