1-13『願いと呪い』
――そして、僕は。
「や、津凪。なんか久し振り」
「……」
僕の軽口に、津凪は何も答えなかった。彼女は硬い表情で、ただ俯くように下を見ている。
ここまでいったい、どれくらいの距離を走っただろう。あまりに頼りない電灯だけが光源の地下通路では、場所の感覚が掴めなくなってしまう。
じじ、とときおり音を立てる仄かな灯りの向こうに、僕は津凪を見る。その隣には当然、
彼我は距離にして、せいぜい十歩ほどと言ったところか。
あと少しで、僕の手が津凪に届く距離だ。数歩だけ歩いて手を伸ばせばいい。
にもかかわらず遠く感じるのは、津凪のすぐ隣に三谷がいるから――いや、果たしてそれだけだろうか。
僕はそこで止まった。
「――本当に、ここまで辿り着きましたか。それも君が」
三谷は小さく肩を落として、疲れたようにそんなことを呟く。
その姿は、やはり昨日と同様にくたびれた会社員のような雰囲気しかなく、とてもではないが敵だとは認識できないような感覚だった。それが、呪術師としての彼の特徴なのかもしれない。
三谷秋生は、どこにあっても自然な雰囲気を纏う呪術師だった。
それは、けれど彼が安全であることを意味しない。あの倉崎ですら、津凪の手綱を直接に掴む位置にはいなかったのだから。それよりずっと津凪に近い彼を、警戒しない理由などないはずだった。
それでも僕は、三谷を自然に感じてしまう。
どこにいるかもわからないほど存在感が希薄なのとは違う。彼は確かにそこにいるのに、そこにいて当たり前だというような、そんな男だ。僕がこれまで会ったことがないタイプの呪術師だった。
誰よりも呪術師らしくない呪術師と言っていいだろう。それこそ学校の友人たちのような普通さを彼は持っている。
「――いや、まあ細かい話はいいですよね、別に」
そこまで考えてから、僕は静かに首を振った。
三谷の脅威を推し測ることに意味はない。どうあっても答えは変わらないのだから。
僕はただ、津凪を連れ戻すためだけに来ている――助けるためだけに来ている。
それ以外のことは考えなくていい。
「僕は津凪を助けます。だからその前に一度だけ言います。――津凪を解放してください」
「そういう、言わなくてもいいことを言うのが君の甘さなのかな。僕は嫌いじゃないけれど」
三谷は人好きのする笑みを作った。
昨日から思っていたことだが、彼が仕種や夜羽、あるいは津凪と並んでいると、親子のように見えなくもない。
だとすれば僕は、さしずめ娘さんを下さいと言いに来た婿の役回りか。
なんて、そんな思考に苦笑する。
「別に。ただそれが段取りだと思っただけです。あとで迷わなくて済みますから」
「そうかい。……そうだね、なら僕もそれに則ろう。答えはもちろん、返すわけがない、だ」
「ならどうして、まだこの街にいるんです? 昨日の時点で、さっさと六路木から出ておけばよかった」
「当然、そうする必要があるからだね」
「なんの用ですか? と、訊いたら教えてくれるんですか」
「――君を殺すためだよ」
三谷は言った。その表情はやはり笑みだった。
「なんて、たとえばそう言ったら、君は信じるのかい?」
「信じるかもしれませんね。僕はなにせいい奴ですから、人の言うことを基本的に疑わないんです」
「なるほど。確かに君はいい奴かもな――さぞ生きにくいことだろう」
小さく首を振る三谷。その思考を僕が読むことはできない。
そもそもの話、こんな会話には意味がないのだ。どこまで行っても平行線で、折り合うことなどあり得ない。
ぶつかり合う以外の道はなかった。ならば交わすのは言葉ではなく、別の何かであるべきだろう。
それでも、三谷が会話を選んだ以上、僕には聞く義務がある。
いや、義務というのは誤魔化しだ。互いに我を通そうとしているのだから、おためごかしでしかない。僕が三谷の言葉を聞くのは、僕のわがままで津凪を救おうとする――その罪悪感のためだろう。
三谷に甘いと言われるのも、これでは確かに仕方ない。
まあ、気にかかることがないでもなかった。特に倉崎が僕に告げた言葉――その真意を確かめるまでは、話に付き合ったほうがいい。
「……しかし、助けに来たとは心外だな。まるで僕が、彼女に酷いことをするかのようだ」
三谷が言った。
僕は答える。
「しているでしょう、現実に。津凪は自分から呪術師になったわけじゃない。それを強制したのは《王国》だ」
「そうかな? 僕たちは褒められこそすれ、そんな風に言われる筋合いはないと思うな」
――たとえばの話をしよう。
三谷は言う。指を立て、聞き分けのない子どもに筋道を説く教師のように。
その間、津凪はずっと俯いて黙り込んでいた。
「たとえば両親が《王国》の呪術師で、けれど若くして不慮の死を遂げてしまい、遺された子どもがいるとしよう」
「……それが津凪だと?」
「たとえば、と僕は言ったよ。まあ聞いてほしいな」
静かに首を振る三谷に、僕は従うしかなかった。
正式な認定を受けていないだけで、三谷はおそらく特別指定級か、少なくともそれに準ずるレベルの技量を持っている。真っ当に戦ったのでは、僕にはとうてい勝ち目がない。
戦いに縺れ込むのだとしても、機は窺う必要があった。三谷のほうが津凪に近い。
「両親を失ったその子は当然、ひとりでは生きていけない。まだ物心もつかないくらいに幼かったんだ、当たり前の話だね。ならその子を《王国》が引き取って、育ててあげたことは悪いことかい?」
「……呪術師にする必要はなかったと思いますが。ただの人間に呪具としての機能を付加するなんて――たとえ才能があったとしても、その苦痛は想像を絶します。いったいどれほどの呪いを受ければ、そんな風に変わるのか」
「それは彼女に利用価値が生まれたということだ。でなければそれこそ捨てられていた」
「児童養護施設に預けるとか、選択肢ならいくらでもあったでしょう」
「どの道、初めから呪術師の娘だったんだ。こうなることは避けられなかった。身に余る才能を制御するすべさえ知らずに放り出されて、それでも彼女が幸せになれたと? それが本当に君の言う《救い》なのかい?」
「…………」
その問いに。僕は反駁することができなかった。
三谷の言葉は一点において真実だ。逆坂津凪には確かに、呪術師としての才能があったのだから。そうでもなければ呪われた過程で死んでいる。彼女がこうして機能を完成させて生き残ることはなかった。
そして、その才能は決して一般社会に適合しない。必ずどこかで、ほかの呪術師に目をつけられる。呪術師ならばひと目見ただけで、彼女の呪的な適性にきっと気がついた。
もしそうなったとき、彼女がどんな目に遭うかは想像に難くなかった。
それならば確かに最低限度、彼女が自分の身を守れるくらいは呪術の知識を与えたこと自体は――責められることではないのかもしれない。
とはいえ、それは、それだけのことだ。
「何を言ったところで、津凪を呪ったことに変わりありません。それも本人の意志に関係なく」
「子どもの意思なんてどこまで認めるべきなんだ? 周りの大人が導くことが間違っていると? 現に彼女は、ほかの誰にもない能力を手に入れることができた」
「その理屈なら、津凪が力をつけた時点で解放するべきだった。逃げた彼女を追っている時点で、貴方の理屈は通らない」
「彼女に力を授けたのは僕たちだよ。その恩を少しだけ、返してもらっているだけさ」
「結局、それは貴方たちの都合でしかない」
「誰もがそうだろう。他人のためだけに行動できるなんて、そんな輩のほうが信じられないよ」
「……かもしれませんね、それは」
結局のところ、理屈を言い合うことに意味はない。初めからわかっていたことだけれど。
僕自身、三谷の言うことが完全に間違っているとも思えない。
そして三谷もまた、僕の言うことに頷くように答えた。
「実際、君はそうなのかもしれない。自分以外の誰かのためだけに、揺るぎなく動くことができるのかもしれない。自分の願いを、誰かのためだけに費やせるのかもしれない――それを決して、美しいとは思わないけれどね。むしろ酷く歪だ。単に間違っていないだけで」
「…………」
「けれど。いや、だからこそ逆に訊こう。その動機が失われたとき、それでも君は僕らの前に立ち塞がるのかと」
そう言うと、三谷は一歩後ろに引いて口を噤んだ。そして視線を津凪に向ける。
津凪は力ない動きで顔を上げた。その表情には一切の色がなく、あらゆる感情が死に絶えている。
これまで見てきた津凪のイメージとは、まったく異なる様子だった。まるで仮面を被っているみたいだ。
僕と津凪が出会ってから、まだ三日も経っていない。
だから僕が、津凪のことで知った風な口を叩くのはおかしいのだろう。津凪に関して僕は何かを訊き出そうとはしなかったし、彼女のことについて僕は知らないことのほうが多い。
けれど。それでも。
この状況が異常だということくらいはわかる。わかった気になることを恐れないでいられる。
「――どうして」
しばらくあってから津凪が口を開いた。僕は黙って言葉を待つ。
「どうして、追って来たんだい? 私は《王国》に帰ると、確かにそう書き残してきたと思うけれど」
「その手紙なら読んだけどね。それが津凪の本心かどうかなんて、僕にはわからないだろ?」
「本心さ。確か永代は僕に言ったね、『この街を好きになってもらいたい』って」
「言ったね」
「――好きなれなかったんだよ、ぼくは。この街の全てがぼくは嫌いだ。君のことだって――ぼくは嫌いだよ」
その言葉は、嘘ではなかったのだと思う。
津凪はきっと本心を語っている。そうだと僕は思っている。
「だから帰ることにした。考えようによっては、確かに《王国》から貰った能力は貴重だ。ぼくは無限に、新しい呪術を創り出すことができる。自由自在に世界を変えられるということさ。素晴らしいじゃないか、なんだって思いのままになる。それは、ぼくがこれまで手に入れることのできなかった自由だ。そんな力がぼくにあるなんて、これまで知らなかったからね。馬鹿なことをしたと思うよ。――こんなところに、来るんじゃなかった」
「……そっか」
「だいたい永代も永代だよ。何が人の頼みを聞くだよ、ぜんぜん聞いてないじゃないか。押しつけがましく恩を着せてくるだけでも鬱陶しいのに、放っておいてくれって言っても言うことまったく聞いてないし。君は最悪だよ。もう顔すら見たくない。だから、お願いだからもう帰ってくれ。ぼくのことは忘れて、放っておいてくれ」
――ぼくの頼みを、聞いてくれ。
それが、彼女の発する呪いの言葉だった。なるほど確かに、そいつは僕を止めるに足る言葉だった。
頼まれたら、僕は従う以外にない。そうするしかできない人間だから。頼まれて助けに来た人間は、その動機を失った時点で機能を停止する。ともすれば三谷は、それを見越してこんな会話を僕たちにさせたのかもしれない。
だとしても彼が、僕を見逃すとは思えないが。僕は笑みを作って答える。
「――断る。そんな頼みは聞いてやれない」
「は――?」
「だから、断るって言ったんだよ。まったく何を言ってるんだろうね、津凪は。僕はそんなにいい奴じゃない。むしろ性格は悪いんだ」
「き、昨日までと言ってることが違うじゃないか……」
「昨日のことは昨日のことだよ。僕は昨日より成長してるんだ。男子一夜会わざるば刮目して見よって言葉、聞いたことないの?」
「初耳だ!」
「そりゃそうだ。だって今、僕が作ったからね。――いずれにせよそんな言葉は聞けない。っていうか聞かない。僕は君を助けると決めてるから。津凪の意思なんかどうでもいい」
割と、とんでもないことを言い放っている自覚はある。
でも事実だ。いや、もちろん僕が誰かの頼みに抵抗できないことは変わっていないけれど。
それでも、その辺りは意外と融通が利くらしいことを僕は知った。それを教えてくれた真代には、本当に感謝しかない。
「な、なんなんだ永代は……! もう放っておいてくれと頼んでるじゃないか!」
「頼まれてない」
「はあ!?」
「だって、それは津凪の本心じゃない。津凪は本当は僕に助けてほしいと思ってる……と僕は思う。助けてほしくないって言ってるのは……えーと、あれだ。ツンデレとか、なんかそんな感じだ。まったく津凪は素直じゃないね、やれやれってヤツだよ」
「――――」
僕の放言に津凪が絶句する。見れば三谷さえ目を見開いていた。
ふたり揃って、こいつはいったい何を言っているんだ、という表情。僕も割と同感だけど。
気にするものか。僕は言葉を重ねていく。
「津凪がどう言おうと関係ない。そんな
「そ、そんなの勝手だっ! ぼくがどう思っているかなんて、永代が決めることじゃない!」
「そうだね。だから先に謝っておくよ。ごめん。僕は君を勝手に助ける」
「な……」
「だって、それは君の願いだけど――君の願いだと勝手に信じるけど、同時に僕の願いでもある。出水さんの願いでもあるし、真代の願いでもある。僕らみんなが、君を助けたいと願っている。なら、それを叶えるのが僕の役目だ」
そう――仮にこれが間違いだとしても、そんなことは関係ない。
津凪ひとりの願いよりも、僕ら三人の願いのほうを勝手に優先させてもらう。
「なんで……そこまで言うんだ。どうしてそんなことを願える。ぼくが君に何をした。君にしてやれることなんて、僕にはひとつもないっていうのに……!」
「そんなことは気にしなくていいんだ。言っただろ、僕は僕の願いとして、君を助けたいと思ってるんだ」
「だからなんで!」
「――好きだからに決まってるだろ」
今度こそ。完全に津凪が硬直した。
「津凪が僕を嫌いでも、僕は津凪のことが好きだ。三日にも満たない付き合いだけど、僕は君のことが気に入ってるんだよ、これでも。だから助ける。なんか文句ある?」
「…………えと。あの……?」
津凪は見るからに狼狽えていた。そういうところが素直に可愛らしい。そんなに驚くことでもないと思うのだけれど。僕だって健全な男子高校生だし、可愛い女の子はだいたい好きだ。
その前で格好つけたいと思ったところで、なんら不自然なことはない。
そんな簡単なことさえ、僕は真代に教えてもらうまでわからなかったらしい。なるほど確かに僕は馬鹿だ。自分の感情さえ、碌に把握できていない。
でも、もう二度と間違えない。
「――感動的だね。実にいい話だったよ」
僕の言葉を聞いていた三谷が、軽く肩を竦めるように言った。
そんな様子さえ、嘘には聞こえないのだから凄い。三谷は繰り返すように続ける。
「本当に。素晴らしい覚悟だと思う――だから、だからこそ僕は言おう」
彼は津凪に視線をやると、そして彼女に命令した。
「――能力を解放しろ。鴻上永代を殺す」
その発言に津凪が顔を上げる。
「は、話が違うっ」
「何をしている、早くしろ。それともお前が苦しむか?」
「――ああ。やっぱりそんなことだと思ったよ」
その悪役っぷりには、いっそ感心するくらいだった。やはり彼女にとって、僕が人質になっていたらしい。だから津凪は身を引いて、《王国》に戻ると言ったのだ。
そして、この分だとおそらく津凪のほうにも、なんらかの仕掛けは施してあるらしい。僕は問う。
「津凪の身体に、何か仕掛けてるだろ、お前」
「わかりきったことを訊くな」
倉崎と同じ言い回しで、三谷は僕にそう答えた。
「制御できない道具に意味はない。相応の縛りはかけてあるに決まってるだろう」
「……だろうね。というわけだ、津凪。お言葉の通り、彼に新しい呪術でもなんでもあげればいいよ。無理やり従わされてるんだろ? 僕のことは気にするな」
「でも、それじゃあ永代が」
「いいって。これは昨日も言ったよ、津凪。――僕はこれでもそこそこ強い」
言って、僕は《
それでいい。少なくとも、三谷が津凪になんらかの縛りを与えていることはわかった。それで充分だ。
あとは三谷秋生を倒し、津凪に自由を与えることだけが僕の役目。そのためにここまでやって来た。
僕は、まっすぐ正面を見据えて告げる。
「――かかって来いよ、ゲス野郎。お前を倒して僕らは帰る」
「あまり吠えるな。お前如きが、僕を倒せると本気で思ってるのか?」
「当たり前だろ。――僕はそのためにここに来た」
言うと同時。
僕は《
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