1-14『逆坂津凪』

 ――本当に馬鹿じゃないのか。

 そう、逆坂さかさか津凪つなぎは心底から思った。


 自分は決して《いい奴》じゃない。彼女はそういう風に自覚している。

 彼女は呪術師だ。自力で呪術を制御できるよう、幼い頃から叩き込まれている。その実力は、自惚れではなく高いものであると自覚していた。

 一方で、彼女は呪術なんてまったく好きではなかった。

 呪術なんて苦痛そのものだ。何をするにも傷を、痛みを、苦しみを伴う。それに耐えてもたらされるモノになど、津凪はまるで興味がない。

 常に複数の呪いに蝕まれていた。《王国》の実験者じゅじゅつしはあらゆる手段でもって津凪に苦痛を植えつける。容赦もなければ呵責もない。それが彼らの仕事であり、それを淡々とこなしただけ。だから津凪も、呪術師たちに恨みを向けることがなかったのだろう。

 別段、行動の自由が制限されていたわけじゃない。《王国》が所有する実験場のひとつ――行動範囲はその内部に限られていたものの、逆を言えば実験場の中ならば好きに歩き回ることができた。


 もっとも、そんな力が残っていればの話だが。


 世界に存在する呪い――その大半を彼女は受けている。呪われ、持ち前の耐性でそれを克服するまで、ずっと苦しみに呻いていた。

 呪術とは技術で、すなわち有限なのだから。習得に才能が関わったり、新しい技術が発掘されることがあったとしても、それは人類史というデータベースにあらかじめ刻み込まれているものを、人間がようやく知覚したというに過ぎない。呪術には必ず限度がある。

 だとしても、個人の身には余るだろうが。

 内臓が焼けるような痛みを得た。視覚の全てを刺すような光に穿たれた。全身の骨を丹念に砕かれたこともある。そんな状態で歩き回れるわけがない。週の大半を、逃れられない苦痛に犯されながら過ごすなどざらだった。

 そんな呪いの全てを、津凪は克服した。

 呪いに耐性を獲得していった。

 それは本来ならあり得ないと言っていい事態だ。後遺症のひとつもなく、彼女はあらゆる呪いから回復したのだから。まるで時間を遡るかのように。

 そうやって、逆坂津凪は少しずつ人間から道具へと――呪術の粋を尽くした兵器へと変えられていった。

 自分がなぜそんな目に遭うのか、その事実は一切知らされないままで。


 そうして、逆坂津凪は一冊の《呪術書》として完成した。

 津凪という道具を使うことで、誰もが自分に合った新しい呪術を身に着ける。世界の法則からもたらされる呪術ではなく、その個々人によって全て違う新しい呪術を。

 だから厳密には、それを呪術と呼ぶのかどうかさえ疑わしい。

 本来、呪術とは世間一般に膾炙する《世界観》に準拠して為されるものだ。三原則だって、と誰もが思い込んでいるからこそ成立する。

 だが津凪が与える呪術は違った。彼女の呪術は、をそのまま呪術に変えてしまうものだ。

 それは扱う本人だけが持つ世界観だからこそ、他者が呪術で破ることはできない。

 ひとりにひとつだけの特殊能力を、無条件で身につけさせる呪術書。それが逆坂津凪の価値だった。


 幸運だったのは/不運だったのは。

 彼女は、それがと知っていたことだ。少なくとも知識の上では、自分がどれほど恵まれない環境にいるのかを理解していた。理解させられていた。

 津凪は外の世界から完全に遮断されていたわけじゃない。誰もが津凪に優しくなかったわけではない。

 世間には当たり前のように幸せを享受して、学校に通ったり、友人を作ったり、とにかく楽しく過ごしている人間がいる。いや、それがほとんどだ。津凪のような目に遭っている人間のほうが遥かに少ない。

 慣れきった痛みよりも、そんな事実を突きつけられることのほうが彼女には堪えた。彼女を理不尽に痛めつける呪術師たちよりも、関係ないところで笑っている人間たちのほうに恨みを向けてしまう。そんな感情の醜さを理解していながら。

 外の世界に憧れないはずもなかった。


 だから、彼女は逃げ出した。六路木を目指して、保護を求めて《王国》から逃亡した。

 人並みの生活など一切送れなかったのに、彼女には人並みの常識があった。倫理観があった。理性があった。

 ――だから人並みに、幸せに生きる全ての人間に嫉妬した。

 なぜ自分だけが。そう思うことは自然だった。この環境から逃れるためならば、どんな手でも使ってやるという意志で逃げてきた。見つかれば、どうせ殺される――そう勘違いしていたのだから。


 けれど。

 そこで出会った男は、自分よりも他者を優先する極限の阿呆だった。


 初めは利用するために近づいたのだ。

 自分の容姿が優れていることは自覚している。自分の境遇が同情を誘うことは理解している。

 だから頼めば、きっとみんなが助けてくれると思っていた。もちろん誰だって、いざとなれば自分を優先するだろうが、それは津凪だって同じことだ。利用してやればいいと思っていた。そのつもりで六路木に来た。

 実際、鴻上永代はあっさりと津凪の味方になってくれた。


 あまりにも。

 そう、あまりにも異常なほどに、だ。


 決定的だったのは、公園での戦闘のときだった。

 ただ一日前に会っただけの、言ってみれば行きずりの女でしかない津凪のために、永代は命を懸けて戦った。

 それは本当に文字通り。自分に身にさえ呪術を通す、身を削るような戦いに彼はあっさり身を投げ出す。

 それを見て、津凪は怖くなってしまったのだ。

 永代のことが、ではない。確かに彼はいっそ異常なまでに簡単に自分の命を賭場に置くが、初めから津凪はそれを望んでいたはずだった。媚を売って取り入って、自分のために戦ってもらおうとこの街に来たはずだった。


 津凪が怖くなったのは、そんな自分のことだった。


 永代がもっと嫌な奴ならよかった。自分のための駒にしても、罪悪感なんて抱かせないような奴ならよかった。

 それなら津凪は、自ら身を引いて《王国》に帰ろうなどとは思わなかったはずだ。

 ほかの何を犠牲にしても、ただ自分のためだけに徹底できる怪物に。それこそ《王国》の人間たちのような呪術師に。逆坂津凪は変わることができたはずだった。

 こんなに馬鹿なお人好しにさえ出会わなければ。

 どんな呪いだって、相手の心まで変えるようなことはできない。それができるのなら、きっと今頃、津凪は心のない機械に変わることができていたはずなのだから。

 人間を、その心を縛れるのは人間だけ――言葉こころだけだ。


 何があって永代が、あんな風に存在になってしまったのかはわからない。

 ただ、もし誰かの言葉で強迫的に縛られているのだとしても、それを為そうとする永代の心は彼自身だけのものなのだから。彼が本心から、津凪のことを助けようとしてくれたことくらい、見ていればわかる。わかってしまう。

 それが、津凪には耐えられなかったのだ。

 これ以上、永代を巻き込むことができなかった。それ以上、永代の生活を犠牲になんてできなかった。

 彼は普通にこの街に暮らし、この街を好きだと笑い、大切な義妹を守りながら、普通の人生を暮らしている。その邪魔をしてまで六路木に居座ることなんて、津凪には選べなかったのだ。


 だから言った。もういいと。もう助けないでほしいと彼に頼んだ。

 それでも彼はここに来た。まだ津凪を助けると、頼んだ言葉すら無視して戦いに臨もうとしている。

 にもかかわらず津凪は動けない。いや、どころか彼の敵に回ってしまっている。

 当然だ。彼女が刻まれた呪詛は今も残っている。体を苦しめ、心を焼く呪いが。

 それに逆らうことはできない。あの苦痛が、忘れられない悲嘆が、泣き喚きたくなるほどの絶望が津凪を苦しめている。決して《王国》には逆らわないように。

 心さえ壊せなかった津凪は、今だって苦痛に慣れていない。そんなことができるとは思えない。逃げたのは、だって、怖かったからだ。

 

 心ない機械にはできないのなら、逆らわないように心を縛る以外にない。

 もし彼女が逆らえば、今まで味わってきた苦痛が今にだって彼女に戻ってくる。そういう仕掛けが施されている。

 少しでも三谷が心変わりすれば終わりだ。彼の意思ひとつで、津凪は想像を絶する激痛に襲われる。圧倒的な苦しみと痛みに襲われて、きっと動くこともままならない。


 それが、怖かった。


 結局はそういうことなのだ。津凪には何もできない。道具は意志を持たないから。

 銃を構え、それを撃ち出した永代を、彼女は見ていることしかできなかった。



     ※



 撃ち出した弾丸は、あっさりと三谷に防がれた。

 まあ、夜羽や仕種にも通じないのだ。格上の三谷に通じるはずもない、と僕は初めから割り切っている。

 こんなものは牽制のひとつだ。そもそも貰い物でしかない《白翼カラス》の性能を、僕では十全まで引き出してやることができない。

白翼カラス》による牽制を続けながら、僕は《黒牙ワンコ》を構えて走り出す。

 こちらも呪術的に三谷に通じるかは怪しかったが、空砲でしかない呪銃と違い、呪刀のほうは一応は刃物だ。単なるナイフに過ぎないが、武器にならないわけじゃない。切れ味ならちょっとしたものがある。


 と、三谷も思うことだろう。


 その三谷は懐から、小さな瓶を取り出した。栓のされた試験管のような小瓶だ。

 ガラス製らしきそれを、彼は僕に向かって放る。もちろん当たるわけにはいかないし、だからって下手に《黒牙ワンコ》で切り払うのも怖い。軽く横に跳んで、僕はそれを躱す。

 瓶は地面に落ちると、簡単に割れて中の液体を撒き散らした。無色透明なそれが、僕にはただの真水にしか見えない。――なんでもいい。それより先に決着をつける。

 僕はさらに前へと走った。三谷は牽制するように、再び瓶を投げてくる。

 今度はそれを、僕は呪銃で撃ち抜いた。空中で瓶が炸裂し、中身の液体をぶち撒ける。

 その瞬間、僕は《黒牙ワンコ》を。三谷に向かって。


 瓶の破裂を目晦ましにしての投擲。隙を突いた攻撃だったが、三谷はそれをギリギリで躱す。

 まさか武器を捨てるとは思わなかったのか、少し驚いた様子の三谷だったが、残念ながら通じなかった。あまり体術に秀でている様子ではないが、それでも戦闘呪術師、多少は心得があるらしい。

 当たらなかった呪刀は壁を抉り、そこに突き刺さった。ちなみにこれは呪術ではなく体術である。僕だってそれなりに鍛えている。

 ただまあ、それでよかった。

 武器を捨た僕は、そのままの状態でさらに駆ける。三谷は迎撃しようとこちらを見て、


「――!」


 そこでようやく、自分がことに気づいたらしい。

 呪刀の投擲は布石だった。もちろん三谷に当たるに越したことはないが、そうでなくとも意味は持つ。

 僕は、彼の影も同時に狙っていたのだ。

 壁面に突き刺さった《黒牙ワンコ》が、同時に三谷の影を貫き、それをその場に縫いつける。

 。というか影串刺しとでもいうか。まあ真代の物真似だ。模倣は呪術の基礎である。

 もちろん真代よりは下手だが、一瞬でも止められれば充分だった。

 影は本人と似ているから、それを踏まれたり刺されたりすれば本体にも影響が出る――という呪術の基礎原則。

 通じれば繋がる、だ。


 その場から移動できなくなった三谷に駆け寄り、僕はその顔面を思いっきり殴り飛ばした。

 がつ、と嫌な音が響く。歯の数本はたぶん折れただろう。ぴちゃり、と握り締めた拳に血が散った。

 たたらを踏んで数歩を下がる三谷。僕はその隙を逃さずに、今度は《白翼カラス》を構え――射撃。照準は胸の中心に、容赦なく呪銃をぶっ放す――、


 その寸前。

 強烈な倦怠感と嘔吐感に襲われ、僕は呪銃を取り落として、そのまま地面に倒れ込んだ。

 全身が燃えるように熱い。冷たい地面を気持ちよく感じてしまうほどに――いや、そんなものではどうしようもない。


「な……っ!?」


 ぴちゃり、と水音がする。

 視線の先で、口の端から血を流した三谷が、こちらを細い目で睨んでいる。怒りの視線と表現するには、どこか透徹した、空虚な瞳だった。


「……まさか、素手で殴られるとは思わなかったな。ちょっと予想外だったよ――そんな野蛮な方法を採るなんて、ね」


「なん、だよ……負け惜しみか……?」


「違うよ、むしろ感心してるんだ。君に一撃貰うとさえ、僕は考えてなかったからね。ただ、それでも結局はこの程度か」


「は――知らないのかよ。僕は……武器を捨てたほうが実は強いって、この街、じゃ、割と噂なん……だぜ」


「知らないけど」


 そりゃそうだという話だった。そして、そんな話をしている場合でもない。喋ることさえ苦痛だった。

 ぴちゃり、とまた水音が耳に届いた。水滴が掌に当たる感触。見れば僕の手に、雨粒らしき水滴がついていた。


「……あ、め……?」


 思わず呟いた僕に、三谷がこう返して答えた。


「僕はもともと農家の生まれでね。天気予報を見るのは大事なんだよ」


 その言葉で僕は気づく。それは古いまじないのひとつだ。


「――


「正解だよ」


 三谷は呟いた。

 古来、それは呪術師にとって最も重要な仕事のひとつとされていた。雨乞い。水を呼ぶこと。

 それは生存に不可欠なモノだから。作物を育み渇きを癒す――水は命の根源である。

 その手法は様々あった。高い位置から水を流す共感呪術による儀式から、あるいは精霊に呼びかけることで雨を降らせてもらう巫術師シャーマン的な手法まで多様だ。どんな世界観でも雨乞いの呪いには事欠かない。

 ゆえに、雨を呼べる呪術師は基本的に高位の存在とされていた。

 それは現代呪術でも変わらない――おそらく、瓶を叩き割って水を撒く行為を、三谷はそのまま雨乞いの儀式としたのだろう。たったそれだけで、局所的とはいえ水を呼び出す技術には驚くほかないが、それだけだ。

 雨を呼んだところで、それが戦いの役に立つかは怪しかった。

 だが。


「ああ、濡れてしまったね。


「……そういう、呪い、か……!」


 僕は呟く。呪術師をこうも簡単に呪うなど、恐ろしいまでの実力だ。

 三谷は僕を水で濡らした。水で濡れれば体温が下がり、放置していれば風邪をひく。

 これは、そういう呪いだった。


「《触れれば染まる》――呪術師の常識だろう?」


 一滴でも水に当たった時点で、僕は呪術的に状態になったのだ。接触したモノの影響は、呪術的に必ず受けてしまう。

 一瞬で、身体の自由さえ奪われるほどの病に罹ったのは、それが理由だった。


「ま、雨というより、これは厳密には水を作ってるわけだけどね」


 そんなことを宣う三谷は、もう勝ったつもりなのか。余裕の表情で僕を見下ろしていた。

 だが、この程度のことで諦めるなら、初めからこんなところには来ない。僕はニヤリと笑って見せ、それから告げる。


「その通り、だね……


「――!」


 次の瞬間、がくりと膝をつくように三谷が崩れ落ちた。

 その程度でしかなかったことが僕の実力の低さを物語ってはいたが、それでも僕だってやられっ放しではない。


「……これ、は……呪詛返しカウンターか、いや――」


「そう、じゃ……ない。僕がやったのは、僕とお前を繋げた、だけ……だ」


 もしこれが呪詛返しならば、僕の《病》は治っていなければおかしい。だから違う。

 触れれば染まる――いや、全ての呪術原則が、結局は同じことを示しているのだ。誰にとっても例外じゃない。

 接触で、模倣で、あるいは相似で――僕らはお互いに繋がりを作る。


「お前を殴った、とき……こっちに血がついた、からな……。知らないの、かよ……血は病を媒介するんだ、ぜ?」


「……格上の呪術師を相手に、自ら繋がりを持つとはね。怖いもの知らずと言うより、いっそ狂ってるよ……まあ、そうでもなければ、そんな状態の身体で、呪術なんて使えるはずもない、か」


 三谷は、僕ほど苦しそうにはしていなかった。

 僕ののろいを共有し、三谷も同じ状態に引きずり落してやろうとしたのだが、さすがと言うべきなのか。彼は咄嗟に繋がりを断ち切り、僕から呪いが流入するのを避けた。

 ――この呪術すら、三谷は通じなかったということ。


「……まったく。普通なら呪術が使えるような状態じゃないはずなんだが……」


 本心から感心する風に呟くと、三谷は懐から瓶を取り出す。

 そのひとつを軽く振ると、彼は栓を開けて、中に入っている水をひと息に飲み干した。


「だが、その足掻きもここまで、かな。この通り、僕はもう解呪を済ませたよ」


「なんだ、そりゃ……聖水でも入ってたのかよ、その瓶……」


「まったく違うさ。僕が持っているのはただの水だけ。僕にって脅威とは水のことだが、毒を以て毒を治めるなんて、まあこれも呪術の基本――だろう?」


「……そう、かよ」


 呟く間にも、僕は行動を続けている。

 三谷が瓶を取り出した一瞬、気力を振り絞って、僕は取り落としていた《白翼カラス》を拾い上げる。

 自己解呪の呪銃。コイツの機能ちからさえ借りれば、僕は自分にかけられた呪いを解ける。

 はずだった。


「――――」


 だが。《白翼カラス》から弾丸が発射されることはなかった。

 僕は言葉を失ってしまう。呪いを弾丸に、込めた呪銃に空撃ちなどあり得ない。それこそ僕が呪術そのものを失敗してしまわない限りは。

 だが現実、僕は失敗する以前に、呪術を。もちろん、今の最悪と言っていいコンディションでは呪術を使うのにも影響が出る。とはいえ、失敗という地点にまで辿り着かないとは思えない。


「あまりがっかりさせるないでほしいな」


 三谷は、僕のことなど歯牙にもかけていないという風に呟く。

 いったいいくつ持っているのか。またしても懐から瓶を取り出して彼は、


「呪術師の癖に、水が持つ概念いみを知らないはずはないだろう。それとも本当に知らないのかい? 


「お前……っ!!」


 遅蒔きに失して。その言葉で僕はようやく悟る。

 三谷は水を呼び僕を濡らした。言い換えればということだ。

 たとえるなら、洗礼の儀式を思い浮かべればいい。罪を雪ぎ、赦す。逆を言えば、――呪術を使えなくなる、ということだ。

 吸血鬼が流水を渡れない、という伝承も同じ理屈だ。穢れたモノは穢れを祓う水に弱い。病を癒す聖水だって歴史では事欠かない。

 呪術なんて、穢れの最たるものだろう。解呪だろうと呪術は呪術。


 僕には、もう呪術が使えない。


「こうなった呪術師なんて脆いものだ」


 もう、三谷に答える気力さえ失いかけていた。体力を削られ続けている。

 どころか、このまま解呪できなければ、僕は呪いで死ぬだろう。

 ……などという思考さえ希望的に過ぎた。そこまで三谷が待っているわけがない。


「――終わりだ」


 死ね、とばかりに三谷がまたひとつ瓶を叩き割る。

 ――またしても、雨乞い。

 三谷秋生。水を操る戦闘呪術師。彼はいつだって水を使う。

 いかに彼でも、屋根のある地下に雨を大量に降らせることは不可能らしい。僕にぶつかる水滴は、どこからか漏れ出た地下水が、偶然に当たるといった程度だ。そういう風に世界を改変しているらしい。

 水滴がひとつ――僕の上に降り注ぐ。

 僕は必死に身体を動かし、それを躱そうと試みた。だが這うような動きでは着地点をずらすのが精いっぱいで、水滴は僕の肩へと当たった。


 ――そして、そのまま肉を貫通した。


「ぎ、……あぁっ!!」


 肩を水滴に抉られた。経験はないが、拳銃にでも撃ち抜かれたかのような凄絶な痛み。

 穿。僕の身体が穿たれたのだ。これもまた、水が持つ概念いみのひとつということなのだろう。

 じくじくと血が流れ出し、地面を赤く汚していく。肩口に開けられた大穴が痛む。自然と涙が零れてきた。


「……躱したのか。生き汚いな、君は」


 もちろん、単なる偶然でしかない。心臓か頭か――その辺りの急所を狙われていたのだろうが、必死で位置をずらしたというだけだ。

 ……詰みだった。

 呪術師としての僕では、どう足掻いたところで三谷に勝ち目がない。それほどの実力差が厳然と存在する。

 僕は顔を上げ、三谷の顔を見据える。それから小さく溜息をつき、地面に手をついて


「――なんの真似だ」


 三谷が言う。ただその言葉は、僕に向けられたものではない。

 立ち上がった僕の目の前に、津凪がいたのだ。僕に背を向けて、まるで三谷から庇うように。

 逆坂津凪が立っている。


「……もう、やめてくれ……お願いだ」


 津凪が、三谷に懇願する。声音が大きく震えていた。

 身を竦ませる恐怖に、彼女は必死に立ち向かっているのだ。ただ僕を庇うためだけに。

 このあとで、どんな目に遭わされるかさえわからないというのに。


「ぼくは……戻ると言っている。だから、それでいいじゃないか。永代を殺す必要なんてない……そうだろう?」


「――いいや」


 けれど三谷は拒絶した。小さく首を振って言う。


「そいつは殺す。まだわからないのか、その男は、というのに」


「だ、だから……もう助けを求めたりしないから――っ」


「違う。もう手遅れなんだよ、お前が助けを求めたという時点で」


 なぜなら。と、三谷は無表情で語る。

 あるいは意図的にそうしているかのように。

 三谷は、津凪に絶望を突きつけた。


「――お前を六路木に送り込んだ理由など、ひとつに決まっているだろう。ただお前を、だよ、逆坂津凪」

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