2-05『警告と強襲』

 ――結論から言えば。

 僕に、津凪を解呪することはできない。


 僕が道具ぼくとして持つ機能は、いわば《呪術をなかったことにする》ことだ。それだけ聞けば、確かに津凪を普通の人間に戻すことも可能なように思えるだろう。

 だが違う。たとえひとつの呪術をこの世から消したところで、それがこれまで世界に与えてきた影響までなくなるわけではない。《解呪》とは根本的に違うのだから。

 僕がひとつの呪術を消せば、同じ呪術を使える人間は以降の世界からいなくなる。けれどそれは《それから》使う呪術師がいなくなるというだけで、《それまで》使われた呪術の結果を打ち消せるわけではないのだ。たとえ僕が津凪にかけられている呪術を世界から抹消しても、それだけで津凪が解呪されるわけではない。

 そもそもそれ以前、津凪にかかっている呪術はひとつではない。いくつもの呪術が絡み合った結果として、津凪は道具として成立している。もしその全てを僕が消してしまっては、この世界は根幹から覆されてしまうだろう。


 というか。

 正確なことを言えばそれも無理なのだが。


 僕が持つ《呪術を消す》という機能は、その表現から想像できるほど便利なものではない。むしろ酷く不便というか、使い勝手の悪いものだ。それを扱うためには、いくつもの条件をクリアしなければならない。

 まず消す対象である呪術を正確に指定イメージする必要がある。津凪にどんな呪術がかけられているのか、僕らではほとんどわからないのだから、この時点でもう不可能だということだ。それこそこの世から呪術を完全に抹消するくらいの覚悟で挑まなければならない。

 ふたつ目に、消す対象の呪術が行使されているところを、目の前で見なければならない。正確には、それを使っている人間を、というべきか。僕は人間を、呪術師を通じて世界に干渉している。ぱっと念じれば使える、なんてものではないということだ。知っている呪術だろうとなんだろうと、消すと思った直前くらいまでに行使者を目視していないと不可能だ。

 そして三つ目に、僕はあくまで道具でしかない。つまるところ、僕という道具を使人間が必要不可欠だということ。現状で言うのなら、僕の所有者は真代ということになっている。真代の許可がなければ、僕は僕の機能を自ら発揮することができないわけだ。

 もっとも最後に関しては、今回の場合は考えなくてもいいだろうが。

 だとしたところで、消すことができない上に消したところで津凪が解放されない以上、僕にできることは何ひとつないという結論に変わりはなかった。


 これらは、出水さんですら知らない僕と真代の秘密だ。

 僕は詳しい説明を避け、ただ「できない」ということだけを出水さんに告げた。背の高く凛々しい僕らの恩人は、僕らが秘密を持っていると知っていながら、「そうか」と答えるに留めてくれる。

 まあ出水さん自身も、もともと大きな期待はしていなかったのだろう。仮にそれができるのなら、すでにやっていると考えたのかもしれない。津凪本人も、だから取り立てて何も言おうとはしなかった。


 出水さんは、話していない僕らの事情にも、ある程度の想像がついていることだと思う。

 彼女の呪術解析能力は、特級呪術師の中でさえ群を抜いている。御厨透が特別指定級としての実力を《結界》に依るように、出水さんの特級たる能力は《理解する力》なのだから。

 それでも僕に――真代ではなく僕に訊いてくれたのは、それが出水さんなりの配慮だったからだろう。


 その後、僕は三人に別れを告げ、ひと足先に退出することとなった。

 出水さんは津凪にまだ話があるらしく、真代がその付き添いということらしい。僕も残ってもよかった気はするのだが、「男は出て行け」と言われてしまっては食い下がることもできない。まあ帰って寝るとしよう。

 女性同士の話があるのだろう。

 僕だって、そのくらいの空気は読めるのだ。



     ※



 その判断が間違いだったかどうかはともかくとして。

 結社のビルを下り、外に出た段階で、僕は会いたくない人物に会うことになった。


「――や。また会うとは奇遇だね?」


 奇遇も何もない。待ち構えていたかのように、入口付近の柱に背中を預けていた女性が、こちらに向けて軽く片手を挙げて笑う。

 その瞳は、けれど笑みの表情に相応しい輝きを映していない。僕は一瞬だけ硬直して、けれどそれをなんとか悟らせないように努めて返事をする。もっとも、バレていたような気はするが。


「……どうも。さっき振りですね」


 軽く頭を下げた僕に、彼女はやはり貼りつけたような笑みのまま頷くだけ。


「うん。こっちはこっちで仕事をしてたんだけど。ほら、しばらく街を空けてたでしょ? 結界の不備を修繕したりとかね――私のいない間に、侵入者があったんだって?」

「……ええ。まあ」

「どうしたの、硬くない? もしかして緊張させちゃってるかな」

「そんなことは」

「あんまり身構えられると悲しいな」


 少女――御厨透は、少なくとも《悲しい》という感情を示すものからは程遠い表情で僕に告げる。

 夜。そこまで深い時間でもないけれど、六路木の中でもビジネス街というか、ひときわ背の高いビル群に支配されたこの辺りはすでに消灯の時刻だ。胃が軋むように痛む気がするのは、そのせいで不安を感じたからだろうか。少し移動して繁華街のほうに出れば、闇を照らすネオンや騒がしい人の波があるはずなのに。

 まるでこの場所だけが、周囲の時間から切り離されたみたいに感じる。止まっていることが――音と光に欠けるということが、こんなにも寂しく思えてしまう。五感を通じなければ、ひとは世界と交流できない。

 あるいは目の前の少女が、呪術師の頂点に立つ結界使いだからだろうか。だから周りの空間が、僕を拒絶しているように思えてしまうのだろうか。だとすれば隔絶されたこの場所は確かにひとつの結界であり、異界だ。たとえ呪術など使われていなくとも、それは呪いとして成立し得る。

 心を縛る、原始の呪詛。


「……何かご用でしょうか」


 きりきりと違和を訴える腹部。それを片手で抑えたまま僕は問う。

 目には捉えづらい地方都市の星の下。向き合った相手に抱ける感情なんて、罪悪感以外にない。

 誰かにお礼を言われたときの症状が出ている。

 これが発作にまで至らないのは、そんな逃避が許される相手ではないとわかっているから。


「偶然――なんて言っても信じないよね、永代は。ま、うん。そうなんだけどさ」

「…………」

「ちょっと話そうと思っただけだよ。別に他意はないんだ」


 彼女の声音は酷く軽い。弾むようですらあったし、声だけ聞けば楽しげだ。


「ひとりなの?」


 そう問われる。なんだか喉が渇く気がして、僕は言葉では答えずに、首肯を返事に代えてしまう。

 受け取る側の透が、いったいどう思ったかはわからない。僕には彼女のことなんて何ひとつわからない。

 彼女はただ笑っていた。


「そっか。ま、それなら都合よかったかな」

「……あの、御厨さん」

「永代、ストップ」


 言いかけた僕を透は止める。

 ちょっと唇を尖らせた、彼女の表情が僕にはわからない。


「さっきも言ったよ。名前で呼んでほしいって。昔は《透さん》って呼んでくれたじゃない」

「……では、透さんと」

「呼び捨てにしてほしいな。――さっきの子、津凪さんだっけ? 彼女のことは呼び捨てだったよね」


 僕は彼女の前で、津凪を呼び捨てにしただろうか。

 思い出すことができなかった。いや、たとえしていなくても、彼女なら――透ならそれを知っていておかしくはないのだろう。事実、僕は津凪を津凪と呼ぶ。

 ああ、確かに。

 そこにような真似、彼女の前でするべきではなかった。


「……用件は。それ、かな……?」


 僕は言う。そのくらいの口調が限度というか、それを問うので限界だ。

 透は首を横に振って、「や。本題はこれからなんだけど」と薄い笑みを漏らした。もうわけがわからない。

 僕の知る御厨透と、今の彼女はまったく同じで、そのことが何より不可解だ。

 いや、その表現は正確じゃない。

 目の前の彼女は、僕の知る《昔の》御厨透であって、僕の知る《今の》御厨透ではないと言うべきだ。

 そして透が告げる言葉もまた、それに関することだったらしい。


「いや。実は私、永代に謝ろうと思ってここに残ってたんだ」

「……謝られる覚えが、ないん、だけど」

「そんなことはないでしょ。君にはずいぶん、つらく当たってしまったから」


 そんなことはない、はこちらの台詞だ。

 それは彼女にとって当然の権利だったのだから。


「ごめん。永代にはいろいろ酷いことを言った。そのことを謝らせてほしいんだ。君に当たった。君を捌け口にした――謝って許されることじゃないかもしれないけど、でも、ごめん」

「……やめ、」

「ああ、そうか。そうだった。君は、ことさえ苦手だったね。そんなことさえ忘れてしまうほど、君とは距離が開いていたわけだ。重ねて――あ、いや。謝罪はもう口にしないほうがいいのか」


 倒れなかったことが奇跡だった。

 いや。今の僕にはもう、自分がきちんと立っているのかも怪しいけれど。

 透は軽く目を伏せて、どこか自嘲するように首を振る。

 まるで昔の彼女のように。


「とにかく、言いたいことはそれだけ。一方的で悪いけど、でも、君も他人の言葉を受け入れないからね。その点はおあいこってことにしてくれると助かるかな」

「……、……」

「私のことは、もう気にしないでほしい。それから、できればこれからは、また昔みたいに付き合ってくれると嬉しい。うん、それだけだ……本当に」


 本当に。それだけ言うと、透は背中を預けていた柱から離れて僕に背を向ける。

 だが歩き去ろうとした彼女は、その途中でふと何かを思い出したみたいにこちらへ振り返った。

 その表情はやっぱり、先ほどと変わらない微笑みだ。何かが狂ってしまったのか、僕はそれを見て、頭のどこかで可愛らしいなんて感想を抱いてしまう。いかれているとしか思えない。


「またね。――帰り道には、気をつけて」


 そんな普通のことを言い残して、今度こそ透は去っていく。

 僕は、その背中が完全に見えなくなるまで彼女のことを見送った。それからさらにしばらくして、ようやく身体の動かし方を思い出した僕は、崩れ落ちるように背中を結社ビルの壁にもたれる。

 呼吸の仕方を失念していたみたいな気分だ。深く息を吸って、吐く。それを何回か繰り返す。夜の六路木の空気はなんだか酷く冷えていて、けれどそれがどこか心地いい。身体が火照っているせいだろう。

 僕は視線を少し上げて、遠くの夜空を瞳に映す。


「……ありがと、津凪」


 僕が発作を起こさずに済んだのは、きっと彼女のお陰だったから。

 誰にも届かない、届くはずのない――届けてはならない言葉を、だから代わりに星へと託した。

 見えもしない星々に。



     ※



 しばらく呼吸を整えてから、再起動して歩き出す。

 冷静さを取り戻した頭が考えるに、先ほどの僕はかなり失礼だったような気がした。

 負い目がある相手とはいえ、ああまで露骨に――隠しているつもりではあったが――苦手だという態度を見せるのは、それこそ相手を不愉快にさせる。まあ、だとしてもどうにもならなかったのだが、それがどうにもできないこと自体が僕の弱さだ。なんで向こうに謝らせているんだ。度し難い馬鹿だな僕は。

 とはいえ僕としても、会うたびに殺意の混じった憎悪を向けてきていた相手に、それでも対応できた辺りがんばったと言っていい――とは思わないが、言わないでおくにしてもがんばったと思う。


「このところ、透に言われた言葉なんて《死ね》以外になかったからな……」


 それを思えば躍進だ。それがたとえ僕ではなく、透のお陰だったとしても。

 以前の僕ならば、誰かに《死ね》と言われたら本当に死んでしまいかねないくらいには脳髄の出来が悪かった。《頼まれたんだから死ななくちゃ》くらいのことは、たぶん真顔で言ったと思う。

 それが異常だと気がついたのは最近のことだ。真代の、出水さんの、最近ではきっと津凪の助けで、ようやく僕は人間に近づけた。道具モノから、人間ヒトに。

 ともあれ。この一件は僕の神経を削るに充分すぎる一大イベントだ。もう今夜はこれ以上、ちょっと何も受け入れられないと思ってしまうくらいには。

 だが、そんな僕の事情を、世界のほうが考慮してくれるわけではない。

 そう――この夜の最大のイベントは、この時点でまだ終わっていなかったということだ。

 自宅に向かって歩く最中で、僕はそのことに気がついた。呪術師ならどんな鈍感でも、一瞬で気づくだろうというくらい、それはあまりにも露骨だったから。


「――……」


 自宅の方面にある、住宅街の辺りまで僕は来ていた。あと十数分も歩けば家に着く。

 だが、僕はそこで足を止めた。あまりにも露骨な呪術の気配に、背筋を寒気が貫いている。眠気覚ましに、強烈なミントガムを大量に噛み砕いたみたいな気分。

 いつの間にか僕は手を握っていた。その中に武器はない。だから僕は、自分の実力だけで事態に対応しなければならなかった。


 ――結界。そう呼ばれる気配が今、僕の周りを覆っている。

 帰りしなに言われた透の言葉を思い出した。帰り道には気をつけて。

 ならば僕は、それを守っていなかったことになる。


「どなたか存じませんが、僕に何かご用ですか?」


 ついさっき、似たようなことを言った気がする。

 無論そのときより、気分としてはずいぶんマシだったけれど。

 透を向こうに回すより、恐ろしいこともそうそうない。


「――鴻上永代、ね?」


 声がした。女の声だとわかったが、逆を言えばそれしかわからない。少なくとも知り合いではないだろうが。

 声音から受け取れる感情は、警戒と敵意と決心……そんなところだろうか。勘だがひとりだ。今、僕を閉じ込めている、この結界を張った呪術師当人だと判断する。この街の人間では、まあ、ないだろう。


「そうですけど。そう訊くからには貴女のほうも、名乗ってくれると考えていいんですかね?」

「……彼女を返してもらう」

「なるほど」


 その言葉でわかった。というか、初めから選択肢など限られている。僕は言う。


「――《王国》の方ですか」


 返答は、背後からの攻撃によって代替された。

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