第2話


カチャカチャとキーボードを叩く音は勢いよく、ディスプレイを見つめる目は厳しかった。冴子にとって、卒論提出までの日々は、同時に、学生生活の終わりを告げる日々でもあった。また、楽しい日々との終焉を迎える日でもある。それだけに、その時間は大切にしたかった。しかし、さすがに疲れを感じた冴子は、時計を見た。もう昼をとうに過ぎていた。

『はあーっ』と大きな背伸びをして、大きな息を吐き、目をこすった。首をぐるぐるまわし、肘を曲げ、肩を上下に揺らした。ゆっくり立ち上がると、少し目眩がした。台所で水を飲む。もう一度深い息をついて、徐に洗面を始めた。手を切るような、冬の名残のあるこの季節の水は、何よりの目覚ましだった。

「また、徹夜なの」

「あ、ええ」

タオルで顔を拭いていると、いつの間にか隣の部屋の野本美智子が、歯ブラシをくわえたまま聞いてきた。歯磨きで、口の周りを白くしている。

「大変ねえ。それで少しは進んだ」

「そうねえ、予定よりは」

「なら、いいけど」

『ぷう』と歯磨きを吐き出し、口をすすいでいた。

「でもねえ」

と言いかけた時、ポストにコトっと郵便物の届く音がした。耳聡く聞きつけた美智子は、足早に階下へ行き、

「冴ちゃん、あなたによ。長谷川君から」

冷やかすように笑って、渡した。照れくさそうに、でも、嬉しそうにその絵葉書を受け取った。懐かしい博の文字に、優しい彼の顔がダブった。しかし、博への熱い思いが蘇るまでに少々時間がかかり、冴子を慌てさせた。

“いつ頃帰ってくるのかな”

思いを馳せると、愛しさが湧いて来てホッとした。軽い食事をとりに、美智子を誘って街へ出た。自分の部屋で、冴子だけ時間が止まり、卒論を書いているような気がしていた。しかし確実に時は流れていて、学生としての時間を確実に減らしていた。何となく、自分だけ時の流れから取り残されているように思えた。しかし、パソコンの中の論文のページに、その足跡だけは残っている。

「冴ちゃん、ちょっとあんた、何ぼんやりしてるのよ」

 傍に寄って来て顔を覗き込む美智子だった。

「卒論の事。それとも、彼の事。むふっ。当たりい」

「う、ううん。何も」

 本当に何も考えていない。

「嘘、おっしゃい。隠しても分かるのよ。ご馳走様」

「ち、違うってば。ぼんやりしちゃって、徹夜ぼけよ」

「そうかあ、徹夜だったのね。あんまり、無理しない方が良いわよ」

「そうね。今夜は、止めとこうかな」

「それが良いと思う」

 確かに、博の事も頭の中にある。特に、卒論が行き詰まっていて、迷路に入り込んでしまった昨夜。今朝のハガキは嬉しかった。

「何、食べようか」

メニューを見ながら、美智子は言った。

集中してやりたい事をでき、疎ましい世間の煩悩に悩まないで済む学生は、幸せだと思った。冴子が来ている馴染みの店でも、同じ大学の学生がそれぞれに、時の流れに身を委ねている。次々にBGMが流れ、その音に重なって、人の話し声、あるく音、バイトの店員の食器を片づける音、ドアの開閉の音等が重なり、幾重にも交錯していた。窓から入り込む陽射しはぼんやりで、いかにも冬の名残の弱さだ。他愛の無い話に、夢中になっている者。相手はいるのに、互いにスマホをいじり合っている者。スマホで何か探しているように、画面を必死に覗きこむ者等、自分と同じ学生を客観的に見て、自分の学生生活を思い出していた。いろんな事をやった。勉強はもちろんだが、旅行、スキー等々。何の制約も受けずに、自分のスケジュールで動く事が出来た。高知の両親にも、製造関係の会社の研究部門に行きたいことの承諾ももらっている。満足しているはずなのに、何の不満も無いはずなのに、心のどこかに隙間風が吹いているようだ。何かやり残した思いが、湧き上がってくるのだった。ひょっとすると、卒論が提出できるか、不安なのかも知れない。あと十カ月少々しかない。この不安が今後、果たしてどのように変化するだろか。

「冴ちゃん」

 メニューを見たまま、じっとしてしまっていた。

「あ、ごめん、ごめん」

「やっぱり、疲れてるじゃない。無理しない方が良いって」

「そうね。あ、私ミートスパにする。ミッチーは」

「私は、いつもの卵サンド」

「帰ったら、バドミントンでもやろうか」

美智子が卵サンドを頬張りながら誘った。

「そうだね。やろう、やろう」

 久しく運動していなかったが、その分精一杯動いた。久しぶりに空気をお腹いっぱい吸った気がする冴子だった。体を動かし、お風呂に入ってすっきりした冴子は、少しだけ画面を覗いた。しかし、思うような考えが浮かばない。思わず机上の絵ハガキに目をやる。 

博は、旅に出たら携帯は極力使わない。メールさえくれない。アナログに戻る。携帯で連絡すればすぐだが、東京から、人から、そして時間から離れて、自分を別な角度から見ようとする博は、デジタルを極端に避ける。また、旅に出る時は、そう言う時だと冴子も知っていたので、連絡をする事は無かった。


冴子が卒論で頭を悩ましている頃、博と青木はJR北陸本線金沢駅から、石動(いするぎ)方面へ戻り、【倶利伽羅峠】を目指して歩いた。峠と言っても、標高は数百メートルしかない。

木曽義仲が《火牛の計》と言われる戦略で、平氏を打ち破ったと言われている。幅三メートルほどの小さな道が通る。千年以上も前に、そう言う戦いがあった、と思いを馳せると、ただの峠がとても魅力的に思えて来る。何の音も無い、静かな峠に佇む二人。これが、男女二人のカップルならムードもあるのだが、如何せん男二人の風景だ。 

だらだらとした坂を下り、【倶利伽羅】の駅から【金沢】に戻る。すでに日は傾き、夕方の混雑が始まりつつある。中心の駅は、どこでも種々雑多な音が入り混じる。帰り道、明日から能登半島を回る事に決めた。しかし、問題は今夜の宿だ。

「さあ、どうする。宿から探さなきゃ。急がねえと、寒くなってきたぞ」

「ホテル、とるのか」

 旅で宿泊代が、一番掛かる。

「今日は。俺、宿なんか、元から考えてないけど。お前はどう」

 旅の常連、青木が何のためらいもなく言った。博も頷く。

 この二人、二年の終わり頃から、山に行ったり、旅に行ったりしていた。静岡の高校時代、ワンゲル部だった青木。大学では金が掛かり過ぎて、部には入っていなかった。しかし、山登りは独りで続けていた。そこへ知り合った博。元々、アウトドアスポーツが大好きな博だ。青木に山の魅力を語られると、何としても行きたくなり、今に至っている。テント、野宿、駅構内等々、寝られる所が彼らの寝床だ。

「でもここの駅は、大丈夫かな」

 最近は、終電から始発までの間、構内を閉める駅が増えている。【金沢】駅は、どうだろう。新幹線も通った。多分アウトだろう。

「ちょっと待て、俺にいい考えがある」

 そう言うと、青木は携帯で時刻表と、路線図を見た。そして、うんうんと一人で頷く。

「各駅で【米原】まで行って、その間、車中で暖をとりながら寝る。そして次の日の朝、【米原】を折り返す。ここ【金沢】に、朝五時に着く各駅停車がある。それでまた寝てくれば、寒空の下で震えるよりましだろ」

「そりゃ、名案。よし、それで行こう」

 二人は、待合室の椅子に掛けて、【米原】行きを待った。段々人が増えて、行きかう人も多い。さすがに、石川の中心都市だ。しかし博は、この喧騒から逃がれたくて、この北陸に来た。

“明日から、いや明日になれば、自分を見つめ直す時間があるだろう”

 博は、そう考えてこの喧騒をやり過ごす事にした。その時だった。小さな声で叱りつける女性の声がして、後ろを振り向いた。見ると幼児がジュースをこぼしたらしい。その男の子の服は、喉元から腹までびっしょり濡れている。それをハンカチで拭きながら、母親は諭していたのだ。そして、飲み残しを母親の手を添えてもらって飲んでいた。

「可愛いなあ」

青木が言うと、

「可愛いけどね。俺、子どもが苦手じゃないかと思うんだ」

「おいおい、お前教職課程を受講してるんだろ。しかも全単位取得も、すでに見えたって言ってたくせに、それは」

「ああ。でも、中高の免許だよ。小学校とか、幼い子どもとかって、接し方に自信が無いんだ」

「屈託がなくていいじゃねえか。見ろよ」

「屈託ねえ、屈託が無いのは良いんだけど、訳が分からない時に泣いたりするじゃん。あんな時、どう接したらいいか、分からないんだよ」

「何だよ。歯切れ悪いなあ。俺、兄貴の子どもには、普通だぜ。ただ、言葉をよく噛み砕いて、ちゃんと言い聞かせるよ」

「へえ、それで良いのか」

「当たり前だよ。相手も、小さいとは言え人間だからね」

「そうか、そう考えればいいのか」

「何だよ、教育課程を受講してる者が。しっかり頼むよ」

「いやいや、まだ教員になるとは、決めていない。そう言う小さな事からチェックしていかないと」

「まったく歯切れが悪いね。そう言えば、この旅に出たのも、それをすっきりさせるためだったな」

「そうなんだ。教員にもなりたいけど、小学校は、まだ自信が無い。何より免許が無い。

だからと言って中学・高校の採用は少ない。お袋は、『教員養成系大学の人達が、やっと受かるって言う教員採用試験。あなたのように、勉強しない人が受かるはずない』って言うし。そんな事言われりゃ、知らない世界だから、やっぱそんなもんかなあ、って自信なくなる。そうかと言って、JAやその関係の仕事も、俺の第一目標で専攻したんじゃないから、今いち興味がわかない。家業の方は、もうすぐ親父も、工場を止めるって言ってるし。はは、八方塞さ」

「でもさあ、お前が本当にやりたいもんだったら、一回は挑戦してみる必要があるんじゃねえか。例え母さんが、そう言う事言っても。でないと、現実逃避のスパイラルに陥るんじゃないか」

「お前もやっぱり、そう思うか。俺も、自分から逃げてるんじゃないか、って自問してたんだ」

「そりゃ、不安なのは分かるよ。まだ、未経験な事を考えるんだからさ。本当は、俺も出来る事なら、お前みたいにしっかり考えて、就職したいね」

「俺は、お前と同じ一浪だから、就職はストレートに行きたいな。また親に金かけさせちゃうよ」

「残念ながら、今となってはすべて遅きに失したな」

「冴ちゃんが心配なんだ。果たして、分かってくれるかどうか」

「知らねえよ、そんな事まで。二人で考えろ」

“ばかばかしくてやってられない”

と言うような顔で、青木が言った。すると【米原】行きのアナウンスがあった。

 すっかりジュースを飲みほしたさっきの子どもは、上衣を着替えてお菓子をおとなしく食べていた。その様子を見た二人は、ニコッとして五番ホームに急いだ。青木の提案したグッドアイデアで、何とか駅のベンチで震えながら寝る事は避けられた。確かに車内は、すこぶる暖かい。【金沢】に着いた初日から、昼間、歩き通しだった疲れが、二人を心地よい眠りに誘った。そのまま車内に残って、折り返す。そして、まだ明けやらぬ【金沢】に降り立ったのは、翌朝の五時だった。さすがに北陸である。吐息まで凍りつきそうなくらい冷えている。まさに歯の根が合わない。顔も洗わず、五時半の【七尾】線に飛び乗った。

 その頃、一方の冴子に三枚目の絵ハガキが来た。能登半島の名所【千枚田】の写真だった。卒論の方向性がやっと決まった安堵感とともに、愛しい字を見つめる冴子だった。

「今度は、長いのね」

 みかんをちゅっ、ちゅっと頬張りながら、美智子が言う。

「もう、卒業したら行けないから、二週間くらい行ってくるって」

「で、就職決まったの。彼」

「知らないけど、卒論は終わったって、言ってたわ」

「あなたは、例の大手企業の研究職。内定は大丈夫そう」

 冴子は、念願の研究の仕事に就く。

「多分、大丈夫だと思うけど。で、ミッチーはどうなの」

「私、故郷の県職員。受かったんだあ。これでも」

 美智子は、故郷広島の公務員試験に受かり、県庁で働くことが決まっている。あとは、残した四単位、一講義のゼミを終えればいい。

「じゃ、広島に帰るの。寂しいなあ」

「そうだけど、私、冴ちゃんみたいに、彼氏いないし。やっぱり、田舎でいい人見つけなきゃ」

「彼って言っても、仕事無いと不安だから。いったい、何考えてるんだか」

 そう言いながら、窓の外を見やる冴子。外の梅の木には、つぼみが付いている。何かしら、不安が胸の中から去って行かないのは、ひょっとしたら博のせいなのか。大きく、一つため息をつき、博と出会った頃を思い出す冴子だった。



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