1-10『呪術戦』
――そもそも呪術とは何か。
一般的な理解として、呪術とは《念じれば不思議なことが起こせる》という程度のもの。いわばひとつの神秘であり奇跡だが、呪術師はそれを決して《魔術》とは呼ばない。自らを決して魔術師とは呼ばなかった。
なぜか。
呪術の概念としての起源は数万年前、遥か大古の時代にまで遡る。たかだか数千年程度の歴史しかない魔術や神の奇跡とは異なり、呪術は明確に人類史の起源からともに存在していたものだ。選ばれた
それはひとつの、いわば《世界観》なのだ。
この世界を、現実に確固として存在し、自らを取り巻く環境そのものをどう認識しているのか。
そのイメージのほうに、現実世界そのものを寄せてしまう技法を指して呪術と呼んでいる。
かつて十九世紀のイギリスに存在した社会人類学者、フレイザーの『
一、触れれば染まる――感染の原則。
二、染まれば通じる――模倣の原則。
三、通じれば繋がる――類似の原則。
多くの呪術が、この根本的な原則に従って成立している。三原則というよりも、この三つを合わせて呪術の第二前提と言ってもいい。これらは不可分の法則だからだ。
影を踏むという行為が、その影の本体にまで影響するのはこれが理由。
古生人類の狩猟祈願から始まり、
おまじない。
その本質は《願う》という行為に含まれている。
祈りを、何かを為したいというその欲望を、自らではなく別の
ならばそこに対価が求められるのも、当然の話ではあった。
人を呪わば穴二つ――その法則が絶対とされる所以がそこにある。何かを願うのなら、そこには対価が要求されなければならない。求めるだけで与えられる救いになど、価値を見出してはならない。
だから呪術師は個が強いのだ。
願われるのではなく、願う者だから。自己の欲望のためならば、世界を捻じ曲げても構わないというエゴ。それが呪術師の第一要件である。
塞ぐのではなく、繋ぐ。
ゆえに。
呪術師同士の戦いとは常に、どちらがより強固な《世界観》を持っているかの勝負になる。
※
とはいえ、現代呪術は、その大本の理念からは少し外れている。
大がかりな儀式や長期にわたる準備が必要ならば、それこそ呪術以外のものを使ったほうが早い。
科学全盛の時代に、なお呪術が使われている理由は――だからその簡略化にあった。
ふっ、と。
弾かれ、宙に踊った煙草に視線が集まる。
実際、
特級呪術師である井峯出水が、意味のない行動など取るわけがない。少しでも気を抜けば、次の瞬間に呪われているのは自分かもしれない。そんな危惧が、ほんの一瞬だけふたりの意識を埋めたのだ。
それさえも。彼女の掌の上であることは気づかずに。
次の瞬間。
強い衝撃に弾かれたのは夜羽だった。
「ぅ――ぐ!?」
取り回しの悪い大鎌など、盾としてすら機能しなかった。無防備などてっ腹を強く殴り飛ばされた夜羽は、けれど自分が地面に激突するまで気づかなかった。大鎌を手から離さなかっただけ上出来だろう。
今の出来事を、一瞬の間があってから仕種は理解する。
そう。出水は呪術などというまだるっこしい手段は使わなかった。あるいは彼女は、呪術以上に原始的な力を発揮したに過ぎない。
暴力だ。
近づいて、思いっ切り殴り飛ばす。ただそれだけの行為。
ただ、それを目にも止まらぬほどの速度で行ったに過ぎなかった。単純な話だ。
呪術なんて使わなくてもいい。強い力で殴れば、それだけで人は死ぬ。穴もひとつで済むだろう。
それが違いだ。ただの呪術師と、戦闘呪術師との明確な差異。
でたらめな、と驚く暇さえ仕種にはなかった。ただの一瞬――理解までに要したその間隙で、出水には充分だったからだ。
気づいたときには、今度は仕種のほうが吹き飛ばされていた。
やっていることは先ほどとなんら変わらない。近づいて、殴り飛ばす。ただそれだけ。
それだけの行動を必殺に変える膂力が、井峯出水にはあったということ。明らかに常軌を逸していた。
夜羽と仕種を分断するよう左右に吹き飛ばした出水は、両者の真ん中に立って小さく言う。
「――ふむ。まさかこの程度でやられたりはしないだろうな?」
「最悪だ……最悪最悪最悪だよ、この女……」
ゆらり、と初めに夜羽が立ち上がった。ダメージはあるようだが、行動不能になるほどではないらしい。
続いて仕種も立ち上がる。こちらも同様で、華奢な身体には傷ひとつ見受けられなかった。
「うん、まあ。この程度ではもちろんやられたりしないのだが……しかし意外なのだな」
「ほう? 何がだ、言ってみろ」
「あなたが、こんなスマートでない方法を採ったことなのだな。井峯出水さん」
目を細めて仕種は呟く。彼女にはわかっていた――いや、これはおそらく夜羽にもだろう。
出水は、呪術を使っていなかったわけではない。煙草を投げ捨てたのは、その時点ですでに呪術が終わっていたからだ。
見れば出水の身体の周りを、ほんのうっすらと白い煙が覆っている。まるで鎧を着ているかのように。
それが煙草を媒介にして為された呪術であることは明白だ。あとはいったい何をしたのかだったが、こちらについても仕種にはわかりきっていた。
それは、彼女が使う呪術によく似ている。
「……憑依なのだな。何を降ろしたかは知らないのだが、ずいぶんと野蛮で原始的なな呪術を使うものなのだな」
「そうでもないさ。歴史を遡ればもっと古い呪術などいくらでもある。それに言わせてもらうなら、効率よくコトを運ぶほうが、いちいち難しい呪術なぞ使うよりよほどスマートというものだろう」
――
古の
彼女は、それを煙草で代用した。
それが現代呪術だ。染まれば通じるし、通じれば繋がる。植物の葉を乾燥させて燃やし煙を出すという行為は、呪術の原則に従って似た行為と同じ結果を呼んでくる。
では彼女は、いったい何を自らの
その辺りの不可解さが、仕種ではどうしても答えに結びつけられなかった。
「いいよ、どうでも、そんなこと――本当に最悪だ」
仕種の視線の先では、痺れを切らしたように夜羽が首を振っていた。
相変わらず、考えることが苦手な男だ。
ただ多くの場合、それが結果的にいい方向へ働くことを仕種は知っていた。彼に限っては、だが。
夜羽は大鎌を両手で構える。大きく後ろへと引き、ただその場で大きく振るう。
出水は、ただ黙ってそれを眺めていた。
「――死ね」
「断る」
命を絶とうとする夜羽と、その願望を断とうとする出水の呪詛。その両方が正面からぶつかり合った。
結果。勝ったのは出水のほうだった。
夜羽の大鎌が風を切る。切断された空気はその概念を纏ったまま広範に広がり、文字通り死の概念を内包した風の衝撃波となって出水へと迫った。
死の呪いを帯びた風の刃。それを出水は、真正面から片手で払う。文字通り、それこそ纏わりつく羽虫を厭う程度の気軽さで、夜羽の呪詛を無効化した。
仕種は、それを見て歯噛みする。
――やはり、特級呪術師の称号は伊達ではなかった。仕種と夜羽では、彼女の技術に正面から太刀打ちすることができない。
夜羽が大鎌を持つのは、永代が連想した通り《死神》の模倣だ。鎌を持つ骸骨――そういった普遍的なイメージを真似ることで、彼は自分を死神に見立てている。
通じれば繋がる。
それは、何かの模倣をすれば、その性質を真似た側にも共有できるという呪術の信仰だ。命を刈り取る死の鎌は、そのイメージの通り斬られれば死ぬという呪具であり、それを持つ夜羽の呪術だった。
幾重にも折り重ねられた《意味》は、そのまま呪術を補強する。
呪術とは信仰だから。《そういうものだ》と信じられている儀式行為は、本当に《そういうもの》になる。現実の中で意味を持つ。世界の法則を歪めてさえ。
それを片手で払うのだから。夜羽と出水の間には、呪術師として埋めようのない実力の格差が広がっている。
死の風だ。つまり空気だ。空気ならば扇ぐことができる。それは確かに道理だろう。
だが、言ってみれば彼女はその程度の儀式で、夜羽のそれを完全に上回ったということになる。いや、そもそも夜羽の呪術が風によるものだと、彼女は初めから見破っていた。恐れるべきはその解析能力なのかもしれない。
ともあれ事実はひとつ。
既存の呪術に頼っている限り、ふたりでは井峯出水を突破できない。
「――仕方ありません。交代しましょう、夜羽」
だから仕種はそう言った。
その言葉に、夜羽は心底からうんざりしたように答える。
「だから、その名前で呼ぶなって……」
「いいじゃないですか。そんなこと気にしてる場合じゃないでしょう?」
口調が決定的に変質している。特徴的だった語尾がなくなり、普通の喋り方に。
その変化は、彼女がトランス状態に入ったことを示すものだった。
着ぐるみ姿の少女は、笑みのままそちらを眺めている出水に視線を移す。それから告げた。
「というわけで、ここからはわたしが前でお相手します」
「憑依か。何を降ろしたのかは知らないが、さて、その着ぐるみに関係があるのかな」
「――試してみますか?」
言った瞬間、仕種の姿が掻き消えた。
出水がわずかに目を見開く。それは彼女ですら仕種を見失ったことの証明だ。
直後、背後からこんな声が響いてくる。
「ちゅう」
可愛らしいと言えば可愛らしいその声音は、けれど仕種が出水を煽るために言ったもの。
出水は反応さえできなかった。背後から延髄を蹴り抜かれ、今度は彼女が前へと吹き飛ばされる。
反応は迅速だった。すぐさま受け身を取って振り返る出水だったが、そのときにはもう仕種の姿が消えている。
出水は咄嗟に背後へと振り返った。理屈はともかく、彼女が死角を潜んでいる可能性を考慮したからだ。だが、それにはなんの意味もない。
仕種は前にいたのだから。
出水の無防備な腹部に、仕種の拳が突き刺さる。
「ぐ……っ!?」
それでも衝撃は強く、畳まれるように上半身が折れた出水。その目と鼻の先に仕種の顔があった。
少女は言う。
「まるで鉄みたいな
仕種の右手が、出水の顎を掬い上げるような形で持ち上げる。
強制的に視線を合わされた出水は、次の瞬間。
「――ちゅう」
仕種に、その唇を奪われた。
出水は動けない。二度の攻撃に脳を揺さぶられたのだろう。だから口を押し開きながら
数秒があってから、出水の唇は解放された。だが彼女の手は、まだ出水の顔を押さえたままだ。
がくり、と出水の膝がくずおれる。全身から力が抜けていた。
「……なるほど。何を降ろしているのかと思えば、あなたは自分の肉体に《鬼》を憑依させていたんですね。現実には存在しない、幻想の生命を模倣するとは――さすが、特級呪術師と言ったところですか」
強引な口づけの間に読まれたのか。仕種は、出水が行った呪術のネタを解き明かす。
そう。彼女は煙によって、《鬼》という概念を模倣していた。ヒトのカタチをしていながら、けれどヒトを上回る怪物。ただ信仰の上にのみ存在する幻想を、彼女は自分の肉体で再現した。それが彼女の憑依呪術だ。
この世に非ざる霊的存在を憑依させる呪術なのだから。自身の肉体を媒介に、あり得ないモノをあり得るモノに変える呪術。
ならばそれは、鬼という信仰の
「それに比べれば、わたしのそれは数段、格が落ちますよ。なにせ、ネズミの真似をしているだけですからね」
「…………」
出水は答えなかった。彼女の筋肉は完全に弛緩しきっている。
概念を憑依させる呪術――仕種はそれによって、自分をネズミだということにした。
着ぐるみを着ているのも、そのための儀式の一環だったのだろう。ただ、そのレベルが異様に高い――それこそ出水に匹敵するか、あるいは上回るほどのものがあった。
ネズミ。それはどこにでも存在する小さな生き物でしかない。比べるまでもなく鬼よりは弱い。
そんな彼女が、なぜ鬼の身体能力を持つ出水に勝ることができたのか。当然、それは膂力による戦いではなかったらだ。出水の身体機能をもってしてなお、仕種を捉えられなかったのは、その移動が速度によるものではなかったから。
彼女は、速かったから見えなかったわけではない。
どこにもいないから見えなかったわけでもない。
どこにでもいるから、捉えることができなかったのだ。
ネズミは、どこにでもいる生き物だ。どこにも存在しない鬼とは違う。それこそこんな都心の地下に、ネズミがいないほうがあり得ないだろう。
だから彼女はどこにでもいた。時原仕種は今、どこにでも存在することができる。
いたいと思った場所に現れ、そうではない場所にはいない。自分が存在する場所、三次元的に位置を彼女は自分の認識だけで自由に変更できるということだ。
普遍的に。
時原仕種はどこにでも存在し、どこにも存在していない。そういう概念になる呪術だった。
いくら力が強くても、当たらなければ意味はない。速度をどれほど上げたところで、距離や空間という概念そのものを上回る仕種には通用しないということだ。
――それが、時原仕種が新しく手に入れた呪術。
どこにでも在る。そういう呪術を、仕種は逆坂津凪から貰ったのだ。
そして――それだけでさえなかった。
「さて。では、あとは夜羽にお願いしましょうか」
「……そうだね。これなら、もう、避けるのも防ぐのも不可能だ」
背後から響く夜羽の声。だが出水はそちらを見ることさえできなかった。
まるで重い病に罹ったかのように、出水の体調が最悪のものになっている。それこそ動けないほどに。
それもまた、ネズミの持つ能力のひとつだと出水は理解していた。
仕種が、
唇を奪われた瞬間、ネズミの概念を憑依させた仕種に呪われた――病を移されてしまった。
それが全身を蝕んでいるから、出水は動けなくなってしまっている。いや、これで死んでいないことのほうが、出水の実力を物語っていると言っていいだろう。それほど重篤な病に――呪いに彼女は罹っている。
「本当に。バケモノみたいな女だった」
「ええ。けれど、これで終わりでしょう。今なら当てられる」
「――うん。本当……災厄だ」
そして。夜羽が、大鎌を再び振るう。
死の概念を運ぶ風が、仕種を貫通して出水を叩いた。躱すどころか防ぐことも、指ひとつ動かすことさえ出水にはできなかった。
ここまで見誤っていたことを、出水も認めざるを得まい。
仕種と夜羽。このふたりは、夜羽が前衛で仕種が後衛ではなかったのだ。仕種のほうが肉体を武器にし、夜羽のほうが呪術で殺す――そういうふたり組だった。
肉体に直撃した風は、仕種が運んだのと同じく
死の病を。風を媒介に運んでいる。
二重の呪いを受けた出水は、そのまま地面に倒れ伏した。
「……残念です。鬼の模倣は確かに恐ろしい――ですが所詮はヒトガタ。ヒトは病には勝てない。その点では、
「ちゃんと死んでる、そいつ?」
夜羽が無邪気に問う。仕種は目の前に倒れた出水を冷徹な双眸で見下ろす。
倒れ伏したまま動かない出水。その肌には、斑のような模様がいくつも浮かんでいる。夜羽の運んだ黒色の死に、肉体の全てを侵されていた。
所詮、この程度だ。特別指定級とはいえ、呪術師であることに変わりはない。そして呪術師である以上、逆坂津凪という装置が生み出す新種の呪術に抗うことなどできはしない。
仕種は静かに頷いて、ただの事実を夜羽へと告げた。
「――ええ。ちゃんと死んでますよ」
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