第3話

     三


「こんにちは。ここいいですか」

 ぼそっと声を掛けて、博が冴子の前に現れた。二人の出会いは、大学へ入ってまだひと月も経たない五月。学食の喫茶コーナーの隣にある、テラス席だった。テラス席と言っても、学食の棟の中にある。持参した弁当を食べたり、飲み物だけを飲んだりする、言わば簡単なカフェスペースだ。パイプいすとテーブルが置いてあるだけ。簡易テラスとでも言うべきものだった。女の子一人では、あまり来ないような場所だ。手作りの弁当が珍しかった。

「悪いけど隣良いですか。あっちが満席で」

「あ、どうぞ。私一人なので」

一瞬、身構えたが、微笑んで答える。

“別に、声を掛けて来た訳じゃないんだ”

 その安心感に、冴子はほっとした。冴子は、綺麗と言うよりチャーミングだ。芸能人で言えばトリンドル玲奈に似ている。その美貌に、何人か声を掛けてきたが、冴子は興味がなかった。いわゆる【チャラ男】風だった。長谷川博は、たまたま席が空いていなくて、隣に来ただけのようだ。声を掛けて誘いかけるでもなく、全く自然な雰囲気だ。だからそんな博は、気さくに話しかけた。

「どこから来てるんですか」

 弁当の包みを開きながら、かつての友達のように、気さくに話しかけて来る。

「私、高知です」

「高知。へえ。竜馬ですね。僕、好きだなあ、彼。でも、もっと好きなのは、西郷隆盛ですが。へへ」

 その気さくな話しぶりに、冴子の心は少し、緩んだ。

「西郷隆盛。済みません、私、竜馬でさえも詳しくは無いんで」

「あ、そういやそうですよね。地元の人が、全員詳しいと言うわけでもないし」

「まあ、歴史に興味が無い訳では無いんですが、それより、学部関係の勉強の方が面白かったと言うだけですけど」

 微笑みながらも、聡明さを感じさせる答え方に、感心する博だ。

「で、あなたはどこなんですか。ご出身」

「あ、申し遅れました。熊本です。九州の」

「熊本。まだ行った事無いです。ごめんなさい」

 詫びることは無い。慌てたのは博の方だった。

「いやいや、そんな。多分、四国だと関西や関東方面に行くんじゃないですか」

 と、全く的外れな事を言った。

「それって、ひょっとしたら、修学旅行の事、ですか」

 遠慮がちに尋ねる冴子。

「そう、ですが」

 意味が分かった冴子は、安心して言った。

「四国の高校は、今、北海道か外国、東南アジアがありますよ」

 と教えた。さらに、

「中学校なら、九州もありますけど」

 それを聞いた博も、

「そうか。俺も、長野にスキーに行ったんだ」

 頭をかきながら、笑う博。それを見てニコッとする冴子。そのまま、二人は食事を始めた。

「ここって、予想通り、人が多いですね」

「そうですね」

 しばらく周りの人を眺めながら、沈黙が続いた。その沈黙に、耐え切れなくなった訳では無い。ふと、彼女の弁当を見ながら尋ねた。

「いつも手作りのお弁当なんですか」

「はい。ヘルシーに」

 そして、食べる。やがて、早く食べ終わった博は

「じゃ、お邪魔して済みません」

 と、会釈して前を通り過ぎて行った。次の日、昨日のような事が無いように、少し早目に学食に来たが、やはり席は空いていない。仕方なく、また昨日の所へ行った。すると、満席に近いテラス席に、たまたまいくつか空いている席があった。急いでそこへ行くと、隣に女の子がいる。

「済みません、ここ」

 と声を掛けて驚いた。昨日の娘だった。相手も驚いたように、少し目を大きくした。

「あ、どうぞ。今日も多いですね」

 そう答えながら、静かに笑った。

「いつも、ここに」

 博が聞くと、弁当の包みを開ける手を止めて、

「私、高知の田舎だし、人が多いのって苦手なんです」

 と、苦笑いにも近い顔で、そっと言った。それを聞いた博は、腰掛けながら

「そうですよね」

 と何気無く口にして、慌てて

「あ、高知が田舎って意味じゃないですよ。済みません」

 それを聞いた冴子は、口に手を当てて微笑んだ。そして

「ありがとうございます。まあ、お気持ちは嬉しいんですが、田舎は田舎なんです」

 博は、またやってしまった、と、慣れない女子相手の、話の難しさを感じていた。男相手だったら、

“あ、済みません。本当のことを”

 などと、軽く冗談で済ませられるが、女子とは慣れていないので、腫れ物に触るように話しかけるしかなかった。黙って弁当を広げ食べ始めた。そしてしばらく黙って食べていたが、ぼそっと呟く。

「やっぱ、多いわ」

 学食全体を眺められるこの席は、目の前の人の多さを、つぶさに実感できた。それを目の前にして、思わず口をついて出た、博の実感だった。つい、誰ともなしに呟いてしまった。

「そうですね」

 何気なく相槌を打つ冴子。

「僕は、本当の本当に田舎ですから。だいたい町全体に、こんなに人いないですよ」

 ごく自然に、呟いた。

「うふ。いやあ、どこでも大差はないですよ」

 冴子は微笑みながら、フォローした。しかし、博は自信があった。極め付きの象徴は、どこで言っても驚かれる《鉄道が無い》ことだ。だから、移動手段は自動車か二輪車、或いは船となる。これは、田舎の切り札だった。しかし、何のプラスにもならない。冴子の言葉で、二人の間の空気が和み、二人はそのまま食べ続けた。そして、昨日のように早く食べ終わった博は、昨日のように声を掛け、前を通り過ぎて行った。

 そして次の日。冴子は場所を変えて、テラス席では無く、外を向いたベンチだけの席に来た。今日は外が雨で、いつも以上に満杯だった。三人ほど、腰掛ける事が出来るそのベンチには、一人の男が座っていた。端に座った冴子は、静かに包みを開けた。昨日まで二日続けて出くわした博は、今日はいないようだ。どうかしたのだろうか。何気なくそう思ったが、それ以上は何も思わなかった。まさか三日続けて、しかもこんなに込み合っている時に出くわしたら、それは何かの縁だろう。やがて、食べ終わると包みを閉じた。大きく息を吸って吐き出すと席を立った。そして、人ごみを縫って学食を出た時だった。

「あ、こんにちは」

 と博が声を掛けて来た。

「あ、こんにちは。今日は遅かったんですね」

「ああ、昨日まで早く来ても空いて無かったんで、今日はわざと遅く来ました」

 学食を見回しながらそう言ったが、見込み違いを実感したように、

「一緒でしたね」

 ペロッと舌を出し、

「じゃ」

 と挨拶して、学食の人ごみへ消えていった。二日続けて一緒になったのが、彼の意図した事では無かった。若干、ホッとして教室へ向かう冴子だった。午後の講義は、文系理系一緒の教養科目である【資源総合科学】と言う、新しい講義だった。

近年、大学でマグロを養殖したり、ウナギの研究をしたり、昆虫の生態を、人間の遺伝子に活用する研究をしたりする、と言う、新しい研究内容が目立っている。これもその一つで、日本の中にある自然界の資源を、人間の生命や活動に活用したり、社会生活に取りいれたりする研究だ。博は昼食に遅れて行った分、その講義の人の多さを忘れていた。

文系理系合同の時は、大講義室が三百人満席になるほど、受講者が多い。合同だから仕方の無い事だ。案の定、後の入り口から入ると、席はすでにない。仕方なく、前へ前へと進む。全くと言って良いほど席は空いていなかった。かろうじて、一番前の真ん中が一つ空いている。

“ま、マジか”

 教授の真ん前だ。仕方なく入って行く。縦に三列。両側が四人掛けの椅子。真ん中が八人掛けの椅子になって。それが放射状に広がる教室。ちょうど、野球場の観客席のように広がっている。教科書を机の上に置くと、ふう、と声を漏らして座った。

「こんにちは」

 突然、横の女の子から声が掛かった。目が飛び出るくらい驚いた。

「あ、あなたは。や、やあ」

 すっかり驚いてしまった博は、ドギマギした。

「あ、あなたも受講するんですね」

 またまたやっちまった。同級だから必須のこの科目は、全員が受講する。しかし、それには言葉でなく、笑顔だけで頷いて答えた。

「何学部ですか」

「理学部です」

「すっげえ。頭いいんですね」

「いえいえ、そんな。ただ、理科が好きだっただけで。で、あなたは何学部なんですか」

「はあ、経済です。あの、成績の悪い農業経済です」

「そんな事は」

 二人が通うこの日総大は、日本一の学生数を誇る。日本総合文化科学大学と銘打っているだけあって、文系、理系合わせて十二の学部が存在する。一学部約一万人と言うから、地方の小さな市や町より、人口が多い事になる。付属高校も多く、そこから大量の高校生が、エスカレーター式に進学してくる。そのため、学生の質もピンからキリまでいる。やはり、理系の方が偏差値としては上だった。特に理学部は、医学部、薬学部についで難しい。しかも近年、新しい講義内容が出来たため人気があった。文系は法学部が難しい。経済、中でも農業経済は、ネーミング面で偏差値を落とす傾向にある。ただ、博の第一希望の学部ではなかった。

 次の日の昼は、もう諦めてテラス席に直行した。すると、冴子がいた。やはり学食内では食べないようだ。

「こんにちは」

「ああ、こんにちは。昨日は大変でしたね」

 微笑みながら、冗談ぽく冴子が言うと、

「いやいや、自分の見込みの甘さを痛感しました」

 そう言って、照れながら腰掛けた。

「あ、僕、長谷川って言うんですけど、お名前聞いても良いですか?」

「あ、そうだ、まだ言ってませんでしたねえ。私、奈良原冴子って言います」

「奈良原さんは、学食内では食べないのですか」

 名前を聞いた途端、妙な事を尋ねた。すると、優しく微笑みながら自然に

「ああ、これですから、申し訳なくて」

 と手作り弁当を見せる。

「そうか」

 言われてみれば、至極当然だ。しかも、自分も手作りに近いので、学食内では食べないくせに。学食で食べる時は、金がある時に、素うどん九十円だ。

「長谷川さんのも手作りでしょ」

「そう思いますか」

 そう言って見せたのは、竹輪、卵焼き、野菜ジュースにお握りだった。

「あ、えらい。ちゃんとバランス考えてる」

「しかも、昨日、スーパーで期限間近で割引の竹輪と、野菜ジュース。経済的にも安心、です」

「さすが、経済学部」

 お互いに、ニコッとして食べ始めた。冴子は、昼ご飯を食べる事に、場所を変えたり、時間を調整したり、いろいろと工夫している博が、面白いと思った。自分だったら、ここだと決めたら変えないだろう。冴子は、彼のほかの面も少し覗いてみたい、と思うようになっていた。

「また、会えると良いですね。じゃ、僕、用事があるんで、また」

 自分の方が早く食べ終わると、珍しく爽やかに、風のように別れた。よく見ると、背が高く、顔は小さい。高校で柔道をしていたと言うことで、肩幅は大きい。大学では、野球同好会だと言っていた。後に、ふと気付くと、彼のフレグランスだろうか。ほんのりと香りが漂い、冴子をしばし、ぼんやりさせた。そして、慌てて食事を終える冴子だった。次の日また同じ席で会った。

「あ、こんにちは」

そう言うと博は、弁当の包みを開いた。すると冴子が目ざとく、

「今日は、何ですか。訳あり値引き品とか」

 尋ねて来た。

「ええっ、凄い。何でわかるんですか。ぴったり、そうです。ほら」

 博が見せたのは、昨日の竹輪にキュウリを詰めたもの。それに、ご飯の上に、炒めたハムの切れ端を乗せたもの。その下には、キャベツの千切りが敷いてあった。横に炒り卵が添えてある。その弁当を見せられて、しばらく唖然としていた。男の子は、いわゆる《ほか弁》や《コンビニ弁当》などとばかり思っていた。料理をする男子なんて。

「これ、全部でいくらだと思います」

 博が聞いた。

「ええっと、二百円くらい、かな」

「ぶぶーっ。百円かかっていません」

「ええっ、す、凄い。私達、女子より金銭感覚が鋭いですね」

 そう言う冴子に、博は人差し指を一本立てて左右に振り、片の目をつぶって言った。

「逆ですよ、逆。感覚が無いので、ひたすら安い物を買ってるだけなんです。だって、どうしたら、経済的か、なんて、分かりません。ははは」

「だって、訳アリでも食べられますからねえ。それより、料理するんですね。料理する男子って、素敵ですね」

 うぷっ、と博はむせた。女の子にフラれた事はあるが、褒められた事など一切ない。ま

して高校時代は、臭い、モテない、格好悪いと三拍子で、他の部活から《KMK》と揶揄

された柔道部だ。さらに帰れば男子寮だし、女子の【じょ】の字も関係ないほど、女子と

は関わりが無かった。褒められる事などあり得ない。ただ、寮生活から予備校時代まで、

洗濯機は無く手洗いだったので、洗濯は苦にならない。そう言えば、

“俺みたいな男と結婚すれば、女の子は楽だろうな。相手がいれば、の話だけど”

 と、よく妄想に浸っていた。

「そうかなあ。ちょ、ちょっと、照れ臭いです」

 そう言うと、赤面した。

「あら、可愛い。赤くなりましたよ」

「ちょ、ちょっと、止めましょう。参ったなあ」

「うわ、本当に可愛い。照れちゃって」

 すっかり冴子に調子を狂わされてしまった。ニコニコしながら顔を見つめる冴子。その前で、額に汗をかきながら、手で顔を扇いでいる。

「あらごめんなさい。今日は私が、食べさせていないですね」

「いや、良いんですけど。あんまり、褒められたことが無いので。あは」

 百八十センチはあろうかと言う大きな体からは、とても想像できないくらいシャイな博に、思わず冴子は聞いてみた。

「そんなに、恥ずかしいですか」

「いやいや、それはそうでしょう。だって、高校時代は例のKMKの柔道部だし、男子寮だったので、女の子と話すことなんて滅多に無かったし」

 弁当の方を見たまま、頭をかきながら言う博。

「ま、話さない方が、ボロが出なくて良かったです」

「そんなあ、ボロだなんて。あ、それより早く食べましょうか」

 そう言いながら、冴子は弁当を開いた。冴子の弁当は、さも女子が作ったような、可愛い弁当だった。それを横目に博も、食べ始めた。

「そうかあ、柔道部だったんですか」

 思い付いたように、聞いて来た冴子。

「はい」

 怪訝そうに返事をする。

「強かったんでしょうね、その体に、その腕っぷしなら」

「部の中では、負ける者はいませんでした。でも白帯です」

「えっ、柔道って確か、黒か茶色が強い人じゃないんですか」

 驚いたように冴子は聞いた。

「そうなんです。実は、昇段試験の時二回とも怪我しちゃって」

「怪我ですか」

「ええ。どっちも骨折なので、親に経済的な負担を掛けてしまいました。だから、三回目は受けませんでした」

「そうなんですか」

「こことここです。ほら」

 と、足首を指し、次に手の甲を見せた。冴子は、骨折はもちろん、怪我らしきことをしたことが無い。

「うわっ」

 手の甲の一か所が盛り上がっている。

「どうしたんですか」

 おびえたような顔で尋ねると、

「なあに、気合が足りなかっただけなんです」

「気合」

 冴子は全く疑問符だ。またまた博の的外れな答えか。そうではない。やってしまったことは仕方がない。説明して、例え分かってもらっても、今更治る訳では無いし、飯がまずくなるだけだ。

「ま、そんなことはどうでもいいですよ。さ、食べましょう」

 博は、食べ始めた。しかし、骨が折れると言うことを想像すると、冴子は少し怖い思いがした。それを博は、いとも簡単に言ってのけた。二か所も折っていると言うのに。

「じゃ、また」

 さっさと食べ終わった博は、そう声を掛けて席を離れた。骨折のことが頭から離れず、食事が進まなかった。午後の講義の、二コマが終わった五時半。大学の出口の所で、冴子はハッとした。教科書の中に、よく考えると自分には、あまり必要では無い物があった。

それは、一回見て返却が可能だった。実はその返却期限が、今日までだったのだ。一冊、三千円。

家が裕福ではあったものの、冴子は、無理を言ってこの大学にやってもらった。この日総大の理学部の学費は、他の大学の理学部より高かった。しかし、ここの理学部で学んでみたかったのだった。自分のやりたい研究が実践されていたからだ。『もちろん仕送りはお願いしたい。しかし、生活費と家賃だけでいいので、東京に行かせてほしい』と言う強い意志でお願いした。そのため、一生懸命学業に専念していた。その矢先の出来事。

“どうしよう”

 意志は強いが、こう言う失敗は、失敗する自分に腹立たしい。その悔しさに、ついネガティブになってしまう。どんどん自分を責める。

“あ~あ、やっちゃった。バカバカ、冴子。もったいないことを”

 思わず俯いて、肩を落としている冴子。出口を行く歩みも、ついついのろくなる。その肩をポンと叩く者がいて、ハッとした。

「どうしたんですか」

 博だ。

「あんまりがっくりしている様子だったので」

 冴子は、自分が歯がゆい事を、博に話した。すると

「なんだ。そんなことで」

「ちょ、ちょっと、長谷川さん。そんなことって」

 落ち込んでいる時に、軽く言われると、少しイラッとする。

「教科は何ですか」

 そんな冴子の、落ち込みぶりなど関係無いように、さらに聞いて来た。その無神経さに冴子は、少し、腹が立って来た。

「何でそんな事を聞くんですか」

 少し、不機嫌そうに言う。

「いや、僕が買おうかな、って思ってね」

「そんなあ、結構です。私のミスですから、人に迷惑を掛けたくありません」

 自分の失敗を人に助けてもらう。しかも、お金が関わっている。冴子がオーケーするはずが無い。

「いいから、教えてくださいよ」

「『地球磁場の構造』と言います」

“ええい、鬱陶しい。もう帰って”

 半ば、吐き捨てるように言った。すると、

「わ、最高。僕、本当は理系に行きたかったんです。中でも、物理を勉強したかった。磁力にもとっても興味があります。良かったら、本気で譲ってください」

“えっ、そうなの”

 一瞬そう思ったが、あまりにしつこく言うので、譲る事にした。本当に興味があるのかどうかは、疑わしかったが、別れ際に言った、

『悩んでも、何も始まらないですよ』

 が、何となく心に引っ掛かっていた。そして、家に帰って冷静になると、その言葉が自分の気持ちを少しだけ、抱き起こしてくれていた。

 次の日は、博を探して学食へ行った。しかしいない。早目に食事を終えると、博を探しに学食を出た。昨日のお礼を言おうと思ったのだ。午後の講義は二時からだ。冴子は、中庭をたまたま覗いた。すると博が、芝生の上で寝ころんでいた。近づいてみると、目を瞑っている。眠っているのだろうか。と、覗き込むと、ぱっと目を開けた。

「やあ、奈良原さん。何か御用」

「ああ、昨日のお礼を言おうと思って」

「なんだ、そんな事。いいですよ」

「いや、お礼は言わないと、私の気持ちが収まらない。ありがとうございました」

「いや、いいんですよ。本当に」

 そう言うと博は、半身起き上がって、

「その代わり、何か困ったら相談してください。お手伝いできればしますよ」

 と、続けた。

「ありがとうございます。ところで、今日は早かったんですね、お昼」

「あ、そ、そうなんです。早目に」

「ちょっとお邪魔して良いですか?」

 そう言いながら、横に腰を下ろす。

「で、今日は何だったんですか。メニューは」

「いやいや、今日はご馳走でした」

「へえ、どんなのだろう」

 ニコニコしながら、期待した顔で言う。しかし博は、それ以上は言わない。珍しくメニューを教えてくれない。

「いつも、女子にも参考になるくらい、バランスが取れていますよね」

「いつもは、有名な【タニダ】社員食堂の様なメニューですよ。へへへ、でも今日は内緒です」

「あれ、珍しい」

 実は、昨日の三千円が響いて昼抜きだった。何せ、使える金が一日ワンコインなのだ。

家賃と光熱費を引くと、一か月分の生活費がそれくらいになってしまう。高校出の怪我、予備校と東京の私大。経済的な負担を掛けたと言う負い目から、親に対して博から申し出た金額だった。しかし昼食を抜いたなど、冴子には口が裂けても言えない。

「そうそう、昨日の磁場の教科書、面白いですね」

 話題を教科書の話にする。冴子は驚いた。理系に行きたかった、と言うのは本当だったのだろうか。

「もう読んだんですか」

 冴子の方が驚いて言うと

「まだ途中ですよ、もちろん。でも、これだけ身の回りに、電磁波が飛び交っている時代でしょ。地球磁場や宇宙磁場に、何か影響は出ていないのだろうか、って、ずっと思っていました」

「そんなに好きなら、理系に来ればよかったのに」

 そう思うのが普通だろう。ところが、博はとんでもない事を言った。

高校時代は怪我の他に、病気をしたのだと言う。それで一か月入院したそうだ。高校での、一か月の欠席は致命的だ。文系は何とか付いていけたそうが、理系の教科は、前の学年の学習が元になる。いわゆるスパイラルの学習だ。一か月の間には、どんどん進んでおり、追いつけなかったと言う。だから、仕方なく私立文系になったのだと言った。

中学校までは成績は一桁の上位。それなりのプライドを持って、島一番の進学校に来ていた。高校でも、上位の成績を期待して。ところが、三年間でずたずたにされたそのプライド。とうの昔にかなぐり捨てたつもりだった。それでも現役時代は、一応受けるだけは受けてみようと、五校受けたそうだ。当然どこも不合格。結果は予想していたが、いざ現実として目の前に突き付けられると、さすがにショックだったらしい。この時点で、中学校までのプライドは、完全に踏みにじられた。しかしその後、博の人生まで変えそうな出来事が起きたと言う。それは、

『予備校にも落ちた』

と言うのだ。しかも、

『余裕で受かると思っていた、二流の予備校に』

これはさすがに大ショックで、ボロボロになったと言う。その時だけは

“立ち直れないかも”

 と、奈落の底だったと言う。仕方なく三流の予備校に拾ってもらった。これは、屈辱以外の何物でもなかった。実は、これが博の負けん気に火をつけた。しかしこの負けん気の部分に付いては、冴子には言わなかった。そんな格好良い物では無いし、気障な言い方はしたくない。ただ、自分に問うた、と言う。

“このままで終わって良いのか”

と。すると答えは当然、

“ノー。実力を出せずに終わって、悔しくないのか”

 さらに尋ねると、反骨心が燃え上がった。

『どん底まで落ちれば、後は上がるしかない。悩んでも始まらない』

 そう考える事が出来るようになったと言う。いわゆるポジティブ思考だ。

高校の病院代、寮費、受験料、移動のための旅費等で、かなり迷惑を掛け、おまけに予備校にまでやってもらった。だから、せめて大学は少しでも近い、関西方面の外語大を希望していた。日総大はもともと希望では無かった、と言うのである。ところが父親がここに行け、と言ったそうだ。なんでも、父親の友達が医学部の教授をしていて、

『二年になったら、歯学部に転学させるから』

と言うらしい。仕方なく入った。しかしあとから聞くと、歯学部は

『卒業するまで数千万必要だ』

と言われ、断ったそうだ。泡を食ったのは博だ。しばらくショックだったらしいが、予備校に落ちて身に付いた

『悩んでも始まらない』

 と言う考えで、

『どうせ来たなら、精いっぱい頑張ってみよう』

 と、ポジティブに考えたのだと言った。

それを聞いた冴子は、

“自分は、自分の好きな道を目指して、真っ直ぐに向かう事が出来た。しかし、こんなに横道にそれて来る人もいるんだ。ましてや、自分の目指した勉強は出来なくなったのに、そこでもさらに、ポジティブに向かっていこうとしている人”

と、大きなインパクトを受けた。この話を聞いた時点で、長谷川博に、奈良原冴子が興味を持った、まさにその瞬間だった。

「大変でしたね」

そう言うと、またまた前向きな発言が、彼女を驚かせる。

「大変ととらえるか、まだやれるんだ、ととらえるか、です」

「私が、もしそうだったとしたら、どうなっていたかしら」

 そう言う冴子に、

「ほら、そう『悩んでも始まらない』んです、って」

 そう言うと、ニコッとして肩をポンと叩くと、すっと立ち上がり、

「じゃ。講義に遅れちゃう」

 そう言って文系の棟に、走って行った。ふと気が付くと、仄(ほの)かなフレグランスが漂っている。冴子は嫌いな香りでは無かった。

“お弁当の時の、あの香りだわ”

冴子はあと一時間ある。五月の若葉が眩しい。若者には珍しく、ガラケーのままの冴子は、そこら辺を散策することにした。昆虫の生態を深く研究して、ゆくゆくは人間の生命活動に生かしていきたいと言う夢がある。昆虫の写真や、花の写真でも撮ろうかと思っていた。この大学のキャンパスは当然広い。東京と神奈川の境にあり、緑も豊かだった。あっという間に時間は過ぎ、講義の時間になった。今度は教養の物理だった。リケジョと言う言葉がはやったように、今では工学部でさえ、女子が目立ってきている。理学部も同じで、冴子のいる生命理学科は、少数精鋭方式で同学年は五十人しかいない。その中に女子は十八人だった。半数までとはいかないが、それでもかなり多かった。講義が終わった時は、また五時半。

“昨日の帰りは、彼と同じ時間だったな”

 ふと、思った。すると突然、

「また一緒になりましたね」

 と、後から声を掛けて来た男がいる。一瞬、驚いたが、

「なんだ、長谷川さん」

「どっちなんですか、家は」

「世田谷です」

「えっ、マジ。僕も世田谷ですよ」

「えっ、どこなんですか」

 冴子も驚いて聞いた。同じ世田谷区に住んでいるなんて、驚きも驚きだ。しかし偶然は重なると言うが、本当にそうだった。

「駅はどこですか」

 博が尋ねると、返事が返って来た。

「小田急線の経堂ですよ。知ってますか」

「ええ、少し」

「長谷川さんは」

「ああ、僕、小田急線です」

 真面目な顔で言った。

「小田急の」

“何で、歯切れ悪いのかな?ひょっとしたら、言いたくないのかな”

「あ、もし言いたくなかったら、いいですよ」

 遠慮して言うと、

「あの、経堂です」

 と言うと、大笑いした。

「なんだあ。意地悪なんだから」

 冴子も、博の肩を叩いて笑った。中央線と小田急線を使っている。同じルートだった。

今まで出会わなかったのが不思議なくらいだった。

「でも、偶然だなあ」

 そのまま一緒に帰った。二人は電車の中で、いろいろ話す事が出来た。冴子と話していくうちに、《大学の勉強を精いっぱい頑張る》と言う点。《仕送りが家賃と生活費だけ》と言う点。両方、自分の考え方と似て、博も冴子に興味を持った。しかしあくまでも、知り合い以上、友達未満にしか思えなかった。

博の好感度が上がった訳は、彼の冴子に対する態度が、すこぶる自然だったことだ。

できたら付き合いたいなどと言う、下心は全く感じなかった。ずっと前から友達だった、かのように思えた。博はもちろん、その気は全くなかった。第一、こんな可愛い子が自分のように、男臭い男を相手にしてくれるなんて、毛頭考えもしなかったからだ。だからいつのまにか自然に、友達感覚でいた。昼も一緒に食べるようになったのは、異性としてではなく、幼友達の感覚だった。ただ、毎日一緒に食べるうちに、いつの間にか昼食の時間が、楽しみになっていた。生命理学科を専攻している冴子は、実験や演習があると、決まった時間に昼食はとれない。そんな日は、冴子はわざわざテラス席まで知らせに来るのだった。すると、博は待っていた。その気持ちがとても嬉しくて、好印象からもっと違う気持ちに、変わって行くのを感じた冴子だった。ある日、また遅くなる事を伝えに来た冴子に、

「わざわざいいよ。君が来るまで待ってるから」

 と言ってくれた。その時、冴子が言った。

「ねえ、アドレス交換しない。その方が楽だと思うんだけど」

「そうか、それが良いね」

 出会って、一か月近くになろうと言うのに、いまだにメルアドも交換していない。博の気持ちを代弁している。そんな博が、だんだん気に入って来た冴子。しかし、冴子のガラケーを見た時に、博も、初めて自分の気持ちに、キュンと来るものを感じた。

“こんなに可愛い子がガラケー。あり得ない”

そのギャップに、気持ちを奪われた。その後、二人はそのテラス席以外でも、ごく自然に会うようになった。経済学部の博は、時間は割とフリーだったが、冴子は理系のために、時間に制約があった。そのため、しばしば昼食が別々になった。しかも、二年から博は《教職課程》の受講も始めたので、いよいよ、お互いに時間が取れなくなっていった。

しかし、逆にその事が二人の気持ちを強く、深くしたのだった。いつの間にか、二人は一緒に、遊びに出掛けるようになった。しかし、そんな時でも博は、男友達と出掛けるような、軽い気持ちでいられた。

“一緒にいても、全然気を使わなくて済むし、逆に安心できる”

そう言う思いが、博の気持ちを楽にさせていた。二人は、よく鎌倉へ行った。冴子が好きだったからだ。鎌倉へ行き、箱根へ行き、房総へ行き、休みのたびにデートを重ねて行った。特に好きだったのは、やっぱり、鎌倉から湘南の浜へ行くコースだった。そして、湘南の浜に座って浜風に吹かれながら、海の話をした。

天草と言えば海。海しかないと言っても過言ではない。しかし、沖縄や宮崎の海のように豪快で、サンゴ礁で、どこまでも碧くて、と言う海ではない。綺麗ではあるが、生活に密着した海だった。魚や海藻はもちろんだったが、タコやイカ、貝類など食べられる物は、すべて食卓に上った。海岸の事を地元の人は【浜(はま)ん小浦(こら)】と呼ぶ。【浜ん小浦】の子どもは、夕方おかずの魚を釣りに行く。海岸の岩に付いている、いわゆる付着生物も食用であった。しかもこれが美味で、知る人ぞ知る味だった。博は夏休みになると、小学校からの親友、佐藤幸典とよく海に潜ってその【浜ん小浦】の人達が、食べるような物を獲っていた。シュノーケル、フィン、鉾、ナイフを使う、素潜り漁だ。また、獲物が無い時は、ただ波に揺られ、海底を見ているだけで良かった。太陽の光が虹色に光り海底に、三角の波の形を創る。その三角を壊して、自分の影が揺れながら映る。外の音も遮断され、そう言うシーンを見ているだけで、別世界だった。そう言う話をよくした。

冴子は、高知の出身でやはり海はあるが、こっちも海までは遠かった。しかも女の子であり、海に行ったとしても、潜ったり、獲物を獲ったりすることはなかった。だから、獲物を獲る時の博の話には、とても興味を持った。ただ博は、都会のように、人が多くて騒がしい海は苦手だと言っていた。だからデートは海には行かず、箱根や鎌倉の、静かな所に限られた。互いの事を知れば知るほど、もっと知りたくなる。自分に無い物を相手は持っている。当然だろう。博は、冴子の話を聞いていると、言葉の端々に教養の幅を感じる。言葉もよく知っているし、本もよく読んでいる。あまりに知的な冴子に、博は彼女の事を聞いた事がある。

あれは二年生の秋ごろだった。初めて、二人で飲みに行った近くの、小さな居酒屋風食道松尾。二人が住んでいたのは、偶然にも同じ世田谷。冴子のアパートのある《経堂》にある。こぢんまりとはしているが、閑静な住宅街があり、落ち着いた街である。冴子のアパートは、駅の南口だが、《松尾》は反対の北口。のちに、博の【自分探しの旅】に、半ば強引に付き合わされることになる青木。その彼と博のアパートも、同じ北口だった。踏切を渡ってすぐ左に五十メートル。駅の端っこにあたる場所に、居酒屋松尾はあった。中年の夫婦が切り盛りしており、カウンターに十人。テーブルが四つ。畳席が二か所ある。二人は、カウンターから遠い畳席に座った。まだ、午後七時過ぎだと言うのに、客はまばらで、やっていけるのかと言う雰囲気だが、注文を取りに来た女将さんの顔を見て、ホッとした。この女将さんの柔和な笑顔が、きっとリピーターを増やす。そう推測できるほど、人のよさそうな女将さんだった。

「じゃ、初めての宴会に乾杯」

 ビールで乾杯するが、小ジョッキ一杯で満腹、と言う冴子に、次はピーチフィズかチューハイを、と言うと、酒は駄目か、と聞かれた。

「お酒でいいの」

 博は、少し驚いて聞いた。

「高知は、お酒なのよ。私の実家の近くにも『そらぎゅう』って言う盃があるし、興が乗ってくれば独特の『はし拳』と言う遊びをするの」

「『はし拳』って、負けた人が酒を飲むんでしょ。熊本にも、人吉地方に『球磨拳』と言うのがあるけど、多分、雰囲気はそんなもんじゃないかな」

「似てると思うわ」

「じゃ、高知県民は、お酒が好きなんだね」

「何でも、藩主【山内容堂】と言う人が、豪快な飲み方だったようなの。また、竜馬にしても酒好きで知られているので、やっぱり、それにあやかりたいんじゃないのかな」

「竜馬が酒好きな事は知ってるんだ」

 初めて会った日、高知出身だと聞いた博が、坂本龍馬の話をすると、

『詳しくは知らないので』と言った人が、酒好きの話を知っているとは。

“こりゃ、相当行ける口か”

小さな、小さな不安が、苦笑いしながら心を過(よぎ)った。

「で、冴ちゃんも、その血を引いていると言う訳か」

「えへ」

 そう言いながら、ニコッとして酒を注文する。でも高い酒は金が無い。金は安いけれど美味い、と言うのを紹介してもらった。

「じゃ、これだったら、ゆっくり飲めるね」

「そんなに沢山は飲めないけど、ある程度だったらお付き合いできま~す」

「ひゃあ、心強い」

そう言いながらぼちぼちやっている時、博が急に

「冴ちゃん。ずっと前から感じててね。会うたびに強く感じるようになったんだけど、随分、いろんな事を知ってるよね。優秀な高校出てるんじゃないの」

「ああ、ま、そうね。私以外は、高知で一番の高校なの」

 少し照れくさそうに言った。

「私以外は、一番。そんな、謙遜しなくても。やっぱりね。何でもよく知ってると思ったよ」

「まあ、常識程度の事は分かるわ」

「はい、お待ち。ニシンの塩焼きです。それと、もずくです」

 注文の品が来た。

「ニシンって数の子の親でしょ」

「そうだよ。良く知ってるね」

「こう言う関係の常識ならね。ふふ。でも、学問となると」

 そう言いながら、くいっ、と盃を開けた。その、気風の良さに、感心しながら

「仰せのとおりでございますな」

 と、言いながら酒を注ぐ博。頭を下げて、両手で頂く冴子。次第にその回数も増えている。

「うちの学校ね、甲子園にも出た事あるのよ」

「ぎょえっ、甲子園。凄いじゃないか」

「ほら、プロからも注目されてた、坂川って言う人覚えてない」

「ああ、知ってる、知ってるよ。そう言えば、出てたよね。そうそう」

「最近は、めっきり出なくなってしまったけど、昭和六十年代までは常連だったそうよ」

「文武両道じゃないか。凄いなあ」

「はい」

 そう言うと、冴子が注いだ。

「で、君は何もして無かったの。部活は」

「バスケ、やってたわ」

 冴子は高校時代、バスケット部のキャプテンとして、なんとインターハイにも出場していた。何もかもできる女性だった。そんな子と付き合うことが出来て、博は、自分にはもったいない人。恐れ多い人だと、思った。

“何かの間違いかも知れない。しかしもし間違いでも、その間違いが発覚する間まで、一緒にいられたら”

と、思うようになっていた。冴子がつき合ってくれることも嬉しかったが、自分に出来ないものを持っている人と出会えたと言うことが、最高に嬉しかった。

“出来たら、ずっと一緒に居られたらいいな”

 冴子を送った帰り道、水銀灯の照らす通りを歩きながら、博は思った。

その週の日曜日は、箱根の《彫刻の森美術館》に行った。もちろん、冴子の弁当を持って。美術館巡りは、鎌倉から始まった。川越、上井草、箱根、千葉等々。二人とも、印象派の絵が好きなことも共通の趣味として、お互いに嬉しかった。箱根は、その景色も相まって、美術館を見終わった満足感と、二重の喜びが味わえた。小田原から箱根登山鉄道で、目的地である【彫刻の森】駅で降り、徒歩で美術館へ行く。ピカソ館を中心に、主に彫刻だが、珍しかったのは、外に彫刻を飾ってある事だ。しかも、自然の中にその彫刻が溶け込み、何かを語りかけて来るようだ。彫塑にはあまり興味の無かった博も、何かを感じることは出来た。冴子は、彫塑も好きなのか、我を忘れて見入っていた。二時間もすると、さすがに空腹と疲れを感じる。そのまま外で昼食をとった。今回の美術館は冴子が誘った手前、弁当持参になった。初めて食べる冴子の作った弁当。と言うより、女子の作った弁当を頂く事自体、初めての経験だ。サンドイッチもおにぎりも、今まで食事は何回もしているのに、緊張して味はしない。やはり、彼女の手作りとなると、食べるだけで緊張するものだ。

「どう」

 聞かれると思ったが、答えは決まっている。

「う、うん。美味しい。凄く美味しい」

 ごくん、と生唾を飲み込んで答える。

「うふ。ありがとう」

 見透かしたように微笑みながら、自分もサンドイッチを頬張った。その後も、なかなか次が進まない博。

「あれ、もう食べないの」

「い、いや。ちょっと、きゅ、休憩」

「ええ、だってサンドイッチだけだよ。お腹いっぱいなる訳ないよね」

「当り前さ。今から食べるよ。全部、空になっちゃうかも」

「いいよ。空っぽにして」

 そう強がると、博はやっと卵焼き、ウインナーと食べ始めた。しかし、相変わらず味はしない。その場を何とか、取り繕う事は出来た。食べ終わって、遊具でのんびりした。時計を見ると三時を回っている。世田谷までは、二時間以上かかる。そろそろ出ないと、ラッシュに掛ってしまう。人の少ない、落ち着いた自然の中で、たっぷりと二人だけの時間を過ごした二人は、来たルートを戻った。小田原で、小田急線に乗り換える。その時だった。ロマンスカーが止まっている。冴子を呼んで一緒に見た。

「これって知ってるよね」

「ええ、ロマンスカーでしょ」

「どうしてロマンスカーって言うか知ってる」

「いいえ、知らないわ。どうして」

「東京や神奈川の、昔の新婚さんに、『新婚旅行に、ぜひこのロマンスカーで箱根へ』って言う、プランがあったんだって。まだ、みんな遠くまで行けない時代なんだろうね。だから、このロマンスカーを新婚さんに使ってもらおうと、名前を付けたんだって」

「へ~、そうだったの。ロマンスカーね」

「僕、君と乗りたいな」

 聞こえるか聞こえないような、まるで消え入るような声で、そっと呟いた。それに気づいたのか気付かないのか、冴子もニコッと笑っただけだった。

年度が変わり三年になると、野球をさぼって、青木とワンゲルに出かけるようになった。それに合わせるように、冴子の専門もより忙しくなり、なかなか簡単に会えなくなってしまった。

その三年も年を越した、二月のある夜の事。必修教科をほとんど履修したおかげで、バイトができるようになった。近くの酒屋さんで、定期的にするようになった博は、給料をもらった晩、赤提灯に冴子を誘った。その頃になると、就職の話が学生の間で出て来る。二人にしても同じだった。

「冴ちゃんって、理系だから出来る仕事は、限られて来るよね。だいたい、その目的で入学して来てるんでしょ」

「そうね。だいたいの人がそうみたい。私も、祖父が病気の時、何かしてあげられたらって何度も思ったから、この大学に来たんだけど。結局、間に合わなかった。もう、亡くなっちゃったの」

「医学部に行けばよかったのに。冴ちゃんなら、どこかの大学には、必ず合格したんじゃない」

 ニコッとしながら、熱燗を飲む。博。

「私、お医者さんは、ちょっと怖いな」

「獣医なら」

「それはいいわね」

 笑いの中で、博が酒を注いだ。日本酒独特の香りが漂う。

「僕さあ、ちょっとトンネルに入ってるんだ、実は」

 そう言うと、また盃を空にした。

「どうしたの。教職課程も、あとは実習だけだし、学科の単位もあとはゼミだけ。あと一年残して、ほとんど大学ですることを終えてしまった。って言ってたじゃない」

「そうなんだけど、何かやり残してる事があるような気がするんだ。ただ、それが見えないんだよ」

「終わったのなら、就職先を決めればいいんじゃない。経済だと、求人は結構あるんじゃないの」

「あるんだけど、そこで決めてしまっていいのかな、って思ってるんだ」

「どう言う事。先生とか、会社とか銀行とか、いろいろあるんじゃないの」

「あるんだけどさ、それが、まったく興味を持てなくて」

「じゃ、どうするの」

「それさえ分からない。取り敢えず四年生になってから、って思っているんだけど、どうしたらいいんだろう」

頬がほんのりピンクになった冴子に、博は注いだ。冴子は、盃を掴んだまま、しばらく黙っていた。そして、ゆっくり酒を飲んだ。

「じゃ、待つわ。博君が結論出すまで」

「悪いけど、もう少しかかりそうなんだ。ただ」

「ただ」

「うん、ただ決まったら、はっきり言いたいことがあるんだ」

「何。今、言えないの」

「うん。これは言えない。はっきりしたら言うから。君の、今の一言で決心できたよ」

「そう。じゃ、これも待つね」

 ニコッとほほ笑みながら、そう言ってくれた。

「二つ、待たなきゃいけないんだね。た・の・し・み」

 お酒のせいか、若干浮かれたような言い方になった。

「ふた~つ、ふた~つ、何でしょね。お耳がほらね、ふたつでしょ。あんよもほらね、ふたつでしょ」

「わあ、懐かしい」

帰り、冴子のアパートまで送る。半月で、街灯と水銀灯の見分けがつかないくらい、青白い夜だった。空っ風が身に染みる。小田急線の踏み切りを渡り、通りを抜けるとアパートだった。

「あと一年で終わりなのかな。博君の東京って」

冴子が、意味深な事を言う。二人とも地方出身だが、冴子の希望は、本社が東京の会社だ。博がどうすれば、終わりにならないのか。それとも、終わりにしてでも、やりたい事が出て来るのか。その時冴子は。まったく見えなかった。

「じゃ、またね。おやすみ」

 冴子の、疑問とも、独り言とも分からない言葉に応えられず、帰り道を一人で寒風に吹かれながら、あれやこれや考えながら、気が付いた時は布団の上だった。すっかり酔いの覚めた頭の中を、ぐるぐる廻るのは

“取り敢えず、四年生になってみる。そこで、何か見つかるかも知れない”

 と言う言葉だった。大学三年生の冬だった。

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